第5話 見方を変えてみよう
朝の光が、窓辺のガラスの花瓶を透けて、そっと床に降りてくる。すると、光の精たちが現れて、床の上をくるくると舞い始めた。ステップを踏み、くるりと回って、すっと歩き、そしてぺこりとおじぎ。その瞬間、七色の虹が、ふわりと姿を見せた。
これはきっと、光とガラスと、ほんの少し「見方を変える」魔法。
そんな朝に、音羽はゆっくりと目を覚ました。視線がふと、机の隅にとまる。
昨日もらった、あの小さな紙切れが——まだ、そこにあった。雨に濡れて、もうすっかり乾いているけれど、一度くしゃくしゃになったそれは、元の形には戻らない。
その皺だらけの姿が、どうしてだろう、昨日の胸の高鳴りと重なって見えた。
音羽は身支度を整え、カバンを手にして階下へ向かった。リビングに入ると、朝ごはんがすでに食卓に並んでいた。母が用意した温かい料理からは、湯気がほわりと立ち上っていたけれど、まだ食欲はあまり湧いてこない。
それでも——
音羽は椅子を引き、静かに腰を下ろした。
そして、湯気の立つ豆乳のカップだけは手に取ってみた。
母もキッチンからやってきて、音羽の向かいに腰を下ろした。
「昨日は、どうだった?」
音羽は、少しだけ顔を上げた。そのとき、澪の顔がふと脳裏をかすめる。
彼女は、いつものようにうなずくことはしなかった。
代わりに、スマホを取り出して、画面をぽちぽちと打ち始める。
『大丈夫(^_^)』
画面を母のほうに向けて差し出す。
母は一瞬だけ目を丸くしたあと、ふわりとやさしく笑った。
「そう。よかった。次のカウンセリング、もし行きたくなくなったら、ちゃんと言ってね。急にすっぽかすのはナシよ?」
音羽は、今度はしっかりとうなずいた。
そして、あたたかい豆乳をひと口、ゆっくりと口に運んだ。
音羽は、いつもより少し遅れて家を出て、学校へと向かった。遅れそうだったわけじゃない。ただ今日は、なんとなくそうしたかっただけ。ほんの数分、学校に着くのが遅くなれば、少しは心が落ち着くかもしれない——そう思った。
でも、歩く道も、見慣れた風景も、何も変わらないのに。どうしてだろう。今日は、ほんの少しだけ、呼吸が浅くなる。
音羽が教室の前まで来たとき、中からはすでににぎやかな笑い声が聞こえてきていた。
誰が最初に言い出したのかは分からない。
「ねえねえ、清瀬くんは転校してきたばっかだから知らないと思うけど、白鷺音羽って超無口なんだよ。一日中、ひと言も話さないの。マジで高飛車で、近寄りがたいっていうか。」
音羽はその言葉に、息を詰まらせた。
そっとうつむき、手が無意識にカバンの肩紐を強く握る。
——やっぱり、何も変わらない。
「へえ、そうなんだ〜」
清瀬澪の声は軽く、何気ない相槌のように聞こえた。
その瞬間、音羽の心はふっと沈んだ。
「どうせ家もお金持ちだし、先生とも仲いいらしいよ?あと、よく隣のクラスの男子とイチャついてるって聞いたことあるし〜」
逃げ出したい。その場を離れたくなった。
けれど、その直後——
「へえ? そうは見えなかったけどなぁ。」清瀬が笑った。「それって、みんな彼女が誰かとイチャイチャしてるところ、実際に見たの?」
一瞬で、教室の空気が止まったようになった。
「え、えっと……それは……見たわけじゃないけど……」
「っていうか、みんなそう言ってるし?隣のクラスの子とかが……」
「ふーん。つまり、噂ってこと?」
清瀬の声は軽いまま。どこか楽しそうにさえ聞こえる。
「じゃあ、誰も彼女が男子と親しくしてるところをちゃんと見たわけじゃないんだ?」
「え、う、うん……まあ……」
彼の声がふいに優しくなり、けれど不思議と教室の隅々にまで届いた。
「見てもないこと、むやみに言いふらさないほうがいいよ?もしそれが嘘だったら、誰かが傷つくかもしれないでしょ。」
そう言って、清瀬は笑いながら「しーっ」と指を立てるしぐさをした。
「この世の中、見たことですら当てにならないことだって、たくさんあるんだから。聞いた話や憶測なら、だ〜め〜。」
その声は明るくて、眩しいくらいに朗らかで、でも誰もそれを軽く受け流すことができなかった。どこまでも冗談めかしているのに、その言葉の奥には、決して揺るがない優しさがあった。
「そ、そんなにマジにならなくても~」
「ま、まぁ、ちょっとした冗談ってことで〜」
女子たちは気まずそうに笑いながら、なんとなく清瀬のまわりから散っていった。
音羽はまだその場から動けずにいた。手のひらは、いつの間にか汗ばんでいる。そしてふと、教室の奥で笑っている彼に目がとまった。
