第三章:澪のほうへ、音を運ぶ
第31話 ひとしずく、光と涙
「あの夜から、もうすぐ二週間になる。
きっと、あまりにも夢みたいな時間だったからだろう。
現実の景色が、かえってもっと現実味を帯びて見えるようになった。
この二週間、クラスではふたつのことが起きた。
ひとつ目。
清瀬くんは、また学校に来ていない。
そう思ったのは、もう何度目だろう。
毎日、同じように目が覚めて、
同じ制服を着て、学校へ行って、授業を受けて、家に帰る。
——それなのに、少しずつ、何かが変わっていく気がする。
あの日、彼が言った『また明日』は、いつになったら叶うのだろう。
清瀬くんは、元気にしているのかな。
二つ目のこと。
クラスの子たちの芹沢さんへの態度が、少しだけ変わった気がした。
……いや、変わったというより、今の彼女は、どこか前の私に似ていた。
ひとりでいる姿を見て、なんとなく胸がざわついた。
その日、私は自分の席でぼんやりしていた。
隣の空席を見つめながら、時間だけがゆっくり過ぎていくのを感じていた。
まだ少し早めに来ただけなのか、それとも金曜日の空気のせいか——
教室には、ほんのりと浮ついた、のんびりした雰囲気が漂っていた。
清瀬くんが今日も来ていないというのに、なぜか空気は平和だった。
そんな中、芹沢さんが数冊の本を抱えて、教室に入ってきた。
その瞬間、数人の女子が彼女に向かって、わざとらしいくらい早足で近づいていく。
『……チッ』
私の目には、ぶつかったのはあの子たちのほうに見えた。
でも、舌打ちしたのは芹沢さんで——その瞬間、誰かが言った。
『は?なにその音。ぶつかってきたくせに、逆ギレ?』
『はあ?マジうけるんだけど。』
『こわ〜い。ねえ、次は手でも踏みに来るのかな?』
きぃん、とした笑い声が、教室に響いた。
鋭くて、冷たくて、まるでわざと刺すために放たれたような声。
……なんで、こんなに悔しいんだろう。
どうしてだろう。私は、わけもなく、怒りを覚えていた。
実は、私は変われたと思ってた。
ほんの少しだけ、世界がやさしくなった気がしていた。
けれど——そういう思い込みを、現実は、いとも簡単に叩き壊してくる。
まるで、目の前で『それは幻想だよ』って突きつけるみたいに。
私は、芹沢さんが私にしてきたことを、別に許せたわけじゃない。
でも……私に関する噂話が、また別の誰かを傷つけるための『道具』として使われてることに、喜びなんて感じるわけがない。
そのとき、ひとりの女子がわざとらしく強く肩をぶつけて、芹沢さんの手から本を落とさせた。
芹沢さんは、思いきり目をぐるっと回して、ムッとした顔でその子を押し返した。
『あんたさ、私のこと、白鷺音羽みたいに大人しくてやり返さないと思ってんの?』
……あ。
なぜだろう、その瞬間、ちょっとだけ彼女のことを『かっこいい』って思ってしまった。
——私も、あのとき、ああやって言い返せていたら。
誰かを押し返すなんて、たぶん私には無理だけど……
でも、もし言葉が武器になるなら——
私だって、こう言えたかもしれない。
『ねえ、私のこと、なめてるの?』
『やっぱ金持ちの家の子って感じ~? 親が大学の教授だと、そんなに偉いわけ?』
そう言いながら、目の前の女子たちは少しも遠慮することなく笑い合い、芹沢さんを突き飛ばした。
その瞬間、なぜだかわからないけれど、私は自分のことを小さなカメみたいだと思った。殻にこもって、じっと動かずにいるだけの……弱虫なカメ。
反撃することが正しいのか、間違っているのかは、私にはわからない。
でも……ずっと何もできずに、ただ逃げてきた私は……きっと、間違ってた。
自分を守れなくて、声さえ出なくなって、
そのせいで家族まで傷つけてしまって、
……そんなの、絶対に、間違ってる。
誰かが、倒れた芹沢さんの手を踏もうとしているのが見えた。
私は、無意識に足を踏み出していた。
スマホの画面を彼女たちに向けて、そっと差し出した。
『もう、このへんでやめてください。』
『白鷺さん、なにそれ。あんなことされたのに、なんで芹沢の味方すんの?』
そのうちのひとりが、呆れたように私に尋ねた。
私は、ただ首を横に振っただけだった。
……でも、心の中では思っていた。
——あなたも、前はその「加害者側」のひとりだったよね?
