第34話 この距離の意味

 走って、どこへ行くつもりだったんだろう。

 ……学校?林先生のクリニック?こんな朝早くに行っても、まだ開いてないかもしれない。警察?違う。勝手に通報したら、彼に迷惑がかかるかもしれない。


 音羽は、駅へ向かう道の途中で足を止めた。

 喉の奥がひゅっ、と鳴った。うまく息が吸えない。胸が、痛い。


 どこにも行けない……


 風のない朝だった。にもかかわらず、耳の奥がずっとざわざわしていた。 責めるような声が、渦巻いていた。


「なにもできないくせに……」

「結局、逃げてきただけじゃない……」


 首を横に振る。そんなこと、ない。私は……私は……


 このまま道端に崩れそうになって、音羽はふらふらと背を向けた。


 ちゃんと歩いてるつもりなのに、足元がまっすぐ進まない。

 目の奥が熱くなって、涙なのか、熱なのかもわからない。


 ……帰ろう。お母さんが……お母さん……助けて……


 息が浅い。胸がうまく膨らまない。吸っても、吸っても、足りない。

 喉の奥がひゅっと鳴って、視界がチカチカしはじめた。

 手足の先が、じんじんと痺れてくる。


 ようやくたどり着いた自宅の玄関の前で、鍵を出そうとして……指が震えて落とした。


 ガチャ、と中からドアが開いた。


「……音羽?」

 母の声がして、次の瞬間——音羽はそのまま母の胸に崩れ落ちた。


 何か言いたいのに、口が動くだけで、声にならない。


 いきたかった……

 でも、いけなかった……


 音にならない言葉が、唇の動きだけで繰り返される。声にできない想いが溢れるたびに、涙が何度も頬を伝って落ちていった。母は一言も発さず、ただその小さな背を、ゆっくりと撫で続けていた。


