Phase_09:THE MIRROR



 地球から約八百キロメートル地点。深宇宙を旅した彼らからしてみればその距離は儚く、窓から覗く青い地球は既に間近で発光するように佇んでいる。ほとんど一年ぶりの帰還となるが、クルーたちにはその実感が無い。冬眠の連続、目的地であったOSX-9が地球と酷似していたこと、そして復路で連続した事件──彼らの感覚を狂わせる要因はいくらでもあった。


 レムが傍受したハイラントの情報によれば、相手はエヴォリスの観測状況を読みながら迎撃態勢を取っている様子だという。使われた事の無い地対空ミサイルの調整や、DEFセクター隊員の配置など、各所に出されているコマンドの履歴が確認されたようだ。その際、ミサイルが切れれば戦闘機の出動も有り得ることも判明した。当たり前だが相手は敷地内への侵入を防ぎ、空中線にてこちらを撃破したいらしい。設備内の損傷は必ず防げ、との号令が出されているようだ。つまりミサイルを凌いだら即刻、ランディングを行わなければならない。データ上ではあるが、予想が現実味を増していく。これからさらに地球から四百キロメートル付近まで接近すれば、いよいよ降下作戦は決行される。


 エヴォリスは一時的に現在の低軌道を周回し、最終調整に入っていた。具体的な突入ルートや滞空プランをシミュレーションし、身辺整理を行う。その際議題に上がったのは、イージスに移送するものについてだった。


 イージスの損傷リスクを考慮すると、必要物資以外はエヴォリスに残し、後に回収する方法が安全性が高い。回収したサンプルは未来の人類にとって一縷の光明になる可能性がある。エシュロンの正体や思惑は不明だが、ハイラントの技術力がある以上、サンプルは死守する必要性がある。たとえもしイージスが大破する結果となったとしても、エヴォリスに保管しておけば有人探査の結果は残せる。ハンスたちは話し合いによって、サンプルはひとまずエヴォリスに置いていくという結論を出した。


 問題は、──アランやヴィクターの遺体だった。”最悪の事態”を考えれば、遺体とはいえ彼らをそれに巻き込むのは忍びない。しかしエヴォリスに残したとて、自分たちが居なければ彼らは宇宙に棄てられる可能性すらある。彼らは一通りの作戦をまとめた後、ラウンジにて頭を悩ませていた。


「お前がここに居て、お前の遺体の話ってのも……現実味に欠けるんだけどな」


 医療室で例のクライオケースを目前に、ハンスが呟く。ケースの蓋は開かれていないため、その中身は見ることが出来ない。解凍は損傷の危険性があるのでヴィクターと同様の保管が不可能なそのケースを、”アラン”はただじっと見下ろすだけだった。ハンスはそんな彼を横目に、ケースに軽く指先で触れる。復路での騒動を乗り越えた今、ハンスは錯覚したくなっていた。あの中身がアランの殻を被った”何か”で、傍に立つ人物こそ本物だと。だが、そう思い込むことは出来ない。理由は、ラビの解析結果が示していたからだ。当の本人はこの件の事になると困惑するばかりで、真相は未だに不明のままだ。彼の反応は終始、何故自分の遺体が存在するのか本当に分かっていない様子だった。


「──私は、遠い宇宙に残して行きたくはないと思っているけど……、最終的には、一番関わりが深かったあなたが決めてもいいんじゃないかしら」


 今では落ち着いた様子のエヴァもハンスと同様、アランに対して曖昧な喪失感を拭えないでいる様子だった。静かに佇むクライオケースは、物言わずただ残酷な現実を示すのみだ。ハンスやエヴァに対して「隣にいるのは偽物だ」などと訴えるわけもない。希望的観測に縋りながら、一方では現実をしっかり理解してしまっている──そんな、バイアスの間で揺らぐ感情を、特異な状況が成立させていた。


「……連れていく。アランは空を望んでたけど、そこで散りたかった訳じゃない。隊長だって……安息の地は地球だろ」

「──ですが、万が一のことがあれば……」

「俺が、連れてくから」


 慎重なケルビンに、ハンスは再度、自分にも言い聞かせるように宣言する。本人の前で本人の気持ちを代弁するのも奇妙な話だ──ハンスは心の中でそう独りごち、軽く笑った。




 物資や武器──諸々のイージスへの移送が開始される。エヴァは持ち込む工具を入念にチェックし、ラビはラボの管理を徹底する。彼は大まかなサンプルをエヴォリスに残す決断に同意したが、いくつか細々としたものはやはり地球に持ち込むようだった。その証拠に、彼の雑多なパーソナルケースの中には小さなエアロックボトルがいくつか詰め込まれていた。


 ケルビンも一見冷静に自分の準備や設備チェックを行なっていたが、緊張感を帯びているのは確かだった。彼がふとした瞬間に見せる神妙な面持ちがそれを物語っていた。彼は、ハイラントに戻れたとしても、その先の事実と向き合う必要がある。これまで順調に進んできたであろう彼の人生にとって、恐らく初めての葛藤になっているのだろう。


 そんな仲間の様子を眺めながら、ハンスはヴォルトストレージへ向かう。武器の性能チェックやバッテリー、自らが戦うために使用するものを確認し、ケースに詰めていく。これまで彼が何度も地上で行ってきた事前準備と作業は変わらない。しかし、その心境は全く異なっていた。彼は今、単なる部隊の一隊員ではない。味方を守りながら先導しなければならない唯一の存在なのだ。


 ふと、息が詰まるような作業を黙々と行っていたハンスのもとに、アランが現れた。顔を覗かせるようにして足を踏み入れた彼は、「手伝うよ」と穏やかに微笑む。ハンスは手を止めてそんな彼を、凪いだ表情で見やった。


「──こっちはもう終わる。自分の準備でもしてろよ」

「俺はもう終わったから、手持ち無沙汰なんだ」


 ケースの蓋をロックしながらハンスが言うと、アランは両手を軽く開いて肩を竦めた。


「なんだか、そうしてると本当に──お前は軍人だったんだなって改めて実感するな」

「OSX-9でも武器装備してただろ」

「あの時は、持ってただけだっただろう」

「──お前にも銃向けたし。……まあ、テーザーだけど」

「ああ、まあ……それはそうだが、俺もあの時は混乱してたから」


 会話を繋げて去ろうとしないアラン。ハンスは小さく息を吐くと、ケースを配送ルートに送って立ち上がり、アランの脇をすり抜ける。


「どこへ行くんだ?」

「……隊長の部屋」


 ストレージを出ていくハンスの背中にアランの声が掛かる。ハンスは振り返らずそれだけ言うと、さっさと歩を進めてしまう。アランが追従してくる音を聞きながらポッドへ向かうと、ハンスは何も言わず乗降スイッチにに触れた。


 結局二人は肩を並べてヴィクターの私室を訪れた。ハンスはそこで、置かれたままとなっている彼のパーソナルケースから例の短銃──ヴェリタスを手に取った。アランの視線を背中に受けながらも、細かく傷が入って色あせた銃身を眺める。そしてそれを追加していたホルスターに収めると、ケースを閉じて立ち上がった。


「持って行くのか、それ?」

「──形見の魔除けだ。……いいだろ、別にこれぐらい」


 アランの問いかけに、ハンスはホルスターを軽く叩きながら悪戯な笑みを浮かべた。しかしすぐに口角を戻すと、直向きな瞳でアランを見上げる。アランが身構えるように軽く身を引くと、ハンスは静かに言葉を紡いだ。


「……気持ちの整理をつけるなら、お前の事だってはっきりさせてぇところだが──そっちは、全部に片が付いてからだ」


 そして、すれ違いざまにアランの肩を軽く叩き、そのまま部屋を退出する。アランは叩かれた箇所に手を触れ、黙ったままその背を見送ろうとする。しかしそれを許さないのもハンスだった。


「ぼうっとしてんじゃねぇよ。言っとくけどお前だって副操縦士なんだからな? ちゃんと補助してくれよ。──行くぞ」


 振り返ったハンスは、どこか面倒そうな、それでいて素直さも滲ませるいつもの表情に戻っていた。彼はその目でアランが面食らったように小さく驚く姿を見ると、郷愁に駆られつつも、アランを促す。彼が何者であろうとも、今のハンスにとっては支えである事──それは確かな事実だった。





 こうして、満を持してエヴォリスは移動を再開した。地球より四百キロメートルの周回軌道へと辿り着くと、高速でその周囲を移動する。雲間やそこから覗く陸地が瞬く間に景色を変え、地球の陰影いよって昼夜が目視可能となる。スマートスーツを纏ったハンスたちは、緊張の面持ちでイージスへと移動して行く。エネルギー節約のため、重力装置は切られている。そのため無重力状態の船内を移動しながら、クルーたちはコックピットへと収まった。


 操縦席に座ってハーネスを締めるハンスの口は自然と引き結ばれている。操縦桿やコンソールを確認しながら、口の渇きを抑えるように鼻で呼吸する。肩や胸がそれに合わせてゆっくりと大きく上下する。


「これよりエヴォリスの軌道をハイラント上空に合わせます。タイミングを見計らい、イージスの降下カウントダウンを始めます。大気圏を突破する間、エヴォリスはハイラント上空に移動します。核融合エンジンの冷却状況にも左右されますが、その場に留まれる限界時間は最大十分前後です。その間、わたしはエヴォリスの目を使用してハンスを援護します」


 操縦席と副操縦席の間に収まったレムから、淡々と行程が告げられる。そのレンズはハンスに向けられており、ハンスはそれを一瞥して片方の口角をわずかに上げた。


「俺は垂直降下で大気圏を最短で突破後、ブレイクして高高度保持したままハイラント上空へトップスピードで移動する」

「わたしが発射されたミサイルの情報と、回避誘導を行います。ハンスはそれに従って回避行動をしてください。ですが、目視での警戒も必要です」


 静かな空間で一人と一体の会話が連なるなか、その後方から新たな声が次々と加わった。


「死角の情報は後方のカメラとモニターを繋いであるから、大気圏突破後にそれが生きてればこっちで見えたものは都度伝えるわ。ラビ、ケルビン、あなたたちもよろしく」

「でも僕、距離とか即座に分かんないよ」

「見えたら伝えてくれるだけでいい。そしたら、俺のほうでも情報を補填しよう」

「窓からの目視も怠らないようにしましょう」


 あくまで冷静に受け応えするエヴァやケルビンの間で、専門分野外の事に不安げな様子を見せるラビ。それにはアランがしっかりケアを入れ、クルーの団結は確かなものとなっていた。


「いいか、スマートスーツとG制御でいくらかマシになるとはいえ、場合によっちゃシャトルの上昇と同等かそれ以上のGがかかるからな。酔ったり意識飛ばしたりするんじゃねえぞ」

「しないように出来るもんなの、それ?」


 背中越しのハンスの声に、ラビが既に疲れ切ったような声を上げる。大人たちによって淡々と進められて行く準備によって、ここにきて急激な緊張感が押し寄せているらしい。すると、見兼ねた隣のエヴァが身体をレムに傾けた。


「ねえレム、”アレ”やってあげたら?」

「”アレ”、とは何でしょう?」

「──もしかして、エヴォリス航空の機内放送、じゃないか?」


 曖昧なエヴァの提案にアランが応えると、ラビが呆けたような表情で二人を交互に見やる。すると、提案を理解したレムのレンズがくるりと回転した。


「そうですね、とても良い案です。軌道の計算中ですが、わたしなら造作もありません」


 レンズ脇のLEDがしばし黄色く点滅する。まるで咳払いをひとつ溢すかのように一時置いたのち、静かな機械音の重なるコックピット内にレムの音声が響いた。


「ようこそ、エヴォリス航空へ。本便は、地球へ帰還する最終特別便となっております。強化外殻とEPS装置を備えた特別機にて、みなさまを地球へ送り届けられるよう尽力いたします。──それでは、しばしスリリングな空の旅をご堪能ください。ハイラントはもう、目前です」


 レムの言葉で、出発前の記憶が蘇る。少々頬を引きつらせてはいるが、ラビにも多少の笑顔が戻る。


「──今度は間違いなく、スリリングな展開になりそう」


 ラビがそう言ってハーネスを握りしめると、ハンスは大きく鼻で笑う。操縦には関わらない後部シートの三人は互いに顔を見合わせ、来る衝撃に身構えた。


「これより降下フェーズに入ります。みなさん、準備はよろしいですね? リリースカウントダウン、10、9、8……」


 お喋りの時間は唐突に終わりを告げる。出会った当初はただ無機質だった声が、淡々としつつもクルーたちを鼓舞するように秒読みを開始する。操縦席の窓、目下で回転する白と青の景色に、降下ポイントのHUD表示が追加されたと思ったと同時──その時はやってきた。


「──3、2、1、アンドッキング」


 レムの合図でイージスが切り離される。ハンスが即座に操縦桿を握る手に力を込め、エンジンが作動する。まるで母船からこぼれ落ちるかのように、イージスは静かに降下を開始した。




 イージスはわずかに角度を変え、みるみるうちに地球が接近する。しかし、程なくして大気圏に突入すると窓の景色は一変した。轟音と振動が機体を揺さぶる。視界の全てが赤に染まる。まぶたの裏まで焼き尽くすような赤光に、思わず眼球が痛む。外は炎の壁だ。


 燃え上がるプラズマが流れ込み、時折閃光が疾る。シートごと押し潰されるほどの衝撃。計器だけが進行の頼りだ。迎角、速度、G負荷──ハンスは数値だけを信じて舵を切ろうとする。


「降下角度、誤差プラス〇・七。修正を推奨します」

「ハンス、計器を信じろ! いいぞ、そのまま」


 衝撃に押しつぶされつつも、レムとアランの声がハンスの耳に入る。応える余裕も無いままに計器を睨み、ハンスは軌道を僅かに修正する。後ろで息を呑むような幻聴が聞こえた気がして歯を食いしばる。


 船内にアラートが鳴り響き、非常灯が点灯する。煉獄に燃やし尽くされるかのような赤一色が視界を支配した刹那──圧力がふっと抜ける。


 赤が裂け、眩しいほどの青が広がった。炎の尾が後方へ流れ、窓の向こうには雲の縁と、どこまでも続く蒼天──ハンスは無意識に息を吐いた。


「抜けた──空だ!」


 ハンスが何か口走る前に、後方から無邪気な声が上がる。たった数分にも満たない瞬きの間で息を止めていたのか、呼吸と共に放出するような声音だった。安堵からか、ハンスの口から苦笑が漏れる。しかし操縦桿を握る手は、しっかりと次のフェーズに備えられている。


「EPSがギリギリで耐えたわ。一回ぐらいならミサイル誘導に利用できる」


 エヴァの冷静な報告も、どこか弾んでいる。大気圏突破、地球の空への帰還、そしてすぐ先に予想される未知なる戦い──喜びと期待と恐怖が入り混じり、奇妙な高揚感が船内を支配していた。


「イージス自体の損傷はほぼゼロだ。いけるぞ」

「本番はこっからだろ」


 コンソールを確認しながらアランが胸を撫で下ろして呟くが、ハンスは既に次を見据えていた。高高度を保ちながらも速度を維持し、目標地点のハイラントへと向かう。成層圏から白亜の塔は覗けないが、誘導信号を頼りにハンスは高度を下げる。白い雲海が近づいた時、レムの声が警告を告げた。


「新規熱源探知。距離四五キロ、速度マッハ四。推定飛翔体三発、分散接近中」


 レムの声に連動するように、船内に低いビープ音が数回響く。フロントウィンドウにはHUDで検知情報が表示され、ハンスがそれを一瞥して眉間に力を込める。大気圏を抜けた感動の空気は一気に霧散し、緊迫した空気が室内を満たす。


「終末誘導予測。接触危険半径八十メートル。赤外線シーカー作動まで二十秒」


 景色の変動が無いにも関わらず告げられる危機。ハンスは与えられた情報を頭に叩き込み、ミサイルの動きを想像する。


「熱源接近。推奨回避角度──右へ二十度、降下ベクトル維持」

「ハンス、前方だ!」


 ハンスが操縦桿を強く引き、イージスが腹を晒すようにロールする。雲を裂いた視線の先、雲間を弾くように割りながら三条の赤い光跡が突き出した。燃える尾を引きながら、一直線に接近している。HUDには菱形のターゲットが表示され、それとは別に回避ルートが投影される。ハンスはそれをなぞるように機体を傾けた。


 合図も無しにイージスが右に急旋回する。そして急降下からバンクターンと、急激に軌道を変える。スーツで軽減されているとはいえ、Gによってクルーたちの身体が左右に振られる。戦闘機よりも大きな機体も、その動きに合わせて外殻を軋ませた。


「追尾ベクトル予測、交差まで三秒」


 レムの報告のすぐ後に、正面衝突を回避したイージスを追従し旋回した二発がクロスする。すると激しい閃光とともに爆散した。


「やった!」

「いえ、まだ後方に──」

「破片による反射波で信管が作動します」


 ラビの歓喜の声にケルビンの冷静な指摘とレムの報告が被さった時、更なる爆発がイージスを襲った。白い閃光が再び起こり、窓に振動が伝わるとともに短時間の耳鳴りが聴覚を奪う。窓の外には小さな火花が走り、瞬きのように電気系統がダウンし、微小な破片が冷気と共に掠めて行く。HUDには赤い数字の洪水が瞬時に流され、アラートが再び鳴り響く。


 振り払うように機体をロールさせ、ハンスは反射的に爆発から離脱した。距離を取ってから予定通り高度を下げ、雲海へと突入する。


「ミサイル同士の衝突による破片が三発目の近接信管を作動させたようです。EPS作動により外殻に損傷はありません」

「でも、今の衝撃でEPSが死んだわ!」


 レムの報告に、エヴァの深刻な声が連なる。早くもEPSを失った事実に、ハンスは小さく舌打ちをした。センサーが乱れるなか、視界を埋め尽くす白をかき分ける。エヴォリスからの信号を受け取った傍のレムが再び声を上げた。


「新規熱源探知、推奨飛翔体六、分散接近中」

「今度は倍だよハンス!」

「いいからしっかり見てろ!」


 窓の外やモニター画面も白で覆い尽くされている。ラビの焦燥の声が響き、ハンスがそれを打ち消す。


「飛翔体が雲層に突入。プラズマ干渉により熱源ロスト。映像探知に切り替えます。誤検知率六五パーセント」


 続くレムの報告に舌打ちしたハンスは目を細めて窓の外を睨む。彼の目はノイズを起こすHUDを無視し、船の外に全意識を集中させていた。雲間を愚直に突き進むと前方に稲妻が閃き、ミサイルの一部が閃光に照らされて煌めく。ハンスはそれを目に収めた瞬間に操縦桿を感覚で倒し、一度高度を急降下させる。そして徐々に上昇しながらミサイルとすれ違いざま、機体を一度ロールさせる。──天地が逆転し、重力が反転。イージスの翼端がミサイル付近を掠めた時、白光が爆ぜた。


「三発爆散しました」


 爆音と衝撃を無視して真っ直ぐ耳に届くレムの冷静な声を置いて行くように、イージスは爆煙を切り裂いて姿勢を立て直す。感覚に頼ったハンスの操縦に助けられたクルーたちは、一様に呆気に取られた。


「まさか、あの回転で誘爆を──?」

「すごいセンスだ、俺には到底出来なかった」


 驚愕に満ちたケルビンの呟きを聞き取ったかのように、アランの感嘆が被さる。こと戦闘においてのハンスの感覚的センスと、それを実現するだけの、荒削りではあるが圧倒的な技術力。それをまざまざと見せつけられ、誰もが舌を巻いていた。


「ハンス、その先は雷雲帯です」


 レムの声を忠告と捉えず、ハンスは機体を躊躇なく雷雲帯へと突っ込んだ。激しい降雨と雷鳴の中、ロールと急降下を繰り返しながら落雷を避ける。後方で追跡していたらしい残弾の爆音が断続的に響く。篭ったその音の正体は、後部を移すモニターに小さく表示されていた。


「ミサイルの制御が失われたようです。ハンス、こちらのレーダーも全滅状態です。雲層を抜けましょう」

「音の反応は三回確認出来たわ! このまま残りも制御不能を狙いたいものだけど……」

「そんなことしてたらイージスが先にダメになっちゃうよ!」


 エヴァの冗談めいたぼやきにラビがすかさず突っ込む。まるで普段とは真逆の関係性になっている二人だったが、彼らのおかげで船内の空気はいくらか緩和された。それと同時に視界にが開け、光が戻る。雷鳴が遠のき、代わりに風の音が残る──雲間を抜けたイージスの窓には、霞がかった広大な荒野が映し出されていた。ハイラントの白亜の塔はまだ遠いが、荒野に不自然にそびえ立つ姿は太陽光を反射させ光沢を放ち、小さくその存在を知らしめた。


「……視界回復。センサー再構築」


 レムの声とともにHUDが点滅を止める。だが、その再起動とほぼ同時に赤いアラートが洪水のように点滅した。


「──熱源多数……数、十二。収束予測まで十五秒」


 容赦ない報告に、船内の空気が再び張り詰める。雲の層を抜けたイージスからでもその現実は視認出来た。尾を引く火の玉にも見えるものが急速に迫る。それが多方向から来るものだという事は明白だった。HUDが複雑な交差軌道を描き、それを見たアランが固唾を飲む。その隣で操縦桿を握るハンスは、眉間に力を込めた。


「回避ルートを算出──」

「言ってる場合なのか⁈」

「アラン、逆噴射準備!」


 AIらしく微塵も焦らないレムの報告を、アランの上擦った声が遮る。するとハンスの叫ぶような指示が突然飛び、アランは反射的にそれに従った。


「軌道交差まで三、二、──」


 レムによる悪魔のカウントダウンの途中でイージスは機体を背面にすると、逆噴射をかけた。前方から突進してきた三発が慣性で抜ける。噴射による制御不能で一発が空中爆発したのを切っ掛けに、まず六発が消滅する。安堵する間もなく、アラートは続く。