彼女たちは、それ以上何も言わず、立ち去っていった。
芹沢さんは立ち上がって、制服の埃をパンパンとはたいた。
そして、えらそうに顎を上げて、私に言った。
『別に。感謝なんか、期待しないでよね?』
私は何も返さず、そのまま彼女に背を向けて歩き出した。
私は、あなたの感謝なんて求めてない。
ましてや、『私のため』だなんて言いながら、誰かを傷つける理由にされるのも、もうまっぴら。
……もしかしたら、私も少しだけ変わったのかもしれない。
だって今は、あなたたちのことなんて、もうどうでもよくなってきたから。
人は、一生のうちに出会うすべての人と仲良くなれるわけじゃない。
クラスメイトだって、卒業すれば二度と関わらない人のほうが多いらしい。
『一生のうちに、本当の友達は7人くらいしかできない』って——どこかで聞いたことがある。
昔の私は、みんなと仲良くなろうと頑張っていた。
でも、声を失って、うまく言葉が届かなくなって……そのとき、ようやく気づいたんだ。
——無理に全員に好かれる必要なんて、なかったって。
私は、これからもできるかぎり誠実でいたいと思う。
でも、全員に誠実さを求めるのは、もうやめた。
ちゃんと、自分を守るための『壁』も必要だと思うようになった。
そして、もし、誰かが心から私に向き合ってくれるなら。
その人のことは、全力で大切にしたいと思う。
……でもね。
私がどれだけ大切にしたって、現実は、そんなに都合よくはいかない。
だって誰にもわからないから。誰と誰が、『一生』をともにできるかなんて……」
「素晴らしい!」
林先生は自分の席に座ったまま、手を叩いて拍手した。
「白鷺さんが、ここまで丁寧にこの二週間の変化を書いてくれたこと、とても感動しました!」
音羽は少し恥ずかしそうにうなずきながら、iPadをぎゅっと抱えた。
画面にはメモのページが開かれていて、いつでも返信できるように準備している。
「さて、第一のことについては今は置いておいて……今日は、第二のことを一緒に考えてみましょうか。」
音羽は少し迷ってから、画面に文字を打ち込む。
『林先生、この二週間……彼にも会っていないんですか?』
「彼に関することはお話できません。けれど、会っていませんよ。」そう言って、林先生は湯呑みに口をつけ、ゆっくりと一口飲んだ。
「さっき、あなたの日記にこう書いてありましたよね。『私も、あのとき、ああやって言い返せていたら』って。
私はね、現実的に言えば『やり返す』という行為については、よく考えるべきだと思っています。
無意味な暴力は、もちろん法律的にも許されるものではありません。でも、自分を守る手段として、たとえば護身術を習うとか、体力をつけるとか——それ自体はとても大切なことだと思います。
もしかしたら、筋トレして身体を強くしたら、あの子たちに押されてもびくともしなくなるかもしれませんよ?」
音羽はくすっと笑って、メッセージを打った。
『なんか、林先生っぽいです。ちょっとカッコいい。』
「いやいや、今日カッコよかったのは、あなたの方です!」
そう言って、林先生は微笑んだ。
「だって、あなたは今日、自分で『最良の答え』を出せた。
それは——無視、です。
あんなくだらないことをする人たちに、反応する必要なんてない。
そんな人たちの行動に振り回されず、自分の生活に集中すること。
自分の心と体を大切にして、健康で楽しく生きること。
それが、最高の答えなんです。」
その言葉を聞いた瞬間、音羽の胸の中に、ふっと光が差し込んだような気がした。