 しばらくそうしてから、母はそっと囁くように言った。

「音羽、過呼吸のとき、私たちどうやって合図するって決めたっけ?」


 その言葉を聞いた瞬間、音羽の動きがぴたりと止まった。

 呼吸も、涙も、すべてをぐっとこらえるように、目を見開いたまま、じっと母を見つめた。


 そして、ゆっくりと口を大きく開けた。

 母も、同じように口を開ける。


 向かい合ったまま、母が指を一本、二本、三本と折って見せる。


 一緒に、息を吸って——吐いて。

 また、吸って——吐いて。


 苦しさの中に、音も言葉もない、ただ二人だけのリズム。

 さっきまで張りつめていた空気が、すこしだけ、ふわっとほどけていく気がした。


「音羽、今日は学校行かなくていいわよ。」

 母はそう言って、音羽の肩を支えながら、リビングのソファに座らせた。それから急いでコップに水を汲んで手渡してくれる。

「少し落ち着いてから、林先生のところに連絡してみるわ。今日は……できれば、親子でカウンセリングを受けましょう?」


 音羽はこくんと頷き、それからハッとしたように立ち上がった。

 キッチンの片隅に置いてあったiPadを取りに行き、Pencilを手にして、慌てて文字を書き始める。


『お母さん、清瀬くんのこと……』


 けれど、その文字が書き終わる前に、母が手を伸ばしてiPadとPenciを取り上げた。


「自分のことでいっぱいいっぱいのときはね、どんなに誰かを思ってても、それが相手の重荷になっちゃうこともあるのよ。」


 ……そうですね。

 私は今、慌てても、泣いても、何もできない。

 私……清瀬くんの家の場所すら知らない。

 というか、よく考えてみたら、清瀬くんのこと、私はあまりにも何も知らなかった。勝手に動いて、彼にこれ以上の負担をかけるわけにはいかない。


 音羽は何も言わず、ゆっくりとソファに戻って、渡された水を、両手で持ち上げて、少しだけ口に含んだ。


 午前11時、林先生の診療室。


「白鷺さん、朝に過呼吸があったんですね。お母様がすぐ連絡してくださって、助かりましたよ。」

 淡い水色のスーツを着た林先生が、母の隣に座る音羽に穏やかに声をかけた。

「白鷺さん、今朝、何があったのか、私たちに教えてもらえますか?」


 iPadを両手に抱えたまま、音羽の指はしばらく動かなかった。

 何から書けばいいのか、どこまで書けばいいのか——

 言葉にするって、こんなにも遠いのかと思った。


「時間はたっぷりありますよ。焦らず、心のままに書いてくださいね。」


 林先生は、まるですべてお見通しだと言わんばかりに、優しく先回りしてくれる。

 母も、優しく音羽の名前を呼びながら、隣で頷いた。


 しばらくして、画面に一文字ずつ現れていく。


『昨日の夜、清瀬くんから電話がありました。でも私は何も言えませんでした。声が出なくて、彼が泣いているのに、私はただ聞いているだけで……何もできませんでした。だから今朝、心を落ち着けようと、ランニングに出ました。


 私は、自分にできることが限られているって、ちゃんとわかっています。今の私にとって、一番大切なのは、声を取り戻すこと。


 でも今朝、たまたまクラスメイトに会って、彼から聞かされました。昨夜、清瀬くんが、お母さんに何度も強く腕を掴まれていたと。空くんは、彼の腕に痣があったとも言っていました。


 助けなきゃって、思いました。本当は、彼を助けたいんです。』


 林先生はiPadの画面を読み終えると、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。けれどすぐに、いつもの穏やかな表情に戻って、それを音羽の母に手渡した。


「そんなことがあったんですか……清瀬くん、大丈夫なの?」

 母の声が、思わずかすれたように弾けた。


 音羽は、そっと首を横に振った。——わからない、と。


 すると林先生が、ふたりの間に入るようにして口を開いた。

 声のトーンが、いつもより少しだけ厳しかった。


「お母さま、落ち着いてください。私も、このような話を聞いて残念に思います。

 ですが、これは今日のカウンセリングの本筋とは違います。」


 林先生はそう言うと、音羽の前に視線を戻し、今度は真剣なまなざしで見つめた。


「白鷺さん。あなたが書いてくれた文章の中に、『声が出ないこと』に関する無力感が、四度、表現されていました。」


 彼女はそう言いながら、手元にあったリハビリの進行表を静かに閉じる。


「『私は何も言えませんでした』、『声が出ない』、『私はただ聞いているだけで……何もできませんでした』、『今の私にとって、一番大切なのは、声を取り戻すこと』、私は——この考え方は、危ういものだと思っています。」


 林先生の声はいつもより少しだけ低くて、聞いているだけで、胸の奥が静かに締めつけられるようだった。


「声が出るようにならなきゃ、って……自分で思い詰めていませんか?

『そうなりたい』って願うこと自体は、もちろん大切です。

 でも、『出さなきゃだめ』って思い込みのまま焦って取り戻そうとすると……

 その気持ちが、かえってあなた自身を追い込んでしまう。

 今の状態のままで訓練を続けるのは、私はおすすめしません。」


 ……そんな。


 音羽はiPadの画面を見つめたまま動けなかった。手に握ったペンが、わずかに震えているのを見て、母がその手をやさしく包み込むように握った。


 先生の言うことは、頭ではちゃんとわかってる。

 焦っても意味がないこと、自分の状態を優先すべきことも。

 でも——わかっていても、気持ちがついていかない。

 清瀬くんのことを考えると、それだけで胸が揺れてしまう。


 そのとき、不意に雷が鳴った。空を裂くような大きな音に、音羽はびくりと肩を揺らす。すぐに、雨が窓を叩く音がぱらぱらと響き始めた。音羽は顔を上げ、窓の外に目を向けた。しばらく雨の音を聞いているうちに、さっきまで頭の中で渦巻いていた言葉が、少しずつ遠ざかっていく気がした。