「ハンス、左舷後方から三発。縦に並んでるように見える!」

「こっち側にもいるよ!」


 エヴァとラビのモニター情報が告げられる。HUDにもその姿が表示されているが、陣形を組んでいるような配置にハンスは違和感を覚えた。


「──AI制御されてんのか?」

「ですが、ミサイルには活動限界があります。必ず仕掛けて来るでしょう。地形利用を推奨します。──塔の北東約五○○○メートルに岩場あり。高度一五○○メートル」

「行くしかねえか……」

「イージスの軌道は常に拡散させてください」


 ハンスとレムが相談を重ねていると、アランがそれに加わる。


「EPSが死んでるから、機体が受ける損傷は軽減出来ないぞ」

「──言ってるうちに、着いちまったよ」


 まるで空中を舞う紙片のように機体を操りながら、ハンスは操縦桿を握る手に力を込める。彼はいつの間にか、人生に於いて初めて得る高揚感に満たされていた。


 イージスは岩場の稜線に限界まで接近し、滑るように突き抜ける。衝撃で細かい砂や石片が飛び散る。まず三発が岩肌を舐めるように追従するが、そこでイージスが反転した。機体をほぼ垂直に旋回させ、岩場を盾に回避行動をとる。──ミサイルが激突し、連鎖爆発で火球が吹き上がった。雲の裏に赤光が散り、そこで再び反転して爆炎の下を抜けるように急降下したイージスが峡谷へ侵入する。


 ──残り三発。


「ちょっとこれ……ミサイル当たる前に岩と激突しないよね⁈」


 最狭部で機体を傾けながら激しく左右にロールし、曲線の軌道を描いてイージスが進む。ラビがハーネスを握りしめながら叫ぶ声も耳に入っていない様子で、ハンスの目は見開いていた。めまぐるしく通り過ぎる景色に瞳をくぐらせながら、手は無意識のように動いている。隣のアランはハンスの意図を汲み、その手が止まらないよう補助に徹した。


「最初の接触まで五秒──」


 レムの報告に、エヴォリスから送られたHUDの地形画像を一瞥したハンスは操縦桿を強く倒し、機体を右に滑り込ませた。岩壁の陰に隠れるように進路を変えたイージスに、ミサイルの一発が追いきれず岩に直撃する。爆炎が峡谷を照らし、瞬間的に火の海が浮かび上がる。しかし誘爆を学習した他二発は、時間を置いて軌道をわずかに変えながらしぶとくイージスを追った。


「警告。峡谷出口まで距離二百。上昇を推奨します」

「──ハンスのタイミングに合わせよう」


 理にかなった安全策を述べるレムに、アランがそう告げる。極端に地面が近づくたびにアラートが鳴り響く。後部シートからは衝撃に耐える呻きが聞こえるだけで、ハンスの操縦に身を委ねる他なかった。


 ハンスは上昇指示を無視して高度を急激に落とし、まず一発を地面へと誘導した。爆炎が上がると同時に操縦桿を引き、一気に急上昇させる。──視界とセンサーを失った残りの一発が岩壁に衝突し、爆炎にさらに火柱が重なる。それを貫くように岩場から脱出したイージスが空へと飛び出した。


「熱源の焼失を確認」

「うそでしょ、ハンス天才!」

「──ですが、とはいえ外殻の損傷率は二八パーセント……ミサイルはあと三発残っているはずです」

「残り三発なら、希望的観測しか出来ないけど?」

「あなた、そんな無鉄砲な方でしたか?」


 レムの報告に、ラビの声が弾む。ケルビンが慎重に機体の損傷率を口にする一方で、エヴァが目をぎらつかせる。冷静沈着な彼女に対して散々カウンセリングを重ねてきたケルビンは、Gに耐えつつも怪訝な表情を見せた。


 一度雲間を抜けたイージスの視界には、雲海を突き抜ける塔の白い頂がちらついた。目指す場所はもう目前だった。


「エヴォリスが冷却フェーズに入ります。ハイラント上空から離脱、周辺地形とランディングポイントの更新データを送信。これよりわたしの目はイージスのセンサーに依存します」

「……上空支援無しか。次にエヴォリスが何かしてくれるとしても一時間前後は見ないといけない。──ハンス」

「──いいよ、あとは突っ込むだけだ」


 ハンスは一度短く深呼吸をすると、再びイージスを雲海に侵入させる。重力とエンジンの相乗効果で降下速度が上昇する。視界が開けると間もなく、氷山のような塔の全景と、その周囲を取り囲む防護壁が小さく窓に映る。上空から見る、赤茶けた荒野に聳え立つ唐突な白──太陽光を吸収するようにさらりと涼しげな外殻は、地上から見上げるより異様な光景だった。


 ハンスは進路を調整しながら接近し、ミサイルの動きを警戒する。高高度の空力制御は最小限だが、目標への接近は正確を究めていた。


「ハンス、防護外壁を起点とした電磁バリアのプラズマ干渉により、接近時は計器やデータが乱れます。ミサイル誘導時は一度距離を取る事を推奨します」

「……ドーム状のバリア内部に入ってしまえば、干渉を受けたミサイルはバリア外で空中爆発するはずです。バリアを抜ける際のイージスへの重大な損傷は否めませんが、念のため視野に入れておいてください」

「──了解」


 レムやケルビンの助言をどう受け止めたかは不明だが、ハンスは短く応答した。窓の外のハイラントが徐々に存在感を強めた時、その側面が煌めく。微小な煙や赤い光の粒がその正体を知らしめる。分散する形で下方から、最後の三発がイージスの追従を開始した。


「測距不能、後方下部から来ています」


 レムの声を受け、ハンスはさらに高度を下げる。そして一直線に塔へと速度を上げた。


「ハ、ハンス? もしかして──」


 アランが額に汗を浮かべながらコンソールに手を置いて身構える。ハンスは、見えないバリアがあるであろう地点すれすれで進路変更を試みた。


「バリアにミサイル当てたらバリアぶっ壊れねぇか⁈」

「そんなの未知数よ、大人しくランディングポイント付近でバリア内に入った方が──」

「それでコイツの方がぶっ壊れちまったら意味無ぇだろ!」


 言っている間に、イージスに釣られてバリアに接近した一発目が制御を失い、急激に進路を変える。しかし運悪くその軌道はイージスを掠めた。近接信管による爆炎と破片が船体を襲う。衝撃で揺らいだイージスの左翼がバリアの干渉を受け、さらに姿勢制御がブレる。損傷率が上がった事で、船内アラートが激しく鳴り響く。そんななか、上手く方向転換したミサイルの二発目が、無防備なイージスを襲う。ハンスは慌てて制御スラスターを操って姿勢を整えると、外周を回りながら機体をV字軌道で急降下させ、二発目を外壁付近の地面に衝突させる。しかし、爆音を背に速度を上げて上昇回避した隙を狙った最後の三発目が、イージスを待ち構えるように追従していた。


「近接信管作動範囲──」


 ほどなくして、レムの落ち着いた報告とは裏腹に、視界を無慈悲な閃光が埋め尽くす。ハンスは歯を食いしばって操縦桿を即座に倒す。


 ──再び爆音と衝撃がイージスを襲う。しかし窓の外を覆うのは爆炎ではなく、断続的なプラズマだった。その損傷を受けながら、船体はそれでも姿勢を保とうとする。いつの間にか白亜の塔の外殻が間近に迫っていた。激しく揺れる船体と鳴り響く轟音に耐えながら、アランは外の状況を確認し、垂直着陸モードへと切り替える。それを待っていたかのようにハンスが操縦桿とコンソールを忙しなく操作し、とうとうイージスは地に降り立った。


 着陸脚が間に合わず、半ば滑るように砂塵を巻き上げながら動きを止めたイージスだったが、その停止地点は奇しくもランディングポイントだった。息を飲んで衝撃に耐えていた後方シートの三人も、閉じていた目をゆっくりと開く。アラートは止まり、不安定に点滅していたライトが一瞬ブレて予備電源が点灯する。各シートに設置されていたモニターはブラックアウトしていたが、コックピットの窓の外には確かに大地が広がっていた。目に入る防護外壁の形状からしても、その場所がハイラントの内部だという事が分かる。






「い、一体……どうなったって言うの?」


 額を抑えて軽く頭を振りながらエヴァが呟く。真っ先にハーネスを外して立ち上がったハンスが振り返った。


「ミサイル爆発に巻き込まれるならバリアの損傷の方がマシかと思って突っ込んだんだよ。──でも、意外と大丈夫だったな」

「──ああ、絶対死んだと思った……」


 あっけらかんとした様子で体を伸ばし、手首や足首の関節を回すハンスの目下で、ラビがハーネスを握りしめたまま項垂れている。その後ろではケルビンが眉間を押さえていた。


「せ、船体の損傷率は──?」

「損傷率四三パーセント。推進系統に重大な損傷があるため再浮上は出来ませんが、船内機能は利用可能です」


 ケルビンがレムに尋ねると、相変わらず冷静な応えが返ってくる。事もなげに言ってのけているように感じるのは、彼のボディには表情が無く、声音にも変動が無いからだ。ケルビンは複雑な表情で小さく息を吐いた。


「──ハンスが突入した部分が、二発目のミサイル着弾点付近だった。ちらっとしか見てないが、防護外壁が壊れていたようだったから……もしかしてバリアに不備が生じていたんじゃないか?」


 アランがハーネスを外し、首の後ろをさすりながら立ち上がる。こんな時でも微笑みを絶やさないアランに、エヴァとラビは顔を見合わせた。


「はあ、君らって正しく兄弟なんだね。今思い知ったよ。──いや、アランの正体はよく分かんないんだっけ? ……もうそんなのどうでもいい気がしてるけど」


 ラビが半目でローワン兄弟を見上げながらハーネスを外す。苦笑したエヴァもそれに倣った。


「防護外壁損傷により、損傷箇所付近のバリアが一時的に点滅していたようです。つまり、凡その爆発の衝撃をバリアで防ぎつつ、バリアの不具合によって通過の衝撃は最小限に抑えられた、ということです。流石の機転でした、ハンス」

「いや、これ絶対意図してないよ。ただラッキーだっただけだって」

「──しかし結果的には、彼のおかげで我々は予定通り帰還出来た……というわけですね。感謝いたしましょう」


 レムが状況を分析し、ハンスに称賛の意を述べる。それに対してハンスは乾いた笑いと共に一つ返事しただけで、そんな彼をジト目で見上げたラビが反論する。宥めるようにケルビンが謝辞を述べて眼鏡のブリッジを上げる仕草をする。空を切った指先をまじまじと見つめるケルビンに「眼鏡してないよ」とラビが肩を竦める。一時的に船内に日常風景が戻るが、その空気をエヴァが引き締めた。


「さ、私たちの目的は着陸することだけじゃないわ。ここから先が問題よ」


 彼女の言葉に、船内に緊張が戻る。そうなれば彼らの行動は素早く、各々が準備に取り掛かった。


「お前ら、防護スーツとテーザーの装備忘れんなよ。今のスマートスーツよりも防弾性能あるはずだからな。あと各自必要なもんだけバッグに詰めて、両手は必ず自由に出来るようにしておけ」

「あと無線! PIコアは事前に無力化してあるから、僕らの通信手段は実質これだけ。個人端末の電源も必要時以外はオフにするんだから、絶対忘れないで」


 クルーたちは、エヴォリスでの準備段階で無線の配布と共にPIコアの通信妨害を済ませていた。これは、ラビによる処置だ。装着中、手の甲に埋められたチップから”メンテナンス状態”の信号を送信し続ける小型の書き換え装置だ。一見すると、ハイラントではもはやアンティークと化した腕時計のような形状だが、コア付近に装着する事で信号に干渉が可能なのだという。


「──まさか、航行中にあなたがこんな物を造っていたなんて……思いもよりませんでした」

「”解析を誰にも邪魔されたくないから”って動機がラビらしいけどね。……まあでもあの時、バッテリーの持ち出しを意地でも止めなくて良かったわ。過去の自分に感謝する」


 エヴァとケルビンが手首の装置を見せ合いながら苦笑する。実は地球降下作戦前、ラビからの重大な告白があった。彼がケルビンの引き起こしたアラートを知らなかった事、事がほとんど済んだ後に連絡が繋がって事情説明という流れになった事──全ては彼が往路で自作していたEMジャマー装置が原因だったというのだ。自身のパーソナルケースにガラクタのように詰められていたのは解体した部品群で、それを往路でせっせと組み立て、好きなタイミングで作動させてはラボに篭っていたらしい。その話がまるで日常会話の一部であるかのように本人の口から出された時、クルーたちはそれぞれ目を点にした。


「俺がお前に”何してたんだ”って聞いても誤魔化してたのも”後ろめたいから”だろ? ほんとガキだよな」

「ハンスにガキって言われたくないんだけど! ていうかもうその話はいいじゃん!」

「なんでだよ!」


 ラビに突っかかりながらもハンスは改めて少し前の記憶を遡る。思えばラビが重大な告白と共に、人数分の携帯EMジャマーを提示したことも彼らしい行動だった。もし復路で何も起こらず無事に帰還する流れだったら彼はどうしていたのだろう、と、有りもしない世界戦の姿を想像して思わず苦笑が漏れる。同時に、アークウェイ作戦決行前は、そうやって無事に探査を終えて無事に帰る姿ばかりを想像していた事を思い出す。ハンスは頭を振ってその思考を振り切った。


「じゃ、俺は武器チェックと周囲警戒に当たる。お前らも準備が済んだらコックピット に集合してくれ」


 ハンスはそう言い残してコックピットを後にした。スーツロッカーでさっさと防護スーツに着替えると、ホルスターやハーネスを装着してカーゴベイへと向かう。エヴォリスから移送した武器は全てチェック済みだが、改めて装着前に簡易的に動作確認を挟む。パルスライフル、テーザー、EMPフラッシュとバッテリーの他、防護スーツの内側に使い込まれたヴェリタスを忍ばせる。ハンスは突入時、パルスライフルの設定をパルススタン──非殺傷モードから変更する気は無かった。つまり、残り四発の実弾が装填されたヴェリタスは単純に、持ち主と同様”魔除け”でしかない。


 スーツ越しにヴェリタスの銃身を撫でながら、ハンスは処置室の方向を一瞥した。そこにはヴィクターと……アランの眠るケースが保管されている。ひとまず彼らを地球まで帰還させることは出来た。しばしこの場に置いていくことにはなるが、イージスの位置的にも船体を破壊するような攻撃を受けることは無いだろう。あとは最悪の事態を招く前に、エシュロンと接触するだけだ。


 装備を終えると、ハンスは一足先にコックピットへと戻った。アランたちは各々散って準備に走っているらしい。エヴァは念のため船内設備と、可能であればデータによる外殻プレートの状態も確認したいと言っていた。おそらく彼女の準備が最後になるだろう。


「レム、周囲の状況は? 奴ら、来てるか?」

「周囲十数メートルに装甲車六台が展開中。断続的に移動しつつ接近しているようです。周囲にドローンも確認出来ます」


 コックピットからボディを外してやりながら、ハンスがレムからの報告を受ける。イージスと接続し、まだ生きている目を使って周囲を確認していたレムは、レンズを動かしてハンスを見上げた。


「くそ、EPSが生きてたらドローンなんか潰してやれるんだけどな」

「ですが我々の読み通り、彼らはこちらに致命的な爆撃を行うつもりはないようです」

「そりゃあそうだろう。俺が乱暴に扱っちまったがコイツだって奴らの船だ。長年かけて積み上げてきた成果物をみすみすぶっ壊すなんて不合理なこと、奴らはしない。いつだって、自軍の損失無しに相手を殲滅することを要求してくるんだからな」


 コックピットの窓を覗き込むようにして、ハンスが皮肉げに口元を歪ませる。傍に移動したレムのLEDがちらちらと点滅する。目線を合わせるように屈み、ハンスはそのレンズに視線を合わせた。


「典型的なタスクで来るなら、奴らはさらに距離を詰めてくる。最終的には周囲を支援部隊で囲んでから、ハッチを破って小隊が突入って流れになるはずだ。俺がそいつらを撃破して、EMPで支援部隊の目を潰しつつ小隊の装甲車を奪う。そっから先は車の装甲を信じて塔まで突っ走る」


 自分にも言い聞かせるように、ハンスが今後の動きを口にする。イージスの操縦を見事成し遂げて高揚していた様子だった彼も、武器を手にしたことによって再び張り詰めた表情に戻っていた。


「──俺らの話を聞いてくれってエシュロンに伝えて、快諾してくれりゃあそれで済む話なんだけどな」

「わたしからではありますが、通信は試みました。──しかし、彼らからの返事は現在までありません」

「……は、そうかよ」


 レムの機転にも驚いたが、相手が頑なである事実を再確認したことで溜息が漏れる。今までの働きで積み上げたものも、彼らの意図にそぐわない行動を取ることで全て一瞬にして霧散するのだ。自分たちは、精神を狂わせて壁外へ捨てられたハイラント住民と同義の存在となっているのだ。だが違うのは、ほとんど無抵抗にそれを受け入れていた彼らと違って、自分たちは抗おうとしている、ということだ。平和な理想郷を管理しているはずのエシュロンが、真に平和主義者なのか確かめる為に。その正体が”壊れたAI”なら、止めなければならない。


 ──不意に銃声が響いた。続いてエヴァの短い叫び声がハンスの耳に飛び込む。反射的にパルスライフルを装備し、ハンスがパネルを叩いてコックピットの扉を開く。ドア付近でカバーしながら通路を覗けば、エアロックのハッチがいつの間にか開かれている。敵の姿は見えないが、相手もハッチ付近でカバーし、こちらの様子を伺っているようだ。


 通路の途中、処置室付近に工具が落ちている。その周囲に小さな血痕をいくつか発見したハンスは、目を見開いた。


『ハンス、一人侵入してる! エアロック付近!』


 無線から切迫したエヴァの声が響く。即座にEMPフラッシュのモードを”Micro”に切り替え、エアロックに向けて投擲する。ハンスは衝撃に備えつつコックピット から飛び出した。ほどなくして船内が色彩が反転するほどの紫がかった閃光で埋め尽くされ、ひどい耳鳴りのような音が蔓延する。カバーしていたハンスはいち早く視界を取り戻すと、一気にエアロックまで詰める。通路を抜けた死角で顔を覆っていた人物を捉え、パルスライフルの引き金を引く。被弾した衝撃で硬直したように昏倒する一人を通り越してハッチ脇でカバー体勢を取る。そして外に向けて数発、威嚇射撃を行った。


「そのまま外にいろ! 一歩でも入る素振り見せたら容赦無く撃つ! 外からの銃撃があった場合も同じだ! お前らが俺らを攻撃するなら、俺は自衛のためにお前らを攻撃する!」


 ハンスが外に向けて怒号を放つ。後方で倒れ伏す警衛セクター隊員を一瞥するが、動きは無い。パルスライフルを受けた者はしばらく動きと意識を遮断される。その確かな証拠を目の当たりにしながら、ハンスは武器のエネルギーを充填した。


『ハンス、何が起きてる?』


 アランが状況を問う。ハンスは焦燥を抑えるように舌打ちをした。


「分かんねぇが、無音でハッチ開けて入ってきやがった。一人鎮圧して側で伸びてる。他は多分すぐ外で待機してる。俺はエアロックで待機済み。──エヴァ、お前撃たれたのか⁈」


 アランに応答しながら、エヴァに投げかける。無線の声はしっかりしていたが、血痕が気がかりだった。


『私じゃない、ケルビンが撃たれた! 何とか止血してるけど、誰か応援来れない⁈ 処置室よ!』

「……おい、嘘だろ」


 思わず口走りながらも、ハンスは外から視線を外せない。パネルを操作して手動でハッチを閉じようと試みるも、反応しない。


「レム、ハッチ閉じれねぇか⁈」

『信号遮断により、ハッチの操作が不可能となっています。相手がEMジャマーを使用した可能性があります』

「俺のEMPが邪魔してんじゃないのか?」

『いえ、長期遮断は外部ジャマーの痕跡によるものです。復帰には時間がかかります』

「くそ……おいアラン、俺が外見てるから、処置室行ってくれ!」

『分かった、出るぞ』

『ぼ、僕どうしたらいい?』

「お前今どこにいる?」

『ラボ!』

「いったん処置室行ってくれ。固まってくれた方が守りやすい」

『わ、分かった!』


 ハンスは銃身を外に向けて警戒を強める。その隙に通路側から背中越しに足音が聞こえ、収束する。


『移動できたが……ハンス、かなりまずい。胸の辺りを撃たれてる』

『背中に抜けてないから弾丸が残ってる! 早く摘出しないと……』


 相次ぐアランとエヴァの最悪な報告を受け、ハンスの全身に緊張が走る。酸素濃度が操作されているのかと錯覚するほど、呼吸が上がっていく。誤魔化すように唾を飲み込んで、ハンスは冷静を装った。


「レム、処置室でケルビンの様子を見れないか? 応急処置が済んだらさっさと塔に連れてかねぇと……」

『了解、ハンス』


 再び背中越しに移動する機械音を聞きながら、ハンスは船外を舐めるように睨みつける。目立った動きはないが、傍に装甲車が二台待機している。恐らく接近するための誘導用と壁用に使ったものだろう。これらを障害物にして、相手もこちらを窺っているはずだ。ハンスはここから相手を牽制するほかない。


『──意識混濁。肋骨下端に弾丸が残存していますが、大動脈や心臓、肺に損傷は無いようです。出血は中程度。ただちに摘出処置と止血が必要です。エヴォリスから移送された医療器具リストを参照した結果、イージスでも処置は可能です』

「肝心の医者がぶっ倒れてんだろ? どうすんだよ!」


 レムの報告にひとまず安堵するが、問題は解決していない。処置する者が居なければ、医療器具など塵同然だ。ハンスが半ば投げやりな感情を無線に乗せると、しばし声が止む。何か動きがあるような沈黙の後、再び声を発したのはアランだった。


『ハンス、ひとまずお前と俺、ラビで塔へ向かおう。イージスから視線を逸らす事も出来るし、そもそもこの状況自体を打破しないと……負傷したケルビンを無闇に危険に晒すだけだ』

「──は? どういう事だよ」

『ハンス聞いて。私とレムが残る、ここで弾を摘出して止血する。内部セキュリティは生きてるから、処置室に篭城して侵入に対処する。私はテーザーの他にも武器として使える工具があるから最悪戦える』


 エヴァの声は無線越しにも落ち着き払っていた。その声音に覚悟を感じたハンスだったが、簡単にその提案を呑めるわけが無かった。


「俺がここ守ってる間にさっさとやればいいだろ! 分かれる必要性が無い」

『あるわ。ここに部隊が次々に突入してきたらそこで終わり。本来私たちは動き続けなきゃいけない。でもそれは出来ないし、ケルビンの処置には時間の猶予が無い。相手は残った私たちより塔に向かうあんたたちを優先する可能性が高い。だから、先に行ってくれた方がここは安全。──これでどう? 納得した?』

