第2話 朧げな月と、朝の光

 今夜は満月。でも、満月だろうと、弦月だろうと、月はやっぱり綺麗だと思う。

 月が出ている夜は、たとえ眠れなくても、なんだか大丈夫な気がするから。

 私は床に座って、朧げな月の光が部屋に映り込んでいるのを、じっと見つめていた。蒼くて、白くて、そしてまっすぐに、闇を越えて、私のところに来てくれた。


 睡眠は大事。そんなことくらい、わかっていますよ。

 お母さんにも、お医者さんにも、何度も言われました。

 そして、世の中には、これほどの正論はない。

 でも、眠れないものは、眠れないんです。そもそも、睡眠そのものが怖いよ。

 何もしないで、ただベッドにいるだけならまだいい。

 でも、ベッドの上で明日のことを想像するだけで、心臓が飛び出しそうになって、気づけば呼吸が乱れて、速くて、速くて、速すぎて……パニックになってしまう。そして、深夜だから、お母さんたちを起こすのも、怖い。だって、もう十分、迷惑をかけてきたでしょう?それでもどうにかしたくて、我慢、我慢、我慢して……爪先がまた肌に食い込んで、痛みを呼んで、私は、闇と月と一緒に生きていく。


 そしたら、ようやく眠れて、夢の中で、また起こされた。

「ねえ、音羽、知ってる?お前、隣のクラスの子から、『うちのクラスで一番綺麗な子』って言われてたんだよ。」

 いつもの女の子が、突然、私の目の前に現れた。笑顔を浮かべながら、そう言った。

 次——

「お前さぁ、どうせ男の子になにかしたんじゃない?」

「え……?」

「え、ってなに?その声、自分が声優にでもなったつもり?知ってる?翔くんが言ってたよ。『めっちゃウケる。キモすぎて吐きそう』ってさ。だからさ、お前は——黙ってたほうがいいよ?」

 彼女は笑ったまま、すっと近づいてきて、友達みたいな顔で、私の耳元にささやいた。「その声、全部嘘っぽくてさ。マジで、イラつくんだよね。」


 そして、私は逃げて、逃げて、逃げて、泣いて、突然、先生に出会った。

「その試合、まさか失敗だったとは思えないよ……わざとやったんじゃない? 私の顔に泥を塗りたくてさ。」

「え……?」

「白鷺さん、一見すると賢そうだけど、先生の話、あんまり聞いてないよね。最初は『志望校は余裕』って思ってたけど、もしかしてさ……白鷺さんって、勉強に向いてないんじゃない? ていうか、私の指導受けてるって、他の人に知られたくないからさ……恥かかせないでよ?」


 そして、私は逃げて、逃げて、逃げて、泣いて、震えて、目を覚ました。

 ——これが、私の「睡眠」ってやつ。いいよ、眠れなくても。べつに、大したことなんか、ないから。


 朝、太陽の光が差し込んでいた。

「音羽、今日は新学期よ。早くしないと遅れちゃうよ。」

 お母さんの声も、一緒に差し込んでくる。


 「はいはい」って言えたらいいのに。私はカバンを持って、急いで階段を降りた。


 テーブルの上には、サンドイッチと豆乳、それからサラダが並んでいた。

 でも、学校へ行く朝に朝ご飯なんて、食べたくない……ううん、食べるのが怖いんだ。だって、食べたら万が一お腹が痛くなって、学校でトイレに駆け込むかもしれないし。めんどくさいし、嫌だ。

 ――だから、食べない。


 音羽は母の方を向いて、両手で「バツ」を作る。それから、少し寂しそうな母の顔を見て、一生懸命に、最大限の笑顔を浮かべてみせた。そして、テーブルの上のスムージーだけを取って、玄関へ向かい靴を履く。


「音羽、道中気をつけてね。音楽の音、大きくしすぎないように。新学期の初日なんだから、無理はしないで。午後のカウンセリング、忘れないでね。」


 一瞬だけ足を止めて、音羽は母を振り返る。そっと頷いて、それから笑って家を出た。しかし、門が閉まった瞬間、その笑顔は消えた。そして、音羽はイヤホンを耳に差し込む。音量は――もちろん、最大。


