第33話 音を抱けない羽

 私はこれまで、何度も彼の瞳の中に、星や海を見た。

 光っていて、輝いていて、未来に満ちていて、そしてその未来の中には、ちゃんと私もいた。

 だけど今、電話越しに彼のすすり泣く声を聞いていると、空の月ももう輝いていないし、星たちも私にウィンクなんてしてくれなくなった。


 神様、お願い。声を返してよ。声が欲しいんだ。

 ただ電話の向こうにいるだけじゃ、足りないんだ。

 声が必要だ。清瀬くんに、声を届けたいんだ。


 音羽の涙は、もう一滴一滴ではなくなっていた。

 頬を流れる涙が、途切れることなく線になって伝っていく。


「では、音羽……おやすみなさい。」


 澪は深く息を吸い込むと、長い沈黙のあとで、たった一言だけを残した。

 そしてまたしばらくの静けさが流れたあと、通話は切れた。


「……プツッ……ツー……ツー……ツー……」


 ……声を出せよ……声……

 こんなのおかしいよ。音を抱くはずの羽なのに、私は音ひとつ、運べない。


 電話が切れたあと、澪はそのまま、電話ボックスのガラス壁にもたれながら、ゆっくりとしゃがみ込んだ。


 今は、夜の11時。空は真っ暗だ。

 でも、たとえ深夜じゃなかったとしても、目を閉じれば、私の中はやっぱり暗いままだ。


 コツン、コツン。

 電話ボックスのガラスがノックされて、ドアがゆっくり開いた。


 澪は反射的に立ち上がり、頭を下げた。

「すみません……長く使ってて……」

 目元の涙を拭うことも忘れずに、かすれた声で言った。


「いや……別に。使わないですけど……」


 聞き覚えのある声に、澪ははっとして顔を上げた。

「……空?」

 慌てて目元をぬぐいながら、訊ねた。

「こんな時間に……どうして、ここに?」


「こっちのセリフだよ。こんな時間に、電話ボックスの中でなにしてんの?」

 空は、少し戸惑いながらそう言った。


「……ていうか、また怪我してるじゃん。」

 澪は空の顔を見ながら、なんとか口角を上げようとしたが、眉が自然と寄ってしまっていた。


 ふたりとも、結局なにも答えなかった。

 ただ目を見て、同時に、ふっと笑った。


「……コンビニ行って、水でも買おうか。」

「うん。」


 ふたりは、河川敷の芝生に並んで座っていた。


「……へえ。音羽と初めて会ったの、ここだったんだ。」


「うん。あのとき、いきなり現れてさ。俺、あいつのスマホぶっ飛ばしちゃったんだよな。」

 空はコンビニの焼きソーセージをかじりながら、気楽そうに言った。


 それを聞いた澪は、そばにあったチョコレートの空き箱を手に取って、空の頭をコツンと叩いた。


「いてっ、なにすんだよ!」

「痛いならちょうどいい。音羽にばっかちょっかい出すなっての。」


 空は頭をさすりながら、にやっと笑った。

「はいはい……なにそれ?彼氏特権の八つ当たり?」


 澪の表情が、ふと陰る。

「彼氏なんて……資格ないよ。」

 守りたいのに、何ひとつ守れてない。言いたいことも、言えない。拳なんて持ってないくせに——


 しばらく黙っていた空が、ぽつりと口を開く。

「……お前、さっき電話ボックスのとこで泣いてたの、やっぱ音羽のことだろ。」


 澪は何も言わず、遠くの水面を見つめながら、淡々と返した。

「……その前に、お前のその怪我、どこでやった?」


 空は苦笑しながら、肩をすくめた。

「大したことじゃないよ。ボクシングジムで、ちょっとスパーリングの相手してただけ。」


「バイト?」


「まあね。金が要るから。でも、それ以外は別に困ってない。だから気にすんな。」


 澪は、ふと空のほうを向いて、じっとその目を見つめた。

「空って……強いんだな。」


「おまえ、なに真顔で見つめてんの。キモいよ、やめろって。」

 空がわざとらしく顔を背ける。


 澪は少し照れたように笑って、視線を外した。


「お前こそ、どうしたんだよ。学校、ずっと来てなかったろ?」


「……ちょっと、家のことでな。」


 空はちらりと、澪の腕にあるあざを見た。

 見ていたのは一瞬だけだったのに、澪には、その視線の温度まで伝わった気がした。そして空は、ゆっくりと立ち上がると、ぽつりとつぶやいた。

「なあ……拳、教えてやろうか?」


 唐突な申し出に、澪は一瞬まばたきをした。

「……は?」


「なんとなくだけどさ。お前、覚えといたほうがいい気がしただけ。」


 それは冗談にも聞こえたし、本気にも思えた。

 でも空の横顔は、いつものひょうひょうとした感じのままで、何も変わっていなかった。


 澪は苦笑しながら、草の上に立ち上がった。

「……へぇ、拳ってこう?」


 ふざけて構えたその姿に、空は鼻で笑う。

「それ、撃たれて終わるやつな。」


 ふたりの間に、柔らかな風が吹き抜ける。

 夜の川の音が、遠くでゆるやかに流れていた。


 そのときだった。


「澪!あんた、なにしてんの!」

 かすれた、低くしわがれたような声が飛んできた。


 澪が振り向くより早く、その女性は彼の腕を掴んだ 細い指が食い込むように力を込めてくる。


「……っ、痛……!」


 澪の表情が一瞬歪んだ、その瞬間。空が無言で立ち上がり、ふたりの間にすっと割って入った。

「……おばさん、なにしてんですか。」

 その声はいつもの調子より、少しだけ低かった。


 女性は何も答えなかった。ただ、澪をじっと睨みつけている。


 澪はひとつ、深く息を吸って、それから空に微笑んだ。

「……ごめん、空、ありがとう。母さん、帰ろう。」

