形 ― 異世界に残された手紙

のり

形 ― 異世界に残された手紙


第一章 失踪



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 十年前、彼は姿を消した。


 高校二年の春、制服のまま登校したきり戻らず、駅前の監視カメラにも映っていなかった。スマートフォンは自宅に残されたまま。最後の操作履歴は、前夜の22時18分で止まっていた。通話、メッセージ、交友関係――何一つ、異常は見られなかった。


 つまり、それは「誰にも気づかれないように消えた」ということだった。


 鷹取美智子は、七年の月日を経て、家裁に死亡宣告を申し立てた。


 法的には「決着」だったが、感情としては「停止」だった。息子の死を受け入れたというよりも、その存在を封じ込めるしかなかったというのが正確だった。


 それでも、美智子は感じていた。


 生きている気がする。どこかで、彼はまだ――


 根拠はない。ただ、あの子が「いない」ことに、身体の一部が納得していない感覚があった。


 その朝も、いつも通りだった。


 仏壇に線香をあげ、昨日のうちに買ってきた花を差し替える。遺影は、卒業アルバムから切り抜いた笑顔の一枚だ。


 その下に、銀色のペンダントが置かれている。


 失踪当日、息子の机の引き出しにだけ残されていた唯一の私物だった。


 金属の表面は、何の装飾もない楕円形。科学的な分析も行ったが、材質も構造も既製品と変わらず。けれど、美智子にとって、それは“形”だった。


 触れれば、鼓動が早くなる気がした。


 それは記憶ではなく、感覚だった。


 その朝、美智子はふとした衝動で、そのペンダントに触れた。


 冷たさと、静かな金属音――


 そして次の瞬間、耳の奥で、何かがはじけるような感覚が走った。


 目を閉じたわけでもない。


 けれど、気づいたときには、風景が変わっていた。


 そこは、森だった。


 湿った土の匂い。木々のざわめき。空には見知らぬ鳥の声がこだましている。


 空気は重く、皮膚にまとわりつくようだった。


 吐く息が、少し白い。


 「……これは」


 自分の声が、どこか遠くから返ってくるような感覚があった。


 体は無事。意識もある。だが、風も音も、空気の密度すら違っている。


 木々の根元には、刃物で削ったような跡が残っていた。


 それは、人が通った痕跡だった。しかも一度や二度ではない。


 美智子は、その空気をどこかで知っている気がした。


 この湿り、重さ、光の色。


 思い出せないが、確かに一度、感じたことがあるような気がする。


 懐かしいようで、息が詰まるような――そんな感覚だった。


 ――足音がした。


 複数の足音が、草をかすかに踏んだ。動物ではない、人の歩みだった。


 美智子は息を呑んで振り返った。


 木立の間から、三人の男たちが姿を現した。


 若い。だが、装いは明らかに戦う者のそれだった。


 革の鎧に剣、弓。すべてが美智子の知る世界のものではなかった。


 一人が前に出て、低く問いかける。


 「どこの者だ?」


 言葉は聞いたことのないものだった。


 だが、なぜか意味がわかった。


 音ではなく、意味が直接、頭に流れ込んできた感覚。


 自分の思考に、誰かがそっと手を添えてくるような不思議な通訳だった。


 美智子は反射的に両手を上げた。


 敵意がないことを示すための、最も基本的なサイン。


 だが、それだけでは足りないと、直感でわかった。


 ここでは、何者かを示さなければ、存在を拒まれる。


 美智子は震える手を胸に当てた。


 ――この森に来たのは、あの子と繋がっていたから。


 この世界が、あの子の“場所”であると感じたから。


 ペンダントが反応したこと、それだけが証拠だが、それで十分だった。


 「お願い……どうか届いて」


 祈るように、声を発した。


 「私は……タカトリ・ヒショウの母です」


 沈黙が、空気を変えた。


 三人の目が鋭くなり、その名を反復するように口にする。


 「……鷹取飛翔?」


 後方にいた一人の男が、弓を下ろした。


 「本当に……」


 美智子は思わず息を呑んだ。


 ――この人たちは、息子を知っている。


 先頭の男が、まっすぐに彼女を見て言った。


 「三ヶ月前、彼は戦場で命を落とした。英雄だった」


 胸の奥が、静かに締めつけられた。


 けれど、それは絶望ではなかった。


 息子の存在を示す言葉が、ここにあった。


 飛翔は――この世界で、確かに生きていたのだ。







第二章:再会



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 扉の向こうに、ひと気はなかった。

 だが、静寂のなかに温度のある空気があった。人がついさっきまで通ったかのような、わずかな残り香。


 美智子は、黙ってサラの背中についていった。


 この場所――外のどこにもつながっていないかのように静まりかえった、石造りの廊下の先。異世界に来て以来、どこか現実離れした感覚ばかりを味わってきたが、このときばかりは、呼吸が妙に落ち着いていた。


 やがて、サラが立ち止まる。小さな木製の扉の前で、振り返った。


 「ここに……会っていただきたい方がいます」


 その声音には、不安でも躊躇でもない、慎重なやさしさがあった。誰かの感情を、どちらにも傾けないように、真ん中に留めるような言い方だった。


 美智子はうなずく。


 扉が静かに開いた。


 部屋の中は、石壁のせいか外よりもひんやりしていた。

 その中央に、ひとりの青年が立っていた。


 彼女がその姿を認識するまでに、わずか一呼吸、時間がかかった。


 「……誠?」


 青年は、ゆっくりと振り返った。


 漆黒のマントを羽織り、長旅のあとが身体に残っていた。髪は少し伸び、頬もこけて見えた。それでも、その目だけは変わっていなかった。幼いころから人の嘘を見抜くような、冷静で深い瞳だった。


