第4話 笑ってるだけで十分
午後の授業もすべて終わった。
でも今日は、一言も誰とも言葉を交わさなかった。
思っていた以上に静かな一日だった。
……でも、それでいい。
窓の外をずっと眺めていたけれど、景色はもう心に入ってこなかった。
それでも、いい。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴ったとき、澪は何か言いたげな顔でこちらを見たけれど、音羽はもう立ち上がって教室を出ていた。彼は、ほんの一瞬だけ迷ったような顔をして——でも、追ってこなかった。
……それでいい。このあとカウンセリングにも行く。
初日なんだから、これだけできれば十分。きっと、大丈夫。
——そう思っていた。
だけど。
外の風は、思っていたよりも少し冷たかった。
今日の雲は、厚くて重たそうな形をしていた。
まるで……恐竜みたいな、大きな綿菓子。
音羽は草の上に座り込んで、空を見上げた。両手の親指と人差し指を丸くして、即席の望遠鏡みたいに目に当てて、じっと空を覗いていた。
……恐竜の綿菓子、じゃないな。なんだろう、この形は……
「小春ちゃん。」
小さなミケ猫が、どこからともなく現れて、音羽の膝の上にぴょんと飛び乗ってきた。
「……来てくれたんだね。」彼女はその小さな頭をそっと撫でた。
「またサボったでしょ!」
「ちがうちがう。学校にはちゃんと行ったもん。」
「でも、カウンセリングは?」
「……なによそのジャッジ目線〜小春ちゃんのくせに!」
音羽はぷくっと頬をふくらませながら、小春ちゃんの頭をわしゃわしゃとかき回した。そして、そのままぎゅっと抱きしめる。
暫くして、風も時間も、ゆるやかに流れていた。音羽はカバンの中から携帯を取り出し、そっと画面を開いた。
「林先生、はじめまして。白鷺音羽と申します。突然のご連絡で失礼しますが、本日のカウンセリング、あらためてお願いできますでしょうか。」
——よし、送信。
音羽は、ふっと小さく笑った。
「お前、今、『よし、送信。それでいい』とか、考えてたじゃない?」
音羽はビクッとして、思わず振り返った。小春も反射的に「ハァッ」と威嚇音を鳴らし、音羽の膝からぴょんと飛び降りた。
そこに立っていたのは、ショートカットで年上の女性だった。きっちりしたスーツ姿だけど、上着は肩が落ち気味で、シャツの襟もラフに開いている。きっちりというよりは、むしろ「こなれた感じ」のカッコよさがあった。
その人はニコッと笑って、財布から名刺を一枚取り出した。
「ごめんごめん、驚かせちゃったね。私は
音羽は、少し戸惑いながらも、ゆっくりと名刺を受け取った。
「三十分、遅刻だよ?だからさ、お母さんに頼まれて、ここまで様子を見に来たってわけ……ほんとは自分で来たかったみたいだけど、今ちょっと手が離せなくてね。」
林優は、片手を腰に当てながら言った。
音羽は小さく眉をひそめて、あわててスマホを取り出し、何か打とうとする——が、
「いいの。謝らなくていいし、理由も聞かないよ。」
林優はそう言って、音羽と少し距離をとって、草地に腰を下ろした。
「白鷺さん、この世界はけっこうシビアなんだよ。来ても来なくても、カウンセリング代は発生する。だったらさ、取引って思って、ちょっと話してみない?」
「白鷺さんは、もう高校生でしょ。だったら、私も変に取り繕ったり、嘘をついたりするつもりはないよ。」
音羽は思わず、目を見開いた。
「人生でぶつかる問題の数と年齢の関係ってね、実は『放物線』みたいなものなんだよ。最初はさ、年を重ねるごとに問題もどんどん増えていく。でもね、ある時点から、年は取っていっても、問題の数は少しずつ減っていくんだ。」
林優は、指で空中に放物線を描いてみせる。
「その『折り返し地点』が、いつ来るか。早いか、遅いか。それはね、自分で決められるんだよ。」
音羽は、ちゃんと林優の目を見ていた。林もまた、まっすぐに彼女の目を見返した。
