第24話 春の色に、恋が咲く

 公園では、桜がそっと葉を伸ばしていた。

 枝先には、淡いピンクと若葉のグリーンがまだ混じり合っていて、ところどころ、花びらが夕陽に照らされて、赤く滲んで見える。まるで桜じゃない、別の花みたいだった。

 オレンジ、グリーン、ピンク——どれも春の色。

 でも、混ざり合って揺れてるのを見てると、どうしてこんなに、恋みたいに心が騒ぐんだろう。


 ベンチに座ったまま、音羽は呼吸を整えようとしていた。けれど、まだうまくいかない。さっきまでの会話、いや、正確には一方通行の電話。その余韻が、喉の奥でじんわりと残っている。


 靴音が近づいてくるのが聞こえた。

 ぱた、ぱた、と軽やかで、でもどこか急いでいて——

 顔を上げると、夕陽の向こうから、澪が小さく手を振りながら走ってくるのが見えた。


 逆光のなか、髪が夕陽を透かしてふわっと揺れていた。

 目元がにじんでよく見えないのに、

 あの笑った口元だけは、まっすぐ胸に届いた。


 ……なんで、そんな顔するの。

 こっちが、好きになっちゃうじゃん。


 ふいに風が吹いて、花びらがひとひら舞った。


 彼は肩で息をしながらも、立ち止まって、まず音羽の顔をじっと見つめた。

「……よかった。無事で。」

 荒い呼吸の中に混じったその声は、驚くほどやさしかった。


 音羽はうなずこうとして、けれど少し遅れて首を動かした。自分でもぎこちないと思うくらいに。澪はそれを責めることなく、小さく息を整えると、ベンチの少し端に腰を下ろした。鞄を足元に置き、ポケットから次々と物を取り出していく。


「……一応、いろいろ持ってきた。」


 そう言いながら、彼の手元から出てきたのは、ペットボトルのスポーツドリンク、ウェットティッシュ、ポケットサイズのアルコールスプレー、そして絆創膏。さらにコンビニの袋からは、おにぎりまで顔を出した。


「ほら、緊急連絡先だし……なんかあったら困ると思ってさ……」

 そうつぶやく彼の横顔は、どこか照れているようでもあった。


 音羽は、思わずスマホに手を伸ばしたけれど——その指は、すぐに止まった。

 ……わたし、別に大丈夫だし。伝えたいことなんて、あるのかな。

 どう答えたらいいんだろうと迷っていると——


「でも、なんにもなさそうで……よかった!」

 澪が、先にそう言ってくれた。その声は、音羽の言葉にならなかった気持ちを、まるごと包んでくれるみたいに、あたたかかった。


 音羽は何度も言葉を打っては消して、やっとのことで送ったのは、たった一行だった。

『清瀬くんは、大丈夫ですか?』


 そのメッセージを見た澪は、一瞬きょとんとして——思わず、「え?」と声を漏らした。


 音羽は焦るように、すぐ次の文を打ち込んだ。

『ごめんなさい。ただ……今日、学校に来なかったから……』


 それを読んで、澪はふっと息を抜いた。そして、柔らかく微笑んで答えた。

「……ですね。今日はちょっと、家のことがあって。」


 音羽は、手の中のスマホをぎゅっと握った。林先生の「後悔しないように」という言葉が、ふと耳の奥でよみがえる。彼女は深呼吸をしてから、慎重に文字を打ち込んだ。

『……清瀬くん、本当に、大丈夫ですか?

 昨日、林優先生のクリニックに……いましたよね?』


 スマホを覗いた澪は、一瞬だけ目を見開いて、それから小さく笑った。

「……うん、いたよ。音羽には、嘘つきたくない。」


 音羽がまた何か打とうとしたそのとき、澪はふと、空を見上げた。

 夕焼けの光が瞳に染みるように、彼はゆっくりと言葉を落とす。


「音羽が電話をくれたとき、すごく嬉しかった。

 ……でも、ごめん。今は、それ以上は、聞かないでくれる?」


 さっきから、清瀬くんの目には、いつもの笑顔がなかった。

 あの、ちょっと抜けてて、笑ってごまかすみたいな感じもなくて。

 ……なんだろう。寂しさとか、悲しさとか、そういうのが、全部まっすぐに滲んでた気がする。


「……大丈夫、って言ったら……信じてもらえますか?」


 音羽は、すぐにスマホを手に取り、指を動かした。迷いはなかった。

 画面に映ったその言葉を、彼にそっと見せる。


『信じるよ。だって、大丈夫って言葉は、魔法なんでしょ? 清瀬くんがそう言ってた。いつか、自分で自分に言えるようになったら……本当にそう思える日が来たら、その魔法は、きっと叶うんだ。』