彼女はiPadにそっと打ち込んだ。
『……林先生って、光みたいですね。』
「違いますよ。光を灯したのは、あなた自身です。」
林先生は、ゆっくりと言葉を続けた。
「私には分かります。あなたが――あのクラスメイトたちや先生、そして……自分自身が自分に与えてしまった『恐怖』を乗り越えられたとき、きっと、声を取り戻せる日が来ると思いますよ。」
音羽は、ふいに真剣な表情になって、画面にこう打ち込んだ。
『林先生、私は、頑張ります。すごく、すごく頑張ります。
でも……私に光を見せてくれたのは、きっと……あの人なんです。』
「……ああ、青春だなあ。」
林先生は思わず笑って、肩の力を抜くように言った。
「でもね、白鷺さん。あなたも、きっと——彼にとっての『光』なんだよ。頑張れ!」
その頃。
清瀬澪は、ひとり、ソファに座っていた。
部屋の電気はついていなかった。
カーテンも閉めたまま、光はどこにも届かない。
昼か夜かも分からない、灰色の空気に包まれた中で。
まるで、世界の音をすべて消したような静けさ。
聞こえるのは、自分の呼吸と、時々軋む床の音だけ。
……転校、じゃなかったんだ。
引っ越しじゃなくて、逃げてた。父親から。
家賃も、生活費も、学費も——
どう考えても、母ひとりで支えきれるはずがなかった。
それなのに、あの人は仕事も変えず、町も出ず、
そのくせ、住む場所だけは何度も何度も変えていった。
「ここにいたら、見つかるから。」
「次の場所なら、少しは落ち着けるかもしれない。」
そう言って、私は何度も制服を変えた。
知らないクラスで、知らない子たちの中に紛れて、
何もなかったふりをして、笑って過ごした。
……引っ越しは、いつも突然だった。
私が覚えている中で、いちばん古い記憶は——五歳のとき。
段ボールの中に隠れていた。
「そこにいるのは分かってるぞ!」そう怒鳴る大家の声が去るまで、
息を止めて、じっと、ずっと動かなかった。
そのとき、母はどこにいたのかも、もう覚えていない。
外の怒鳴り声も、泣きたい気持ちも、
全部、胸の奥に押し込めて、ただひたすら耐えていた。
あれは……愛だったのだろうか。
私を守ろうとしていた、母なりのやり方だったのかもしれない。
でも——
もしそれが愛だったのなら、
どうして、あの日「死ね」なんて言葉が出てきたんだろう。
あの一言を聞いた瞬間から、
私はもう、「守られてる」とか「大切にされてる」なんて、
思えなくなってしまった。
そして今もなお、
それが「全部、自分のせいだったのかどうか」すら、
答えが出ないままでいる。
SIMカードも、母に抜かれた。
父に見つからないように。きっと、それだけの理由だ。
今度は、母か。
それとも、父か。
次にこの携帯を叩き壊すのは、どっちだろう。
そんなことを考えながら、ふと画面を見下ろした。
そこには、彼女がいた。
少し照れたように、笑っていた。
いつもと変わらないみたいに。
……まだ、笑ってくれてるんだ。
会いたいなあ。
その言葉を、澪は声にはしなかった。
けれど、ひとしずくの涙が、静かに、画面の上に落ちた。
光は、いつになったら、この暗闇に届くのだろう。
ーーーーーーーー
小さな後書き:
自分で、自分の光になれること。それは、きっと、とても大切なことだと思います。どうか皆さん、来週も、それぞれの「光」が見つかりますように。
そして、健やかで、笑顔の多い一週間を過ごせますように。
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