第6話 二人の距離
学校に通い始めて三日目。
この世界の仕組みそのものは、きっとまだ変わっていない。
笑う子たち。囁く子たち。誰かを無視する、そのスピードの速さも。
教室の壁は、今日も同じ色をしている。
「差別」と「特権」は、まるで空気みたいにそこにある。
清瀬さんが昨日、あの子たちに言い返した。
そのとき私は、「次はきっと彼がターゲットになる」と思った。
でも——違った。
彼は今日も、教室の中心にいる。
背が高くて、笑顔が眩しくて、転校生という肩書きすら「話題」として味方につける。どうして、同じ世界を見ているはずなのに、彼だけは違うルールの中で生きているように見えるんだろう。
違う。そうじゃない。
この世界が不平等なのは確かだけど、「どう生きていくか」は、人それぞれに選べるのかもしれない。昨日のように、言い返す方法もあるのかもしれない。
彼は、あんなふうに、声を出してくれた。
でも、クラスの中の「世界」が、それで変わるとは、まだ思えない。
なら、私にも——言い返せるやり方、あるのかな。
……彼のことも、少し距離を置いて見たほうがいいのかもしれない。
音羽は窓際の席に座り、いつものように外を眺めながら、教室に流れるささやき声を聞いていた。ぼんやりと、心の中でそんなことを考えていた。
チャイムが鳴り、英語の大木先生が教室に入ってきた。
「じゃあ今日はペアワークでいきます。テーマは――『自分の好きな花』について、英語で紹介してみよう。」
先生の声に、教室がざわっと揺れた。みんなが顔を見合わせて、すでに仲のいい子同士で自然とペアができていく。
音羽はただ、ノートに目を落とした。ペアなんて、組めるはずがない。
声も出せない自分には、最初から選択肢なんてなかった。
案の定、誰もこちらには来なかった。
数人が、こっちをちらちら見ながら、わざとらしく笑っている。
「え、どうすんの〜?ひとりで喋る?っていうか喋れんの?」
「無理じゃない?てか、花ってなに?……あ、もしかして、自分?好きな花、自分ってことで? さすが『クラスの花』〜」
笑い声が、背中からこつこつと小さくぶつかってくるような感覚。手がじんわり汗ばむ。
——そのときだった。
「白鷺さん、よかったら、組みますか。隣席だし。」
パタン。隣の席の椅子を引く音がして、気づけば、清瀬澪が机ごとこちらに移動してきていた。そして、すっと頭を近づけて、小さな声でひとこと囁いた。
「大丈夫、二人分しゃべるからね。」
それから、ふっと笑った。
近い。距離を置くと決めたのに……
清瀬澪は、楽しげに一冊のノートを開いて、音羽の机にそっと差し出した。
「白鷺さん、一番好きな花は何〜?」
そう言って、眉をくいっと上げながら視線でノートを示す。
音羽はしばらく迷ったまま、ペンを取らなかった。
「バラ?」
音羽は首を振る。
「ゆり?」
また、首を振る。
「はす?」
もう一度、首を振る。
澪はさらに身を乗り出して、ノートをのぞき込んだ。
仕方なく、音羽はペンを取り、小さく書いた。
『ごめんなさい』
すると、彼はますます笑顔を明るくした。
「それじゃ花じゃなくなっちゃうでしょ〜今、『花』の話だからね?」
軽口に、音羽はほんの少し恥ずかしくなって、ノートのすみに丸を描いた。
どうしよう……好きな花の名前、英語でなんて、なんだったっけ……
少し前に習ったはずなのに、頭からぽんと抜けてしまっていた……
やがて、話し合いの時間が終わる。
筆談で成り立つには、あまりにも時間が足りなかった。
この授業内容そのものが、合理的で、そしてどこか非情でもある——
誰もが、そう思った。でも、誰もそれを口にはしなかった。
「じゃあ、清瀬さん。君たちのペアから発表してくれるかな?」
大木先生が、ちらりと音羽に視線を送りながら、満面の笑みを浮かべた。その笑顔の奥にあったのは——「前に私を困らせたあなたが、今度はどうするのかしら」という、優しさに見せかけた順番のようなものだったのかもしれない。
しかし、「英語はちょっと苦手なんだよね」と言っていた清瀬澪は、信じられないくらい綺麗な発音で、さらりとブリティッシュ・イングリッシュを話し始めた。
「Today, we’d like to introduce our favorite flower: the cactus.