 そう言って、彼は一度も振り返らずに、そのまま女性と並んで歩き去っていった。


 また、この芝生。朝の五時。

 たとえ前の晩に、風が吹き荒れようと、雨が降りしきろうと、月さえ隠れてしまうほどの暗闇だったとしても——

 朝になれば、太陽は変わらず、ちゃんと昇ってくれる。

 晴れていようが、曇っていようが、雲に隠れていようが、空はきちんと明るくなる。そういうふうに、この世界はできている。


 音羽は芝生の上に立ち、ゆっくりと深呼吸をした。


 夜は明けた。

 でも、私の中には、まだ言えなかった言葉が眠っている。

 声にならない「だいじょうぶ」が喉の奥に引っかかったまま、朝が来た。


 本当は、いつもなら公園の湖に行く。川よりも、私は湖のほうが好き。まわりをぐるりと囲まれていて、端が見える安心感があるし、周囲に建物がなくて静かだから。それに、いつもあの小さなアヒルたちが寄ってきて、なんだか出迎えてくれるみたいで、うれしくなる。


 でも、今日は……なぜか、ここに来なきゃいけない気がしたんだ。


 昨日、彼からかかってきた電話は、知らない番号だった。だからきっと、SMSを送っても届かない。LINEも、電話番号でログインしていたとしたら、もう見られないのかもしれない。送ったメッセージは、全部未読のままだ。

 ……iMessageなら、まだ繋がっている可能性、あるのかな?


「おはよう」とだけ打って、送ろうか迷った。でも、その指は、ほんの少しだけ震えていた。


 ……違う。


「おはよう。清瀬くんが教えてくれた、大切な魔法。忘れないでね。」


 ——送信。


 届かなくても、構わない。私たちは、同じ太陽を見ている。同じ空の下にいる。

 私は、私が向き合うべきことに向き合う。あなたも、あなたのやるべきことに向き合って。

 進もうよ、清瀬くん!


 音羽はそっとスマホをポケットにしまい、もう一度、目の前の芝生に視線を戻した。


 今日はやるべき練習がある。発声、呼吸、口の動き……全部、少しずつやっていくって決めた。お弁当だって、ちゃんと作ってある。これは、自分のためのこと。向き合わなきゃいけない「これから」のため。


 ……清瀬くんのことは、一旦置いておこう。


 そう思っていた、そのときだった。


「音羽ーっ!」

 声がして、振り向くと、空が走ってきていた。私服のまま、足取りは急ぎ、呼吸も少し乱れている。


 ……空くん? どうしてここに?

 何も言えないまま、音羽はただ唇を動かす。その間に、空が目の前まで来た。


「昨日……清瀬のこと、見たんだ。ここの近くで、母親に腕掴まれてて……ずっと強く、何度も。最初はただの親子喧嘩かと思ったけど、どう見てもおかしかった。」


 音羽ははっと目を見開いた。胸の奥に、ズキンと何かが刺さるような痛み。


「それから、ずっと気になってて。今朝になっても、落ち着かなくて……それで、来てみた……」


 音羽は、こくりと頷いた。けれどすぐに首を振る。そしてまた、頷きかけて……唇が震えた。まるで「ごめんね」と言いたそうに。


 空が何かを言おうとした、その瞬間。


 音羽は、ふいに駆け出した。


「お、おい! 音羽、どこ行くんだよ!」


 後ろから空の声が聞こえたけれど、振り返らなかった。


 足が勝手に動いていた。ただ、走っていた。

 行く先も、会えるかどうかもわからない。

 それでも、走らずにはいられなかった。


 走って、ただ会いに行きたかった。


 泣いちゃだめだ。

 もし私が泣いてしまったら、

 泣いてる彼を、誰が慰めるの。


 泣いちゃだめ。私は、行かなきゃ。

 あの日、この芝生で、助けを求めていた私のところへ、彼はまっすぐに駆けてきてくれた。

 だから今度は……

 今度は、私の番なんだ。


 泣いてなんかいられない。

 声が出なくたって、きっと、伝えられる。

 だから、私は——


 助けに行くんだ、清瀬くん。


 ーーーーーーーー

 後書き:

 本当はあとがき書くつもりなかったんですが、やっぱり少しだけ。

 空が澪に「拳、やってみる?」って声をかけたのは、ただ「殴れ」ってことじゃなくて、むしろ「自分を守るための拳」を持ってほしいっていう気持ちでした。


 だからこそ、あのセリフが出てきたんです。「それ、撃たれて終わるやつな。」


 拳って、攻撃のためだけじゃなくて、自分を守るためのものでもあると思っていて。たとえば誰かに襲われたときとか、事故の衝撃を受けそうになったとき、とっさに両手で頭をかばう、みたいに。


 別にスポーツが得意じゃなくてもいいし、特別強くなる必要もないけど、ちゃんと「自分を守る」ってことを、少しずつ学んでいけたらいいなと、私は思っています。


 ……多分、これは、運動まったくダメな私の、ささやかな願いでした(笑)


 ーーーーーー

 後書きの追伸:

 悠樹さんのコメントのほうが、私の説明よりもずっと分かりやすくて、読んだときに「あ、私が言いたかったのはこれだった」と思いました。

 こういう運動を学ぶことって、自分を守るためでもあるし、たとえば体力のある人とか、ちゃんと構えを知っている人って、簡単には倒れないじゃないですか。

 それと同じで、少しでも知識や経験があれば、心に余裕が生まれる。

 そして、その余裕こそが、結果として「暴力によらない解決策」を導くための鍵になる――そんなふうに、あらためて気づかされました。ありがとうございます!

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