第25話 火曜日の続き、水曜日の繰り返し

 制服のボタンをひとつずつ留めながら、音羽は、昨日の夕暮れを思い出していた。


 あの公園の風。指先に触れたぬくもり。清瀬くんがまっすぐ見つめてきた瞳と、「好きです」と言ったときの声の温度。鏡に映った自分の顔は、まだ少しだけ頬が赤かった。


 朝の光が、机の上のスマホを照らしている。開いたままの画面には、昨夜のメッセージ履歴がまだ残っていた。

『清瀬くんのことが、好きです。』

『……さっき言ったばかりだけど、音羽の言葉だけが残ってるのを見たら、やっぱり返さずにはいられなかった。私も、音羽のことが好きです。』


 今日も清瀬くんに会える。会いたい。

 言葉はなくても、ちゃんと「おはよう」って伝えたい。


 制服の襟を正して、音羽は玄関へ向かった。

 階段を下りる足取りは、昨日より少しだけ軽い。

 ——そう、今日からきっと、世界は少しずつ変わっていくはずだ。


 教室のドアを開けた瞬間、音羽はふと、昨日と同じ風景を見た気がした。


 清瀬くんの席が、今日も空いている。


「清瀬くん、また休みらしいよ!」

「えー、昨日もじゃん。風邪?」

「てかさ、また転校とかだったりして。」

「それはウケる(笑)」

「小学校のとき一緒だった子が言ってたけど、あの子、すぐ転校しちゃうタイプだったんだって……」


 ひそひそとした声が、いつものグループの方から聞こえてくる。

 音羽は何も言わずに、自分の席に座った。机の上に手を置いて、そっと隣の空席を見つめる。


 ……そんなわけ、ないよね。昨日、あんなふうに笑ってくれたのに……清瀬くんは、そんなふうに黙っていなくなる人じゃない。


 昼休み。杏が相変わらず元気な声で「音羽ちゃん、今日も一緒に食べよー!」と誘ってくれた。ダンス教室でふたり、並んでおにぎりを食べながら、杏は澪の話を避けているようにも見えた。

 いや、たぶん、気を遣ってるんだ。


 放課後。音羽は予定どおり、林先生のもとへ向かった。心のどこかで、「もしかしたら、また彼の姿があるかもしれない」なんて、そんなことを思ってしまっていた。

 

 今日は水曜日のはずなのに、なんだかまた火曜日を繰り返しているみたいだった。清瀬くんはいなくて、お昼は杏と一緒に食べて、午後はこうして林先生のところに来ている。


「白鷺さん、三日連続で通ってくれて、ありがとうね!」

 林先生はいつものようににこやかに笑いながら、音羽にソファをすすめた。

「さて、今日は……どうして急にリハビリを始めようと思ったのか、聞いてもいいかな?」


 音羽はうなずき、少し考え込んだあと、iPadにゆっくり文字を打ち込んだ。

『……話すと長いんですが、簡単に言うと、去年失敗したスピーチコンテストに、もう一度向き合いたいと思ったからです。』


 思いがけない答えに、林先生は目を丸くしたあと、ぱっと顔をほころばせた。

「……それは、とても素敵な理由ですね。過去の失敗に正面から向き合って、同じ場所に新しい記憶を上書きしようとする。その姿勢自体に、大きな価値があります。」


 音羽は、少し驚いたような顔で先生を見つめた。


「私は現実的なタイプなので、よく『結果より過程が大事』とは言いません。

 でも……今回のことについては、君に伝えておきたいんです。

 どんな大会や出来事も、結果だけで心や身体を壊していい理由にはなりません。

 この経験を通して、自分自身を大切にしてほしいと、私はそう思っています。」


 音羽は、静かにうなずいた。


「今の君は、自分の意思でリハビリを始めようとしている。そういう『前向きな気持ち』が出てきたなら、安定剤や抗うつ剤は、いったん処方しないことにしましょう。それは、君自身の中に、ちゃんと『回復への力』が芽生えてきた証拠だからです。


 ただし、定期的にここでリハビリを続けることに加えて、毎日三つのことを意識して実践してみてください。


 ひとつ目。毎日、自分にポジティブな言葉をかけること。『きっと、声は戻ってくる』って、ちゃんと自分に言ってあげてください。


 ふたつ目。今日から少しずつでいいので、呼吸を『腹式呼吸』に意識的に変えていきましょう。お腹で呼吸して、声を出すときはその力で支えるイメージです。


 みっつ目。リハビリだからといって、無理は禁物です。声を出さない『休息の時間』も、大切な訓練のひとつです。たとえば、夜寝る前に軽く瞑想をするだけでも、睡眠の質がぐっと良くなりますよ。」