 「……久しぶりだな、母さん」


 その一言が、美智子の胸に静かに響いた。


 再会の喜びよりも先に、ただ、確かめるように彼の顔を見る。まるで“本当に、ここにいるのか”と問いかけるように。


 「……どうしてあなたが……ここに?」


 彼女の問いに、サラがそっと口を開いた。


 「すみません、説明が遅れました。誠さんは、あなたより少しだけ先に、こちらの世界に来ていたんです」


 美智子が息を呑む。


 「それって、あのペンダントが……?」


 誠は、ゆっくりとうなずいた。


 「俺は、家の仏壇の前で、あのペンダントを手に取った。……母さんと、同じように」


 声に責める色はなかった。ただ、静かに事実を確認するような調子だった。


 「気がついたら、森にいた。ここの空気の重さも、匂いも、最初からどこか知っている気がした」


 彼は窓のない部屋の壁を見やった。視線はそこになく、もっと遠いものを見ていた。


 「……たぶん、引っ張られたんだと思う」


 「引っ張られた?」


 誠は母の顔をまっすぐに見た。


 「母さんが、飛翔に会いたいと強く思ってたように。俺も……“あいつが、どうして消えたのか”を知りたいって、ずっと思ってた。

 ペンダントは、それに応えるようにして……反応したんだと思う」


 美智子は、ゆっくりと腰を下ろした。


 椅子がわずかに軋む音が、石壁に吸い込まれていく。


 「でも……じゃあ、ここって……」


 誠はすぐに答えなかった。


 部屋の隅にある水差しからコップを取り、水を口に含んだ。わずかに喉が鳴ったあとで、静かに言った。


 「まだ分からない。けど、俺たちは“呼ばれた”というより、自分で“来た”んだ。意思と記憶が、扉を開けさせたんだと思う」


 しばらく、ふたりは黙ったまま座っていた。


 その沈黙に、サラがそっと気配を差し入れた。


 「……私は、外で待っていますね」


 そう言って、すっと部屋を出ていった。

 扉が閉まり、ようやく空間がふたりだけのものになった。


 美智子は、もう一度、誠の顔を見た。


 「誠。……ここで、何が分かると思う?」


 誠は目を伏せ、しばらく考えていた。

 やがて、ぽつりと答えた。


 「……たぶん、“俺たちが何を選ぶか”だと思う」


 その言葉が、まだうまく飲み込めないまま、美智子はひとつだけ深く息をついた。


 そして思った。


 飛翔のいた場所に、自分がようやくたどりついたのなら――

 ここから先は、自分が歩くしかないのだと。






第三章:遺品



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 誠は、あの日のことをよく覚えていた。


 森を抜け、集落を越え、川を渡った。

 言葉は不思議なほど通じたが、慣習も、通貨も、感覚も、自分の世界とはすべてが違っていた。


 だからこそ、ある日、“鷹取飛翔”という名が記された戦地の記録に出会ったとき、その実感は突然現実として胸に刺さった。


 その記録を持っていたのは、かつて飛翔と同じ戦列に立ったという若者だった。


 「……あいつのこと、覚えてるよ。仲間をかばって、矢を受けたんだ。前線でね」

 彼は、静かに語った。

 「誰にも何も言わずに、最後まで戦って……本当に、変わったやつだった」


 遺体は引き取られ、簡素な埋葬がなされたという。


 そのとき、飛翔の所持品は一部だけ残されていた。

 着衣、ペンダント、そして――一通の封筒。


 誠はその封筒を手に取ったとき、何かが微かに揺れた気がした。


 書かれていたのは、見覚えのある筆記体の文字。


 ──“To Sarah”。


 異世界にあるはずのない英語。


 だが、それは確かに飛翔の遺品の中に、折りたたまれて残されていた。


     *