「白鷺さん、清瀬さんが今、学校に来ていないことは私も知っています。実は、こちらにも顔を出していません……でもね、こうして距離を取ることは、お互いが自分の状態を整えるための、いいタイミングだとも思うんです。」


 ——距離を取る?その言葉に、音羽の胸が一瞬ざわついた。


「白鷺さん、私の目を見てください。ちゃんと、今の話を聞いてほしい。」


 林先生の声が、少しだけ鋭さを帯びる。音羽はゆっくり顔を上げた。目にはまだ涙が滲んでいたが、その視線はまっすぐだった。


 iPadに指を滑らせ、彼女は一言ずつ、丁寧に文字を綴っていく。


『この距離は、きっと次に会うための準備期間。

 私も、自分をちゃんと立て直します。』


 画面を読み終えた林先生の表情に、ふっと穏やかな笑みが戻った。


「……そう、それでいいんです、白鷺さん。その気持ちが何より大事。

 あなたが落ち着いていくことで、彼もきっと安心できる。お互いにとって、きっとそれが一番なんですよ。」


 そう言って、先生は閉じていたリハビリノートを再び開きながら、柔らかい声で付け加えた。


「それから、あとで私の方から、清瀬くんのお母様にも一度ご連絡してみますね。」


 夜。

 明かりの落ちた部屋に、ただ雨音だけが満ちていた。


 ときおり、屋根を叩く低い響きが「ドン、ドン」と鳴り、大きなバスドラムが心臓のように鼓動しているようだった。すぐにそれは「トトトト……」と細やかな音に変わり、どこか遠くでヴァイオリンの弓がそっと弦をなぞっているようにも聞こえる。


 跳ねる音、流れる音、重なる音、消えていく音——

 空はまるで、いくつもの感情を旋律に変えて、雨という楽器だけで夜の調べを奏でているようだった。


 聞こえてくる一つ一つの音が、静かに胸の奥へ染みこんでいく。

 泣いているのが空なのか、自分なのか、わからないまま、音羽はただ、小さな小春を抱きしめながら、雨の調べに呼吸をゆだねていた。


 どれくらいそうしていたのだろう。

 雨の音にすべてを預けたまま、時の流れさえ忘れていた。


 不意に、枕元に置かれたスマートフォンの画面が、ふわりと光を灯した。


 音羽はゆっくりと身を起こし、小春を抱えたまま、画面をのぞき込んだ。


 そこには、たった一言だけのIMessageが届いていた。


『音羽は、私の魔法姫だ。』


 ーーーーーーーーー

 後書き:

 ①過呼吸のときのあの呼吸法、本当に効果あります。

 パニックになったときにいちばん大事なのは、「自分にストップをかける合図」を持っておくこと。それってすごく難しいけど……どうか、あきらめないでいてください。


 ②私はたぶん、ちょっと現実的すぎるのかもしれません。だから今回は、音羽と澪を直接再会させませんでした。

 頭の中では何度も韓ドラみたいな再会シーンをシミュレーションしたんですけど、最終的に選んだのはこの「現実」でした。

 心身ともに自分をちゃんと整えたうえでこそ、人との関係も健全で優しいものになる。恋愛だって、そういうものだと私は思っています。


 ③iMessageが好きです。

 よくスマホをどこに置いたか忘れちゃって、SIMカードも入ってない端末ばっかりで(笑)でも家中に散らばってるiPadやMac、Apple Watchが、全部つながってるから……ちょっとした奇跡みたいに、どこにいても「言葉」を届けられる。

 それがなんだか嬉しくて。

 そんな私の私情(と希望)をこめて、このiMessageを音羽と澪に贈りました。


 音羽が朝送ったメッセージは、

「おはよう。清瀬くんが教えてくれた、大切な魔法。忘れないでね。」


 澪の返信は、そんな彼女に向けた「だいじょうぶだよ」。


 音羽が彼の暗闇にそっと灯した光のように、

 彼が、音羽の雨の夜に、小さな光を返してくれた。

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