 林先生は話を終えると椅子から立ち、「ちょっと立ってみましょうか」と音羽に微笑んだ。そしてそっと肩に手を添え、部屋の隅の全身鏡の前へと導いた。

「少しだけ、姿勢と呼吸の確認をしましょう。声を出すには、思っている以上に体の使い方が大切なんです。」


 鏡の前に立つ音羽に、林先生はお腹に手を当てて見せた。

「息を吸って……お腹がふくらむのを感じて。焦らなくていいですよ。……はい、それで大丈夫。」


 音羽もお腹に手を当てて、ゆっくり息を吸った。


「きれいです。声を出すのは、まず『自分を信じる』ことから始まります。今日は呼吸だけで充分。これが最初の一歩です。」


 その夜、音羽は、珍しく早く眠りについた。午後のリハビリが予想以上に集中できて、身体が心地よく疲れていたせいかもしれない。


 ……でも、清瀬くんには、今日も会えなかった。明日には、きっと会えるよね。

「今は、それ以上は、聞かないでくれる?」って、あのときの、あの声音を思い出した。


 スマホの画面を何度も見つめては、結局、何も送れずにスリープボタンを押す。


 送りたい言葉は、たくさんあったのに。

「大丈夫ですか?」とか、「明日、学校に来るのか?」とか、「清瀬くんに会いたい」とか——でもそのどれも、今の彼には重くなってしまう気がして、送れなかった。


 ……おやすみ、清瀬くん。

 代わりに、胸の中で小さくつぶやいた。

 そのひと言さえ、画面には残せずに、音羽は目を閉じた。


 木曜日も、金曜日も、それはまるで、火曜日を繰り返しているかのようだった。


 清瀬くんの席は、ずっと空のまま。曜日だけが変わって、あとは何も変わらない。世界は前に進んでいるのに、彼だけがいない。


 木曜日。


「清瀬くんってさ、ちょっとミステリアスじゃない?なんでうちの学校に来たのかも、いまいち謎だよね〜」

「英語、めっちゃ上手いよね。帰国子女かと思ってた!」

「私も!前に聞いたとき、『年末年始はいつも海外だった』とか言ってたし。」

「え、なにそれ……家族で海外暮らし?それとも……なんか事情ありそうだよね。」

「ていうか、前からちょっと浮いてたよね。クラスに馴染もうとしてない感じ?」


 ざわざわとした声が、毎日教室の空気に積もっていく。

 何気ない噂話なのに、心の奥が、じんわり揺れた。

 ……どうしてだろう。どうして、こんなにも不安になるんだろう。


 金曜日。


「今日も来てないね、清瀬くん〜」

「ねえ、ほんとに転校とかじゃないよね?」

「小学校一緒だった子が言ってたけど……両親、離婚してるんだって。」

「私もそれ聞いた!で、今さ、なんか裁判とかやってるらしいよ。扶養とか……ってやつ?」

「へぇ……だから時々、急に休むのか。」

「うわ、重っ……そういうの聞いたらちょっと引いちゃうよね!」


 そんな会話を聞いて、音羽は指先でペンケースのチャックをなぞった。

 傷つけようとしてるわけじゃないのかもしれない。でも、それは、澪にとって優しい言葉じゃない。


 スマホを開いては、やっぱり何も書けず、また閉じる。


 ——ずっと待ってるだけで、何もできないのは、悔しい。


 放課後。音羽は、また林先生の元へ向かった。

 今日も彼はいない。それでも、自分の足で来ると決めた場所だったから。


「白鷺さん、顔が少しだけ強くなった気がしますね!」

 林先生はそう言って、ソファに座るように促してくれた。


「……たとえばですけど、人ってね。誰かの『今』を待ってるあいだに、自分の『今』を見失ってしまうことがあります。だから、白鷺さんには、ちゃんと自分の『今』を、つかまえていてほしいな!」


 林先生がどうして急にこんなことを言ったのか、なんとなく分かった気がする。

 やっぱり、清瀬くんのことを知ってるんだ。でも、先生は決してそれを私に話したりはしない。

 そして、私も……彼がいないこのタイミングで、無闇に探ろうなんて、しちゃいけない。


 私は、澪を待ってる。心から、会いたいと思ってる。

 でも、それだけじゃ、きっとだめなんだ。

  

 ——今、私にできること。それは、私の「今」を、ちゃんと生きること。

 明日、またあの笑顔に会えたとき、私は胸を張って、「おかえり」って言いたい。

  

 ……まあ、明日は土曜日なんだけどね。


 ーーーーーーー

 後書き:

 今回、林先生が音羽に伝えた「毎日やってほしい三つのこと」を丁寧に描いたのは、私自身はまだうまくできていないけれど、「きっと大切なことだ」と思っているからです。


 腹式呼吸や軽い瞑想、そしてポジティブな自己暗示は、心の不調だけでなく、体の不調にも——少しでも効いてくれるんじゃないかなって思っています。一見するととてもシンプルなことばかりだけど、続けるのは、案外むずかしい。でも、だからこそ、意味があるのかもしれません。


 どうか、読んでくださった皆さんも、ほんの少しだけでも、自分のことをやさしく、大切にしてあげられますように。


 ……そして、清瀬くんは、今どこにいるんだろうね。

 次に彼が登場するその日まで、私たちもそれぞれの「今」を、大切にできますように~

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