 誠は、サラのいる部屋を訪れた。

 ドアをノックすると、彼女は無言でうなずき、椅子をすすめてくれた。


 「これを、見つけた」


 彼は、封筒をそっとテーブルに置いた。


 サラは目を見開いた。

 唇がわずかに震えたのを、誠は見逃さなかった。


 「これ……どうして」


 誠は答えなかった。

 彼女が、自分の中で何かを確かめようとしていることを感じていたからだ。


 サラは封筒を開けず、手の中にそっと押し包むように持った。


 しばらくの沈黙のあと、ぽつりとこぼすように言った。


 「私が……書いたんです。これ」


 誠は何も言わなかった。


 サラは、視線を下げたまま続けた。


 「いつか、渡そうと思って。でも怖くて……。だから、かばんの奥にしまったままだった。

 まさか……彼が、気づいていたなんて」


 封筒を見つめる彼女の目に、涙はなかった。


 けれど、その声は何度も崩れそうになっていた。


 「きれいごとしか、書けなかった。言葉にすれば、誤魔化せると思ってた。

 本当は、彼の痛みに触れるのが怖かった。何も知らずに、ただ好きだって……」


 誠は、少しだけ息を吐いた。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


 「でも、あいつはそれを持って、最前線に行った。

 何も言わずに懐に入れて、戦った」


 サラの手が、かすかに震えた。


 「彼が、何を思って、それを持っていたのかは……俺にもわからない。

 けど、俺は、あいつを見つけたかった。母さんも、きっと同じだ」


 サラは、ようやく目を上げた。


 「……あなたは、私を責めないの?」


 誠は首を横に振った。


 「責める理由なんて、ないよ」


 彼は、椅子から立ち上がると、少し歩いて窓の方へ向かう。

 外には、異世界の太陽が、地平線に向かってゆっくりと沈みかけていた。


 「……これは、あいつが残した“形”のひとつなんだろうな」


 背を向けたまま、誠はそう言った。


 サラは、その背中に何かを言おうとしたが、声にはならなかった。


 そのまま、部屋には静けさが戻った。


 けれど、それはかつての静寂とは違っていた。







第四章:手紙の声



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 その夜、誠は母のもとを訪ねた。


 火の落ちた部屋の中で、美智子は机に向かって静かに座っていた。窓のない石造りの空間は、明かりを落とすとまるで時間まで消えてしまったかのようだった。


 「……少し、いいか」

 誠がそう声をかけると、美智子はゆっくりと振り返った。


 「何か、あったの?」


 彼は小さくうなずいた。懐から、封筒を取り出す。


 厚手の紙。封の正面には、筆記体で“To Sarah”と書かれていた。


 「戦地で……あいつの遺品の中にあった」


 美智子は無言でそれを受け取った。


 文字を見た瞬間に、胸の奥がひどくざわついた。

 触れてはいけないものに、ふれてしまった気がした。


 封を開けるまでに、時間がかかった。


 それでも、静かに封を切り、中の便箋を引き出した。


 目に飛び込んできた一行目を読んだ瞬間――胸の奥に、なにかがすっと落ちていくようだった。


 ──君に会えてよかった。最後に伝えたいのは、それだけだった。


 文章は丁寧で、整っていた。


 けれど、あまりにもきれいすぎた。


 あの子の書き方ではない。癖のある文末、微妙に抜けた助詞、丸みのある字のかたち――そういった“飛翔らしさ”がなかった。


 違和感は、次の行にも、その次の行にも続いていた。


 「これ……あの子のじゃない」


 呟くように言ったとき、誠は小さくうなずいた。