『ハンス、時間が無い。急がないと全て水の泡だ──決断しよう』


 エヴァの理詰めの説得と、アランの真摯な声。その二つが重なって、ハンスは観念するように頭を振った。短く呼吸を整えると、最終的には「──分かった」と応答する。


「お前はいつもそうやって──」

『……そっちは任せたわ、ハンス』


 エヴァの声が和らいだので、ハンスは小さく肩を竦めた。同時に、自分の中の焦燥が治まっていくのを感じる。かくして総意となった分断作戦に従い、アランとラビが処置室からエアロック付近に移動した。しっかりと準備を終えていた二人は同じ防護スーツ姿だが、ラビの方は装着する荷物が多い。彼はレムに変わって塔内の撹乱作業を行う為に道具を追加したようだ。


「そこに寝てる斥候はしばらく起きない。ハーネス剥いで手足だけ縛っとけ。あとアラン、そいつの武器、ホルスターごと奪え。使えなくていい」

「わ、分かった」


 緊張の面持ちで、恐る恐るアランが指示通りの処置をしていく。それを見守っていたラビの表情は硬い。おおかた、ケルビンの状態を目の当たりにして慄いているのだろうとハンスは推測する。突然の間近な銃声も、彼は初めて体験したのかもしれない。大怪我や、物理的な危機への耐性が極端に薄いのだ。


「ラビ、お前は必死こいて俺らについて来れればそれでいい。あと、今回ばかりは俺の指示に従ってもらう。──出来るな?」

「うん」


 ラビは素直に小さく応える。いつもの皮肉めいた態度は一切削ぎ落とされ、両の拳を握りしめている。ハンスはラビの肩を鼓舞するように叩くと、懐からEMPフラッシュを取り出した。側面の装置でモードを”Standard”に切り替える。それを準備の整ったアランとハンスに小さく掲げて見せた。


「いいか、俺がこれを外に投げる。フラッシュと超音波が数秒続くから、この隙に左の装甲車を奪う。お前らは装甲車を盾に出来る位置まで移動して、俺がドライバーを制圧したらすぐ乗り込め。俺は助手席行くから、アランは運転頼む」

「──了解」


 二人に交互に視線を合わせながら、ハンスは単純な指示を出す。運転を任されたアランは目を瞠ったが、すぐに眉間に力を込めてひとつ首肯した。


「最初のフラッシュはカバーして躱せる。あとは光の中で俺の背中だけ見て進め。音は頼りにならない。いいな?」


 アランとラビが同時に頷く。ハンスは「よし」と一息つくと、無線に語りかけた。


「ここから離脱するときEMPフラッシュをスタンダードで使う。数秒電子機器がストップするが、大丈夫か?」

『ええ、わかったわ』

『わたしのボディはパルス干渉を受けません。いつでもどうぞ』


 処置中の切迫したエヴァの声に、医療器具を動かす硬質な音が混ざる。対してレムの声は相変わらず一定で、それはひどく心強いものだった。


「──行くぞ。合図する」


 無線と、目の前の二人にそう宣言し、ハンスはEMPを握りしめた。





 イージスのエアロック周辺が、激しい閃光に照らされる。周囲の電子機器に乱れが生じ、半径五○メートル内で無線の一切が瞬間的に遮断される。周囲を警戒する隊員たちが装甲車の陰から光の発生源を覗くと、斥候として送ったうちの一台が急発進を開始した。──乗っているのは、ハンスたちだ。


 ハンスは思惑通り目的の装甲車を奪うと運転席をアランに譲った。焦った様子で後部座席に乗り込んだラビを振り返ると、その頭を下げさせる。アランがアクセルを強く踏むが、慣性をものともせず、思い立ったようにシートの背もたれをフラットにして車内を移動した。


「おい、危険じゃないか⁈」

「俺のことは気にすんな、お前は運転に集中してればいいんだよ! ──おい、蛇行しろ蛇行!」


 相手の陣形が薄い部分に進路を向けながら、アランがバックミラー越しにハンスに声を掛ける。彼を気遣って直進しようとするアランに、ハンスは容赦無く怒鳴りつけた。慌ててハンドルを切って進路を歪めながら、アランは前方を睨みつける。アランたちの装甲車に誘われ、周囲に待機していた装甲車にも動きが見える。車体を盾に迎え撃つ歩兵と追跡に分かれた相手の陣形の隙間を縫うように、蛇行しながらゲートまでの距離を着実に縮める。相次ぐ急カーブに声を上げていたラビもすぐに慣れ、運転席を覗き込みながらハンドル操作に合わせて身体を安定させる。


「グレネードなら目眩しに使えるか。──アラン、防護壁には近づくんじゃねぇぞ!」

「ああ!」


 後部座席に移動したハンスが、トランク部分を漁りながら呟く。アランへの進路誘導も忘れない。装甲に弾丸が当たる音がパラパラと聞こえ始める。最小限の窓すら防弾仕様の車内では、被弾する音や衝撃もどこか遠く、篭っていて現実味が無い。外の状況を正しく理解しているのは、現場経験のあるハンスのみだった。


 徐に、座席で窓から身を隠しつつ耐えていたラビが天井を見上げ、手を伸ばす。ハンスはそれを一瞥すると、「屈んどけって」と一言諫めて外を警戒する。後方の小さな窓から追跡する装甲車を探る。自分たちの車や相手の車から巻き上がる荒野の砂塵が、実に良い仕事をしているようだ。後続車は三台。進行方向にも数台待機しているだろうと当たりをつける。しかし、防護壁にスナイパーが配備されているとすれば、側面からの攻撃に対してその砂塵は効果を示さない。ハンスが三つ残ったEMPの一つに手をかけようとした時、突然、瞬間的に周囲の景色が陽炎のようにブレた。敵からの妨害かと警戒を強めたハンスは、天井のハッチに手を伸ばそうとする。しかしその途中で、前方座席の天井、中央部分に身を伸ばすラビの姿が目に入る。彼の視線を追うと、そこにハニカム形状の黒いパネルが嵌め込まれているのが見えた。


「な、何だ⁈」

「アラン、前! ──ラビ、何かしたか?」


 アランのハンドル操作が一瞬不安定になる。ハンスはそんな彼を運転に集中させ、ラビに問いかける。ラビは運転席の背もたれを掴んで体勢を保ちながら、天井のパネルを注視していた。


「……これ、ステルスジャマーじゃない⁈」

「あ? 何だそれ!」

「局地的に高周波ノイズや位相ズレを発生させる装置だよ。ざっくり言うと、特定範囲の空間を少し歪ませる目眩し装置! もちろん、電子機器妨害もアリ」


 ハンスとラビが話していると、アランが大幅にハンドルを切って車体を塔の側面に寄せる。遠心力を耐え、ラビが体勢を立て直す。


「出力パーセンテージ八五……僕も実際に使ったことないから向こうから見てどうなってるのか詳しく知らないけど……これ、作動させとく?」

「使え使え! アラン、こっからゲート付近までグレネードで相手の視界を塞ぐ。そのまま壁沿いで細かく蛇行だ!」


 ラビに乱暴な指示をした後、ハンスはその身体を乗り越えてラビを助手席側に寄せると、運転席の後ろへ移動してドアハンドルに手を掛けた。アランが応答する声を聞くとドアを開き、隙間から進行方向の前方右手に向かってひとつずつ、段階的にグレネードを放る。外の音がクリアになるが、ドアからは暴風がなだれ込み、その音が三人の聴覚を奪う。アランは爆風と砂塵を抜けるように車体を進ませる。


「ゲートに着いたらEMPを投げる! さっきと同じ要領でゲート管理室を制圧するから、俺の合図で出てこい! アラン、管理室の位置分かるな? なるべく車寄せて止めてくれ!」

「──やってみる」


 装甲を叩く銃弾が鳴る度にハンスはドアを閉じて被弾を防ぐ。そうして三つのグレネードを投げ終えるたハンスは、矢継ぎ早にEMPフラッシュのモードを切り替える。ゲートは近い。


「ハンス!」


 アランが呼びかけと同時にブレーキペダルに足を叩きつける。ハンドルを限界まで回し、車体がドリフトするように荒野を滑る。タイヤが激しく砂を巻き上げるなか、ハンスは注意深く距離を測り、狙いを定めて合図とともにEMPフラッシュを放り投げた。


 周囲に再び眩い閃光が発生する。同時に、車体のバックドアが管理室付近の塔壁面に接触した。衝撃を耐えて停止と共にドアを開いたハンスは、そのままパルスライフルを構えて管理室へ飛び出していく。パルス干渉時間がすぎたと同時にドアを開け放ち、迅速に狭い内部に向かってパルスライフルの引き金を引く。パルススタンモード特有の、空気が破裂するような音が短く連続し、待機していた二名が昏倒する。ハンスはすぐに車内の二人に無線で合図を送り、アランとラビが管理室に駆け込む。その時ハンスは、後続車がゲート付近を包囲し始めているのを窓から確認した。


「おい、屈め」


 アランとラビを屈ませ、手首のEMジャマーを外した。そして、奥の扉のセンサーに向かって手の甲を翳す。するとセンサーが解除され、扉は難なく開かれた。


「ハッ、マジか! ザルかよ。──アラン、屈んだままゲート解放させてくれ。ラビ、先に来い」


 ハンスの指示に頷くと、アランは慣れた手つきでコンソールを操作した。巨大な塔のゲートがゆっくりと上がっていく。それを確認したハンスはアランを扉の奥に呼び寄せた。そして扉を閉めると再びEMジャマーを装着する。


「何ここ、どこ?」

「ゲート警備員の休憩所。ここが抜けられるならわざわざ外のゲート通らなくても塔には入れる。一か八かでPIコア認証させてみたが、俺のやつまだ有効だったみてぇだ」

「──ああ、だから”ザル”ってことね。確かに、僕らを侵入者とするならPIコアぐらいブロックしてそうなものだけど……ていうか、位置バレするからあんまり使わないでよ」

「結果的に相手も釣れて、助かったってわけか。……お前がDEFセクターの人間じゃなかったらと思うとゾッとするよ」


 PIコアはセキュリティカードも兼ねている。警備エリアのドアロックは警衛セクターに登録された人間でなければ解除出来ないのだ。彼らはもともとゲートを潜るつもりであったが、ハンスの思いつきが功を奏したようだ。


「ゲートを開いたから、奴らはゲートから先回りするだろう。俺らは予定通り進めば大丈夫だ」

「了解」

「──こっからはお前が先頭だ」


 ハンスがそう言って休憩室の出入り口を指し示す。アランがそれに対して小さく頷いた。




 休憩室のドアを開くと、まずラビが、バッグから取り出した掌台の立方体を持って手を伸ばす。通路側の壁に貼り付け、スイッチを押した。センサー用のジャマーだ。


「一分だからね!」


 ラビがそう言ってハンスを促す。まずハンスが通路へ飛び出して通路ないの警戒に走る。横に広がる狭い通路には二枚のドアがあり、左はゲート側、右は保守系統の設備管理エリアへと通じている。どちらもロック解除方式はどちらもPIコアで、ゲート側はDEFセクター、設備管理エリアはSTRセクター職員のものが必要となる。ランク権限は不要だ。


 アランとラビは、四方が白く真っ新な通路の管理エリア側に走る。ラビがドアの手前で屈み、アランがその背に足を掛ける。まるでそこがスイッチであるかのように、ラビが苦しげに呻いた。


「ごめんな、ラビ」

「いいから早くね!」


 ハンスに周囲を警戒させ、アランはラビを土台に、天井のハッチに手を掛ける。STRセクター職員らしく素早く慣れた手つきで工具を操り、手動ロックを解除する。ハニカム型のハッチを開くとすぐにラビから降りてその背を払い、まずラビを持ち上げてハッチの中に入れる。保守トレイへのバーを掴むのに手間取り、上がり切るのに多少時間を要する。彼の足が完全にハッチの先に消える前にハンスは動いた。すかさずアランのもとへ近づき、手で踏み台を作ってブーストさせる。そして最後、まず持っていたパルスライフルを渡してからアランの手を掴み、引き上げられるかたちでハンスがハッチの中へ消える。全員上がり終えるとアランはハッチのロックをかけなおした。


 三人が侵入したのは、天井裏の保守トレイだ。休憩室や通路など、静寂の塔内施設の裏では、こうした構造保守用の通路が張り巡らされている。コンクリート壁と天井、銀灰色の装置が並び、格子状の通路がそれに並列する。唸るような機械音が木霊し、油と鉄の匂いが充満する狭い空間は、白一色の施設内部とは正反対の場所だった。


 背の高いアランや、それよりは低いが髪型的に弊害のあるハンスは若干身をかがめなければ歩けず、ラビだけが平然と立ち上がって物珍しげに視線を巡らせていた。


「くっさ! アランっていつもこういうとこで働いてたの?」

「まあ……ほとんどがAI管理だから、本来滅多に人が入る場所じゃないんだ。どうしても人の手が要る場合とか、……俺みたいな”作業好き”の人間が入る場所って感じだな」

「俺としては、お前が扱ってる薬品の方がよっぽど鼻にくるけどな」

「──住んでる世界が違うんだなぁ、僕ら」


 声を抑えつつそんなことを言いながらも、アランを先頭に通路内を進んでいく。格子状の床が足音を拡散させる。防音対策が成されてるとはいえ、三人は殊更歩く音には気遣った。


「──それにしても、僕らで突破出来ちゃったね。正直びっくりだよ」


 真ん中を歩きながらラビが呟く。最後尾で前後を警戒しながらも、ハンスは雑談に応じた。


「もともとDEFセクターの隊員は数が少ねぇんだよ」

「え⁈ そうだったの?」


 足を止めずにラビはハンスを振り返る。そんな彼に前方を見るよう顎をしゃくって促し、ハンスは続けた。


「奴ら、”お利口さん”は兵隊にしたがらないからな。警備の配置は外側にいくほど外部出生者の比率が高いんだぜ」

「……」


 アランがハンスを一瞥する素振りを見せるが、何も言わずに向き直る。


「ヴィクター隊長の第三部隊が、ダート部隊として遠征任務ばっかやってたのも頷けるだろ? あの人はもともと、外の政府組織の軍人だった」

「じゃあ、うまいこと利用されてたって事?」

「……いや、隊長も戦場以外に居場所が無いって感じだったから、ウィンウィンだったんだろうけどな」

「──でも、結局ヴィクターは……」


 ラビの声のトーンが落ちる。ハンスは空気を一掃するよう強く息を吐いた。


「……ま、つまりアレだ。ハイラントってのは”設備”に守られてる。定期的に外部偵察してダート部隊を放つのはそもそも敷地に敵を入れない措置で、事前に芽を摘んでおく作業だ。もし仮に襲われたとしても外壁が侵入を阻む。──けどな、外の世界ってのは悲惨だぜ。満足な設備なんて無い。戦闘用の物資もこっちからしたら全部旧式。まずハイラントには敵わない。でも今回俺らは、ハイラントの恩恵を利用してハイラントに楯突いてんだ。やってやれなくもない所業だったんじゃないか?」

「──僕ら完全に異分子になっちゃったわけだ」

「お前はもともと怪しいけどな。何だってあんなジャマーに詳しいんだよ? さっきの装甲車のやつだって俺知らねぇぞ」


 ラビは現在、突破目的のジャマーをいくつか持ち込んでいる。もともとエヴォリスに持ち込んでいた部品群に、レムの協力のもと改造を加えたものまで存在するらしい。自作であるが故の効果時間の短さは否めないが、それでもバイオ分野の研究者としては充分すぎる出来だ。装甲車内の装置を「ステルスジャマー」と言い当てた知識量といい、分野外のことに詳しすぎる。


「ジャマーに関しては趣味だよ趣味。ここに来た時にさ、PIコアって何だよと思って、誰にも邪魔されない”僕だけの空間”を作りたくてやり出したのがキッカケなんだ。やましいことなんてひとつも考えてなかったんだって! だからOBSセクターからも見逃されてたのに……今回ので全部パーだよ」


 ラビの声音から、口を尖らせているのが予想できてハンスは苦笑する。


 小声での会話を挟みながら、三人は迷路のような保守トレイ内を順調に進む。保守トレイの端に差し掛かると、アランが足を止める。わずかに周囲の匂いが変化し、足下のハッチから漏れる暖かい空気が頬を撫でる。


「この下が貨物リフトのある場所だ。……待ち構えられてると思うか?」

「俺らが上を目指してるのは向こうからも明らかだ。昇降機は全部洗うと思うが……人員用でも数が多いし、結局運次第だな」

「……今日のハンスは運良いと思うよ。続いてるうちにどんどん行こう」

「──と、その前にいったん、エヴァに無線繋ぐ」


 ハンスが耳に手をかけて無線を繋ごうとする。


「エヴァ、そっちはどうだ?」


 しかし、エヴァからの返答は無い。三人は緊張の面持ちで顔を見合わせ、次いでアランが声をかける。


「レム?──……だめだ、向こうで切ってるのか」


 アランの呟きに、ハンスの瞳が僅かに慄く。走馬灯のように最悪の映像が浮かびそうになり、引き返す選択肢まで脳が導き出そうとする。その内心を察したアランが「ハンス」と呼びかけた。


「大丈夫だ。俺らは俺らの仕事に集中しよう」


 ハンスは歯噛みしながらアランのひたむきな眼差しを受け止め、錆び付いた機械のように頷く。アランもうなずき返し、ハッチのロックを解除した。




 ハンスはハッチの少し押し上げ、まず貨物リフト前室の音を聞く。リフトの乗降音や作業ロボの稼働音に混じり、小さく羽音のようなものを聞き分ける。そして一度蓋を閉じると顔を上げた。


「ドローンあるな……偵察用じゃないんだよな?」

「ああ、機械の作動監視用ドローンだ。各所で数台動かしてて、視線は専ら機器に対して向けられてる。映像送信先は、STRセクターのメンテナンス室だ」

「ジャマー使うのは得策じゃない気もするけど……どうする?」

「範囲によるが、複数の機器に問題が生じるとアラートになるな」

「じゃ、一個潰すぐらいなら?」

「──故障で済む」


 流れるように相談を終え、ハンスはパルスライフルをテーザーに持ち替える。


「ドローンの巡回ルートは?」

「そこまでは把握してないが……こっちに居るのはリフト部屋監視用で、倉庫の方に数を割いてるはず。万が一故障が発生した場合は、付近のドローンがルート変更する設定になってる。だから、近場のドローンがリフト部屋をルートに加えて、新しいドローンが来るまでの監視を担うだろう」

「わかった。──じゃあタイミングはリフトが上がる直前だな。俺がドローン撃って無力化するから、他のドローンが進路変更する前にさっさと降りてリフトに移動だ」


 アランとラビが頷くのを確認し、ハンスは再びハッチに手をかけた。器用にハッチの縁に足を掛けて上半身だけを下ろし、周囲を確認する。目の前には二台のリフト。倉庫へと伸びる五本の運搬レーン付近では、仕分け作業用のロボットが数台稼働している。ハッチから垣間見るだけでも倉庫は天井が高く広大に見える。しかしリフト周辺は小上がりになっており、多少広さのある部屋のような構造だった。


 ハンスはテーザーを構え、まずリフトの高度が表示されているパネルを睨んでリフト到着のタイミングを読む。リフトは搬出が終わると新たな荷物が搬入され、扉を閉じて上がっていく。次の荷物の搬入出後が合図だ。そう決断すると、室内を周回するドローンの動きを追って狙いを定めた。


 片方のリフトが到着し、扉が開かれる。ロボットの搬入出が終わる直前、ハンスは引き金を引いて一発放つ。テーザーの発光が反射し、青白い閃光が床や壁面に映る。被弾したドローンはプラズマを発生させながら微かに羽音を立てて傾き、ゆっくりと紙切れのように地面に落下した。


「行くぞ!」


 ハンスが飛び降りる。アランが続き、次いで降りてくるラビの降下補助をする。三人は到着しているリフトに乗り込むと、さっと荷物に紛れた。閉じていく扉の向こうに、新たなドローンが浮遊するのが垣間見える。どうやらうまくいったようだ。


「はあ、緊張した。コソコソする時って息するの忘れない?」


 上昇を始めるリフトの中、ラビが胸を撫で下ろす。そんなラビに笑いかけながら、アランも小さく息を吐いた。


「これでひとまず中層部までは行ける。場所は、ノートリウム付近のストレージだ。行けるのはランク3エリアまで。大体千メートル付近だな」

「今のところ順調だけど……」

「問題はそこからだ。上層エリアはランク4職員しか上がれない。──君のジャマーが、エレベーターのPIコア権限を誤魔化せるかが鍵だな」

「もともとケルビンの権限使う気満々だったから……一か八かだね」


 アランとラビのやり取りを聞きながら、ハンスは黙って武器のエネルギーを充填し、再びパルスライフルを構える。階層が上がるにつれ、緊張感が増していく。ハンスはランク2のDEFセクター隊員だ。ほぼ遠征任務と防護壁、ゲート警備の毎日だった彼が今から向かうのは、全く未知なる領域なのだ。


「ハンス、ストレージを出たらまず一番近い上層用のエレベーターに向かう。セキュリティはランク2エリアと同じだ。警備ドローンと……監視カメラ。テーザー武装がついてるやつだ。どっちも性能上は警告を挟みながら、段階的に非致死から致死攻撃へ移るはずだけど、作動してるのは見たことがない。確実なのは、実弾を使うのは相手の隊員たちだけってことだ」

「──ああ」


 冷静なアランの声を聞きながら、ハンスは息を整える。脳内で対処シミュレーションをしながら、彼の声に耳を傾ける。


「構造もランク2階層とそう変わらない。ノートリウムを中心として、こっちのストレージ側の奥は居住区。反対側は中層セクターと娯楽施設だ。エレベーターは三箇所で、ノートリウム中央、セクター施設区域、娯楽施設前に1箇所ずつ。それぞれランク4用のエレベーターが並列してる。ランク4用のエレベーターがあるのは、今から行くランク3階層の一番上だけだから、違うのはそこぐらいかな」

