第32話 だめな天使
月は高く昇っていたが、いつものように冴え冴えと輝いてはいなかった。
それは霞のような雲に包まれ、輪郭は滲み、まるで幻のように曖昧だった。
誰かが空というキャンバスに、無造作に筆を走らせたような、薄く掠れた白。
それがそこにあることは、わかっている。見上げれば、その輪郭も見える。
けれど、その「わかっている」は、ふいに頼りなくなる。
満月のように満ちてもいなければ、弦月のように細くもない。
ただ、在るとも言えず、無いとも言えない、そのあわいに浮かぶ存在。
「もしかしたら、そこにいるのかもしれない」——そんな疑い。
その光は、もはや人を照らすものではなかった。
自らを包み込むように、静かにヴェールをまとっていた。
ぬくもりは薄れ、輪郭も次第に曖昧になっていく。
そのせいか、夜の色もまた、どこかためらっているようだった。
風がそっと木々を揺らしても、葉の影は頼りなく揺れて、
影そのものが、「光に照らされている」と確信できなくなっていった。
君はそのぼんやりとした光を見上げながら、ふと思う。
あれは空にある月ではなく、記憶の奥底に掛けられた幻影なのではないか、と。
手を伸ばしても、届かない。
信じているはずなのに、それがただの空っぽな幻想だったのではないかと、怖くなる。
「音羽が声を取り戻したとき、最初に呼んでくれるのが……『澪』だったら、いいな。」
これは、あの日、清瀬くんが私に言ってくれた言葉。
でも、私は……きっと、その気持ちには応えられないと思った。
たぶん、あの日、彼が私を家まで送ってくれたときに、言うべきだったんだ。
もし、私が声を出せるようになったら——
私が最初に伝えたい言葉は、「ありがとう」だと思う。
彼のことが好きだ。
彼が、私の世界に現れてくれたことに、心から感謝してる。
彼は、私にとっての月光みたいな存在だった。
でも、それでも……
私が最初に言うべき言葉は、きっと「ありがとう」なんだ。
それは、母に向けて。
清瀬くんに向けて。
風見さんに、林先生に、橘木さんに。
……そして、私を傷つけた芹沢さんにも。
あの人たちがいてくれたから、私はここまで成長できた。
声を失って、心を閉ざして、それでも歩いてこれたのは——
きっと、全部、彼らのおかげだった。
そして、二番目に伝えたい言葉は、きっとこれ。
「清瀬くん、大丈夫ですか?」
……本当は、その日、全部伝えるべきだった。
後悔したんだ。今でも、後悔しているよ。
清瀬くん、大丈夫ですか?
翌日。
また火曜日がやってきた。
三週間前の火曜日、清瀬くんは学校に来なかった。
二週間前の火曜日、彼は学校に来て、それから一緒にディズニーに行った。
先週の火曜日は、ちょうど代休だった。
——じゃあ、今週の火曜日には、何が起きるんだろう。
たぶん、なにも起きない気がする。
でも、それでも、私は少しだけ、期待してしまっている。
音羽が校門に近づこうとしたとき、ぴょんぴょんと跳ねながら駆け寄ってきたのは、杏だった。左肩を軽くポンっと叩いて、嬉しそうに右側へまわりこむ。
「え~~気づかれないと思ったのにー!」
音羽は小さく笑ったが、いつものようにすぐにスマホを取り出すことはしなかった。
「なんか今日の音羽ちゃん、ちょっと元気ない感じ?」
音羽は笑みを保ったまま、首を横に振って——
口を開いて、ゆっくりと「だいじょうぶ」と口だけで言った。
杏は口の動きを読み取りながら、首を傾げる。
「えーっと、今のは『だいじょうぶ』って言ったでしょ?」
音羽はこくんと頷いた。
「なにしてんの?口パク遊びか?」
どこからともなく現れたのは、橘木だった。
杏は即座に彼の頭をぺしっと叩く。
そして音羽のほうを心配そうに振り返るが、音羽はただ、穏やかな笑顔を浮かべていた。
教室に入ってから。
橘木はしばらく後ろの席で悩んだ末、ふらっと前にやってきて、空いている清瀬の席——音羽の隣に、ことりと腰を下ろした。
その瞬間、音羽の表情が、ふっと揺れた。まるで、「もう清瀬くんは戻ってこない」って、誰かに告げられたかのように。
橘木は小声で、口パクしながら「ごめんなさい」と言った。
……え? なにが?