ガラスを通った光が、彼の頬に綺麗に降り注いでいた。窓際でもないのに。
音羽は静かに教室のドアを開け、音も立てずに中へ入った。ちょうどそのとき、清瀬澪が顔をこちらに向けた。彼の目が一瞬キラリと光り、優しく微笑んだ。
音羽は何も返さず、表情も変えなかった。
——なのに、どうしてだろう。胸の鼓動が、ふいにひとつ、速くなった。
昼休み。今日も音羽は図書室にいた。昨日のように、清瀬があれこれと話しかけてくることはなかった。
けれど、しばらくして、ふいに入口の扉が開く音がして、彼が無言のまま、一本の桃のスムージーを机に置いて、すぐに出ていった。
放課後。教室からの帰り道、音羽はふと、美術室の前で足を止めた。
昨日、カウンセリングの先生が言っていた。「次に来るときはね、最近の気持ちを一枚の絵にして、持ってきて。」と。
気づけば、扉を開けて中に入っていた。誰もいない美術室の窓から、夕方の光がゆったりと差し込んでいる。
音羽は、空いていたキャンバスに向かって、筆を取った。
描いたのは、音のない午後と、陽だまりに照らされた一角。
誰にも気づかれず、ただそこにある、小さな静けさ。
「……あ、それ、なんか分かるかも。」
声がして、顔を上げると、清瀬澪がいつの間にか後ろに立っていた。
彼は音羽の絵を見つめて、優しく笑った。
「ねえ、これ……私も、一緒に描いていい?」
音羽は少しだけ目を見開いて、そして、こくりとうなずいた。
すると澪は笑いながら、音羽の描いた絵の端、ちょうど陽だまりが差し込むその窓辺の一角に、楽しく筆を滑らせた。
彼は真剣な表情で、まるでその場所にもともといたかのように、何かの姿を描き加えていく。
数分後——現れたのは、一匹の動物だった。
音羽は少しだけ首をかしげ、しばらく迷ってから、手元のスケッチ用紙を一枚取り出した。 そして、筆を取って——小さく、『ラクダ?』と書いた。
「えぇっ、失礼だなぁ……どう見ても猫でしょ、猫!もっと見方を変えてみてよ〜」
ぷくっと頬をふくらませる清瀬に、音羽は少し呆れたような顔をしたけれど——
それでも、ふたりの目が合った瞬間、どちらからともなく、くすっと笑いあった。
「実はさ、昨日初めて見たとき……君の隣に、猫がいるのが見えたんだ。 それで、なんとなく描いてみたんだけど……あの子、名前あるの?」
音羽はペンを取り、彼が描いた猫の横に、小さく丁寧に書いた。『小春ちゃん』
「……そうですか。」
澪の目が一瞬だけ意外そうに揺れて、それから太陽みたいに明るく笑った。
「いい名前だね!」
ーーーーーーーー
後書き:
すみません、昨日は体調を崩してしまって、更新ができず、本当に申し訳ありませんでした🙇♀️
今回の冒頭に出てくる「見方を変える」魔法—— あれ、実は私、本当に家で一度だけ見たことがあるんです。 窓辺のガラス瓶を通した朝の光に、小さな虹がふわっと現れて……まるで夢みたいな瞬間でした。
そのあと、別の小説でミラさんに教えてもらったのですが、サンキャッチャーって、虹をおうちに連れてきてくれるアイテムなんだそうです。もし今の生活に、ちょっとした変化やロマンが足りないなって思ったら、好きなサンキャッチャーをひとつ選んでみるのも素敵かもしれません🌈
晴れた日の朝、太陽と虹があなたを起こしに来てくれるかも……そう思うだけで、なんだかちょっとワクワクしませんか?
これは私が選んだサンキャッチャーです〜
https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792436197577698
そして、このお話の後半に出てくるふたつの出来事—— クラスメイトの噂話と、絵を描くこと。 どちらも、「見方を変えてみる」だけで、少し違った景色が見えてくる問題かもしれません。
陰口を叩かれたとき、スルーするのもいいし、澪みたいに笑いながら軽やかに返すのもアリ。 言葉って、時には誰かを守るための、やさしい武器にもなるんですよね。
そして、その笑顔こそが—— きっと、いじめる側の人たちにとっては、いちばん見たくなくて、信じたくもないものなんだと思います。
だって、目の前の誰かが、太陽みたいに笑っているなんて。 そんなの、きっと、怖いに決まってるから。
だからこそ。 どうしようもなくなったときほど、「笑う」って、案外すごく強くて、あたたかい選択なのかもしれません。
どうかあなたにも、虹と、陽だまりと、やさしい笑顔が届きますように。
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