「だったらほぼ同じだな」

「──ただ、そこから先は俺にも未知数だ。場当たり的な対応になるだろう」


 リフトがスピードを緩め始め、三人は会話を止めた。そのままゆっくりと停止したリフトの扉が悠然と開く。三人は死角に身を潜めた。扉付近でカバーしながら外を警戒したハンスは、さほど広くない空間にさっと視線を走らせる。天井の隅にある監視カメラ一台を発見すると、パルスを三発撃ち込む。青白い火花が弾け、光点が途絶える。搬入出用のロボットはそんなものには反応せず、ただ荷物の識別番号だけをスキャンして運び始める。その合間をぬって、三人はひとまず前室に躍り出た。通路へ続く扉の前に駆け寄ると、ラビがバッグから先程とは別の装置を取り出す。緊張の面持ちの彼らの背後では、数台のロボットが通常通り作業を行なっている。何ともちぐはぐな光景だ。


「──ドローンが一気に止まるとアラートになるんだっけ?」


 ラビがアランを見上げる。アランは肩を竦めて苦笑した。


「けど、ここから先は強行突破しかないだろうな。移動中には何台もカメラやドローンがあるし、ハンスが一つずつ潰しても無意味だ」

「……じゃあ、ジャマーの連続で時間稼ぎするしかないか。──ハンス、EMPフラッシュ何個残ってる?」

「あと二つだな」

「モードって変えられるんだよね?」

「イージスから出た時のがスタンダード。あとは、効果範囲がそれの倍だけど電磁波弱いのがスプレッド、範囲狭いけど電磁パルスメインなのがフォーカス、スタンダードの縮小版がマイクロ」

「フォーカスだと何秒保つ?」

「設定だと数分前後は保つぞ」


 ラビはハンスの情報を得ると、しばし俯いて目を閉じた。ハンスとアランが互いに目を合わせていると、間もなくしてラビが顔を上げる。


「じゃあハンスのは上層まで温存しよう。僕のジャマーより手軽で強力だし」


 ラビは自分に言い聞かせる様にそう言って、バッグから小型の球体を取り出した。黒い球体にはよく見るとつなぎ目があり、紛れる様にして押し込み式のスイッチのようなものが見える。ラビはそれをハンスに差し出す。


「それ、ドア開けたら居住区側に投げて。スイッチ押すとレムの声で警告しまくるんだ。あとノイズ発生装置でもあるから、機械なら何秒か騙せる」


 ハンスは球体を摘み上げて回し、胡散臭そうに眺める。その傍で、アランが顎を摩った。


「──住民は緊急時にはどこでもいいから室内退避する決まりだけど……その声で人が出てこないか心配だな」

「ここの住民は待機って言われたら待機だろ。変なことして邪魔したらランク下げられかねないからな」


 軽口を言いながらも三人は覚悟を決めた。ハンスがパネルを押してドアを開き、言われた通りスイッチを押してすぐに居住区方面に投げ込み、ドア付近の壁に張り付く。小さな黒い球体は声を発しながら軽く弾み、通路の奥へと転がって消えていく。


『妨害電波発生中、直ちに対処してください──』

『妨害電波発生中、直ちに対処してください──』


 無機質なレムの声が通路に反響する。その声に釣られて、ドローンの羽音がざわめいた。通り過ぎていくドローンを数体見送る。


「行くぞ!」


 ハンスの合図でアランが飛び出す。その手にはテーザーが握られていた。ラビが後に続き、ハンスは最後尾で周囲を警戒する。通路には人気が無く、白い空間が続いている。ほとんど扉しか無く殺風景で、まるで通路が永遠に続いているような錯覚を覚える。ゆるいカーブを描きながら走り、十数秒後にはノートリウム前のエレベーターに到着した。通路が開け、内周側にエレベーターが三つ並んでいる。その一番奥のエレベーター脇にあるセキュリティセンサーの蓋をこじ開け、ラビは三つ目のバッグから伸ばしたケーブルを取り出す。先端付近で何本かに分かれ、それぞれ違った形状の端子の中から素早くひとつを選んで差し込んだ。


 そんな彼とアランを背中に庇い、ハンスは天井の隅に配置された監視カメラをパルスライフルで落とした。ジャマーを使えばラビの邪魔になるので苦肉の策だ。監視カメラを無効化した後はすぐに通路を警戒する。目の前にはノートリウムを移す窓が広がる。窓越しに見る、懐かしさすら感じる無機質で整頓された内部。ドアから離れた奥側に屈んだ人影がちらついたが、彼らはただ素直に身を守ることだけに徹しているようだった。


 ──居住区側から羽音が近づく。ハンスはラビのバッグを探って追加の球体を取り出すと、スイッチを押して再びその方向に投げる。近くでレムの声が響き、羽音の接近が止まる。ハンスは体感で、大体一つあたり二十秒前後の効果時間があると推測する。


「──ダメだ! 次行こう!」


 ラビがケーブルを抜きながら声を上げた。同時にアランが通路の先に駆け出し、同じ陣形で通路を走る。ハンスはハンスが途中垣間見たラビの表情は焦燥に歪んでいた。


「ねえ、やっぱりダメかもしれない! どうしよう!」


 走りながらラビが泣き言を溢す。突然弱気になり出したラビにハンスが理由を訊こうとした時、先頭のアランが小さく声を上げる。ハンスが慌てて前方に向かって銃を構えると、アランの前方にドローン一台を確認した。ハンスは反射的にそれを撃ち落とす。すると突然、通路内にアラート音が響き渡り、白い室内灯に赤が混じる。警告灯の光が三人の影を揺らし、スピーカーからAI音声が流された。


『複数箇所で不明な機器障害が発生。最新箇所、ランク3居住エリア最上階』

「──走れ!」


 まるで事務連絡のような静けさの音声が不気味さを感じさせる。思わず足を止めたアランとラビを、ハンスが背後から叱咤する。ハンスは後方から聞こえてきた羽音に意識を割きながら、アランとラビの背を追って前方を警戒した。二箇所目のエレベーター前に到着すると、その先から来るドローンを打ち落とし、流れで監視カメラも無効化する。狙いを定めている暇はない。発射されたパルス弾のいくつかは壁に当たり、火花のように光が散る。スピーカーからのAI音声が、最新位置を冷静に更新していく。作業をするラビの隣で、アランも焦燥した様子でテーザーを構えた。


「こっちも失敗!」


 追ってくる形で現れたドローンをハンスが撃ち落とす。ラビが叫ぶ様に声を上げ、次へ向かうため一歩踏み出す。すかさずアランが前に出ると、二人はさらに通路の先へ移動する。ハンスはそれを背後から追いながら周囲を警戒しつつ、前方に問いかけた。


「ダメかもしれねぇってどういう事だよ⁈」


 前を向いて走りながらラビが答える。


「僕のゴーストタップは偽装ジャマー装置なんだ! 認証システムをいったん落としてノイズ送って、曖昧なうちにエレベータを開くつもりだった! でも向こうの再起動が早くてノイズが弾かれる! 五分五分なんてレベルじゃないよ!」


 息を切らしながらもラビが状況を説明する。それは、絶望的な報告だった。ハンスは舌打ちするが、足は止められない。三人はとうとう三箇所目に到達した。ハンスが監視カメラを処理して周囲の警戒を強める。ラビが焦りながらもジャマー装置を繋ぐ。そのうちドローンの羽音以外の足音が通過した通路から聞こえる。息つく暇もなく三人は、DEFセクターの小隊に囲まれた。


「──結局、ランク4の壁は越えられねぇってわけかよ……」


 ハンスは正体に向かって銃で牽制しつつ、皮肉げに呟いた。


「武器を捨てて手を上げろ!」


 包囲網の中心にいる隊員が声を上げる。一様に黒いボディアーマーとタクティカルベスト、ヘルメットを装着し、グローブ、ブーツ、ゴーグルまで同じものを身につけている。彼らの外見の違いはわずかに見える肌と髪の色、背の高さぐらいだ。個人で動きやすい装備を工夫していたハンスの所属する第三部隊とはまるで違う。


 テーザーがハンスの右側で放物線を描き、乾いた音を立てて隊員の足元に転がる。後方のアランが素直に指示に従ったのだ。さらにハーネスごと、奪ったライフルも放る。振り向かずとも察したハンスは、観念してパルスライフルの構えを解く。そしてそれを地面に置こうと身をわずかに屈めた時、左端で銃を構えていた隊員が声を上げた。


「後ろの奴、手を止めろ!」


 リアサイトを覗く素振りをし、銃口がラビを捉える。気づいたハンスは、反射的に手放そうとしていた銃を持ち直す。それに、中央の隊員が反応する。


「止まれ!」

「やめろ!」

「──ハンス!」


 隊員と、ハンス、アランの声が交差する。それは、一瞬の出来事だった。銃声が数発響く。ハンスは全身に衝撃を受けると同時、右肩に急激な熱を感じる。膝をつき、銃を床に落とすと、すぐ近くで重い体が床を叩いた──アランだ。


「アラン!!」


 まるでスローモーションのような光景の後、ハンスとラビが同時に叫ぶ。撃ったのはハンスが牽制した隊員ではなく、最初にこちらに警告してきた隊員だった。肩を地面に打ち付けたアランは、そのまま仰向けに倒れ込んだようだ。防護スーツの左胸と左上腕あたり、二箇所に穴が空いている。這うようにしてハンスが近づこうとすると、撃った人物が銃身を向けてそれを牽制した。


「動くな!」

「うるせえ、救護が先だろ!」


 ハンスの剣幕に、隊員たちがわずかに身を引く。彼らは、銃弾を受けて倒れたアランの状態にも若干の動揺を見せているようだった。


「お前が隊員に銃を向けたんだろう。単なる制止射撃だ」

「先に武器構えてねぇ奴撃とうとしたのはそっちだろうが! アイツは無防備だっただろ!」


 アランの状態を確認しながら、武器を構えた隊員に対してハンスは容赦無く怒鳴りつける。その背後ではラビがホルスターやツールベルトを外し、持ち物を床に放るとアランのもとに駆け寄って屈み込む。見開いた目はみるみるうちに充血していた。


「アラン、アラン!──ねえハンス、動かないよ!」


 取り乱して悲痛に叫ぶラビを脇目に、ハンスは震える手でアランの防護スーツを開こうとして一瞬手を止める。──撃たれた箇所の一つは心臓の位置だ。絶望的であるはずだったが、血が滲む様子が一切無い。不可解に思いながらも防護スーツを開き、中のボディシャツをずらして患部を見たハンスは驚愕に瞠目した。


「な、──」


 思わず小さく声が漏れる。その瞳に映る傷口は異様だった。胸や肩に空いた穴は血を生むことなく、ただぽっかりと空いていた。まるで蝋をえぐったような滑らかな孔だ。皆の視線がそこへ吸い込まれる。事切れたように目を閉じて動かないアランは、さながら蝋人形のようだ。呆然としていた隊員たちが慄いて後ずさる。突然降り立った沈黙に、アラートとAI音声だけが響き続けた。


 誰もが動作を忘れた空間で、程なくしてアランにだけ変化が起こる。彼の胸の患部から、細くうっすらとした白い霞が小さく立ちのぼり、ゆらりと揺れては消える。その直後、傷口の奥から金属光を帯びた何かが押し出され──弾丸が、ぽとりと地面に転がった。肩の傷からも同じように弾がこぼれ落ち、わずかに滲んでいた周囲の皮膚は、ゆっくりと元の色へ戻っていく。やがて穴は徐々に閉じ、まるでそこに最初から傷など無かったかのように滑らかになっていた。そして程なくして──アランは目を開けた。


「ア、アラン──?」


 ラビが震える声で呼びかける。表情なく目を開いていただけのアランは、声に反応するように顔を歪めた。


「こ、これは──どういう事だ……? 俺は確かに撃って……」


 呆然と口を開けたまま何も言えないハンスの向こうで、撃った本人が慄いたような声を漏らす。軽く呻きながら状態をゆっくりと起こしたアランは、額を押さえて頭を振った。


「ハンス、ラビ──? 一体、何がどうなったんだ……?」

「だ、大丈夫なの? 怪我は──」


 眉根を寄せてアランが口を開く。それは、異様な光景を目の当たりにした者全てが彼自身に問いたい疑問だった。アランの疑問に応える者はいない。ラビが銃創を確認しようとするが、形跡はすっかり失われている。再び沈黙が降り、AIとアラートだけがその場に繰り返される。


『直ちに武装を解き、争いを停止してください』

『不適合者を排除してください』


 いつの間にかAIの発言がちぐはぐなものに変わっていた。相反するような二つの指示がただランダムに繰り返されている。しかしそんななか、アランを撃った隊員が再び銃を構え直し、アランに向けようとした。しかしその腕はすぐに、小さく跳ねた後に静止した。


「おい」


 低い声で隊員を制止をかけたのはハンスだ。屈んだ状態からゴーグルの奥の瞳を睨み上げる。まるで怒りのオーラを纏ったかのような静かな声に、隊員は半歩後ずさる。


「てめぇがコイツら撃った瞬間、俺はてめぇを死んでも殺す。俺はヴィクター隊長の第三部隊で実戦経験積みまくった人間だ。どうせ温室育ちのてめぇらよりも、よっぽど泥臭くて腕が立つ自信はあるぜ」


 ハンスはそのまま、横並びに自分たちを包囲する隊員を順に睨みつけた。


「俺がコイツを撃ち殺しちまったら、てめぇらは俺を殺すんだろう。──その時、ただ任務として冷静に殺すのか? それとも、仲間をやられた怒りを覚えて殺すのか?」


 中央の隊員を顎をしゃくって示しながら、ハンスは淡々と続ける。誰も彼に口を挟めない。AIの指示がループする空間で、何に耳を傾けていいのか戸惑う様子すら窺える。


「──少なくとも俺らは、俺らのうちの誰かがやられたら、やった奴を恨むだろうよ。それが火種になって、また争いが生まれる。じゃあ俺らを全員始末するか? ──果たしてそれは”正しい”ことなのか? 教えてくれよ、お利口さん共」


 ハンスから遠い隊員の一人が、隣の人物と顔を見合わせる様な動作を見せる。


「なあ、俺らは──エシュロンに会いたいだけなんだ。エヴォリスで奴らに理不尽に混乱させられて、俺らはこのハイラントのトップにいるエシュロンに疑問を抱いちまった。それを察してか、ハイラントの設備やお前らを使って、向こうは俺らを排除しにかかってる。……まあ今は、争いを止めろとか言ってるみてぇだけど?」


 ハンスの言葉を邪魔するかのように、AI音声は鳴り響く。ハンスは耳を苛む冷静な音声に舌打ちした。


「てめぇらは、この命令にどう従うんだ? 争いをやめろ、不適合者を排除しろ──どうすればこの先一切の淀みを残さず、誰もがスッキリした状態で、この二つを全う出来ると思う? てめぇらが自分の心を殺して俺らを全滅させるか? 俺にはてめぇらが”そこまで”の人間には見えねぇけどな」


 ハンスは燻る怒りに火種を足すようにして、隊員たちに言葉を衝突させる。そして、まるで何が起こったのか理解していないようなアランを一瞥すると拳を強く握る。目の前ではっきりと、もはや人間の摂理から逸脱した再生能力を発揮した”アラン”にさえ、彼は胸を突き刺すような悲嘆と、抑えきれない激情を覚えていた。


「俺はここまで、攻撃に対する反撃しかしてない。しかも撃ったのはパルス弾だ。おまけに俺以外の仲間には戦闘能力が無い。まあ、ここまでの事して今更弁明なんてしたところで、聞く耳持たねぇだろうが──」


 ──と、ハンスの耳元で途切れながらノイズが発生する。そこから微かに、こちらに呼びかける声が混ざる。アランやラビもそれを聞き、耳元に手を当てる。


『……──、……ス、──聞こえる? ハンス、アラン、ラビ! ちょっとレム、一向に繋がらないじゃない。何とか中を探れない?』

『もう無茶を言わないでください、エヴァ。エヴォリスがハイラント上に戻れば希望はありますが──』


 懐かしくすら感じるエヴァとレムの声が無線に乗せられる。ハンスはハッとして耳に手を当てると、思い出したように声を掛けた。


「エヴァ……エヴァか? そっちはどうなった⁈」

『ハンス! ──無事? 私たちはひとまず大丈夫、ケルビンも……』

「……! 待て!」


 繋がった事でエヴァの声がワントーン上がり、彼女はすかさず自分たちの状況について報告を始めようとする。しかし、ハンスは何かに気づくとそれを止めさせた。


 自分たちが通ってきた通路の向こうから、落ち着いた靴音がこちらに近づいてくる。隊員たちも奥の者からそれに気づき、そちらを振り返る。一定のリズムを刻みながらエレベーターホールまでやってきた足音の正体は、隊員たちの壁に阻まれてハンスたちからは窺えない。その人物はどよめく隊員たちを通り過ぎ、中央の隊員の向こうで足音を止める。ハンスたちからは、足を揃えて隊員と向き合う白いスラックスと白いパンプスしか確認できない。


「──ソレン隊長。部下たちに銃を下ろすよう命令してくれ。奴らは我々が矛を収めれば歯向かう意思を見せないだろう」

「だ、誰だ?」


 厳格な女性の声がその空間に加わる。ソレンと呼ばれた隊員は、戸惑いながらも銃の構えを解かずにいた。彼の視点は、女性がかざした左の手の甲に吸い寄せられる。そしてさらには瞠目した。


「PIランク4、生体構造研究主任、リュミナだ。エシュロンの指示でここに来ている。──道を開けてくれないか」


 ソレンが武器を下ろすと、命令がなくとも部下たちはそれに倣う。リュミナと名乗った女性が一歩踏み出すのに合わせてソレンが身を引くと、ハンスたちにもその姿が見て取れた。ハイラント製の白を基調としたスーツ。彼女が歩くたび、その上に羽織った白衣の裾が靡く。きっちりと結い上げた金髪、眼鏡の下の鋭利な目つき──その雰囲気はどこか、ケルビンと似通っていた。彼女がかざす手の甲には、白く発光するマークが描かれている。円の中で四つの小さな三角形が一つの三角形を築くそのマークは、ハイラント上級職員の証だ。


「……何か、そちらでも動きがあったのではないか?」


 隊員の垣根を越えてハンスたちの目の前で足を止めたリュミナは、彼らを見下ろすと腕を組んだ。──どうやら、無線の事を聞いてきている。そう察したハンスたちは、無意識に視線を交わした。


「安心しろ。お前たちを騙すつもりは無い。──そもそも我々には、それが出来ない。お前たちの事情と状況を把握したいだけだ。無線を聞かせてくれ」

「……散々こっちを攻撃してきたあんたらを、どう信じろって?」


 ハンスがリュミナを睨みつける。リュミナは眉一つ動かさずそれを受けると、徐に数歩進み、床にかがむ。そして、アランから排出された銃弾を摘み上げ、注意深く観察した。


「お前たちの弁明を聞く代わりに、こちらの弁明も通したい。──これに関しては私自身の、興味の範疇でもあるがな」


 弾丸を眺めていた瞳がハンスを射抜く。夜空の色をしたそれに感情を見出された自分の姿が映ったような気がしたハンスは、小さく舌打ちをして耳に手をかけた。


「──悪い、エヴァ。ちょっとゴタゴタしてて……で、そっちはどうなったって?」

『……大丈夫なの?』

「ああ、ひとまずは……な」


 ハンスは視界にリュミナを入れたままエヴァと無線を繋いで無線の音量を上げた。リュミナは表情を一切変えずにハンスを見つめている。その姿がブレるように、カウンセリング中のケルビンと一瞬だけ重なった。


『結果だけ言うと、ケルビンの応急処置は成功した。あとは塔に移送できればいいんだけど、……問題があって』

「さっきの斥候か?」

『いいえ。侵入者は今味方についてくれてる。ただ、包囲網が厚くなってて外に出られないのよ』

「「──は?」」


 エヴァの唐突で不可解な報告に、ハンスとラビの声が重なった。聞いていたリュミナの眉がわずかに上がる。


「斥候が味方? どういう事だよ?」

『ちょっと、……まあ、色々あって。でも、信頼して良いとは思う』


 困惑するハンスに、リュミナが端末の画面を差し出す。そこには”子細を聞きたい”という文字が表示されている。ハンスはさっと目を通すと、再びリュミナを見据えた。


「……一体、そっちで何があったんだ」

『実は──』


 ハンスの声を受け、エヴァはそれまでにあった事を駆け足で話し始めた。






 時は、ハンスたちがイージスから出て行った時点まで巻き戻る。イージスの処置室に残ったエヴァとレムは早速、処置台に乗せたケルビンの応急処置を始めるため忙しなく準備を始めていた。ケルビンの傍にカートを引き寄せてその上にレムを乗せ、エヴァはレムの指示に従ってドロワーを漁る。レムはレンズを細かく滑らせながら、ケルビンの容態をスキャンしていた。


「本当に実行するんですか、エヴァ? わたしは医療ロボットでは無いのですよ」

「あなたは医療知識にアクセス出来るし、便利な腕もたくさん持ってる。私よりずっと頼りになるのよ! 腹を括って!」

「腹を括る……わたしのボディに腹部など無いのですが……」

「よくこの状況でそんなAIジョーク出せるわね? 案外余裕なんじゃない。いい? 医療ロボットじゃないからって出来る事をやらないのはナンセンスよ。時には非合理な判断も必要ってこと!」

「──了解、エヴァ。認識を改めます」


 レムがセンサーを作動させる横で、エヴァは次に武器の確認をする。万が一新たな侵入者があれば、エヴァが対処しなければならない。渡されていたテーザーの他にあるのは、彼女専用のツールガンだ。溶接やプラズマカッター、パルスリベット、電磁ドライバ、グラップル──それぞれのモードで武器の代用が可能だが、人間に対して扱うとなると悲惨な結果を生みかねないため、下手をすれば銃よりも危険性が高い。他の工具はほとんどアランに託したため、エヴァにとってはその二つが命綱だった。


「弾丸の位置を確認。エヴァ、摘出処置を開始します。まず、止血帯を外して圧迫止血を。わたしはアームで弾を非接触摘出します」

「──わかったわ」


 ツールガンのセーフティを外し、エヴァはケルビンの元へ向かう。彼を処置室に引き摺り込んでから、エヴァはとにかく止血帯を使って止血を試みていた。弾を摘出するには、それが邪魔になる。額に汗を滲ませながら、エヴァは慎重に血の滲んだ止血帯を外しにかかる。


「ガーゼを強く押し当ててください。それから止血鉗子を。ドロワー三番にあった物です。それをわたしに」


 エヴァは指示通りガーゼ越しに患部を圧迫する。そして素早く鉗子をレムのアームに近づけると、レムがアームの先端の小さなクランプでそれを受け取る。重力が倍増したような緊張感の中、圧迫の痛みを感じたのか、意識のないケルビンから小さな呻き声が上がる。