They look tough, spiky, even a little unfriendly.
But they’re strong — they survive cold, heat, even long days without water.
And if you take care of them, they bloom.
Not often, but when they do… it’s quietly, stubbornly, and honestly beautiful.」
(今日紹介するのは、私たちの好きな花――サボテンです。
トゲトゲしくて、ちょっと近づきにくい見た目をしてるけど、
すごく強くて、暑さも寒さも、雨が降らなくても平気。
そして、ちゃんと世話をしてあげると、花が咲くんです。
めったに咲かないけれど、咲くときは、
静かに、力強く、飾らず、自分らしく、美しい。)
最後の一文を言い終えたあと、清瀬澪は微笑んで音羽のほうを見た。音羽は、不意に胸の奥が揺れた。驚きと、戸惑いと——ほんの少しの、あたたかさ。
ただノートに、まるい円を描いただけなのに。
清瀬さんは、それだけで私の「好き」をわかってくれた。
サボテン。私が、どうしても言葉にできなかった花。
……そして、それが「花」だなんて、誰も思わないかもしれない。
教室が一瞬、静まりかえった。
「え、英語うま……」
「めっちゃ発音良くない?」
「え、なにこのドラマ展開〜!」
誰かがくすっと笑い、誰かが拍手をした。
音羽は、ただぽかんと彼の姿を見つめていた。
授業が終わると、澪は何事もなかったかのように、音羽に一枚の紙を差し出した。
そこには、丁寧な字でこう書かれていた。
『ごめん、勝手にcactusって決めちゃった。けど、似合うと思って。』
昼休み。音羽はいつものように、図書室の奥にいた。
静かで、誰にも話しかけられない場所——なのに今日は、なぜかページの文字が頭に入ってこなかった。
そのとき、視界の端に、人影が差した。
——彼だった。清瀬澪だ。
彼は何も言わず、音羽の机にそっと一本のボトルを置いた。今日のスムージーは、ミカン味だった。
そして、ふっと笑みを浮かべ、そのまま背を向けて歩き出す。
……待って。
声が、喉の奥で震えた。
「待って」って、言いたかったのに。
やっぱり、声は出なかった。音羽にできたのは、指先をほんの少し動かすことだけだった。
そのとき——
澪が、不意に立ち止まった。
まるで心の声が届いたかのように、ふとこちらを振り返る。
「……あ、そうだ。君、たぶん気づいたよね? 私、英語、実は得意なんだ。」
音羽は、驚きのあまり、何も反応できなかった。
澪は少し照れたように頭をかいて、にこっと笑った。
「だって——君の隣に座る理由が、ちゃんと欲しかったんだ。」
距離を置きたい音羽と、距離を縮めたい澪。
……今日、二人の距離は、ほんの少しだけ、変わった気がした。
ーーーーーーー
後書き:
サボテンって、私にとって本当に「太陽に向かって生きる」植物だと思います。乾きにも、暑さにも、雨にも強くて、たくさん手をかけなくても、ちゃんと綺麗な花を咲かせてくれる。
もし毎日に、ほんの少しだけでも寄り添ってくれる存在が欲しいけれど、バラを育てるほどの余裕はないな……って感じたら〜サボテン、きっといい相棒になってくれますよ。
こちらは私が実際に育てているサボテンたちです。気に入ってもらえたら嬉しいです。https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792436260720146
最後に。
どうか、みなさんも——
静かに、力強く、飾らず、自分らしく、美しく、咲けますように。
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