「あなたがどうやって、その辛さと付き合っていくか——それが、あなたの人生を決めるんだ。痛みがない人生なんて、存在しない。だからこそ、自分を大切にして、立ち向かおう。」
そのとき、一筋の夕焼けの光が、林優の顔をやさしく照らした。
その光は、音羽の心にも、こっそりと忍び込もうとしているように見えた。
林優は、音羽の斜め後ろをちらっと見てから、自分の腕時計に目をやった。
「さてと、今日の40分のうち、30分はあなたがサボってた時間~残り10分は、私がしゃべってた時間。次は、うちのクリニックで、ちゃんと40分おしゃべりしましょうね。それと、次に来るときはね、最近の気持ちを一枚の絵にして、持ってきて。」
そう言って立ち上がると、にっこり笑って続けた。
「どんな絵でも大丈夫。なんなら、ぐちゃぐちゃでもOK。見た目こんなんだけど、私、意外と抽象派なんだ~」
そう言い残して、林優はくるっと背を向けて歩き出した。
音羽は、ぽかんとしたまま林優の背中を見送っていたが、
はっとして、彼女が去っていった方向に目を向けた。そこで目にしたのは——
夕焼けの光の中。
逆光で少し見えづらいはずなのに、それでもはっきりとわかる。
そこには、まぶしいほどの笑顔があった。
「やっほー、今日だけで、四回目のばったりだよ?」
澪は、手をひらひらと振りながら、そこに立っていた。
「さっき草むらで空見上げてる子を見かけてさ、君かなって……ちょっとだけ期待しちゃった。違ったみたい〜」
音羽の目が、ぱちりと瞬いた。
「……でも、今ちゃんと会えたから、結果オーライかな?」
音羽は少し迷いながらも、スマホを取り出し、メモを開いてぽちぽちと打ち始めた。
『私たち、前にどこかで会ったことありますか?』
——そう打ち終えると、彼女はスマホの画面をそっと澪に差し出した。
その一文を見た瞬間、澪の瞳にふわっと喜びが灯った。けれど、その奥に一瞬だけ、どこか懐かしさと哀しみがよぎったようにも見えた。
そして、澪は音羽のそばまで歩み寄り、少しだけ身をかがめて、音羽の顔の前に顔を近づける。朝よりも、わずかに距離が縮まったけれど、それでもまだ一歩、間が残されている。
「どうかな〜教えてあげないよ。」
ふたりとも、もう言葉もなく、スマホも閉じたまま、ただ見つめ合っていた。
その一瞬、心臓の音まで聞こえてきそうだった。ドクン、ドクン、ドクン。
……いや、違う。
ざああああっ。
突然、雨が降り出した。
ふたりは、あわててそれぞれのカバンを抱えて、駆け出した。
そのとき——澪がポケットから小さな紙片を取り出し、急いで音羽に手渡す。
音羽は、少し慌てながらそれを受け取ったが、紙はすぐに雨で滲み始める。
そこには、こう書かれていた:
『話せなくても、笑ってくれるだけで十分だから。』
ーーーーーーーー
後書き:
① 現実のカウンセリングは、たいてい室内で行われるものかもしれません。でも、私はやっぱり、こういうカウンセラーがいてほしいなと思いました。
理由は二つあります。一つは、これは小説だから。もう一つは、私自身がとても開かれた素敵な先生と出会ったことがあるからです。
それから、この小説は精神科医の視点ではなく、音羽という一人の女の子の視点で書いています。登場するセリフのいくつかは、心理学の博士課程にいる友人に相談したりもしましたが……まあ、その友人もかなり私に甘い人で、「そういう言い方、全然アリだよ」と言ってくれました。
つまり、出てくる台詞は「科学的な正解」ではなく、「私の理想」から来た言葉たちです。その点、ご理解いただけると嬉しいです。
② 今回の話で登場する二人のキャラクターは、音羽に「話せなくてもいい」「話さなくても大丈夫だよ」と伝えてくれる存在です。
現実でも、みなさんが「話したくないときに無理に言葉を求めてこない、優しく寄り添ってくれる人」に出会えますように。
来週も、自分のペースで、ゆっくり生きていけますように。頑張りましょう!
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