 ……だって私は、喋れないんだ。だからもう、余計な音なんて、聞きたくなかった。

 空は、青い。光は、優しい。風は、潤いをくれる——うん、今日は、大丈夫。大丈夫、大丈夫。学校に行ける。行ける、だから。


 音羽は自分に言い聞かせるように手を握りしめ、爪先はまた、そっと肌に沈んだ。そうして、学校へと歩き出した。


 🎵ONE OK ROCKー『カラス』🎵


 TAKAの声が、耳元で囁いてくる。孤独な朝に、この曲だけは、私を否定しなかったみたいに、寄り添ってくれるような気がして。大丈夫。たかが学校。怖くない。

 音羽は、ごくんと喉を鳴らした。


 ——きっと、霧が出てるだけ。目が、ちょっとぼやけるだけ。

 涙が頬をつたって落ちそうになったその瞬間、音羽はあわてて目尻をぬぐった。


 べ、べつに泣きたいわけじゃない。涙が、勝手に出てきただけ。

 ……大丈夫。


 そのとき、向こうから、背の高い男の子が笑顔で歩いてきた。


 同じ制服を着ているのに、彼の姿だけが、どうしてか眩しく見えた。陽の光が、透けるような青いシャツの肩に差している。背筋はまっすぐで、軽やかに口を開いて、何かを言った……気がする。


 ——あ、やばい。イヤホンしてた。

 何も聞こえなかったし、涙で視界もにじんで、口の動きもよく見えなかった。


 音羽は、慌てて涙をぬぐい、イヤホンを外した。


「大丈夫ですか?」


 ……え?

 もしかして、泣いてるの、見られてた……?

 この顔……どこかで見たこと、ある気がする。


 音羽は、こくりと頷いた。大丈夫、と伝えるように。


「そっか、それならよかった。」


 彼はふっと目線を落とすと、しゃがみこんで、少しだけ距離を保ちながら、音羽にそっと近づいた。

 そして、一枚のティッシュを差し出しながら、優しく言った。


「きっと、風が強かったんだよ。目にゴミでも入ったのかも。」


 彼は視線を逸らさなかった。まるで、目の奥までちゃんと見てくれているようなまなざしだった。

 その声は、そっと空気を撫でるように静かで、優しくて、目の前の少女を怖がらせないように、大切に選ばれた音のようだった。


 そして、微笑んだ。

 あまりにも明るくなりすぎないように、強すぎないように——ふっと、微笑んでみせた。

 まるで、「大丈夫。本当に、大丈夫だよ」と伝えるための、音のない言葉みたいに。


 音羽は、驚いたというより、呆然としてしまった。その場に立ち尽くして、ただ、動けなかった。

 すると、少年は少しだけ首を傾げて、優しく声をかけた。


「ねえ、私たち、同じ学校だよね?……よかったら、一緒に行かない?」


 ———その瞬間、本当に驚いたのは、まさにその瞬間だった。


 音羽の目がぱちりと見開かれる。次の瞬間、彼の前から逃げるように、くるりと身を翻し、そのまま駆け出してしまった。


 少年は、その小さな背中が遠ざかっていくのを、しばらく見つめていた。そして、ぽつりと笑った。


 ーーーーーーーー

 後書き:

 ① 睡眠って、本当に大事です。

 もし、あなたが本当に「眠ること」が怖くて、眠れない夜を過ごしているのなら――どうか、無理せず、お医者さんに相談してみてくださいね。

 もちろん、病院に行っても、薬を飲んでも、なかなか良くならないこともある。私も、それがどれだけ悔しくて、つらいことか、よくわかります。

 だからこそ、私が実際に一番効果があった方法を一つ、ここで伝えたいです。

 それは、「不安な日こそ、体を動かすこと」。運動すると、脳内にドーパミンが出て、少しだけ気持ちが軽くなります。そして、疲れた体は、ほんの少し眠りに近づいてくれるかもしれません。


 ② ONE OK ROCKの『カラス』という曲。

 いや、この曲だけじゃなくて、彼らの音楽そのものが、私にとって、どうしようもないほど苦しかった時の「光」でした。

 歳を重ねて聴き直すと、また違った意味が胸に沁みてきて、それでもやっぱり、涙が出そうになります。


 この作品をここまで読んでくれたあなたにも、ぜひこの曲を聴いてみてほしい。

 今回貼ったのは、『カラス』のアコースティックver(アコギver)です。原曲ではなく、このアレンジこそが、私にとって一番特別な音です。

 https://www.youtube.com/watch?v=LwJtZpVkY7U&list=RDLwJtZpVkY7U&start_radio=1

 なお、コピー&ペーストだとリンクがうまく飛べないこともあるので、noteの本文にもリンクを貼っておきました。

 https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792435942880581

 そこには、この曲へ直接ジャンプできるようにしてあります。そして、この作品を読んでくれたあなたに、「日の出」の写真を添えて贈ります。

 この曲を聴きながら、ほんの少しでも、自分の人生と向き合う力が届けば嬉しいです。どうか、もし自分の人生に納得できない夜が来たなら、この歌と一緒に、少しだけでも戦ってみてください。


 あなたの今日が、そして明日が、少しでも優しくありますように。

 読んでくださって、本当にありがとうございました。

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