第四章 16:03 ― カウントダウン、開始

「……繰り返します。

 本日16時03分、宇宙観測機関より緊急速報が届きました——」


 教室のスピーカーから、

 いつもの朝礼放送とは明らかに違う声が流れた。


 その瞬間、世界の空気が一段冷えた気がした。


「地球に向け、GRBガンマ線バーストの高密度照射が予測されています。

 国内への影響は本日18時52分頃、

 対策は……現在、検討中……繰り返します——」


 先生の手からチョークが滑り落ち、カツンという音が教室に響いた。

 誰も拾おうとしない。

 その代わり、誰かが口にした。


「……え? 何それ、やばくね?」


 ざわめきが、ゆっくりと波紋のように広がる。

 机がきしむ音、スマホを握る音、息を呑む音。


 僕だけが、動けなかった。


 手のひらに汗がにじんでいた。

 鼓動が、自分のものとは思えないほど速くて、

 肺の奥が少しずつ、冷たくなっていく。


 視線を上げた。

 窓の外は、いつもと変わらない午後の空。

 だけど、その変わらなさが、急に気持ち悪かった。


「……うそ、ほんとに……終わるの?」


 誰かがそう呟いた。

 そして、誰も否定できなかった。

 

 ◆


 16:08。

 政府からの非常速報がスマホに届いた。


【緊急】ガンマ線バースト(GRB)観測

推定着弾時刻:18:52(JST)

