第10話:Late in the Evening
「フィーリン・グルービー」の店内は、一日が終わり、夕闇に包まれ始めていた。
店内の柔らかな照明が、マスターのアフロとひよりの笑顔、そしてさおりの穏やかな横顔を照らす。
カウンターの隅には、使い込まれたアコースティックギターが立てかけられていた。
【ひより】「マスター、今日は珍しく早くお店閉めるんですね!なんか良いことでもあるんですか?」
マスターは何も言わず、ただ優しく微笑むだけだ。
【ひより】「まあ、たまにはゆっくりできる時間も必要ですけどね!」
ひよりがそう言うと、買い物に出ていたさおりがケーキ片手に帰ってきた。
【さおり】「弦次さん、お誕生日おめでとう!」
【マスター】「ああ、ありがとう…」
【ひより】「え!何?今日ってマスターの誕生日だったんだ。おめでと!…それでちょっと浮ついてたんだ…フフッ」
一旦ケーキを冷蔵庫にしまうと、さおりはふとギターに目をやった。
【さおり】「ねえ、マスター。あのギター、弾いてくれないの?」
マスターは、その言葉に少しだけ表情を曇らせた。
彼の視線は遠い昔へと誘われる。
エチオピアの灼熱の太陽が照りつける、ある村の広場。
当時のマスターは傭兵として見知らぬ土地の子供を救おうとして負傷していた。
そんな彼の手当てをしてくれたのが、さおりだった。
彼女はいつも子供たちに囲まれ、優しい歌声と共にギターを奏でていた。
彼女の歌は、異国の子供たちの心を温め、同時にマスターの孤独な心にも、一筋の光を灯した。
あの時、彼女が奏でるギターの音色と、子供たちの屈託のない笑顔を見て、マスターは初めて、この女性と共に生きていきたいと強く願ったのだ。
ギターは、彼にとって、さおりとの出会いを象徴する、特別な存在だった。
【マスター】「……」
マスターは無言でギターを手に取り、さおりに差し出した。
【さおり】「私に?あら、マスターは弾かないの?」
さおりは少しイタズラっぽく尋ねたが、マスターはただ首を横に振るだけだった。
彼女はマスターの意図を察したように微笑むと、ギターを抱え、弦を爪弾き始めた。
そして、懐かしいメロディが店内に流れ出す。
【さおり】「あの日と同じ街並み…あの日と同じ喫茶店…」
さおりが歌い始めると、マスターもそれに合わせて、決して得意とは言えない、しかし心を込めた歌声でハモり始めた。
二人の歌声は、完璧なハーモニーとは言えないかもしれないが、長年の月日と、様々な困難を乗り越えてきた二人の絆を思わせる、温かい響きを持っていた。
歌い終え、静かな余韻が漂う中、ひよりがふと、少しだけ寂しげな顔で二人に問いかけた。
【ひより】「ねえ、マスター。お母さん。私って、二人の役に立ってるかな?このお店で、ちゃんと力になれてるのかなって、時々不安になるの」
ひよりの問いに、さおりは優しくひよりの手を取り、マスターもまた、珍しくひよりの目を見つめ返した。
【さおり】「何を言っているの、ひより。あなたは、私たちにとって、何よりも大切な存在よ。お店のことはもちろん、あなたがいてくれるだけで、私たちはどれだけ救われているか……」
【マスター】「……ああ」
マスターも短く頷く。彼の言葉は少ないが、その眼差しには深い愛情が込められていた。
【マスター】「ひよりが……いてくれるだけでいい」
そのシンプルな言葉は、ひよりの心にじんわりと染み渡った。
彼女の目に、温かいものが込み上げてくる。
その時、カウンターのラジオから、偶然にも、ポール・サイモンの「Late in the Evening」が流れ始めた。
【マスター】「……ま、あの時、ギターを弾いてたのも、さおりなんだけどな」
マスターは、ラジオから流れる曲に耳を傾けながら、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。
【さおり】「さあ、ケーキをいただきましょう。ちゃんと三人分買ってきたわよ。今日はひよりがコーヒーいれてね!」
【ひより】「あ、私、いちごショートだからね!残しといてよ!」
【マスター】「…俺の誕生日なんだけどな…」
マスターとさおり、そしてひより。
決して完璧な形ではないかもしれないけれど、彼らは確かに、一つの家族としてそこにいた。
過去の苦悩や、複雑な因縁を乗り越え、彼らがたどり着いたこの場所は、まるで長い旅の終わりに安らぎを見つけたかのような、穏やかな夕べだった。
ラジオから流れる「Late in the Evening」のメロディは、過ぎ去った日々を優しく包み込む。
彼らにとって、ひよりの存在は、まるで深い闇の中から二人を救い出し、新たな光と希望を与えてくれた『神』そのものだった。
彼女の無垢な笑顔が、過去の全ての傷を癒し、二人を一つにした。
そう、この穏やかな夕べは、ひよりがもたらしてくれた、何物にも代えがたい「誕生日プレゼント」だった。
(終)
マスターのぎりぎり相談室 真久部 脩 @macbs
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます