第3話 「大丈夫」という魔法
音羽は、教室の中に座っていた。ただ、窓の外を眺めていた。最初は、何気なく手で顎を支えていたが、次第に腕を机に伸ばし、体を少し横に倒して、頭を腕に預けるようにして、ただ外の景色を見つめていた。
そのときだった。
「まただ、演技開始。体のどこか具合が悪いみたいに。」
隣の女の子が、コソコソと話すようにしながらも、わざと大きな声で言った。
音羽は驚いて、思わず体を硬直させ、すぐに姿勢を正した。
「いいよね、前の学期は最後の1ヵ月半も出席しなかったのに、この新学期で普通に出席するなんてありえないでしょ。」
「そうそう、恥も知らないよね。」
「いやいや、顔があれば、成績もいいし、お金もあるし、先生も好きでしょ。」
音羽は、無意識に手で衣服の裾をぎゅっと握りしめた。
気にしない。気にしてはいけない。気にしないように。大丈夫、私は大丈夫だから。
どうせ、今は話すこともできないし。たとえ話せたとしても、何を言えばいいの。
どうせ、私の話に耳を傾ける人なんていないのだから。大丈夫、私は何も話さない。
チャイムが鳴った。
みんなはゆっくりと自分の席に戻り、担任の先生が一人の少年を連れて教室に入ってきた。
「皆さん、おはようございます。新学期が始まりましたね。今日からこのクラスに、一人転校生が加わります。」
音羽はそっと顔を上げた。
その少年は、まっすぐに音羽の方を見て、嬉しそうに笑った。
——涼しげな目元に、ひまわりみたいな笑顔。
目尻まできゅっと上がっていて、笑っているのは口元だけじゃなかった。
肌は自分よりもずっと白いのに、病的な細さはなくて、むしろ健康的で。制服の白が、やけによく似合っていた。
背は高くて、肩のラインはすっと伸びていて、なんだか風の中に気持ちよく立っているみたいだった。
……さっきの男の子だ。でも、私たち……もっと前に、どこで会ったんだっけ。
こんなにまぶしい人、私は知らないはずなのに……
思わず、音羽は目をそらした。けれど、視線の先にいたのは先生で、ばっちりと目が合ってしまい、音羽はあわててうつむいた。
「では、自己紹介をお願いします。」
少年は教室の前に立ち、軽く頭を下げると、明るく元気な声で言った。
「こんにちは!
その声には、何か力強さと爽快さが感じられ、教室にいた全員が、思わずその元気に引き寄せられるような気がした。
「かっこいい。」
「背が高い。」
一部の女子がつぶやく声も聞こえた。
「では、清瀬さん、あそこの空いている席に座ってください。」
先生が教室の後ろの席を指差すと、清瀬澪はにこっと爽やかに笑い、ぺこりとお辞儀して言った。
「先生、このクラスって英語がすごく強いって聞きました。私、英語ちょっと苦手なんですけど……できれば、英語がいちばん得意な人の隣に座って、少しでも学びたいなって。いいですか?」
「そうね……英語が一番得意なのは……」
先生はふっと目を上げて、音羽の方を見た。
「じゃあ、白鷺さんの隣に座ってもらおうかな。橘木さん、後ろの席に移ってくれる?」
「ええ〜〜〜!」
橘木くんは少し背の高い男子で、わざと大げさに声を上げながら立ち上がる。
清瀬澪は慌ててぺこぺこと頭を下げながら、「ごめん、ごめん、ありがとう!」と笑った。そして、橘木はブツブツ言いながらも、しぶしぶ後ろの席へと移っていった。
「優等生って言ったって、最近はぜんぜん喋らないんでしょ?」
「そうそう、そんな人に何を教わるの〜?」
教室のあちこちで、ひそひそ声が飛び交う。
でも、清瀬澪はそんなこと気にする様子もなく、音羽の隣に座りながら明るく言った。
「よろしくね!」
音羽は、そっと顔を背けた。何も言わなかった。
……たとえ、昔どこかで会っていたとしても。今の私は、もう声を出せない。
だから、彼に迷惑をかけないようにしておけば、それでいい。
授業中、音羽は時おり窓の外を見たり、黒板に目を戻してはノートを取ったりしていた。
不意に、隣からノートが、そっと音羽の机に滑ってきた。
そこには、太めのペンで、こんな文字が書かれていた。
「調べました!〜今週に、もう強風なし!」
……え?
音羽は思わず横を向いた。
すると、清瀬は、音羽に向かって、にこっとやさしく微笑んだ。
昼休み。
音羽はいつも、図書室で自分と、本だけで過ごす。今日も、スムージーを持ってきてはいたけれど、飲む気にはなれなかった。でも、気持ちはだいぶ落ち着いてきたみたい。
図書室って、素敵だと思う。話さなくていい場所。
もともと、おしゃべりはダメって決まってるし、お昼の時間に来る人も、ほとんどいない。
だから、図書室は——私にとって、一番、呼吸しやすい場所だ。
そんなふうに思いながら、音羽はいつもの席に腰を下ろした。
今日、読むつもりだった本は——
「ねえ、また会いましたね!白鷺さん!」
パタン、と音を立てて、清瀬澪が嬉しそうに本を置き、音羽の向かいに座った。
音羽は、思わず目を丸くした。
「今日だけで、同じクラスになって、それに……もう三回も会ってますよ〜私、澪っていいます。君は?」
……
音羽は澪の笑っている目元をそっと見つめ、ゆっくりとノートを開いた。
一文字ずつ、丁寧に書き込む。
『音羽』
澪は首をかしげながら、その文字を覗き込んだ。
「白鷺音羽……いい名前だね。声も、きっと綺麗なんだろうな。うん……だってさ、声って、羽みたいなものだと思うんだ。羽ばたける人は、きっと、遠くまで飛べるよ。」
——その瞬間、音羽の胸の奥に、ちくりとした痛みが走った。
けれど何事もなかったように、彼女はノートをそっと閉じた。
そして、カバンから今日読むつもりだった本を取り出し、静かにページを開いた。
読書のあいだ、澪はそれ以上、音羽に一言も話しかけてこなかった。
ただ、音羽が本を閉じて立ち上がろうとしたとき——
彼はそっと、一枚の紙を差し出した。
『「大丈夫」って言葉は、魔法にもなるけど、呪いにもなる。
でも、君がそれを自分で言えるようになったら……
それはきっと、本物の魔法になるんだと思う。』
音羽は、その文字を見つめたまま、ぴたりと動きを止めた。
——以前、カウンセリングを受けていたとき。向かいに座っていた先生は、よく言っていた。「『大丈夫』ばかり言わないでください。自分の気持ちをちゃんと見て。何かあるなら、言葉にして。いっしょに考えていきましょう」って。
でもさ。もし、「大丈夫」って言えなくなったら——私は、何が残るの?
この世界で、問題に気づいたって、それが本当に解決できることなんて、どれだけあるんだろう。
結局、最後に向き合うのは、自分の心でしかないのなら。
だったら、自分に「大丈夫」って何度も言い聞かせることの、どこが悪いの?
お母さんも、泣きながら言った。「それは、大丈夫じゃないよ」って。
でも、たとえ「大丈夫じゃない」ことでも、
簡単に転校できる?退学できる?逃げられる?引っ越せる?それとも……?
そんなの、簡単にできるわけがない。だったら、どうして自分に「大丈夫」って言い聞かせちゃいけないの?
何度も言ってたら——もしかしたら、いつか本当に、大丈夫になれるかもしれないのに。
目の前の紙に書かれていた言葉は、まるで、ずっと音羽が心の中で繰り返してきた言葉、そのものだった。
どうして、この人は——私の心の奥にある言葉を、こんなにもまっすぐに……
彼女は顔を上げて、そっと澪を見た。
そして、その瞬間——涙が、今にもあふれそうになった。
ダメ。こぼしちゃダメ。泣いちゃダメ。ダメ、ダメ、ダメ。
でも、涙は頬をすべって落ちた。音羽はあわててカバンを掴むと、そのまま教室を飛び出した。
澪も、慌ててカバンを掴むと、すぐに音羽を追って廊下へ飛び出した。
……が、ちょうど角を曲がったところで、橘木とぶつかってしまい、二人してその場にへたりこんだ。
「おいおい……どうしたんだよ。さっき白鷺さん、泣きながら走ってったけど、まさかお前、なんかしたんじゃないだろうな?」
橘木は頭を押さえながら、半分からかうように、でもどこか心配そうに言った。
「白鷺さん、しゃべれないんだぞ。あんまいじめるなよ?」
「……え?」
澪の目に、わずかな動揺が走る。
すぐさま、橘木の顔の近くにぐっと身を乗り出して——
「どういうこと?」
「さあ……詳しくは、俺も知らないけど……」
音羽……どうして?図書室で話してくれなかったのは、てっきり……話したくなかっただけなんだと思ってた。
でも……違ったんだ。君は——話せなかったんだ……音羽……
廊下の片隅に、二人の少年が座り込んでいた。
澪は、気づけば拳をぎゅっと握りしめていた。
ーーーーーーーーー
小さな後書き:
「大丈夫」という魔法が、誰かにとって呪いではなく、そっと背中を押す優しい祝福になりますように。
そんな想いを込めて、今日のお話を書きました。
この作品は現在コンテストに参加中です!もしよければ、応援の☆や♡、感想コメント、レビューなどをいただけたら——嬉しすぎて小躍りしちゃいます〜〜!
そして何よりも、健康と心の平穏がいちばん大切。
どうか今日も、自分のことを大切にしてあげてくださいね。
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