【完結】音に、音はない

栗パン

序章:音をなくした羽

第1話 声のない少女と、青い空

 空は、青くて、広くて、やさしい。

 風はそよそよと肌を撫でていく。

 雲は今日も淡く、ゆるゆると流れている。

 まるで、輪郭の薄い——私の影みたい。


 木の葉はサラサラと拍手して歌い、野薔薇はフラフラと揺れて舞う。

 鳥が一羽、流れ星のように空を切って、スーッと消えていった。


 音は、いっぱいあるけど、うるさい。

 色は、いっぱいあるけど、伝えないよ。


 そんなとき、小春ちゃんが、私の隣にすとんと座った。


「小春ちゃん、久しぶりだね。どこ行ってたの?」

「べつに。ちょっと、散歩してただけ。」


「え〜、なんかそっけないなぁ、小春ちゃん!」

 私はむくれて、小春ちゃんの頭をわしゃわしゃと撫で回した。


「い……や……やめてよ〜!」

 そう言いながらも、小春ちゃんは笑ってくれた。


「最近は、どう?元気だった?」

 その目は、審判みたいに。

「学校は?ちゃんと行けてる?」


 彼女の視線が、私の手元にとまった。

 その手にある、青く薄い傷に。


「だいじょうぶ。行ってるよ、ちゃんと。」

 隣の草がかさりと揺れる……地震?

「先生の話も、聞いてるよ、ちゃんと。」

 視線の先も揺れている。やっぱり地震?

「手を、握ってれば……なんとか、なるよ。ちゃんと。」


 ……ああ、震えていたのは、私の手だった。


 小春ちゃんは、そっとその手を包み込むように重ねた。

「……どうして、ここで座ってたの?」


「どうしてって……ここ、気持ちいいから。」

 一面の草、一筋の川、一人きりの私。いいじゃないですか。

 私は足をパタパタさせて、草を鳴らして遊ぶ。リズムが音楽みたいで、ちょっと楽しかった。


 けれど——

 小春ちゃんは真っ直ぐに、私の目を見つめて言った。

「……嘘、つかないで。帰ろう。」


「ええ〜、小春ちゃん、もう帰るの?」


 彼女はぷいとそっぽを向いて、お尻についた草を払って、

 首をくいっとひねって、ぺろぺろと前足を舐めて——

 それから顔を洗って、

 一気に草の中へ、ひらりと駆けていった。


 ……そう、小春ちゃんは猫でした。

 以上、ここまで私の、勝手な空想。自作自演、ってやつです。


 だって、小春ちゃんは猫。おしゃべりなんて、できるわけがない。

 そして私は——名前を「音羽オトハ」というけれど、

 もう長いあいだ、「音」を出せたことは、ありません。


 ある日から、私の「震え」は、止めようとしても止まらなくなった。


 先生に当てられるたび、私は自分の手を、ぎゅっと握りしめる。

 その爪先が、痛いほどに肌に食い込んだとき、なぜか心がホッとした。


「え、えっと……その答えは……」

 早口で言われるだけで、心臓が喉まで跳ね上がる。怖い。


 ああ、まただ。また先生に言われる——


「このままだと、志望校も難しいかもよ?」

「何度言わせるの?」

「君なら、もっとできるって思ってたんだけどなぁ……」


 その「思ってたんだけどな」の一言が、ぐらりと胸を揺らす。

 ——裏切った、のかな。先生の期待に、母のお金に。

 私の努力は、やっぱり、ちょっと足りなかったのかな。


 黒板のチョークが止まる。

 クラス全体の視線が、一斉にこちらを向く。


 その中には——

「またかよ」って呆れた目、

「どうせ失敗するくせに」って決めつける目、

「いいよね、親が金持ちだと」って、冷たく笑う目。


 ……そんな視線が、じわじわと、私を囲んでいた。


 違う、「また」なんてつもりはない。ちゃんと答えたい。

 違う、失敗が怖いんだ。私だって、失敗なんてしたくない。

 違う、お母さんは、がんばって、がんばって……

 見た目だけでも「ちゃんとしてる親」に見えるように。

 だから私も、その分がんばって、せめて見た目だけでも「ちゃんとしてる音羽」に見えるように。

 それって、そんなに、悪いこと?