音羽はノートを開き、ペンを走らせる。
『橘木さん、どうしたんですか?』
橘木はバツが悪そうに頭をかいた。
「さっき、口パク遊びとか言ってごめん。あれ……ちょっと無神経だったなって。」
音羽はまた、にこっと笑って、ゆっくりと口を動かした——「だいじょうぶ」。
そのときだった。
「なあ、今日さ、ゲームしない?
全員、声出し禁止!話すときは口パクだけでいこう!」
橘木が突然、立ち上がってクラス全体に提案する。
「は? なにそれ!」
「ウケる!橘木、また変なこと言いだした〜」
「ぜっっったいやだ!」
わーっと教室が騒ぎ出した、そのタイミングで、ちょうど斉藤先生が入ってきた。
「ふむ……面白そうだな。それじゃあ、ちょっと試してみようか。口パクゲーム。」
そう言って、先生は黒板にチョークでこう書いた。
『
そして、無言のまま「いみかいしゃく」と口パクで言ってみせる。
そのまま橘木の前まで歩いていき、にやりと笑って彼を指名する。
「答え。」
橘木は一生懸命、口パクで返す。先生も同じく口パクで応酬する。
クラス中が真剣な表情で唇の動きを凝視していたが——
「先生!先生の口の動き見てたら、お腹空いてきました!」
橘木がギブアップ気味に叫んだ。
斉藤先生は肩を震わせて笑いながら答える。
「私もお前の口の動き見てたら、文句言われてる気がしてな。」
教室中、大爆笑。
斉藤先生は黒板の前に戻り、教案を手にしながら語り始めた。
「この
そのまま教案をくるくると丸め、にこっと笑って続けた。
「橘木さんがこのゲームを提案したのは、おそらく白鷺さんのことを考えてのことだろう。言葉を使えないというのは、ときにすごく苦しくて、誤解も生まれやすい。
その気持ちを、みんなに少しでも体験させたかった……その想いは、きっと尊いものだ。」
そして、その教案で橘木の頭をコンと軽く叩きながら、やや語気をやわらげて言った。
「でもな、『
考えなしにゲームを提案しただけじゃ、本当の意味で相手の気持ちには寄り添えないんだよ。
気持ちはありがたいけれど、大切なのは『どう伝わるか』をちゃんと考えること。思いやりって、実はすごく繊細で、難しいんだ。」
そして、斉藤先生はちらりと音羽のほうを見た。音羽は、その視線に気づき、少し照れながらも、心からの笑顔で、こくんと頷いた。
……やっぱり、もし声が出せたら、最初に言いたい言葉は「ありがとう」なんだ。
清瀬くん、今どこにいるの?私も、この気持ちをちゃんと清瀬くんに伝えたいよ。
夜。
音羽は、ベッドの上で英語の教材を広げながら、ふと手を止めた。斉藤先生のあの穏やかな声が、まだ耳の奥に残っている。「己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」――あのとき、あの言葉が、なぜだかとても深く心に響いた。
……もしかしたら、スピーチのテーマ、「先生」にしてみるのもいいかもしれない。
清瀬くんが言ってた「自覚なきいじめ」。それも大事なこと。
でも、今の私がいちばん伝えたいのは、たぶん、「先生」という存在について、なんだ。
だって、思い返してみると、先生たちの言葉が、
全部、どこかでそこに繋がっていた気がする。
私が傷ついたのも。
私が救われたのも。
私が、もう一度前を向こうって思えたのも。
成るのも先生、
壊れるのも先生――
私たちはまだ子どもだから。「ひとりの先生」は、私たちにとって、「世界との繋がり」になってしまうこともある。
そのとき。
スマホが、不意に鳴った。
……え?こんな時間に、誰?