 そのメッセージを読んだ瞬間、澪の目がふわっと光を宿した。

 まるで、本当に魔法にかかったみたいに。

 彼は少しだけ息を吸い込んで、まっすぐに音羽を見つめた。


「音羽のことは、ずっと好きだった。」


 その言葉と、彼のスマホに届いたメッセージ通知の音が、ぴたりと重なった。

『清瀬くんのことが、好きです。』


 風が吹いた。

 桜の花びらがふわっと舞った、その瞬間。


 二人とも、びくっとして立ち上がる。

 目が合って、どちらからともなく、くすっと笑った。

 そして、またベンチに腰を下ろす。


 さっきより、少しだけ近い距離で。


「……ずるいな、音羽。そんなふうに言われたら……もう、ますます好きになっちゃうよ。」


 澪の指先が、ふと音羽の手の近くに触れた。

 触れるか触れないかの距離で、彼はそっと手を引っ込める。


「……あ、ごめん。本当は、音羽の声が戻ったら、そのときにちゃんと伝えようって、決めてたんだ。でも、今はもう……止まらなくなりそうだ。」


 ……え? わたしの、声が戻ったら?


 スマホをそっと手に取りながら、音羽は迷いがちに指を動かす。

 そのとき、澪が微笑んで言葉を重ねた。


「音羽は、きっと——ちゃんと、自分の声を取り戻せるって、そう信じてる。

 その前に、私も……頑張って、『音羽にふさわしい自分』になりたいんだ。」


 ほんのり顔を赤くしていた音羽の目に、ふいに光が滲んだ。

 気づけば、ぽろりと、涙が一粒。


「えっ、あ……ご、ごめんごめん!泣かせるつもりじゃなかったのに!」


 澪は慌てて手を伸ばし、指先で音羽の涙をそっと拭った。

 けれど、すぐに「しまった」と思ったように手を引っ込めて、立ち上がってぺこりと頭を下げる。


「ご、ごめん……勝手に触って、ごめんなさい!」


 音羽は、ぽかんとしたまま顔を上げた。

 心臓が、びっくりするくらい速く跳ねてる。


 どうしよう。

 今すぐ、「大丈夫だよ」って伝えたい。

 今すぐ、「好き」って、言いたい。

 でも、声が追いつかない。


 そのときだった。澪の声が、すべてを追い越すように、まっすぐ響いた。


「好きです! 音羽のこと、ずっと好きです!どうか……付き合ってください!」


 音羽は、澪を見つめたまま、ふっと息を吐いた。

 そして——ぱっと、花が咲くように笑った。

 声はなくても、その笑顔がすべてを語っていた。

 泣きたくなるくらい、やさしくて、あたたかくて、それでいて、今まででいちばん綺麗な笑顔だった。


 彼女は、そのまま小さくうなずいた。

 澪の顔がぱっと明るくなって、嬉しそうに目を細める。

「……ほんと?やった!」


 思わず弾んだ声に、音羽もつられて笑ってしまった。


 夕陽のなかで、おたがいの影がゆっくりと重なっていく。

 澪が差し出した手に、音羽の手が、おそるおそる重なる。

 指先が触れ合った瞬間、びくりと小さく震えたのは、どちらだったのか分からなかった。鼓動がふたつ分、ひとつのリズムになっていく。

 その距離も、もう戻れないくらいに、近づいていた。


 恋だ。

 春のすべての色を重ねたって、きっと敵わない。

 こんなにも、まぶしくて、鮮やかで——


 私の好きな人の、好きな人は。

 ちゃんと、私だった。


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