 言葉は武器。人を傷つけ、人を壊し、人を殺す武器。

 なのにどうして——そんな簡単に、他人に向けて振り下ろせるの?


 怖い。私が怖い。

 怖いから、声が出せない。

 苦しい。私が苦しい。

 苦しいから、声を出さない。


 私は、声を出したくない。

 この弱い自分の中を、誰にも知られたくないから。


 心因性失声症——なんて、もっともらしい名前なんだろう。

 その日から、弱い私は、「言葉」という武器を、自分の手で捨てた。

 白鷺音羽は、その羽を折れて、もう空を飛ぶことはできなかった。


「音羽、待たせたなぁ。帰ろうか。」

 お母さんは、迎えに来てくれたのに、そんなふうに言った。

 ……ずるいよ、それ。

 私は知ってる。

 お母さんは、頭を下げてお願いして、やっと仕事を抜けてきたこと。

 また、何度も何度も頭を下げて、私のためにお医者さんを探し回ってくれたこと。

 そして、今日もこうして——私を迎えに来てくれたこと。


「音羽……考えてみたの。あなたが今、すごくつらくて、うまく言葉を交わせないこと、もちろんわかってる。

 でもね、それでもやっぱり——勉強って、大事だと思うの。

『大学に行く人生と、行かない人生がある』って言い方がちょっと偏ってるのは、私もわかる。

 けど、大学に行けば、自分の人生を選ぶときの『可能性』が、ほんの少しでも増えるんじゃないかと思う。

 無駄な遠回りを、少しでも減らせるかもしれない。」


 お母さんの目は、キラキラしていて、綺麗だ。

 綺麗な人なのに、私のせいで、一気に、老けてしまった。


「音羽……もう一度、頑張ってみようか?」


 風が木の葉を舞わせ、地面の埃をふわりと巻き上げる。

 陽の光が川面に反射して、きらきらと眩しかった。

 風の音、ブレーキの音、誰かの声が聞こえたような気がして——

 私は、顔を上げた。


 ひとりの少年が、自転車に乗って通り過ぎていく。

 制服の胸元には、私と同じ校章。

 その顔は、ずっと前に……見たことがある。


「……え?」

 音にならない音が、喉の奥で揺れた。


 ーーーーーーーーー

 後書き:

 失声症(機能性構音障害)は、「心の風邪」とも言われるうつ病と同じように、

 誰にでも起こりうるものです。

 だからこそ、この物語を読んでくれたあなたには、心の健康をなにより大切にしてほしいと願っています。


 この物語の主人公は、「音」という武器を失った少女。

 だからこそ、彼女の世界を描くには、どうしても一人称で語る場面が多くなります。

 読んでいてあまり苦しくなりすぎないように、各話のボリュームや展開には、できるだけ緩急をつけながら綴っていくつもりです。


 そして、この物語は——

「声を失った少女」と、「心を閉ざした少年」の、ささやかな闘いの記録です。


 つまずきながらも、陽のほうへ。

 声なき日々を越えて、世界を少しずつ塗りかえていく物語。


 もしも、あなたが主人公と同じように、かつて苦しんだことがあるのなら。

 あるいは、いままさに痛みの中にいるのなら——

 この物語のなかに、「希望」を見つけてもらえたら嬉しいです。


 もしも、あなたが「加害者」の側だったとしたら。

 どうか、「言葉」が持つ力を、忘れずにいてください。


 そして、もしあなたが——ただすれ違っただけの、通りすがりの誰かだったとしても。

 何も言わず、何もしないことが、誰かを救う「最大のやさしさ」になることもあるのです。


 誰もが、自分のために声を上げる「武器」を取り戻せますように。

 誰かを傷つけるためではなく——自分自身を守るための、「音」を。


※この作品は、カクヨム恋愛小説大賞「涙が止まらない」部門に参加しています。

 もし、ほんの少しでもあなたの心に何かが残ったのなら——

 応援していただけたら、それ以上に嬉しいことはありません。

 ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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