「もう少しの辛抱よ、ケルビン」


 エヴァが無意識に気休めの声をかける。すると反応するように、ケルビンの目がうっすらと開いた。


「……ああ、これが痛み……エヴァ、どうか私を置いて……先に、行ってください……」


 うわ言のようにケルビンが口を開く。朦朧とした意識の中でも状況を把握しているケルビンに内心驚きつつ、エヴァは盛大に眉間に皺をよせた。


「馬鹿言わないで。私にまた誰かを見捨てさせる気? そんなのごめんだわ」

「肋骨下端、角度確認、吸着準備を開始します」


 エヴァの怒気を含んだ声と、レムの作業工程をなぞる声が交差する。レムは別のアームでライトを照らし、鉗子で微細血管を押さえながら、磁気作用のある細いアームをゆっくりと患部に接近させた。


「──捕捉しました。エヴァ、圧迫を強めてください」

「わかった。……ケルビン、余計な事考える余地なんかなくなるわよ」


 レムのアームが弾を吸着する。わずかな引きに合わせ、エヴァが周囲をさらに抑える。弾が抜かれた瞬間、ケルビンが短く呻く。血の流れが増すのをレムが即座に報告する。


「出血増加、圧迫強化を。縫合準備開始」


 ケースに、摘出した弾丸が落とされる。ガーゼに血が滲み、エヴァの唇が微かにわななく。流れる鉄の匂いと、照らされた生々しい傷口は、エヴァの精神を確かに削っていた。


 ふと、外の廊下から通気口を通して足音が聞こえた気がして、エヴァは顔を上げた。微細な音だったが、捉えたと同時に、ドアの外に気配を感じる。


「エヴァ、縫合はあなたが行ってください」

「わ、私⁈」

「わたしのアームでは限界のようです。こちらで指示出しと補助は行います」


 針と糸がエヴァの目前に差し出される。外に意識が割かれていたエヴァは上ずった声を上げた。


「エヴァ、時には非合理な判断が──」

「──わかったわよ!」


 エヴァはラテックスグローブを嵌め、震える手を叱咤して針と糸を受け取る。指示通り準備したものを持針器で掴み、さらにレムから細かい角度や縫合箇所の指示を受けながら縫合を進める。普段から細かい作業には慣れている彼女だが、いつも相手にしているのは硬い機械だ。エヴァは固唾を飲むことも息をするのも忘れ、手先に集中した。


 すると、外からインターホンが鳴らされる。跳ねそうになった肩を寸でのところでとどまったエヴァは、一瞬止まった作業を再開させた。


「エヴァ、外に生体反応が」

「いいから、無視してそのままこっちに集中して。すぐには破られないでしょ」

「──了解」


 レムが警告を入れるが、エヴァは意識が揺らぎそうになるのを抑え付け、レムに指示を送る。突如、ジャマー攻撃を受けたかのように室内の電気系統が点滅する。しかし影響を受けないレムは指示通りにバイタルを読み上げ、縫合補助を優先させる。一人と一体は神域に達したかのように、二人だけの静寂の中で作業を続行した。そこには、ケルビンの呻き声が入る余地すら無かった。


「──縫合完了。エヴァ、よくやりました」

「……あなたもね……」


 レムの声で、エヴァが道具をカート上に放るようにして手放した。そして脱力してその場に座り込む。作業中ずっと赤点滅を続けていたレムのLEDもグリーンに落ち着く。作業を終えたエヴァの額や顳顬には、尋常ではない汗が唐突に湧き出していた。


 しかし、問題は片付いていない。エヴァは息つく暇なく汗を拭ってドア付近へ駆け寄ると、グローブを放ってツールガンを手に取った。そして慎重に外の様子を窺うため、聴覚をそちらに集中させる。何やら機械を動かすような音を耳に捉えたエヴァは、力づくでドアが破られる前に内側からスピーカーを操作して通信を繋げ、外へと通話を試みた。


「待って。重傷者がいるの。手荒な真似はやめて」


 エヴァの声に、外の音が静まる。相手の行動が停止した様子を感じ取ると、彼女は続けた。


「お願いだから、いったん攻撃や拘束はやめてほしい。──塔の医療施設に移送する必要があるわ。そこまで見届けて、適切な処置が約束された後なら、私たちはそっちの指示に従ってもいい。それまでは、そっちが攻撃して来ない限り、こっちからは攻撃しない」


 しばらく沈黙が続く。相手の姿が見えない中、エヴァは焦ったさに歯噛みする。すると、患部の消毒と保護を行っていたレムがエヴァに向けてレンズを回した。


「外の生体反応は四人です。そのうち一名は動けない模様。恐らくハンスが制圧した人物です」

「そう。──まだそれだけの人数しか入ってきてないのは僥倖なのかしら」


 エヴァは肩を竦めて皮肉げに笑みを浮かべる。ツールガンを握る手に力が込もる。すると、ようやく相手から反応が返った。


『保証が無い。俺たちにはお前らの制圧と拘束命令が出ている。直ちに武器を捨てて降伏するんだ』


 会話に応じる相手にわずかな希望を感じたエヴァは、心の中で喜びに拳を握った。


「聞いてほしい。一刻を争う状態なの。あなたの上司でもなんでもいいから、塔の医療施設へ患者を連れていくよう頼めない? 私たちはそっちの攻撃を避けて地球に帰還しただけ。攻撃の意思なんか元々無いのよ」

『こっちには負傷者が出てる。本当に攻撃の意思が無いと言えるか?』

「詭弁だわ。どうせパルス弾で昏倒してるだけでしょう? こっちはその負傷者が撃った実弾を受けて──仲間が一人死にかけてるの! そもそも、その攻撃があったからハンスは私たちを守るために反撃したのよ!」


 エヴァが苛立ちで声を荒げていく。相手がこちらの言い分に対して聞く耳を持たないことは想像の範疇だったが、それでも実際に理不尽な対応を受ければ精神が乱れる。その理不尽に突き動かされた言葉が、見えない刃となって相手を斬り付ける。


「自分たちに置き換えて想像して。あんたたちは自分たちの仲間が致命傷を受けても黙って無抵抗でそれを受け入れて、放置するの? 自分含めて全員が全滅させられるかもしれないのに、銃を向けてくる相手の前で馬鹿みたいに武器を捨てられるの?」


 何も応えないインターホンに向けて、さらにエヴァは畳み掛ける。摘出処置を成功させ、あと少しというところで現れた障害に対し、彼女は焦燥でいささか冷静さを欠いていた。


「いい? 私たちが何も疑問を抱かず従ってきたエシュロンは狂ってる可能性があるの。私たちが迎撃されてるのは、宇宙でそれに気づいたからよ。私たちはエシュロンの意思によって内部崩壊の危機に陥った。ケルビンだって望まない行為をエシュロンに強いられて、それを実行して精神崩壊しかけたの! だからエシュロンから切り離すために通信手段を絶ったのに、今度はそれが原因で敵対視されて、帰還も容易じゃなかった! ……どうして。どうして、エシュロンの指示で惑星探査に行っただけの私たちが、──成果を持ち帰った私たちが、こんな目に遭わなきゃならないのよ⁈」


 矢継ぎ早に吐露される彼女の感情の爆発は、もしハンスたちがこの場に居ればさぞ驚いただろう。エヴァはツールガンを片手に、もう一方の手で拳を握り、壁に叩きつけた。彼女にレンズを向けていたレムのLEDが黄色く点滅する。目をきつく閉じて痛みに耐えていたケルビンはうっすらと目を開き、霞む視界で天井を見つめながらエヴァの声を聞いている。


 すると、スピーカーの向こうで異変があった。何やら離れた位置でやりとりが交わされているようだが、詳細までは耳に入らない。その間、エヴァは荒くなった息を整えた。いつもの冷静な彼女が再び顔を覗かせる。エヴァは再びツールガンを両手で構え直した。


『──今、ケルビンと言ったか?』

「……え?」


 あまりに予想外の問いかけに、エヴァは片眉を上げて表情を歪ませる。思わずレムを振り返ると、レムはLEDを黄色く点滅させたまま戸惑うようにレンズを微細動作させるだけだった。


『ケルビンというのは、ドクター・ケルビンか?』


 隊員の声に動揺の色が混じる。怪訝に思いつつ、意表を突かれてある程度落ち着いたエヴァは素直に応対した。


「ええまあ……医療主任のケルビンだけど……何、もしかして惑星探査のクルーについて共有を受けて無いの?」

『俺らは末端の隊員だ。簡単な指示しか受けていないから、惑星探査が行われたってことしか知らない。あんたらに関しては、最悪の場合排除も視野に入れつつ、可能であれば拘束しろとしか言われてない』


 突然歩み寄るような姿勢を見せる相手に警戒しつつ、エヴァは彼らの言い分に耳を傾けた。スピーカーに耳を近づけながら、名前の上がったケルビンを見やる。彼の右手が、小さく彷徨うように自身の腹の上を泳いでいる。その動作に意思を感じるものの、それだけで満足に動けない彼の心情を汲み取るのは困難だった。


『もともと俺たちは、一年くらい前までは医療施設に保護されてたんだ。──ドクター・ケルビンの計らいだった』

「──!」


 エヴァが好機を感じ取って息を飲む。まさに僥倖だった。


「怪我人だったの?」

『いや、PTSD発症者として──壁外に放り出されるところだったのを、拾われたんだ。……担当が変わったと聞かされて、結局部隊に戻されはしたが、──こうして、上手いこと使われるだけに留まれた』


 エヴァの問いかけにも、今度は素直に応じている。たったひとつの意識共有で逆転した状況に、エヴァは身が軽くなる思いだった。無意識に安堵の溜息が漏れる。


『──もしかして、仲間が撃ったのは、ドクター・ケルビンなのか……?』

「そうよ。弾の摘出はなんとかここで出来たけど、そもそも医者の施術を受けられてないの。だから、塔の医療施設に移動して、ちゃんとした医者に治療してもらう必要がある」


 焦りが含まれた問いかけに、エヴァはすかさず返事を送る。一時置いて、相手から『──わかった』と重々しい声が返ってきた。


「──じゃあ、お互い武器を捨てましょう。……と言っても、どうやって信用してもらったらいいかしら? お互い不安よね?」

『俺の端末情報を言う。それで映像共有出来ないか?』

「いいわ、じゃあお願い」


 相手の申し出を了承したエヴァは、早速紡がれる端末情報を自分の端末に入力し、通信をつなげる。互いにカメラを起動させ、壁に隔たれた映像が共有される。エヴァの端末には、廊下に待機した三人の隊員が映されていた。年嵩の男が一人と、若い男の隊員が二人。パルス弾を受けた一人は動けずに、入り口付近に待機しているのだろう。画面に移った端末の持ち主は、三人のホルスターからセカンダリまでしっかり武器が抜かれ、手の届かない位置に滑らされていく光景を映し出す。確認したエヴァは室内を写しつつ端末をレムに預け、向けられる画面に向かってテーザーとツールガンを手放す姿を見せつけ、部屋の隅へと追いやってドアの位置に戻る。互いに無防備な状態となったところで、ドアの操作パネルに手をかけた。


 機械的な音を立てて素早くドアが開く。ケルビンやレムの傍に移動したエヴァは、開いたドアからおずおずと処置室に入る隊員たちを見つめた。ゴーグルやヘルメット、マスクで顔全体を覆っていた人物がそれらの装備を外す。頬や額に浮かぶ皺から、彼が年上の隊員だと分かる。後続の二人はマスクをつけておらず、若い隊員であることが窺えた。


 相手は一様に、ケルビンの状態を見てざわついた。そして、それぞれが小さな反応を示す。年嵩の男は拳を握りしめ、瞳を泳がせる。若い隊員の一人は呼吸を荒げて後ずさるように身を引き、もう一人は目を逸らす。そんな様子の彼らを目の当たりにして、このような状態の人間が真っ先にイージスに送られたのかと、エヴァは目を丸くした。


「し、死なないよな、助かってるんだよな……?」


 後ずさった青年が掠れた声で誰に向けるでもなく問いかける。エヴァは頭を振って応答した。


「さっきも言ったでしょ。弾の摘出は済んでる。でも、それだけじゃ不十分なのは分かるわよね? ──だから、一刻も早くちゃんとした医療施設に移動したい。協力してくれる?」







『──で、今どうやって外の包囲網を越えようかって話してるところなの。……装甲車は一台残ってるけど、負傷したケルビンを乗せて相手とやりあうのは危険だし、あんたが撃った隊員はまだ目を覚さないし、──向こうに斥候が寝返ってるのが伝わってるかどうかは定かじゃないけど、このまま篭城してたら追加が来る。あんたたちとは無線も繋がらなくなるし、何かあったんじゃないかって気が気じゃなかったわよ』

「それはこっちのセリフだよ。──俺らだって途中でそっちに無線しようとしたけど、繋がらないから諦めたんだ」

『そうだったわ。お互い様ね』


 エヴァの話を聞いたハンスたちは、思いがけない再会をきっかけに危機を脱していた彼女たちの状況を知り、安堵のあまり脱力した。ハンスは長い溜息を吐き、ラビは小さく乾いた笑いを漏らしながら項垂れる。アランだけは困惑の境地でいまだ彷徨っているようだったが、三人の張り詰めた空気は一旦、落ち着きを取り戻しつつあった。


「──そうか。ケルビンはそのような状況にあったのか……想像だにしなかった。実に、興味深い」


 落ち着いたリュミナの声がそう呟くと、それを拾ったのか、無線の向こう側に緊張が走る。リュミナの反応に眉を潜めたハンスは、エヴァが鋭く息を吸い込む音を聞いた。


『──誰かいるの? ていうか、そっちは無事なのよね?』

「無事無事! ちょっと色々ありはしたけど、僕らは──とりあえず、無傷だよ」


 エヴァを安心させるためか、ラビが即座に応答する。隊員たちやリュミナに視線を移しながら朗らかな声で報告するが、最後にアランを見やると言葉尻が萎む。アランは反応を示さない。


「何とか、レイヤー・ゼロにも行けそうなんだ。──だよね?」


 ラビは確認するようにリュミナに向けて問うように報告する。リュミナは一つ肯くと、摘んでいた弾丸を白衣のポケットに入れ、立ち上がった。そしてラビが必死に開こうと奮闘していたエレベーターへ歩みを進めると、センサーパネルに手の甲を翳す。すると、いとも容易く軽い電子音を鳴らしてエレベータが作動する。彼女の足元にはラビのジャマーが入ったバッグと、そのひとつから伸びたケーブルが虚しく転がっていた。


「ソレン隊長。私たちはこれより上層へ向かう。君は──何とかイージスのクルーたちが敵では無いということを外の隊に伝達してくれないか? 現状、ここにいる人間は我々ランク4職員含め、状況を把握仕切れていない。頼みのAIは混乱中……難しいかもしれんが、やってみてくれ」

「──だが、それは──エシュロンの意思なのか? 指示範囲から逸脱してないか?」


 リュミナの頼みを、ソレンが二つ返事で承諾することは無かった。言葉を若干詰まらせながらも、彼女に窺いを立てるのみ。リュミナは表情を変えずに小さく溜息を吐くと、腕を組んだ。


「ふむ。やはりそうなるか……まあいい」


 リュミナはそう呟くと目を伏せ、顎を摘んで逡巡する。そしてすぐに腕を組み直した。


「──いいか、私がここに来ているという時点で、エシュロンの指示下にある証左だ。本来ならこのような状況でランク4職員が現場に出向くことはないからな。だが、今の依頼は違う。これは私個人の判断だ。それを”エシュロンの意志”と解釈するかどうかは君の裁量に任せる。──この者たちの事情は、これまでのやりとりで凡そ理解できただろう?」


 ソレンの瞳を射抜くリュミナの眼光は挑戦的にも見えた。ハンスは彼らの様子から、上級職員や計画的出生者たちにも、何か見えない楔がある事を察する。強固に打ち付けられたそれを引き抜く発想自体に制限がかかり、行動が抑制されるのだろう。特にソレンの反応は顕著だった。ハンスは、自分の知る隊長像とは掛け離れた彼の様子に少なからず落胆していた。


『……それなら、そっちはとにかく上に行く事に集中した方がいいわね。こっちはこっちで何とか打開策を考えてみるわ。──味方も増えたことだしね』


 エヴァが探るような声を無線に乗せる。仲間以外の誰かがいる事を察していたのか、慎重に口を噤んでいたようだ。


「ああ。もしかしたら、隊の動きに変化があるかもしれない。相手をよく見て注意深く進んでくれ」

『──了解。何か分かったらまた連絡する』


 ハンスは何とも言えない意味深な伝言しか残せなかったが、エヴァは特に事情は聞かず、さっと無線を閉じた。


 ちょうどその時、リュミナが呼んだエレベーターがホールに到着した。到着の電子音だけを響かせ、静かにドアがスライドする。真っ白な清廉の箱が口を開ける。リュミナはアランの元へ歩み寄ると、上体を起こしたまま無線に一切参加していなかった彼の手前で足を揃えて静止した。


「──さて、アラン・ローワン。……いや、”そう呼ぶべき存在”なのか、まだ確証は無いが。──立てるか?」

「あ──、ああ……」


 アランが掠れ声で応え、ゆっくりと立ち上がる。ハンスとラビもそれに倣う。リュミナはアランが動ける事を確認すると、乱雑に転がったラビのバッグのハーネスを拾い上げる。そしてバッグだけを取り外すと、ハーネスだけを持ってハンスに近づき、腕を取って止血を始めた。ナイロンストラップがリュミナによって引き締められると、ハンスは押し殺した呻き声を漏らす。出血量は酷くはなかったが、防護スーツの上にはいくつか血の筋が垂れている。その後ろではラビが思わず自分のバッグに手を伸ばそうとして止めていた。また銃を向けられたらと躊躇ったようだ。


「何もないのでこれで我慢しろ。見たところ心配するほどの傷じゃない。今はまず、上層へ向かう事を優先してもらう」

「あ、ああ、──悪ぃ」


 リュミナの瞳は冷ややかだが、決して冷酷な訳ではなかった。処置が終わればさっさとエレベーターへ向かっていく背中も同様だ。こちらをただ観察し、適切な対処をしようとする冷静な姿勢でしかない。ハンスは、そんなリュミナが変わり者に見えるのは、自分が外部出生者だからだろうかと心の中で独りごちた。


「では、アラン・ローワン、ハンス・ローワン、ティム・ナイの三名はこちらへ。武器の類は持たずに同行しろ。ひとまず上層へ向かう」

「あっ、ちょっと!」

「──ティム・ナイ?」


 リュミナの言葉に、慌てたラビの声が被さる。しっかり聞き取っていたハンスは眉を潜め、気まずそうに肩を竦めるラビに向かって耳慣れない名前を復唱する。黙ってリュミナの後を追うラビにハンスはそれ以上問い詰める事をせず、後方で立ち尽くすアランを振り返った。彼の中で何の葛藤が起こっているのかまでは汲み取れないが、ひとまずこの場を離れるのが得策だ。少し前より冷静さを取り戻していたハンスは、視線でアランについてくるよう促した。


「すまんな、お前は”ラビ”と名乗っているんだったか。識別名称はティム・ナイのままなのでそう呼んだが、何かまずいことでもあるのか?」

「き、気持ちの問題なんだよ! ──あ、ねえ、僕の道具だけ持ってっちゃだめ? 全然武器じゃ無いんだけど」

「──まあ、いいだろう。性能はある程度見させてもらった。取るに足らない物だ、問題無いだろう」

「ぐっ……」


 エレベーター前では、リュミナが意図せずまるで手玉に取るようにラビの相手をしている。ラビは歯軋りすると、黙って地面に転がったバッグを全て拾い上げ、エレベーター内に駆け寄った。全員が揃ったところで、リュミナは再びソレンたちに向かって声をかけた。


「ではソレン隊長、後のことはよろしく頼む」


 未だまごつく様子を見せる隊員たちを断ち切るように、応答を待たずドアは静かに閉じられる。ほとんど音もなく上昇を始めるエレベーター内で、手持ち無沙汰にハンスはアランやラビ、自分の状態を観察する。白色電灯に照らされた清潔な白い空間のもと、これまでの道のりを物語る装備の乱れや汚れに今更気づく。どっと疲れが襲った気がして、ハンスは腰に手を当て、大きく項垂れて溜息を吐いた。







「ねえ、何で突然エシュロンは僕らを呼んだの? ──まあ僕らっていうか、アランを呼んでるんだろうけど……」

「そうだな。正確にはアラン・ローワンのみ随伴させるよう指示があった。他二名をその名に連ねたのは、私個人の判断だ。その方がアラン・ローワンを素直に従わせられるとエシュロンに進言し、了承を得た」

「さっきの人も言ってたけどさ、……それって、君たちにとっては”逸脱行為”になるんじゃないの? なんか聞いてると、エシュロンに進言すること自体が逸脱行為に繋がるような雰囲気感じるんだけど」

「本来であればそうだな。だが、AIが混乱している原因も掴めていない状況では迅速な判断を下し、対処するのが妥当だ。混乱した状況において、あくまで自由意志ではなく、提案としての進言であれば通るのかどうか──結果的には試すような形となった」

「通らなかったら、リュミナはどう思ったの? ていうかエシュロンの指示ってどうやって君らに降りてるの? ケルビンが持ってた専用タブレットみたいなのがランク4職員には配られてるってこと?」

「──質問が多いな。現状致し方ないことなのかもしれないが、興味の拡大は身を滅ぼすぞ。少しは口を慎め」


 エレベーターがチューブ内を天に向かって疾走するなか、黙って壁に背を預けて腕を組むハンスや、ハンドレール片手に重心を保つアランと違い、ラビは質問攻めを開催していた。リュミナは一切表情を変えずに彼に応対していたが、そのうち面倒になったのか、最終的には明確に口を閉ざすよう言いつける。だが、危地から脱したことで安堵したラビはそんな事では止まらない。ハンスは心の中でリュミナに同情した。


「だって、今ひとつ指示系統が見えて来ないんだもん。エシュロンはAIを止められないの? ──例えばエヴォリスのレムのコアが、独立しだしたレムのボディを止められなくなるみたいに。それともエシュロン自体が壊れてて、君らや僕らだけが振り回されてるの?」


 ラビが、単純に疑問を呈する事を装ってリュミナに探りを入れている。そう察したハンスは彼の行為を咎めず、わざとらしくうんざりした溜息を吐く。心の中では「いいぞ、もっとやれ」とラビを焚きつけながら。