 「……書いたのは、サラだ」


 美智子は黙ったまま、再び手紙に視線を戻した。


 そこには、たしかに“誰か”の気持ちが綴られていた。


 けれど、その誰かは、母親である自分ではなかった。


 「……どうして、こんな手紙を」


 誠は椅子に腰かけ、視線を伏せたまま話し始めた。


 「サラが、かばんの奥にしまっていたらしい。直接渡すつもりじゃなかったって。

 だけど、飛翔がそれに気づいて、何も言わずに持っていった。……戦場に」


 美智子は唇をかすかに噛んだ。


 なぜ、そんなものを――

 なぜ、母には何も言わずに、そんなものだけを持って――


 「私は、何も知らなかったのね」


 誠は顔を上げた。


 「俺も、同じだったよ。……でもさ。あいつは、これを捨てなかった」


 その言葉に、美智子ははっとした。


 手紙が、彼の意思ではないにせよ。

 彼は、それを持ったまま、命を落とした。


 誰にも伝えず、語らず、ただ懐にしまい、戦場へ向かった。


 「……あの子の気持ちは、もう、わからないわ」


 そう言ったとき、声は震えていた。


 「でも、これが残されていたということだけは……たしかなのよね」


 誠は、ゆっくりとうなずいた。


 「そう。これが“本物の気持ち”だったかどうかは、もう誰にもわからない。

 でも、“持っていた”っていう事実は、消えない」


 美智子は、手紙を封筒に戻した。


 そして、両手でそっと包むように持った。


 「ありがとう。……教えてくれて」


 それは、母としての感情というより、一人の人間として、少しだけ軽くなったような声だった。


     *


 夜の空気は、思ったよりも静かだった。


 息子が持っていたものが、自分の手の中にある。


 それだけのことが、今はただ、うれしかった。







-第五章:焼却炉



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 朝の空気は冷たく澄んでいた。


 太陽がまだ地平線の下にあるその時間、サラは裏庭に続く石畳の小道を歩いていた。

 手には、小さな紙袋。中には、あの手紙が入っていた。


 “形”として残すには、あまりに中途半端で、あまりに一方的なもの。

 渡したわけでもない。伝えたわけでもない。

 それなのに、彼が持っていた――そのことが、サラをずっと縛っていた。


 焼却炉の前に立ち止まる。


 積まれた石の中に、先日使われた灰の跡がまだ残っていた。

 サラは袋をそっと下ろし、封筒を取り出した。


 「……ごめんね」


 呟いたそのとき、背後から足音が近づいてくる音がした。


 振り返ると、美智子が静かに立っていた。


 「……それを、燃やすの?」


 サラは、しばらく何も言えなかった。

 やがて、うつむいたまま答えた。


 「はい……私が書いたものです。……彼の想いじゃない。

 だから、残してはいけないと思って」


 美智子は、焼却炉の横に立ち、サラと並ぶ。


 しばらく封筒を見つめたあと、静かに言った。


 「でも、それを持っていたのは、あの子よ。

 あなたじゃない」


 サラの目が、驚きに揺れた。


 「……え?」


 「たとえ、あの子が返さなかったとしても。

 たとえ、言葉を交わさなかったとしても。

 それでも、彼は、それを“自分のもの”として持っていた」


 サラは、息を呑んだ。


 自分の中では、ずっと「罪」のようなものだった。伝えられなかった想い。届かなかった言葉。

 けれど、美智子の言葉は、それを別の“形”として見せてくれた。


 「……彼は、それを読んだと思いますか?」


 美智子は、しばらく考えた。


 「わからない。でもね――」


 彼女は封筒をそっと包むように持ち、サラに手渡した。


