第三章 世界の終わりよりも、僕の方が壊れていた
授業中、何度も意識が遠のいていた。
先生の声が、ただの環境音にしか聞こえない。
ノートには文字の形すら残っていなかった。
「聞いてるか?」
その問いにも、反射的に「はい」とだけ返した。
内容なんて、ひとつも入ってきてない。
というか、もう数時間も、
僕は昨日と今日のヒカリを交互に再生していた。
昨日のヒカリ。
何も言わずにキスしてきたヒカリ。
今日のヒカリ。
「終末だったから。忘れていい?」と言ったヒカリ。その後、八木の隣で、まるで何もなかったように笑っていたヒカリ。
どっちが本物だった?
どっちも本物だったのか?
それとも、どっちも演技だったのか?
わからない。わかりたくもない。
だけど、体が覚えてる。
あの夜、どんな風に心臓が跳ねたか。
キスの後、呼吸が止まりそうになったことも。
世界が壊れるより先に、
僕が壊れてたんじゃないかって思うほどに。
◆
昼休み、屋上にいた。
この学校は校則がゆるいから、鍵はかかっていない。
誰もいない風景の中で、空を仰ぐ。
やっぱり、青い。
気象庁が訂正会見をしたってニュースは見た。
「観測データの誤差」だの「演習用シナリオが誤送信された」だの。
それで納得した人間も、たぶん多い。
何もなかったことに、すがりたかった人も、きっと多い。
でも、僕にとっては違った。
あの世界の終わりだけが、唯一の真実だった。
あの時間だけは、全部が本音だった。
社会も、恋も、嘘も、立場も、全部崩れて、
「好き」だけが、最後に残った。
それを「忘れてほしい」って、
それを「なかったことにして」って、
彼女は言った。
……じゃあ、
俺の気持ちは、どこへ行けばいい?
「……っ、くそ」
フェンスに拳を打ちつけた。
風が吹いて、髪が乱れた。
その瞬間、スマホが震えた。
通知欄に、名前があった。
七草ヒカリ
一行だけのメッセージが表示されていた。
「放課後、少しだけ話せる?」
喉の奥が、きゅっと締まった。
「あの日の続きを望んでいる自分」と、
「今のヒカリに引導を渡される覚悟をする自分」が、
同時に呼吸していた。
放課後、昇降口の横にあるベンチに座っていた。
風はまだ冷たく、夕日が街の輪郭を赤く染めていた。
ヒカリは、時間ぴったりにやってきた。
「……ごめん、待たせた?」
「いや、俺も今来たとこ」
定番すぎる嘘。でも、それでよかった。
彼女は僕の隣に、少し距離を空けて座った。
その間隔は、昨日の教室よりも近くて、
あの夜の公園よりも遠かった。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
ただ風の音と、遠くの部活の掛け声だけが流れている。
ヒカリが先に、ぽつりと呟いた。
「昨日……変なこと言っちゃって、ごめんね」
「……どの部分が?」
彼女は少しだけ笑って、でもすぐに目を伏せた。
「全部かな。終わると思って、怖くて、焦ってて。
本当の気持ちかどうかなんて、自分でもよくわからなかったのに……
あんなふうに、キスして……」
「それって、後悔してるってこと?」
問い詰めるつもりはなかった。
でも、言葉が喉を通ると、やっぱり棘がついていた。
ヒカリは答えなかった。
ゆっくりと夕日に照らされた自分の手を見つめて、
やがて、静かに言った。
「……あのときは、本気だったよ」
一瞬、呼吸が止まった。
「世界が終わるって思ったからこそ、
誰かのこと、本当に好きだったって感じたんだと思う。
その誰かが、蒼汰くんだった」
「だった、って……」
「でも、今は……」
今は——。
その続きを彼女は言わなかった。
沈黙がまた、間に落ちた。
言葉じゃなく、気温で会話をしてるみたいだった。
「蓮のこと、昨日は連絡してなかったんだ」
ヒカリの言葉に、目を向ける。
「電波が不安定だったのもあるし……
正直、顔を見たくなかった。
どうせ、もう間に合わないって、思ってたから」
僕は、思わず聞いていた。
「それなら、なんで——」
「だから、蒼汰くんのとこに行ったんだよ。
蒼汰くんなら、ちゃんと迎えに来てくれるって……思ってたから」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
一歩、近づいてもいいのかもしれない。
そんな予感と、
でも、世界が終わらなかった事実が、また引き戻してくる。
彼女は続けた。
「だけどね……今、世界は終わってないんだよね。
授業もあるし、進路もあるし、家族も普通にしてるし……
蓮も、昨日のこと何も聞かないで、普通に話しかけてくれるの」
「それって……楽なの?」
ヒカリは、ふっと笑った。
「うん。楽。
蒼汰くんと向き合うのは、正直……怖いの。
あのときの気持ちを、本物だったって認めたら、
今が全部、嘘になるから」
言葉が出なかった。
僕が本音を告げて、
彼女がそれに応えたあの時間は、
今という現実にとっては、ただのノイズなんだ。
ヒカリは立ち上がった。
スカートが風に揺れる。
「ごめんね。変なことばっか言って」
僕も、立ち上がった。
そして、問うように口を開いた。
「……あれは、俺だけの記憶になるの?」
ヒカリは少し黙ってから、
ゆっくりと答えた。
「……記憶には残るよ。
でも、それをどう扱うかは、蒼汰くん次第かな」
彼女の声が残響のように胸を打ち続ける。
扱う?
そんな簡単な言い方で整理できるなら、こんなに苦しくない。
僕はポケットのスマホを取り出した。
未読のままのメッセージが、一行だけ光っている。
「終わるなら最後に君の名前、呼びたかった。」
タップしかけた親指を止め、深呼吸。
――削除できなかった。
削除したら、本当に全部嘘になりそうで怖かった。
◆
校門を出ると、ちょうど八木が自転車にまたがるところだった。
ヒカリがハンドルを握り、後ろに乗った八木が軽く笑う。
二人のシルエットが夕陽に溶け、遠ざかっていく。
胸の奥がまた軋んだ。
世界が終わらない限り、
あの光景はきっと、何度も僕の前に立ちはだかる。
それでも足を止めず、家路へと歩き出す。
◆
自室。机の引き出しの奥。
掌に収まるほど古い、白いガラケー。
中学の頃ヒカリとだけやり取りしていた番号が、まだ残っている。
電源は入らない。
電池はとっくに死んでいるはずなのに、
ひんやりした感触が、あの冬の踏切の冷たさを思い出させた。
「……扱い方、ね」
独り言の声が掠れる。
机のノートを開き、真ん中に一行だけ書いた。
「もし世界が本当に終わっていたら——僕たちは永遠だった?」
ペン先が震えた。
文字が滲む。
それでも書き続ける。
「終わらなかったこの世界で、僕は——」
そこで止まった。
続きが出てこない。
言葉にすればするほど、何もかも薄くなる気がした。
ペンを置き、椅子を回して窓を開ける。
夜風が頬を撫でる瞬間、瞼の裏に淡い残像が灯った。
──あの公園のベンチ。
──遠くで鳴るサイレンとカウントダウン。
──「好きだよ」と言った後の、震える呼吸。
記憶が急に輪郭を増し、
まるで今この部屋で起きている出来事かのように鮮明になる。
僕は目を閉じて、そっと呟いた。
「……だったら、一度だけ——あの夜に戻ってみろよ、蒼汰」
部屋の灯りを消す。
闇の中で、鼓動だけがやけに大きかった。
そして——
瞼の裏の終末が、再生を始める。
カチッ。
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