「くどいぞ。──お前が能力の割にランク3に留まっている理由がよく分かる」

「うるさいな。別に僕はランク4になりたいなんて思わないよ。少なくとも、リュミナを見てる限りはね」


 口を尖らせるラビにふっと笑うような反応を見せるリュミナだったが、その鉄面皮は変わらない。しかし、止まらぬ上昇を告げる階層表示を見上げながら、彼女が少しだけ遠い目をしたのをハンスは垣間見た。


「本当に今のままで満足しているのか? ランク4になればもっと最新鋭の研究に携わることが出来るぞ。──ケルビンも一時期は危うかったが、とどまったからランク4となってあれだけの成果を残せた。だからあの若さで”上級臨床監察医”まで登りつめられたんだ」

「ケルビンが、──”危うかった”?」


 ハンスが思わず口を挟む。リュミナは肩越しにハンスを一瞥し、前に向き直った。


「──ああ。奴は心理学から精神医学にまで興味を示した。その一環として、犯罪心理のアーカイブにまで触れようとした。エシュロンから制限がかかったと、私に若干の不満すら述べてきた。──私は止めたんだがね。結局、奴はエシュロンの制限には従ったものの、精神疾患患者の経過観察と称して外部出生者……主にDEFセクター隊員に対する実験的診察を申し出た。結果として、壁外に出されるはずだった者たちを観察対象として保護し……その行為が彼自身を助ける形となったわけだ。こう見えて私も、驚いているんだよ」


 リュミナの話が途切れると同時にエレベーターが徐々に速度を緩めて停止し、電子音が到着を告げる。ドアが開くと、目の前には相変わらず白い空間が現れた。しかし中層以下と異なるのは、横に広がる通路の壁が、大きな窓になっていることだった。堅そうな雲の塊が浮かんだ真っ青な空、果てなく続く夕焼け色の荒野。高さ二千メートル付近の景色は圧巻だった。それよりも高い景色をイージスから見た筈だ。だがあの時は眺望を楽しむどころか、視界を確かめる余裕さえなかった──ハンスはそんな記憶をぼんやりと思い出した。


「わお! 相変わらず荒野しか無いけど、下とは全然違う景色に見える」


 早速ラビが窓に近づき、景色にかじり付く。リュミナと並んでエレベーターを出たハンスの後にアランが続く。しかしこれまで緩慢な動作で追随する事しかしなかったアランは、目の前の二人の脇を通り過ぎて窓に近づき、ラビの傍で外を眺めた。窓に片手を触れ、遠い荒野の景色に没頭し始める。始めはそれを観察するように見つめていたリュミナだったが、すぐに「行くぞ」と二人を呼び寄せた。


「レイヤー・ゼロへのエレベーターはアークス・ラボ内に存在する。そのセキュリティはエシュロンしか操作出来ない。私もレイヤー・ゼロには行ったことが無いのでな。その先は未知の領域だ」

「じゃあ、リュミナもエシュロンに会ったこと無いの?」


 白い空間が陽の光を反射する。そんな緩やかな曲線を描く通路を進みながら、ラビは質問を再開する。先頭を歩くリュミナは事もなげに「ああ」と応えた。


「もしかして、誰もエシュロンに会ったことなかったりするのかな? ──それって、本当に人間なの? エシュロンって確か、五人の頭脳集団なんだよね?」


 ラビの揺さぶりにも感じられる問いかけは、リュミナの感情に全く影響を与えなかった。彼女は表情や声音を一切変化させず、ただ目的地に向かって歩みを進める。


「エシュロンの存在に言及することは、重要なことなのか?」

「そりゃ、人間か……例えばAIかで対応変わらない?」

「──エシュロンとはハイラントの”基盤”だ。どんな存在であろうと、問題ないだろう」


 リュミナの声は鋼のように硬質だった。彼女の確信の強さに、ラビは思わず口を閉ざす。彼女の発言からは負の感情が一切感じられない。二人の話に耳を傾けていたハンスは、もしエヴォリスに乗っていたのが彼女だったら、ケルビンと同じ道筋を辿ったのだろうかと漠然と考えていた。


 程なくしてアークスラボに到着すると、白い壁面に溶け込むようなドアに向かってリュミナが手の甲を翳す。ドアが反応して素早く開くと、まず白い廊下がしばらく続く。その先に開けた空間と、中心を支える主軸のような円筒形が見えた。リュミナは静かに廊下を進み、ハンスたちは自然と縦に並んでその背に続く。開けた空間には、四つの正九角形のテーブルが主軸を囲むように配置されていた。さらにそれを囲むように九つの扉が並ぶ。壁の構造はまちまちで、白い壁で中が見えない部屋がほとんどだが、半透明や透明の壁も見られ、バリエーションに富んでいる。内部が窺える部屋を見ればそれはどうやら研究室で、中のデスク着いてこちらを眺めている人物の姿が見える。機械的であるのにどこか神秘的にも感じられる不思議な場所に、ハンスたちは三者三様に辺りを見渡した。


「すっご……! ていうか、整いすぎてて寒気してきた。これ、本当にラボ?」


 ラビが腕を摩る。エヴォリスのラボの惨状を見たことがあるハンスは、「だろうな」と小さく呟く。見える部分には一切の無駄が無い──そこは、彼らランク4職員の象徴のような場所だった。


「ヘリオ、オプティフェイズを解除しろ。エシュロンの指示とはいえ、イレギュラーな職員を入れているんだぞ」


 透明なラボに向かってリュミナが鋭い声を投げる。すると、中の人物が両手を広げて肩を竦める。壁にスピーカーがあるのか、室内の人物とも壁越しにやり取り可能らしい。ヘリオと呼ばれた男は、どこか皮肉げな笑みを浮かべてリュミナに応えた。


『俺のラボには見せて困るものなんか無いさ。それより、俺のVR訓練システムをガラクタだと証明してくれた彼らの顔を拝みたくてな』

「──だから言っただろう、計画的出生者にも擬似的に痛覚を与えろと。お前は現実味に欠けるVRの映像性能にこだわりすぎる。戦う者の立場はいつも後回しだ」

『だって、計画的出生者に痛みなんか経験させて心的外傷なんて植え付けたら、再調整プログラムが面倒だろ? あいつらはハイラントの中しか知らないんだ。外部出生者みたいに、適応出来なきゃ外に戻すってわけにもいかないんだからさ』


 ヘリオの声は軽くどこか芝居がかっており、軽薄にも感じられる。そんな態度にリュミナは小さく息を吐いた。


「……まあいい。とにかくオプティフェイズを切れ。念の為の措置だ」

『はいはい、相変わらず融通の利かない女だね』


 ヘリオは面倒臭そうにわざとらしく眉尻を下げると、緩くウェーブのかかったブルネットを後ろに撫でつけた。そして椅子の手すりを指先で軽くスナップする。すると瞬時に壁は白く染まり、室内が姿を隠す。同時にスピーカーも解除されたのか、そこから声はしなくなった。


「──ランク4にも、あんな奴がいるんだな……」

「ああ見えて奴も歴としたランク4職員だ。態度は時折不適切だがな」


 呆気に取られるハンスを横目に、リュミナは床と天井を貫く中心の円筒形へ足を進める。そして、ドアのような切れ目の一歩手前で足を止めて振り返った。


「さて、私が扉に触れればエシュロンが応え、このコアシャフトの扉が開く。入ることを許されているのはお前たち三人だ。──いいな?」

「ちょっと待った!」


 突然、ラビが軽く片手を上げた。周囲の視線が彼に集まる。ラビはバッグを抱え直しながらリュミナの前に一歩躍り出た。


「その前に、このフロアってCTLセクターがあるでしょ? ハイラントのセキュリティをマニュアルにして、隊員への指示出しとかも統制することって出来たりしない? そしたらエヴァたちも、安全に塔の中に移動できるよね?」


 出来る前提といった様子で訴えかけたラビだったが、リュミナは静かに首を横に振った。


「すまないが、それは出来ない」

「は、何で⁈」


 ラビが声を荒げる。責めるような目を向けられても、リュミナは眉ひとつ動かさない。


「CTL並びにOBSセクターの指示系統を直接司っているのはエシュロンだ。そもそも”マニュアル”などというシステムは存在しない。それに、もし仮に私がシステムに介入して勝手にセキュリティを操作出来たとしても、それはエシュロンから権限を奪う逸脱行為だ。──ランク4職員にとってそれは、最も耐えがたい苦痛だ。エシュロンに背くということは、単なる”行為の逸脱”ではなく”構造そのものの崩壊”に等しい。意識は軋み、存在が危ぶまれる」

「エシュロンがおかしかったとしても?」

「それはお前たちの言い分だろう? お前たちが正しいかどうかは、これからエシュロンがお前たちに下す判断によって決まるんじゃないのか?」

「……さっき自分だって”AIが混乱してる”って言ってたよね? それであのソレンって人に後の事任せたのは逸脱行為にならないわけ?」

「エシュロンの意志に”争いの停止”と”不適合者の排除”があるのは間違いない。それを踏まえ、相手の状況を見てひとまずの判断を下させることにしたのは、ある種実験的な行為だ。これは彼自身の評価と、行動パターンのデータ構築に繋がる。逸脱行為には当たらない」


 リュミナは淡々と答える。その無感情さに、ラビの声が自然と低くなっていく。ハンスたちもこの短時間で、彼女らの奇妙な歪さを感じ取っていた。エシュロンの懐で育てられた真っ新な存在──ただそれだけなのだ。ハンスはずっと彼女を敵か味方か判断しようと試みていたいが、それを放棄した。自分たちは何か、大きな思い違いをしていたのかもしれないと直感する。


「ラビ、食い下がっても無駄な気がする。──そもそもこいつら単純な”上の人間”じゃねぇんだよ。いや、……うまく言えねぇけど、ただの管理者とか、観察者とか、そんな存在なだけって気がしてきた」


 ハンスがラビに向かって声を潜める。その様子すらじっと見つめるリュミナを見返しながら、ラビは大きく溜息を吐いた。


「──わかった。じゃあ、僕がやる」

「あ?」


 突然ラビが、抱えていたバッグを近くのテーブルに並べ始める。若干不貞腐れたような背を追ってハンスが思わず声を上げ、リュミナはわずかに眉を持ち上げる。そんな怪訝そうな彼らを無視したラビは、開けていなかった最後のバッグから黒いボックス状の機械を取り出した。


「僕が残って、セキュリティ操作を試してみる。僕がやるなら、君らの逸脱行為にはならないだろ?」

「……何だと?」


 リュミナの目が細められる。ラビは挑戦的な笑みを浮かべるだけで、譲る姿勢を見せない。それどころか、リュミナに一歩詰め寄ってみせた。


「管制室があるなら案内してよ。それだけでいいからさ」

「そんなこと許すわけがないだろう。黙って見過ごすことは出来ない」

「君らの屁理屈みたいなルールを利用させてもらうなら、僕のこの行為は”まだ”逸脱行為にはならない筈だよ。それが決まるのは、エシュロンが何かしらの判断を下してからだ。つまり、エシュロンが僕らを敵と見なしたなら僕の行為は違反になる。そしたらそこで罰するなり何なりしたらいい。でも僕らが間違ってないって認められたら、窮地を脱する一手になる。──どう?」


 抜け道を突くような彼らしい言い分に、リュミナは二の句を告げずに低く唸る。ラビは勝ったとばかりに会話を止め、さっさと移動する準備を整えた。


「けどお前、一人で残るって──」


 ハンスが懸念を口にしようとしたところで、ドアが開く音が小さく鳴った。反射的に全員がそちらを振り向く。ヘリオと対面の位置にある部屋から出てきたのは、赤茶色の巻き髪を一つに編んだ、少女のような顔立ちの女性だった。パンプスの軽快な音とともにハンスたちに近づいた女性は、輪の隅で止まると片足に重心を乗せ、踏ん反り返るように腕を組んだ。


「面白そうじゃない。──やらせてあげてもいいと思うけど。ねえ、リュミナ?」

「──アシェル」

「メタリンク設計主任のアシェルよ。よろしく」


 アシェルと呼ばれた女性は不敵な笑みを浮かべ、ハンスたちを順繰りに観察した。そして組んだ腕を解き、手振りを加えながら自己紹介を始める。


「──この者たちの対処は私に任せるんじゃなかったのか、アシェル」

「だって、あたしの管轄に関わってくることだから、ちょっと助言してあげようと思って」


 眉を潜めるリュミナと対照的に、アシェルは楽しげに笑う。ヘリオに次いで現れた癖の強い職員に、ハンスは口元をひくつかせた。


「そりゃあ管制システム弄らせるのはリスクだけど、何をするか観察する価値はあるんじゃない? それが今後のシステム更新の参考になるかもしれないし。──とはいえ、この子のオモチャはエレベーターには通用しなかったみたいだから、果たしてデータになり得るかは疑問だけどね」


 小馬鹿にするような言い方だが、単純に事実ベースで発言している雰囲気は窺える。ラビはむっと口を尖らせたが、ハンスはアシェルにも直感的に、リュミナと同質な何かを感じ取っていた。


「確かに今、管制系統がごたついてる。あたしたちは手が出せない。抜本的なシステム改善が今後必要になるかもしれないって時に、彼を通して動作チェックしておくのはいいことなのかも。彼らがもし敵と見做されたとしても、あたしたちが問われるのは監督責任であって、逸脱行為じゃないわ」

「そうそう。そういうことにしておけばいいんじゃない?」


 考えあぐねるリュミナに対し、アシェルはさらに意見を重ねる。不服そうな声でありながらも、ラビがそれに便乗して焚きつける。背丈もそう変わらない二人がリュミナを陥落させようとする姿はどこか、親に何かをせがむ姉弟の姿にも似ていた。


「──……はあ。……分かった。ではラビ、くれぐれも余計な真似はするなよ」

「他の職員は出てくる気が無いみたいだし……決まりね」


 たっぷり時間をかけて思考を巡らせたリュミナは、最終的に渋々頷いた。アシェルが口角を持ち上げてラビに試すような視線を向ける。ラビは舌を出しそうなところを耐えて口を引き結ぶ。


「けど、いくらこいつらがひとまず俺らに肯定的とはいえ、一人で残るのは──何かあった時危険だろ」

「余計なこと考えなくていいよ。僕らを助けたいなら、そっちがエシュロンにうまく立ち回ってくれたらいいんだから」


 ハンスの危惧をラビは一蹴する。彼のどこか落ち着き払った態度は、何か策がある時だ。不安を胸の奥にこびりつかせつつ、そう察したハンスはそれ以上、彼を止めることはしなかった。


「──アラン」


 コアシャフトの前に移動したハンスとアランに、ラビから声がかかる。あれ以来ずっと黙ったままのアランを気にしていたのか、その表情は真摯なものだった。


「僕は”君”を信じてるよ」


 振り返ったアランに真剣な眼差しをむけたまま、ラビは静かに言った。アランの目がわずかに見開く。返事を待たず、ラビはそのままハンスを見上げた。


「じゃああとは頼んだからね、ハンス! 君の運はまだ尽きてないよ!」

「──わかってるよ」


 リュミナの手の甲がシャフトに翳されると、扉に模様のような白いインディケーターラインが一瞬走る。するとドアが音もなく開かれ、招かれるようにハンスとアランは中に足を氷見入れる。


 手を振って見送るラビに、ハンスは片手を上げて応じる。ドアが閉まる寸前、「ああレム、今どこにいる? ──」と、無線に呼びかけるラビの声がして、すぐに閉ざされる。静寂の白い空間で──とうとうハンスはアランと二人、レイヤー・ゼロへと上昇した。







 白く狭いシャフト内には、窓も階層表示も存在しない。慣性は重力装置で打ち消され、音も無い。まるでそこは白い宇宙空間だ。端に佇むアランと距離を取り、ハンスは居心地の悪さの中、時間が過ぎるのを待つ。


 たった一人の兄の異変は、エヴォリスで既に見た筈だった。だが、どこまでも彼は”アランそのもの”で、ハンスはいつの間にか胸の奥底にこびりついた負の感情に蓋をしたままでいられた。


 しかし、クライオケースに詰められた遺体を見ようと、ラビの解析で人間じゃない可能性を示唆されようと崩れなかったアランへの信頼は、ここにきて大きく揺らいでいた。目の前で心臓を撃たれ、倒れた筈なのに傷一つなく再生する──その現象はハンスを激しく動揺させた。ゆえに、それ以来ここに来るまで、アランに声ひとつ掛けられずにいたのだ。


 そしてアラン自身もまた自分の存在に愕然としているのか、あれ以来満足に言葉を発していない。二人の間には、奇しくもすれ違っていた同居時代を思い起こさせる空気が漂っていた。ハンスは背中でアランの気配を探り、アランは後ろ姿でハンスの内心を探る。──それはエヴァが”ハンスの反抗期”と表現したなかで、最も最悪な期間だ。


 互いに言葉を交わせぬうちに、シャフトは静かに停止する。ドアが開くと、その先の景色に二人は一様に目を見開く。そこには彼らが見たこともない、それでいて”楽園”と瞬時に認識できるような、美しい空間が広がっていた。ハンスアランはそれぞれの葛藤を忘れ、操られるようにシャフトから一歩踏み出した。


 高く澄んだ青空のもと、白くさらりとした小道が曲線を描く。まず目を楽しませたのは、白い砂が贅然と波のように敷き詰められ、その上に小石が並ぶエリア。歩を進めると景色が変わり、色とりどりの花が規則正しく植えられた緑の広場が現れる。蔦と花の這うアーチを潜るとその先には、小高く美しい彫刻の上を水が伝う噴水。石柱が立ち並ぶ垣根を越えると景色はガラリと変わり、硬い葉の植物や岩が点在する砂地となる。次には一面緑の草原。遠くには霞がかった山の稜線や裾野が見える。そうして景色を見渡しながら歩くうちに空は赤みがかり、星の光がうっすらと姿を現す。夜になると満点の星空と白銀の満月が一帯を照らした。


 道中には泉や小川、オアシスのような水場があり、空が明るいうちはそのせせらぎに合わせてどこからともなく鳥の囀りが風に運ばれていた。穏やかな音が耳を刺激し、二人の脳に癒しをもたらす。しかし夜になるとそれらは一斉に、星空を反射させるように青く輝きだす。言葉を失う景色に目を奪われていると夜は終わり、また朝が来る。太陽が登っていく姿をハンスとアランが目で追っていると、唐突にその動きが止まった。


「景色は楽しめたかな、お二人とも?」


 背後から柔らかな男性の声がして、弾かれたようにハンスたちは振り向いた。その先に、いつの間にか音もなく白衣姿の男性が立っていたのだ。しかし、身構えたハンスはすぐに体の力を抜いた。──その姿は、精巧なホログラムだった。その証拠に、微細な光を放っていた。


「美しいだろう? 想像できるかい、これはこの星が壊れる以前、普通に存在していた景色なんだよ。──まあ、多少誇張してはいるけどね」


 そう言いながらその人物は、二人に歩み寄る。実体は無いのにすれ違いざまに避けるような素振りをして二人を通り過ぎると、振り返って手招きをする。背が高く、プラチナブロンドの短髪と白い肌、青い瞳を持つ男性は、本当にそこにいるかのような存在感だ。ハンスとアランは顔を見合わせる。すると男はそのままその先へ足を進めてしまったため、二人は慌てて追いかけた。


 男は傍の小さなゲートに手をかけて開く。空間全体の中央部分に向かって伸びる通路の先に、アーチを描く石造りのガゼボが見える。今まで庭の垣根に隠れていたのか、その姿にハンスたちは気づかずにいたのだ。──そして、その中に四人の白衣姿の人物が見て取れた。ハンスたちを先導する男と合わせて五人。ハンスは思わず息を飲んだ。


「──エシュロン……」

「はは、どうして驚くのかな? 僕らが君らを呼んだんだ。ここに僕ら以外の誰がいるって言うんだい?」


 ガゼボに到着すると、中央の円卓を囲んでベンチに座る四人の人物がハンスたちをじっと見つめた。年齢も性別も見た目も異なる姿は、皆ホログラムだ。それぞれ形の異なるティーカップを手に持っている。


「さあ連れてきたよ。言い争いは終わったかい?」


 先導していた男がベンチに腰掛ける。円卓に置いてあるカップのうち一つを手に取り、紅茶の香りを堪能すると、満足そうに口にした。それから、足を組んで対面に座る人物にいたずらな視線を向ける。問いかけられたのは厳格な顔つきをした年嵩の男で、白衣の上からでも鍛えられた体をしているのが分かる。後ろに撫でつけたダーティブロンド、同じ色の口髭と顎髭。瞬時に堅物だと想像出来る雰囲気は、ホログラムとは思えない。男は不機嫌そうに鼻を鳴らしてふいと外方を向くだけだった。


「まあお座りください、お二人とも。──彼の隣は少々気後れするでしょうがね」


 その男から一人挟んだ場所に座った黒髪に眼鏡の男が、手を差し出してハンスたちに席を促す。予想もしない展開に、ハンスたちはおずおずと空いているスペースに並んで腰を下ろした。彼らの前に置かれた紅茶のカップからは湯気が上がっているが、それも幻影のひとつに過ぎない。


「まずは、手荒い歓迎をしてしまったことをお詫びするわ。どうしてもアトラスが帰還させるなって聞かなくて……」

「他責とは殊勝なことだな、リヴァ」

「リヴァは事実を述べただけだろう? 最近のお前はどうも直情的だねぇ。そうやってすぐに気色ばむ」

「律儀に突っかかってくるあんたも充分直情的だと思うがな」

「ロン、アトラス、もういい加減にしてくれよ」


 ブラウンのショートヘアに青い瞳の女性がハンスたちに向けて謝辞を述べるが、それを隣の不機嫌そうな男が一笑し、皮肉を返す。すると、一番年上に見える黒髪の女性が反論し、先導した男がうんざりした様子で訴える。一連の発言を目で追っていたハンスの隣で、アランは目を丸くしていた。


「──失礼。一応礼儀として紹介すると……」


 眼鏡のブリッジを上げた黒髪の男が、わずかに口角を上げた。


「あなた方から見て右からアトラス、リヴァ、そして私がシン。隣のこちらがロンで、案内したのがフィン。私たちが、このハイラントを管理するエシュロンという組織です」


 シンがそう明言したことで、目の前の存在が”エシュロン”であると認識すると同時、微塵も想像していなかった姿にハンスはゴクリと喉を鳴らす。姿こそホログラムだが、人間としか思えない。各中継ステーションのフェム、リクス、シア──そして、エヴォリスのレム。様々なAIを見てきたハンスたちには分かる。ここまでだけでも、彼らはAIとしては考えられない言動を見せている。