屋内退避、シェルター等の確保を推奨

詳細は追って通知します

その下に、

「ご家族への連絡はお早めに」と赤字で書かれていた。


「……マジじゃん」


 クラスメイトの一人が呆然と呟いた瞬間、

 席を立って、泣きながら教室を出ていく子がいた。


「おい、どこ行くんだよ——」

「家だよ! 家に決まってんじゃん! バカ!」


 誰かが机を蹴った。

 誰かが笑った。

 誰かが泣いた。


 だけど、僕は——

 ただ、立ち上がっていた。


 無意識だった。

 スマホの画面を見て、

 反射的に連絡先のリストを開いた。


 そして、指が迷いもせずにタップしたのは——


「七草ヒカリ」


 表示されたトーク画面。

 最後にやり取りしたのは、三週間前。

「今度の試験、理科ヤバいね笑」——それっきりだった。


 呼吸が浅くなる。

 鼓動が速くなる。


 でも、文字を打った。


「今どこ?」


 そのたった四文字を送信した直後、

 画面の右下に表示された送信済みのアイコンが、

 やけに冷たく感じた。


 既読はつかない。

 返信もない。

 世界はまだ、動いているのに。


 ◆


 16:11。

 政府発表の緊急会見がライブ配信され、

 教室の中は完全に崩壊した。


 椅子を蹴って出て行くやつ、

 スマホを握りしめて泣くやつ、

 笑いながら「やっと現実味が出てきたな」と言うやつ。


 だけど僕は、もう教室にいなかった。


 気づけば、校舎の階段を駆け下りていた。

 胸の奥の叫びが、理屈よりも先に体を動かしていた。


 ヒカリに会わなきゃ。

 何を言うか、どうするか、そんなのは後でいい。

 とにかく今、


「世界が終わる前に、もう一度だけ顔を見たい」

 その思いだけが、身体を突き動かしていた。


 昇降口を抜けて、

 校門を出て、坂道を駆け下りる。


 16:14。

 スマホの画面をチラ見するたび、通知は増えていた。


避難場所マップ

自宅でできる放射線対策

家族の安否確認サービス


 でも、ヒカリからの返信だけは、まだ、なかった。


「くそっ……!」


 道路の端で息を整えながら、

 ポケットの中のスマホを握りしめた手が震えている。


 もし、彼女がもうどこかへ避難していたら。

 もし、連絡がつかないまま、何も言えずに終わったら。


 それだけは嫌だった。


 ◆


 16:17。

 横断歩道の信号が切り替わる。

 走る人が増えてきた。

 家路を急ぐ親子、背広姿のサラリーマン、

 どこに向かっているのかもわからない、ただ泣きながら歩く人。


 東京は、静かに壊れ始めていた。


 でも誰も叫ばない。誰も暴れない。

 むしろ、淡々と死に向かって準備している空気が、

 何よりも不気味だった。


 そのとき——


 ピロンッ。


 スマホが震えた。


 胸が跳ね上がる。

 画面を開く。

 既読がついていた。


 そして、その下に——


「駅前の公園にいる。……ごめん、ちょっとだけでいいから、来て」

 その文章は、

 日常のヒカリではなく、

 が書いたように見えた。


 震える指でスマホを握りしめ、

 足を踏み出した。


 俺は、走る。

 この世界が本当に終わる前に——

 たった一人に、たった一言を伝えるために。


 駅前のロータリーは、

 信じられないほど静かだった。


 パトカーのサイレンは遠くで聞こえるのに、

 目の前の交差点は空っぽで、

 スピーカーからは、繰り返される自動音声だけが響いている。


「現在、18時52分にGRBの直撃が予測されています——」

「屋内避難を推奨します。繰り返します……」

 その機械的な声をかき消すように、

 僕の心臓が喉元で鳴っていた。


 視線を走らせる。

 公園のブランコ。滑り台。ベンチ。

 誰もいないはずのその場所に——いた。


 ヒカリは、ベンチの端に座っていた。


 制服のスカートを握りしめ、

 前髪が風に揺れていた。

 スマホを両手で抱えるように持ち、

 まるで祈るように目を閉じていた。


 近づくにつれて、

 胸の奥がじわじわと焼かれていくような感覚に襲われた。


 どうしてここにいるんだ。

 どうして家に帰らない。

 どうして、俺を呼んだ。


 声が出なかった。


 それでも、彼女のそばに立った瞬間——


 ヒカリは、ゆっくり目を開けて、

 僕の名前を呼んだ。


「……蒼汰くん」


 その声は、今まで聞いたどんな声とも違っていた。


 弱々しくて、頼りなくて、でも、

 たしかに僕だけを探していた声だった。


「……来てくれて、ありがとう」


 それだけで、

 何もかもが報われた気がした。


 僕は彼女の隣に腰を下ろした。

 言葉はまだ出ない。

 出せる言葉が、もう見つからなかった。


 ヒカリが少しだけ、顔をこちらに向けた。


「さっき、お母さんに電話したの。

 でも繋がらなくて……

 もう、どうしたらいいかわかんなくなっちゃって」


 僕はただ、うなずいた。

「わかる」とも「大丈夫だよ」とも言えなかった。


 彼女が続ける。


「みんな、誰かのところに帰ってくのに、

 私には、どこにも帰る場所がなくなった気がして……

 だから、最後に、

 誰かに名前を呼んでもらえたらって……」


 その言葉に、胸が軋んだ。


 僕は、手を伸ばした。

 震えていた。

 でも、止められなかった。


 彼女の手に、そっと触れる。


 ヒカリは驚いた顔をしたあと、

 ゆっくりと指先を絡めてきた。


 その体温が、

 ああ、まだ世界は終わってないんだと教えてくれた。

 だけど同時に、

 だからこそ、全部が消える前に言わなきゃいけないと教えてきた。


 僕は、唇を開いた。


「ヒカリ……俺、」


 言いかけたそのとき。


 空の色が変わった。


 夕陽でも、夜でもない。

 曖昧で、青白くて、世界が一枚フィルターをかけたような光。


 風が止まる。


 そして、

 遠くで聞こえるカウントダウン。


「……GRB予測時刻まで、残り二時間三十八分」

 空が終わる音が、遠くからじわじわと近づいてくる気がした。


 でもそのとき、僕の隣には、

 手を繋いだヒカリがいた。


 それだけで、

 世界が壊れる準備は、もうできていた。

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