第五章 焼きそばパンと、最期の賭け

「……お腹、すいたね」


 唐突に、ヒカリが言った。


 彼女の手は、まだ僕の手を包んだまま。

 でも、声の調子だけは、いつもの彼女に近かった。


「え?」


「ううん、なんでもない。変なこと言った」

「……いや、わかるよ。俺も、ちょっとだけ思った」


 目の前の世界が終わろうとしているのに、

 胃袋だけはちゃんと活動している。

 馬鹿みたいだけど、変にリアルだった。


 ◆


 16:43。

 僕たちは、公園を出て、商店街に向かって歩いていた。


 日常が壊れかけている街で、

 それでも店のシャッターはまだ全部閉まっていなかった。


 コンビニの明かり。

 自販機のLED。

 風に揺れるポスター。


「……まだ、普通だね」


 ヒカリがそう言った。

 その言葉が、どこか残酷に響いた。


 普通じゃないのに。

 全部、終わろうとしているのに。


 でも、たしかに——

 ここには、まだ日常が残っていた。


「パン、買ってくるね。蒼汰くん、ここで待ってて」


 ヒカリがそう言って、近くのコンビニに入っていった。


 僕はベンチに座りながら、空を見上げる。


 青くて静かだった。

 まるで今日がじゃないことを証明するように、

 美しく、平和だった。


「この空の下で、僕は好きだなんて言っていいのか?」

 心の奥で、何かが揺れた。


 昨日までなら、絶対に言えなかった。

 ヒカリには、彼氏がいる。

 それだけで、僕には何も言う権利なんてなかった。


 でも今は——


「……関係ない、だろ」


 口に出した瞬間、自分の声に驚いた。


 世界が終わる。

 だから、自分を許せる。


 自分勝手な理屈。

 でも、そうでもしなきゃ、何も変えられなかった。


 ◆


 しばらくして、

 ヒカリが焼きそばパンを二つ持って戻ってきた。


「最後の二個だった。奇跡かも」


 彼女はそう言って笑った。

 なんでもない笑顔なのに、

 それが、たまらなく儚く見えた。


 僕たちは、ベンチに座ってパンをかじる。


「……ねえ、蒼汰くん」

「ん?」

「もしさ、今日じゃなかったら、こんなふうに話せなかったかもね」


 その言葉に、息が詰まった。


 ヒカリは、もう気づいている。

 この時間が、奇跡ではなく、猶予であることに。


 あと二時間と少しで、すべてが終わる。

 その手前でしか成立しない関係が、ここにある。


 パンの味が、急にしょっぱく感じた。


 ベンチに並んで座り、

 焼きそばパンを食べ終えた頃には、

 日が少し傾いていた。


 17:08。

 カウントダウンは、確実に進んでいた。


「ねえ、蒼汰くん」


 ヒカリが、急に声を潜めた。


「もし、本当に世界が終わったらさ……」

「うん」

「最後に誰かのことをって思いながら死ねたら、少しだけ救われる気がするんだ。……もし、これが最後なら、私……バカなことしてもいいかな?」


 その言葉が、

 まるで地雷のように、

 僕の心のど真ん中で爆ぜた。


 焼きそばパンの包みを手の中で握りしめたまま、

 僕は一度、深く息を吸った。


 ——今しかない。


 この世界で、

 このタイミングでなきゃ、

 もう二度と届かない言葉がある。


「……ヒカリ」


「ん?」


「ヒカリ。……俺、お前のこと、ずっと好きだった」


 沈黙。


 数秒か、数時間か、わからない。

 それくらい、時間が凍ったようだった。


 ヒカリは、驚いたような、

 でもどこか知っていたような顔をした。


「……そっか。なんで、今なのって思うけど……でも、嬉しい」


 その問いに、笑うしかなかった。


「今だから、だよ。

 もう、後回しにできないから」


 ヒカリは視線を落とし、

 握っていた包み紙をくしゃっと丸めた。


 そして、言った。


「ずるいね、蒼汰くん」


「……ごめん」


「でも——」


 彼女は、顔を上げた。

 その目には、涙が溜まっていた。


「私も、ずっとに選ばれたかった」


 ゆっくりと身を寄せてくる。

 膝と膝が触れる距離。


 そして、

 彼女はそっと目を閉じた。


 僕の心臓が壊れそうな音を立てた。


 迷いなんて、もうなかった。


 僕は、ヒカリの唇に、

 そっと、自分の想いを重ねた。


 それは震えていて、

 でも確かに、本物だった。


 彼女の手が、そっと僕の制服を握った。

 息が混ざる。

 時間が止まる。


 その瞬間、

「死んでもいい」と思った。


 むしろ、

 このまま死ねたら、完璧だと思った。


 でも——


 このキスが、

 この一瞬の奇跡が、

 後にすべてを壊してしまうなんて、

 そのときの僕は、まだ知らなかった。

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