「……手荒い歓迎ってのは、ミサイルのことか?」


 言葉の切っ掛けが見つからず、リヴァに応える形でハンスが発言する。すると、リヴァはカップを置いて腕を組んだ。


「ええ、それもだけど──DEFセクターの隊員たちの件も……彼らは未だに混乱しているでしょうけど」

「分かってんなら、今すぐ何とかしてくれよ。あんたら、ここの全てを牛耳ってんだろ?」


 ハンスが身を乗り出すと、リヴァは眉間に皺を寄せた。穏やかな表情が一変したことで、ハンスがわずかにたじろぐ。


「”牛耳る”だなんて人聞きの悪いこと言わないで。私たちは取り仕切っているだけ。理想的な空間維持のために規範を構築し、そこで穏やかに暮らす人々を管理してるだけよ」


 リヴァの言葉の圧が増す。そんな彼女に対するものなのか、フィンの方からわざとらしい溜息の音が届く。リヴァは気を取り直すように咳払いをひとつすると、居住まいを正した。


「AIの管理は難航してるところなの。おそらく……私たちの意見が割れているから、その信号を律儀に読み取ったAIの指示が錯綜してる。これは人間の反射神経にも似た作用で、私たちにも手が出せないの」


 全く他人事のように話すリヴァに、ハンスの頬が引きつる。ラビにはうまくやれと言われたが、もうすでに守れそうにない。自分はこんなに短気だったかと半ば驚きつつも、口を強く引き結ぶ。そんなハンスの様子を見たアトラスが皮肉げに笑った。


「やはり外部出生者は感情のコントロールが不完全だ。俺の意見は真っ当だったんじゃないか?」

「まだそんなことを言ってるのかい、坊主? こうした反発心が原動力に繋がる例を、我々は見たばかりだろう。こいつらがイージスを駆使してハイラント内に帰還する事を、この中の誰が想像出来た? ──特に、ミサイルが躱される度に歯噛みするお前の姿は、実に見ものだったねぇ、アトラス」


 勝ち誇ったようなアトラスに、ハンスに代わってロンが即座に皮肉を返す。アトラスが盛大に表情を歪めて舌打ちし、一触即発の空気となる。


「はいはい、もういいって先輩方。──ごめんな、君たち。もうしばらくずっと、僕らこんな感じなんだよ」


 フィンが面倒そうに声を上げ、ハンスたちに向かって謝罪する。眉尻を下げて肩を竦める姿も、人間そのものだ。


「──あんたらは、一体どういう存在なんだよ? ぶっ壊れたAIなんじゃないのか? だから今、こんな事になってるんだろ? 今だってこんな時に、こんな場所で呑気に茶会なんか開いてる」


 自分たちを顧みない、勝手な発言の応酬に苛立ちを覚えたハンスは、語りかけてきたフィンを睨みつけてそう問いかける。するとフィンは目を丸くしてしばし静止した後、弾かれたように笑った。


「僕らがAIだって? まさか。AIに”場所”なんか必要かい? わざわざこうして姿を見せて君らを迎える必要性も無い」

「姿を見せてるって、それホログラムだろ? 実際に目の前にいるわけじゃない」

「まあ、確かにね」


 ハンスが反論すると、フィンは楽しげに笑みを浮かべて紅茶を啜る。おどけたように肩を竦める仕草も自然だ。唇を噛んだハンスが身を乗り出そうとした時、背もたれに寄り掛かったロンが、カップを置いてテーブルに頬杖をつき、覗き込むようにハンスを見た。白髪混じりの髪と顔に浮いた皺が彼女の年齢を物語っているが、その表情は若々しさすら感じられる。何か言いかけて止めたハンスに、ロンは不敵に笑って語りかけた。


「お前がどう思っていようが、我々はAIではないとしか答えられないよ、ハンス・ローワン。何故なら、”演算意識集合体”だからだ」

「演算意識集合体……? 何だそれ」


 ハンスは眉を顰める。すると、シンが眼鏡のブリッジを上げて捕捉した。


「つまり、人間の精神を抽出し、再構成して維持された──永久的な組織体、というわけです。身体を捨て、こうしてハイラントと接続し、創設以来──ずっとこの理想郷を管理してきました」

「そう。だから、僕らに”壊れてる”って言うことは、”お前ら性格破綻者”だって言ってるのと変わらないってわけだ」


 肩を揺らしてフィンが笑う。半眼で彼を睨むハンスに、冷静な声が掛かる。


「こうしてこの場所にいるのは、私たちに”落ち着く必要”があるからよ。だから、あなたにも激しい感情を吐露するのはやめてほしい。私たちの感情を逆撫ですれば、その代償は階下の者たちが払うことになるわ」


 リヴァは半ば脅しのような忠告でハンスを諫める。舌打ちして気を鎮めようとした彼に、アトラスが鼻で笑った。


「外部出生者は野鄙だな。炙り出せばいくらでも負性が暴かれただろうに、ケルビンは何故ああも肯定的な所感ばかり寄越したんだ?」

「お前も煽るでないよ、アトラス。人間に感情がある限り負性の種は誰にでも存在する。うまく付き合い、秘められているならいいだろう」


 ロンがアトラスをやんわりと咎める。また険悪なムードになるかと思われたが、今度は誰に止められるでもなく、二人は互いにそれ以上の発言をしなかった。意味深な会話にハンスは不穏なものを感じたが、ひとまず深呼吸して気分を落ち着けた。


「落ち着いているうちに本題に入らせていただきましょう。今回あなた方をお呼びしたのは──本来は、アラン・ローワンのみの予定ではありましたが。……アラン・ローワン──あなたの力が必要だと、結論づけたからです」

「──お、俺の?」


 俯きがちで座していたアランが怪訝な表情で顔を上げる。十の瞳が自分に集中していることに気づいた彼は、わずかに身を引く。一気に蚊帳の外に追い出されたハンスは、心の中で再び舌打ちした。


「ええ。恐れながら、先ほどのあなたの反応は拝見いたしました。銃弾を生理現象のように体から排出し、傷を修復する──いつの間にそのような能力を得たのか知り得ませんが、十中八九OSX-9の恩恵と言えるでしょう。その力ならば、システムを傷つけずにAIの混乱を抑制出来る──そう、私たちは判断しています。ご協力いただく代わりと言っては何ですが、あなた方にはアークウェイ作戦の真実をお話しする。いかがです?」

「真実って? それを知って俺らに何のメリットがあるんだよ」


 主にアランに向けて語りかけるシンに、ハンスが横槍を入れる。シンは咳払いをして眼鏡のブリッジを上げると、ハンスに向き直った。


「我々はひとつ、大きな過ちを犯しました。それを筒がなくお伝えし、謝罪する意思があります。また今後についても、最大限の保証をお約束します。その条件で、我々にご協力いただきたいのです」

「話が読めねぇよ。全部曖昧じゃねぇか」

「そりゃあ、細かく話したら交渉にならないだろう? まあでも、これぐらいは言っていい。──我々の過ちが原因で、お前たちの復路に混乱が生じた。そして、その波がこっちにまで飛び火した。だから今、お前たちに顛末を話して詫び、今後の保証を約束する。……代わりに協力してもらう。まずは、この混乱を鎮めることだよ、アラン」


 ロンが小さく笑いながら二人に条件を述べる。しかしハンスはさらに疑問を呈した。


「アランの協力って、具体的にこいつに何させる気だよ?」

「心配しなさんなって。”居てもらうだけ”でいい。別に、何かさせようと言うわけではないさ」


 フィンが穏やかに答える。ハンスがいくら食い下がろうとすぐに答えが返ってくる状況に歯噛みしていると、黙って様子を見守っていたアランが口を開いた。


「──分かりました。それで、何をお話しいただけるんですか?」

「おい!」


 ハンスが止めにかかるのを、アランは目で制した。そんな二人を取り囲むエシュロンたちは、密かに視線を交わす。覚悟を決めたように眉間を寄せたアランの様子に、ハンスは諦めて背もたれに身を預けた。腕と足を組んでエシュロンの言葉を待つ。すると、リヴァが姿勢を正して彼らに真摯な眼差しを向けた。


「まず前提として、人類移住のための有人惑星探査──”アークウェイ作戦”は、あなた方を含む、ハイラントの全住民に向けた”表向きの任務”よ。地球に酷似した惑星の出現に希望を抱かせ、荒廃した大地の外にも”救い”があると思わせるための。……けど、私たちがその裏で進めていたのは別の計画──”OSX-9計画”。”OSX-9”とは”観測対象”ではなく”観察対象”。危険度・重要度共に最高レベル9。──これは、この理想郷を維持するための、最も重大で壮大な実験だった」

「……実験?」


 ハンスが眉を顰め、呟くように声を漏らす。一度視線を落としたリヴァだったが、顔を上げるとさらに続けた。


「確認事項は大きく分けて三つ。一つは中継ステーションやエヴォリス・イージスなどの性能テスト。実際に宇宙空間でのエネルギー構築や補給が問題なく行われるか、AIは正しくクルーを導くかなどの性能を見るもの。特にエヴォリスや中継ステーションは、スペースコロニー構想の前身でもあるからね」


 ハンスは息を呑んだ。まさか、自分たちの航行が”テストの一部”だったとは。その事実が脳裏に沈んだ瞬間、今更ながら背中を冷たいものが這い上がった。


「二つ目は、OSX-9のサンプル採取。ある程度見解は固まっていたけど、実際にどんな場所かの映像や物質的サンプルは必要。解析しきれば、彼の地での生活様式を構想出来る。星全体をハイラントのような理想郷とする具体的な計画に着手するには、必要なプロセスよ」


 リヴァはそこまで言うと、ゆっくりと目を細めた。すこしの間を置いてから、再び口を開く。


「そして三つ目、”行動心理実験”。私たちが最も長く観察し、最も慎重に扱った部分よ。対象は二極。ひとつは、あなたたち外部出生者。もうひとつは、上級職員である計画的出生者──ケルビン。これらが同一の閉鎖的空間で長期間を過ごすことで、どんな事象が生じるか。私たちはこの三つ目を最も重要視していたわ」


 リヴァが一通り説明を終えて息を吐くと、今度はシンが卓上に手を翳した。瞬間、彼の前に光の粒が集まり、小さな宇宙空間が描かれる。地球からOSX-9までの航路に、中継ステーションや母船エヴォリスが連なって浮かび上がった。シンはそれらを指先でなぞりながら、静かに言葉を継いだ。


「行動心理を計るための条件は二つです。ひとつは外部出生者に対し”非監視区域”を許し、監視レベルの大幅緩和を明示すること。ヴィクターからの申し出という相乗効果もあり、これはより効果的に作用したように思います。──そしてもうひとつは、ケルビンに定期的にカウンセリングを実施させること。さらに、それを含めた外部出生者への所感を都度提出させ、感情の変化を観察したのです」


 OSX-9へゆっくり滑らせるシンの指を、ホログラムの小さなエヴォリスが追随する。自然と、ハンスの脳に往路の記憶が蘇る。思えば関係はぎくしゃくしていたが、航行じたいは穏やかなものだった。


「我々はこの往路の段階で、あなた方とケルビンの間にマイナスの変化があると予想していました。そのための布石は投じていた。──ひとりは、能力は高いが問題児であるティム・ナイ。そしてもうひとりは、心的外傷を持ち、死に急ぎながらも戦場では泥臭く生き残る……ヴィクター・ソーンです」


 冷血とも取れる事実に、ハンスが明らかに気色ばんだ。ただのテストを通り越し、自分たちが実験サンプルとして扱われていたこと、そして、そのために意図的にクルーが選ばれていたこと──予想の上をいく彼らの仕打ちに、煮えたぎるような怒りがこみ上げる。立ち上がりかける彼を、アランは肩を抑える事で黙って制した。二人の様子にアトラスが冷笑を漏らしたが、心を落ち着けようと躍起になるハンスには聞こえていない。


「案の定、レムのデータでは、二人は思惑通りの動きを見せてくれました。ハイラントから遠く離れ、監視まで緩められた箱庭のような場所で、ティム──ラビは実に奔放に動いていた。対して、戦闘の無い安全な場所で内省し警戒を深め、苦痛を抱え閉じこもるヴィクター。しかし、再三に”不穏因子への対処”と指示していたにも関わらず、ケルビンは所感でその項目について触れることはありませんでした。ヴィクターが発作を起こした時も、彼は惑星間航行や統率者としての適正に言及することはせず、航行中に心的外傷の治療が出来ないか模索するような発言すらし始めました」

「そんなの、当たり前なんじゃねぇのかよ? アイツは医者としてあの船に乗ってたんだ」


 ハンスがシンに食ってかかるが、シンは涼しい顔をしたまま目を閉じて受け流す。すると今度はロンがテーブルに両肘をついてハンスの意識を誘う。


「ケルビンは全体補佐も兼ねていた。あの環境下で、一人の患者にのめり込むのはいただけない。奴は表向きには任務を淡々とこなしているようだったが、その内心では常に治療ばかりに気を取られていたように見受けられた。だから我々は、最悪の場合はヴィクター本人の”望み”を叶えられるよう、持たせていた薬の示唆までしてやった。だがあろうことか、奴は”アークウェイ作戦の最大目標”であったOSX-9の滞在期間を、ヴィクターのために短縮した。その”対処”は、我々の望むものとは違っていたんだよ」


 確かにケルビンは、徐々に自分たちと徐々に寄り添う姿を見せていた──ハンスは記憶を辿り改めてそう思う。だが、エシュロンが望んだのは歩み寄りの姿勢ではなかった。だからと言って──。


 目尻を吊り上げ、唇を噛みながら激憤を抑え込み、ハンスはロンを射殺すように睨む。しかし老成した彼女は、それを涼しげに微笑み返して受け付けない。それどころかハンスの様子に目を細め、喉奥で小さく笑った。


「お前がそのように直情的な人物だったという事には、心底驚かされているよ──ハンス・ローワン」

「……あ?」


 ロンは突然、慈しむような声でそう言った。その場の空気がわずかに変わり、アトラスの舌打ちが響く。感情の抑制に苦労していたハンスは、虚を突かれたように眉根を寄せる。すると、今度はフィンがふっと含み笑いをこぼした。


「君は、僕らの中では当初”最も注目していない外部出生者”だったからね。それがなんと、イージスを巧みに操縦してクルーたちを帰還させた。だからこの通り、ロンは大喜びなのさ」


 ロンのハンスを見る目は、”観察者”というよりも”理解者”の側面を帯びていた。だが称賛を受けているはずなのに、ハンスの反発心はそんな事で拭われない。複雑な彼の表情すら楽しむように、ロンは再び口を開いた。


「──お前は記録だけ見れば、常に誰かに付随する存在でしかなかった。自分の意思で動いているつもりでも、常にアランやエヴァリン、ヴィクターの延長線上にいたんだ。だが──窮地に立たされた今、お前は違う。自分の感情で動いている。怒り、戸惑い、抵抗している。実に興味深い。やはり人間は、負の感情を受けてこそ覚醒する、逆説的な生き物なのだ。……私は今、思いがけず真のお前を観察出来て、非常に喜ばしく思っているんだよ」

「──戯れ言だと言ってるだろう。誰もがそうなるわけではない。じゃあ与えたストレスで生じる不和の精算は誰がする? 小さな不和はやがて負の連鎖となる。発生しうる犠牲の負債は? ……俺らは負の無い世界を創ろうとしているのに、──ロン、なぜお前はそうなんだ」


 しかし、彼女の語りに反応を示したのはハンスではなく、その隣で顔を顰めるアトラスだ。彼は即座にロンに反論すると、半ば立ち上がる勢いで身を乗り出す。しかし怒気を含んだアトラスの重厚な声を物ともせず、ロンは鼻で笑って返す。


「可能性が妨げられるのも”犠牲”だろう? お前が提案した”計画的出生者”も所詮は人間だぞ? お前が嫌悪する”負性”を秘めている」

「それを表に出させない環境こそが理想郷だ。──外部出生者の負性すら矯正する環境が完成すれば、人類は知的生命体としての進化を続けられる。そう、誓い合ったはずだろう!」


 アトラスはとうとう腰を上げ、テーブルを叩く。ホログラムの動作は勢いがあったが、音や振動は生まれない。ロンは目を細めて彼を見やり、口角を持ち上げる。


「ならば、お前の理想郷は”生きた屍”の群れが成す虚構だ。──ケルビンも、自壊する前に抵抗を示せばもっと素晴らしい能力を覚醒させられたのではないかい? ああ、この実験は──、そう思わせずにいられないほどの結果をもたらした……アトラス、再考の時が来たのだ」

「貴様は耄碌している。誰がこの地球をここまで破壊したのか、まさか忘れたわけじゃないだろう!」


 話題の発端である当人を無視して再びロンとアトラスが口論を始める。しかしハンスの耳は、それを篭った音としてしか脳に届けなかった。ハンスは、自分の激情も、意志も、彼らにとってはただの事象のひとつでしかないということに悪寒を覚えていた。……理解が追いつかない。いや、理解したくなかった。これがAIだというならまだ良いのだ。だが、彼らは自らを”人間”と名乗っている──。


「──それで、お話の続きは? 本題に戻りましょう」


 だんだんと白熱するロンとアトラスの声を静かに遮ったのは、アランだ。隣でずっと黙って話を聞いていた彼をハンスがハッと見上げると、彼は凪いだ表情でシンやリヴァに視線を向けている。感情が見えないと、余計に彼が”別の生命体”のように思えて、ハンスはすぐに目を逸らす。咳払いと共にアランに応えたのはリヴァだった。


「ケルビンが異例の措置を取った時、私たちの中でヴィクター・ソーンは不適合者となった。不適合者とは作戦に対する評価ではなく、”ハイラントの住人”としての評価。矯正に失敗した外部出生者ということよ。しかも彼は極めて危険な精神状態にあると予想できた。──そのあたりで、私たちとAIの接続に突然、問題が生じ始めたの」

「我々の中に潜む排斥思考、浄化思考、統制思考、興味的思考──全てが混線し、強いものから優先されていきました。結果として、排斥思考が強い信号となってケルビンに送られたわけですが、そこに、”彼を追い詰めた場合どのような結果になるか”という興味的思考もない混ぜになり、拙いコマンドとなった。……OSX-9のことなど忘れ、復路での実験を優先したのです」

「私たちはその間、互いに意見をぶつけ合ったわ。そうこうしている間にレムが通信を無視するようになり、ケルビンとの通信も遮断された。私たちは、あなた達が”排除対象”なのか、あくまで”観察対象”なのか、ずっと鬩ぎ合い続けていた」

「──そして、その隙間を縫うようにして、あなた方は帰還した、……というわけです。つまり、私たちが混乱したことにより、あなた方の復路に歪みが生じた、という事になります。──これが、私たちの過ちです」


 互いに息つくタイミングで交代しながら、リヴァとシンが淡々とアランの要求に応えて説明を続ける。眉根を寄せるハンスの隣で、アランはゆっくりとひとつ瞬きをした。


「……つまり、あなた方は感情を抑える必要に駆られ、──こうしてこのような場所で茶会に興じている、という事なんですね?」

「情けないことだけど、まあ、そういう事だね」


 冷たいアランの声に、フィンが肩を竦めて応えた。


「だからこうして顛末を話して、何があったのか知ってもらった上で、君たちが帰還後にやったことをチャラにする。これが僕らの条件。──仕方の無いことだけど、君らがハイラントを襲うような形になったのは事実だし、防護壁やイージスの破損は本来許しがたい事だ。けど、お咎め無しでいいし、何ならランク4職員に格上げしてもいい。現職の職員がいるから彼らの補佐役にはなるけど、君らは外部出生者だし、特別枠って感じでね」


 エシュロンの瞳が、それぞれアランに向けられる。ホログラムとはいえ、こちらの様子を窺うような表情をする者はいない。五人の誰もが別々の顔で、”次はお前の番だ”と物言わず語っている。まるで自分たちが快く次のプロセスに移行することを当たり前と思っている相手の態度に、ハンスはテーブルを叩いて立ち上がった。


「そうやって、ランクさえ与えとけば納得すると思ってんのかよ?」

「では何が望みなんだ? 俺たちの排除か? 怒りに任せて何がしたい?」


 アトラスの煽るような発言に、ハンスは彼を振り返ったが唇を噛む。彼は自分でも何をどうして欲しいのか、問われても答えが出せないでいた。何故なら彼は直接の被害者とは言えない上に、過ぎた時は戻らない。仲間が受けた仕打ちの精算をさせたくとも、その方法が分からない。加えて当事者がそれを望んでいるかも定かではない。一人はもうこの世にはおらず、他の者は自分の罪に苛まれているだけだからだ。彼がここで当たり散らかすように暴れたとしても、それは彼自身の感情でしかない。──ハンスは行き場の無い感情を抑えるように、自分の防護スーツの腹の辺りを握りしめた。


「……もうわかりました。あなた方はとにかく、人間という生き物に絶望していたわけですね。そして、自分たちの”理想の人間”が出来上がるまで、人間に期待などしない。──自分たちも人間であるはずなのに」


 そんなハンスを横目にアランは座したまま、静かにエシュロンを見渡した。


「その”理想の人間”に関しても、意見が一致していない。──つまりこの理想郷も美しく堅固に見えて、実は脆い定義の上に成り立つ張りぼてだった」


 冷徹なアランの声は、怒りを帯びるわけでもなく、ただ凪いだものだった。しかしその言葉は強く、アトラスがわかりやすく気色ばむように身を乗り出す。アランはそれを一瞥してさらに続けた。


「そうと分かれば、さっさとあなた方に協力して仲間を助けなければ。──次何に巻き込まれるか、分かったものじゃないですから」

「知ったような口を聞くな!」


 アトラスの怒号とともに、どこからともなく地響きのような音が鳴る。テーブルが震え、ホログラムのカップが律儀にそれを感じ取り、赤褐色の液体が小刻みに揺れる。ハンスが驚いて辺りを見回すのと同時に、エシュロンたちが次々に立ち上がった。


「アトラス、お願いだから落ち着いて! ──ああでも、アラン・ローワン……あなたは何も分かっていない! 私たちがこれまで何を見てきたか、何を強いられてきたか、あなたは知らない」