 「たとえ読んでいなかったとしても、それを捨てなかった。それだけで、十分だと思うの」


     *


 そのやりとりを、少し離れたところで誠は見ていた。


 石垣に寄りかかり、腕を組んでいたが、会話のすべてを聞いていたわけではない。


 だが、何が起きているのかは、空気でわかった。


 母は、サラを責めるどころか、救おうとしていた。


 それは、誠にとってもまた、自分が母にできなかったことのように思えた。


 彼は、そっと近づいていった。


 「……焼かないでいい。そう思うなら」


 サラは顔を上げ、誠のほうを見た。

 その瞳には、迷いがまだ残っていたが、恐れはなかった。


 「でも……」


 「“でも”を超えたかったから、あいつは持ってたんだと思う」


 誠の言葉に、サラはゆっくりとうなずいた。


 彼女は手紙を袋に戻し、火はつけなかった。


 朝の光が、焼却炉の灰を淡く照らしていた。


     *


 三人で部屋に戻る途中、誰も言葉を交わさなかった。


 だが、その沈黙は冷たいものではなかった。


 ひとつの“記憶”を、ようやく共有できたという安堵が、空気の底に流れていた。


 サラは、部屋の入口で足を止めた。


 「……ありがとうございました」


 それは、何に対しての言葉か、自分でもはっきりしていなかった。


 でも、今の自分が言えることのすべてだった。


 美智子も誠も、それに何も返さなかった。


 ただ、ゆっくりとうなずいた。







第六章:形は、そこにあった


 丘の上に、小さな墓があった。

 石は粗く、名前の彫刻も浅かった。だが、その前には、風で折れた野の花と、手作りの木の剣が置かれていた。


 それだけで、十分だった。

 誰かが、そこに「飛翔」という人間を刻もうとしてくれた。それが美智子には、ありがたかった。


 朝の光が、少しずつ地面を照らしていく。

 背後には誠とサラが立っていた。三人とも、何も言わなかった。もう、言葉にすることはほとんど残っていなかった。


 美智子は、紙袋を抱えたまま、膝をついた。

 そして、手紙の入った封筒を取り出す。


 少しだけ迷ってから、墓の傍らに置いた。

 風がひとすじ吹いて、封筒の角がめくれた。“To Sarah”の文字がちらりと覗く。


 「……これで、いいのよ」


 そうつぶやいたとき、声がかすれていた。

 涙ではなかった。空っぽだった心のどこかに、ようやく何かが満ちていくような感覚だった。


 誠がゆっくりと歩み寄り、母の隣に座った。

 「帰るのか?」


 美智子は空を見上げた。雲は流れていなかった。

 「わからない。でも、あの子のいた場所を、ようやく見つけたの」


 「……それだけじゃ足りないか?」


 「ううん、足りてる。……やっと、心が現実に追いついたって感じかな」


 言い終わると、美智子は立ち上がった。膝に少し力を入れ、土を払った。

 振り返ると、サラが一歩だけ下がって、深く頭を下げた。


 「ありがとう。あなたの手紙が、あの子の最後を、あたたかくしてくれた気がする」


 サラは何も言わなかった。ただ、強くうなずいた。


     *


 帰る道があるのかは、まだわからない。

 でも、美智子は焦っていなかった。

 現実に戻れなくてもいい。

 この世界に残る理由は、もうなくなった。でも、逃げる理由もない。


 丘を下りながら、彼女はふと振り返った。

 墓の上には、あの封筒が静かに置かれていた。

 紙の端が風に揺れ、まるで誰かが手を振っているように見えた。


 “形”とは、記録じゃない。

 記憶のなかに残るものだ。

 そしてそれは、たとえ嘘から始まっても――本物になる。




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