広告?詐欺?それとも、間違い電話?
しかも、私……まだ声、出せないのに。どうしよう……
音羽は、一瞬だけ戸惑って、電話を切ろうか、それともリビングにいる母に渡そうかと迷った。
でも、ふと胸の奥に浮かんだ。
……もしかして、清瀬くん?
いや、でも……彼なら、私が話せないこと、知ってるはず。
そんなはず、ないよね……
それでも、なぜだか手が勝手に動いていた。
音羽は、通話ボタンを押した。
音羽の部屋には、沈黙だけが広がる。
自分の声が出せないのは当然だけれど——
電話の向こうも、何も言ってこない。
……切るべき?
いや、それとも……
音羽は、不安げにスマホの画面を見つめながら、指先でそっと背面をトントンと叩いた。
すると、かすかに——しゃくりあげるような、小さな泣き声が届いた。
……清瀬くん?
清瀬くんだよね……
泣いてるの……?
ああ……話したい……声をかけたい。
音羽は自分の喉に手を当てた。
ああ……あ……あ……声を出せよ。たったひとつでもいい。
ひとつの音でも、きっと彼に届くはずなのに。
……だめだ。
どれだけ願っても、声は一つも出てくれない。
涙が、ぽたぽたと零れ落ちる。
次の一滴。さらに、もう一滴。
そのとき。
相手がふっと深く息を吸い込んだ。
そして——かすかに、歌声が流れてきた。
「I'm telling you...」
優しくて、少しかすれた声だった。
「I softly whisper...」
……清瀬くんだ。
「Tonight tonight...」
全然、大丈夫そうになんて聞こえない……
「You are my angel...」
——違うよ。
違うよ、清瀬くん。
そんな……天使なら、そばにいなきゃ、だめじゃん……
音羽は、声にならない嗚咽をこらえながら、スマホを抱きしめた。
彼女は、どれだけ涙を流しても、何ひとつ返すことができなかった。
澪は、公衆電話のガラスにもたれながら、想いを抱きしめた。
彼は、どれだけ恋しくても、何ひとつ伝えることができなかった。
ーーーーーーーー
後書き:
実は、以前悠樹さんから歌詞の著作権についてご指摘をいただきました。
そのため、第二話に出てきた歌詞の部分はすでに修正し、それ以降は歌詞を直接引用しないようにし、楽曲そのものも、できるだけこの小説の中には登場させないようにしてきました。
現在までに楽曲名が登場したのは二回だけで、歌詞の引用は行っていません。
……ですが、この話のラストだけは、どうしても引用したい英語の歌詞が4行あり、原文のまま使わせていただきました。
調べたかぎりでは、ごく短い引用であり、創作の主軸ではなく、改変を加えず、出典を明記していれば、著作権法上の引用として認められています。
とはいえ、万が一問題があるようでしたら、あらかじめお詫び申し上げます。
ご連絡をいただければ、すぐに対応・修正いたします。
今回使用した歌詞は、ONE OK ROCKの「Wherever you are」からの一節です。
ONE OK ROCKは、私にとってとても大切な存在です。
人生で一番つらかった時期、彼らの音楽がいつもそばにいてくれました。
だからきっと、自然とその重さを、音羽というキャラクターに託したのだと思います。
音羽が初めて勇気を出して登校した日、彼女が聴いていたのもONE OK ROCK。
澪が思わず「好きだ」と口にした日、彼が口ずさんでいたのもONE OK ROCK。
そして今日、言葉を交わせなかったふたりが繋がった深夜の電話——
澪が泣きながら、歌ったのも、ONE OK ROCKでした。
この曲、本当に本当に素敵な曲です。語られている恋も、静かで、美しくて、やさしいです。ぜひ、聴いてみてください。きっと皆さんも、この歌に、そして音羽と澪の気持ちに、心を動かされると思います。
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