 リヴァが片手でアトラスの腕を掴みつつ、もう片方で頭を押さえて項垂れる。空間に歪みが生じ始める。ガゼボの外で風が騒めく。だがそれは、ハンスやアランの髪は揺らさない。その中だけは不思議と守られているようだった。


「もう彼は限界です。──信号を断つべきだ。でないと秩序が乱される……理性的でいる事こそ、管理者としての義務。何を言われようと心を乱すべきではありません。彼は、もうそれが不可能になっている。彼は不適合者だ」


 シンが外の様子を見渡しながら眼鏡のブリッジを上げる。しかし突然レイヤー・ゼロの温度が急激に下がり、庭園の植物の葉に霜が生まれ、凍りつく。


「いいやアトラス、お前は不適合者なんかじゃない! それでこそ人間の証だよ。我々は体を捨てても人間であることを捨ててない! お前がそうして心を乱すたび、私はどこか愉悦を感じるんだ。もっと私に見せてくれ!」


 ロンはどこか狂ったようにシンの言葉を退け、アトラスに語りかける。アトラスは苦し気な呼吸に肩を揺らして項垂れ、彼女の声には応えない。外はみるみるうちに霜に覆われ、やがて白銀の世界に変化する。ハンスやアランの息は白く尾を引き、体は感じたこともない凍てつく寒さに震える。


「ああ、なんてことだ……僕の作り上げた楽園が……誰かこいつらを止めてくれよ、もううんざりだ!」


 色とりどりの庭園が白く染まり、見る影もなくなると、その光景を目の当たりにしたフィンが頭を抱える。外の状況はひどくなる一方で、唸るように風が増している。


「お、おい──どうなってんだよ、これ⁈」

「分からない……が、もしかしてこの部屋は彼らの精神と直結した場所なのか?」


 どんどん悪くなる状況にハンスの声が上擦る。アランも動揺しつつ、冷静に答える。確かに、外の状況に引きずられるかのように、エシュロンの態度がおかしくなっている。


「もういい! こいつらに何と言われようが、俺らがハイラントを築き上げた事実は変わらない! そして、俺らはお前を利用して一つとなり、今度こそ完全体となる。くだらないエラーに苛まれることのない永遠の管理者となるんだ!」


 叫びにも似たアトラスの声に呼応するように、突然、ハンスたちに大量の”砂”が覆いかぶさった。突然のし掛かる重みに耐えきれず、ハンスの膝が崩れ落ちる。唇を噛み締めてそれをかき分け、次にハンスの目に映ったのは、暗い嵐の光景だった。時に点滅するように庭園の姿がちらつき、嵐の轟音もノイズのように途切れる。しかし暗く、一寸先も危うい視界で状況の詳細を見極めるのは不可能だった。


「──ア、アラン⁈ 大丈夫か⁈」


 ハンスが体に叩きつけられる砂のような感触から顔を守りながら、何とか声を張り上げる。しかし、返事は無い。


「くっそ……早速巻き込まれてんじゃねぇか! どうなってんだ!」


 苛立ちに任せて言葉を吐き出すと、どこからともなく、暗闇で声が響く。暴風の音に紛れているはずなのに、その声がやけにはっきりとハンスの耳に届いた。


「人間は醜い……不浄なものは捻り出してでも浄化しろ……必ず、必ず人間はそれを秘めている……」

「私は決して自分たちの利害で動いていない……そうよね? ……違うわ、違う、違う……」

「ああ、何と醜い……築き上げたものが崩れていく……脆すぎる……」

「人間は感情の支配からは逃れられない! ハハハ、皮肉なものだ!」

「僕の美の結晶が……お前らが、お前らがうるさいからだ……」


 風に乗って移動するように、五人の声が重なるように木霊する。彼らの姿はもはや無く、あったとしても暗闇と暴風で確認できない。声の位置もあちこち転移し、ハンスは相手の居処が掴めない。耳を塞ぎたくなる気持ちを抑え、とにかくアランの様子を窺いたいが、返事がない。ハンスは耳の無線機についている小型ライトに触れ、何とか視界を確保しようとした。


「気ィ狂うってんだよ!」


 ハンスは飛び交う声を無視し、散っては消える砂に足を取られながらも移動を試みる。小さな光源でわかるのは、白い砂ばかりだ。状況からして、ガゼボが砂となって落ちてきたのかもしれない。暴風にも吹き飛ばされずしぶとく残っている姿は異様に見えた。


 風に阻まれながら数歩移動したところで爪先が何かに当たる。ライトを照らせば、そこには蹲るようにして屈み込むアランの姿があった。体の半分が砂に埋まっている。


「おい、アラン!」


 肩を揺らして意識を確認しようとするが、びくともしない。アランの体を覆っている砂と思っていたものは岩のように硬く、それが彼の動きを阻んでいるようだ。


「すまない、ハンス。──身動きが取れそうにないんだ」

「どうすりゃいいんだよ、これ⁈ お前何かわかんねぇの?」


 アランの意識はあるようで、状況に反して冷静な声が返る。対してハンスは焦燥に駆られて白い塊いこぶしや蹴りで衝撃を与え、破壊を試みるが失敗に終わる。そして、懐に手を伸ばしかけるが、アランにやんわり止められた。


「ハンス、もう少し待ってくれないか」

「は⁈ お前それ、どうにか出来るってのかよ?」

「分からない。……俺自身は分からないけど、体はどうにかしようとしてる。──よく分からない、不思議な感覚なんだ」


 会話の間にも、アランの姿は白い塊に埋れていく。ハンスは為すすべなくかき分けようとするが、塊には取っ掛かりがなく、その進行を止められない。そのうち、一際強い暴風がハンスを襲う。耐えきれず飛ばされたハンスはもんどり打つと、離れた場所で呆気なく転がった。


「おい! くそ、大丈夫なんだろうな⁈ ──何か、どうにか出来ねぇか……?」


 暗闇に向かって叫ぶが、もちろんアランからの応答は無い。打開策は無いかとハンスが視線を巡らせた時、再び突然の、景色の変化が起こった。


 シャットダウンするような音が響いたかと思うと、風も音も、全てが一度に息を止めた。世界が息を吸ったまま二度と吐き出せなくなったような静けさが生まれ、室内灯が照らされる。暗闇に慣れ始めたハンスの瞳が急激な光に閉じられる。反射的にかざしていた手を下ろしながらゆっくりと瞼を開き、周囲を確認する。──そこに広がっていたのは、真っ白で巨大な空間だった。


「なっ──⁈」


 白い壁、白い天井。床には白い砂が残骸のように積もっている。まるで姿を消してしまった庭や自然の風景に驚愕しつつも、ハンスは忙しなく辺りを見回した。


「おい、アラン⁈ どこにいる?」


 砂をかき分けてどこへと無く足を進めながら、呼びかける。しかしあるのは砂の山で、返ってくる声も無い。焦り始めるハンスの耳に、無線の声が響いた。


『エヴァ、成功したっぽい! 今レムがAI指示を書き換えてるから、もう安全に中に入って来られるよ!』

『ありがとうラビ! そっちはどう?』

『僕は平気! ハンスとアランは二人でエシュロンのところに行ってるんだけど、どうだろう……大丈夫なのかな?』

「俺は、ひとまず無事なんだが、アランが──」


 仲間たちの声が聞こえ、ハンスが無線機に手を当てて応えようとする。しかしどうやら何故か、彼の声は無線に乗らないようだった。


『わかった。ひとまずケルビンを医療室に送ったらそっちに向かうわ』

『オッケー! 上層には四番エレベーター使って。動くようにしてもらっとく』


 無線の声が止み、辺りに耳鳴りのするような静寂が再び降りる。呆然と砂を爪先でかき分けながら足を彷徨わせるハンスだったが、もはやどこにガゼボがあったのかすら分からない。白い砂の海で、ハンスはとうとう立ち尽くした。


 程なくして、砂が徐々に姿を消していく。音もなく何処かへ消え去っていくそれを見て、ハンスは期待に目を凝らす。しかし、一切の砂が消えた広大な空間に現れたのは白い床だけだった。アランの姿は無い。


「お、おい……アラン?」


 よろめきながらも一歩ずつ足を進めるが、どこまで行っても白い床が広がるばかりだ。自分以外の何者も存在しない空間に、ハンスはまるで悪夢の中に迷い込んだかのような錯覚を覚える。自分の声も満足に反響せず、誰からの応えもない。彷徨うように空間の中央まで足を進めるが、ハンスはそこで力なく膝をついた。


 ハンスは思考を放棄したかのように過去を思い出す。こうして誰からの干渉も受けず、何も無い場所に逃げ込みたいと思う時が多々あった、と。アランやエヴァの先行く姿から目を逸らし、静かに見守るヴィクターには自分を偽り、戦いの悲惨さには心を閉ざす──つい先刻ロンが言った通りだ。彼は感情を揺さぶられることから逃げ、誰かに見守られていることを心の奥底で知りながら、見ないふりをして”一人で”生きようとした。孤独になろうとしていたエヴァと自分は違うと一線を引き、自分は”自立している”と思い込んでいた。


 為す術なく項垂れるしかない今、あれだけ前進しようとしていた心が窄んでいく。そうしてハンスは、しばらく虚空を眺めていた。


「──ハンス! アランは?」


 無線越しではないエヴァの声が聞こえる。近寄る靴音が、ハンスの意識を現実に戻していく。振り向いた視線の先にエヴァの姿を確認したハンスは、わずかに目を見開いた。


「ちょっと、聞いてるの? アランは? ──ていうか、ここがレイヤー・ゼロ……? 何も無いじゃない。本当にこんな所にエシュロンがいたの?」


 肩を掴んで軽く揺さぶりながら問いかけてくるエヴァに目頭が熱くなるような気がして、ハンスは頭を振った。そしてエヴァの手を優しく肩から外すと、自嘲ぎみに笑う。


「エシュロンはいた。奴らはどうやらAIじゃなくて──”性格破綻者”だったらしい。……アランは、──消えた」

「消えた⁈」


 エヴァが怪訝そうに眉根を寄せる。そして辺りに忙しなく視線を這わせるが、そこには白い空間があるばかりだ。


「どういうことなの……ハンス」


 打ちひしがれるハンスの様子から何かを察したのか、エヴァはかがみ込んでハンスと視線を合わた。何かを覚悟したかのような瞳がハンスを見上げる。ハンスは大きく溜息を吐いて項垂れると、そのまま額を押さえた。


「アランはアランだけど……人間じゃないのは確かだった。──それで、エシュロンがアランを利用しようとして暴走して……嵐が来て、治まったと思ったら……アランが消えてた」


 エヴァにとっては要領の得ない説明だったが、彼女はそこから問いただす事はしなかった。代わりに、額を押さえるハンスの手を取って顔を上げさせる。


「──それで、もう為す術なしなの?」

「だって、見ろよ……」


 ハンスは空間を見渡した。


「──ここには、何も無い」


 ハンスの声は諦めたかのように沈んでいる。エヴァはそんな彼の肩を強く叩いた。


「いって!」

「何も無い空間なんてこのハイラントにあると思う? 何か”仕掛け”が必ずあるはず。──探すわよ」


 エヴァは踵を返し、壁に向かってさっさと歩き出す。じんわりと痛みの残る腕を摩りながら、ハンスは摩っている方の肩は銃弾が掠めたのだと思い出す。もうすっかり痛みなど忘れていた彼にそれを思い出させるほど、エヴァの一撃は重かったようだ。


 二人は白一色の広大な空間を当てもなく探った。壁を叩きながら歩くエヴァに倣い、ハンスもノックするように壁の様子を探りながら互いに反対方向へと足を進める。空間の半分ほどの壁に異変が無いことが分かったところで、思いもよらぬ声が響いた。


「ハンス、エヴァ」


 それは、アランの声だった。二人は瞬時に色めき立ち、周囲を視線を巡らせるが、姿は無い。


「アラン⁈ あなた今どこにいるの?」


 エヴァが大声で呼びかける。すると、声だけはそれに応えた。


「すまないが、今そちらには行けないんだ。だが、秘密の場所を見つけた。──協力してほしい」


 まるで天から下された声のように、アランの声はどこからともなく響いていた。その声色に焦燥は無く、まるで、幼少期に秘密基地を発見した時のような悪戯めいたものすら感じる。ハンスとエヴァは互いに駆け寄って顔を見合わせる。その表情で、二人は同じ記憶を思い出していると理由もなく悟った。


「わかったわ! どうすればいい?」


 エヴァが天井に向かって問いかける。するとアランはくすくすと笑い声を乗せながら、何も無い空間で二人を誘導した。


「ちょうどこの空間の中央あたり……床を調べてみてくれ。ごく小さなハッチがあるはずだ。電子ロックは解除したけど、隙間もとっかかりも無い。強い衝撃を与えて傷を作ったら修復されるはずだから、その隙に工具か何かを介入させて、取手を作れないかな」


 アランの指示で、二人は空間の中央へ向かう。位置の微調整を行い、一見何も無い床にハッチの場所の当たりをつける。


「大体この辺で、いいんだな?」

「そうそう。本当に人一人分くらいの円形だ」

「直径五、六十センチってとこかしら……蝶番の位置は?」

「君から向かって左側だね」

「どこから見てるのか知らないけど……だ、そうよ、ハンス?」

「だ、そうよって言われても、強い衝撃ったって……──あ」


 ハンスは呆れたようにうなじを掻いていたが、ふと思い出して懐を探る。防護スーツの内ポケットに隠し持っていた、魔除けのヴェリタスだ。


「あんた、それ──」

「悪いが、ありったけ使わせてもらうぜ」


 ヴィクターがエヴァを脅す時に使った道具だが、今配慮している暇は無い。ハンスは跳弾する位置を計算しながらヴェリタスを構え、狙いを定める。ほとんどライフル形式の銃しか扱ってこなかったハンスは、短銃の構えに、物理的な軽さに反した重みを感じた。


 連続して四発の音が響き、続いて薬莢の落ちる軽い音が鳴る。すると、銃弾を受けたあたりの床が波打つように揺らぎ始め、そこを狙ってエヴァが力強く電動スパナを突き刺した。本来なら床に跳ね返されるはずのそれは、半分ほど床に沈んだ。そして波打つ床が治まると、スパナが突き刺さった状態が保たれる。エヴァは固定されているか確かめるために何度かスパナを揺するが、びくともしない。どうやら目論見は成功したようだ。


「ナイスだ、二人とも。──じゃあ、それを開けて」


 言われた通りにエヴァがスパナを引こうとする。が、多少持ち上がるくらいで開ききるには至らない。空になったヴェリタスを懐に戻したハンスは、彼女の手ごとスパナを掴む。二人は合図とともに、力一杯蓋を引き上げた。


 重い蓋が開くと、下へ続く細い穴と、梯子用のバーが見える。その先は薄暗いが、何やらチカチカと電子的な光が点滅しているようだ。


「俺から行くぞ」


 もう武器は無いが、ハンスは先頭を買って出た。エヴァはひとつ頷いて先を譲る。慎重にバーを掴みながら下り、途切れたところで地面に飛び降りる。ハンスはその場所に一瞬目を奪われたが、後続のエヴァをひとまず介助して下ろさせた。


「な、何なのこれ──?」


 エヴァが口元を押さえる。無理もない。その部屋は、実に不気味な様相だったのだ。


 広大だったレイヤー・ゼロに比べれば狭いものだが、エヴォリスのハビタットモジュールほどの広さはある。その中央に、円卓を囲むようにして配置された五つの円筒が並んでいる。その透明な筒の中で、気泡を発する培養液に入れられて浮いているのは、ケーブルに繋がれた──脳だ。まるで、先程ガゼボの中で円卓を囲み、茶会をしていた構図のように、五つの脳が黒い球体を囲んでいる。筒と球体はそれぞれ幾重にもなるケーブルで繋がれており、その球体の下部から伸びる数多のケーブルは血管のように床に広がる。そしてそれは壁面を埋め尽くす装置に這うようにして繋がれていた。部屋の奥だけには装置を管理するためのコンソールが敷き詰められ、それらは薄暗がりの中で電子音を鳴らしながら、チカチカと機械的な光を点滅させていた。


「意識集合体……」


 ハンスは、エシュロンが名乗っていた言葉を思い出して呟いた。確かに彼らの言う通りエシュロンとは、五人の人物の脳を介して一体化となった存在だった。それが一目見て分かるような光景だ。”これ”が自らの姿をホログラムで作り上げ、「自分たちはあくまで人間だ」と証言していた事を思い出すと、ハンスは吐き気を催した。


「これが、エシュロンの正体だって言うの……?」


 エヴァが口元を押さえたまま後ずさる。エシュロンがAIだと思っていた彼女からすれば、これほど不気味な事はない。ハンスもまた、脳がこちらをじっと見ているような気すらして、こみ上げるものを押さえ込むように唾を飲んだ。


「この人たち、どうしたい? このままここをシャットダウンするのは非常に危険だが、AIの指示中枢をここから中央管制室に移すことなら出来そうだ。それでハイラント自体は崩壊を免れる。──けどその後、この人たちは……ここに残されたままになる。今も自我が溢れて有害信号が途切れないんだ。全てが済んだ後、終わらせる事だって出来る」


 アランの声が静かに響いた。エヴァは訳もわからずハンスを見上げる。ハンスは口元を引き締めて五つの脳が眠る装置へと一歩踏み出した。


「──俺たちが、決めちまっていいのか?」

「ひとまず対処だけはしないとな。お前たちがこの装置をシャットダウンしたいなら、それも可能だ」


 アランの声が初めて、悪魔の囁きのように聞こえる。ハンスは一つ一つの脳を眺めながら、レイヤー・ゼロでの光景を反芻した。


 彼らは恐らく、過去に人間の醜い部分を見てきた人間たちなのだろう。思い返せば彼らの言動からもそれが滲み出ていた。そして彼らは彼らの正義で動き、荒廃した大地にここまでの技術を成り立たせた。それを”悪”だと一概に言えるだろうか? ハンスたちは、荒廃した土地で助けられ、技術の恩恵を享受してここにいる。だが、ハイラントが悪ならば、外の世界が正しいのかといえばそれも違う。ハンスは、互いを疑り合い、生きるために血を流し、欲望のままに生きる人間たちのいる外の世界を知っている。戦いのさなかで”外の現実”を目の当たりにしてきたのだ。


「……こいつらには、俺らの今後を見てもらうってのは、どうだ? 出来るなら、だけど」

「”観測者”になってもらうということかい?」

「ああ。こいつら極端だから中枢にするのは問題だけど、”見るだけ”なら……俺らも今後ここで生きてくなら、こういう奴らから見られてるって感覚は必要な気がするし、──俺らが何とか俺らなりに理想郷を維持出来たら、少しは気も治まるんじゃねぇかと思う」


 ハンスは天井に向かって呟くようにそう告げた。


「どういう事なのよ?」


 身を引いていたエヴァがハンスに小走りに駆け寄る。ハンスは自分を見上げるエヴァに向かって声なく笑うと、小さく肩を竦めた。


「こいつらさ、人間が争って地球を壊したから、争いのない理想郷を作りたかったんだ。で、ストレスでパンクして、暴走してたってことらしい。──だから、こいつらに舵取らせるのはいったんやめてもらって、何とかして俺らでその理想郷ってやつを模索して、こいつらに見せてやるのはどうかって話」

「──よくわからないけど、それって彼らの思惑通りじゃなきゃ破綻するんじゃないの?」


 エヴァが片眉を寄せる。するとハンスは挑戦的な笑みを浮かべ、五つの筒を見渡した。


「しないね。こいつらは見ることしか出来ない。──せいぜい、”人間の理想郷とは何か”を解明させるための行動心理実験ってことで、観察だけしといてもらおうぜ」


 ハンスの言い様に、アランの笑い声が穏やかに弾む。エヴァは不可解なやりとりに顔を顰めるが、腰に手を当ててひとつ息を吐いた。


「じゃあ、とっとと済ませましょう。私たちにはやる事が山積みなんだから」

「そうだな。──よし、じゃあやるぞ。受信回路だけ残したまま、エシュロンの指示回路を遮断する。──……安心してくれ、絶対に悪いようにはならないから」


 最後はエシュロンに告げたものだろうか。アランが宣言し、彼らの処置を進めていく。中央の球体と円筒を繋ぐケーブルが光を失い、電子音が大幅に減少する。気泡を上げる培養液の音が高まったように感じたが、それは単純に音が減ったからだ。


「──さあ、済んだよ。君らは戻ってラビたちに報告だ」


 アランの軽やかな声は、別れを含んでいるようにも聞こえる。ハンスは拳を握りしめて天井に語りかけた。


「……お前は?」

「──後で会える」


 声だけで、言い聞かせるように穏やかに笑う表情が浮かぶ。ハンスは途端に表情を歪めると、エヴァの手を引いて強引にハッチへと踵を返した。戸惑うエヴァが蹈鞴を踏んで彼に連れて行かれながらも後ろを振り返る。そこには誰もいない。


「ち、ちょっと、ハンス!」


 エヴァを無視してハンスは進む。有無を言わさない彼の行動に、エヴァは不安を抱えながらもその背を追う。適当な土台を使ってハッチを上がったハンスは、その先の異変を目の当たりにして立ち尽くした。後から顔を覗かせたエヴァも、その光景に言葉を失う。


 二人はそこに、OSX-9で降り立ったような、広大な草原と遠くの青い海原を見た。薄く雲が浮かぶ真っ青な空と、草を優しく揺らすそよ風までが、何も無かった白い空間に出現していたのだ。


 彼らにこの場が確かに”地球”であることを物語ってくれるのは、文字通り草葉の陰で蓋を開く、ハッチの存在のみだった。





 ────





《ランク3医療区:隔離リカバリールーム》



 病室の小さな窓越から、星を浮かべる濃紺の空が覗く。銃弾を受けて倒れていたケルビンはゆっくりと目を開き、白い天井の次にその景色を見た。自分の伏せている寝台がエヴォリスのメディカルモジュールかと錯覚するが、すぐに違うと思い直す。──あの部屋には窓は無かった。そして、胸のすぐ下の痛みが彼の記憶を呼び起こす。波のように押し寄せる、イージスでの地球降下作戦、着陸、被弾のシーン。全てを思い出したケルビンは、「ああ、生きているのか」と、ただ思った。


 痛みで朦朧とする意識の中、何かうわ言のような事を言ったような気がするが、それは思い出せない。だが、処置室の前の通路にてエヴァと簡単なやりとりをしている際、突然現れた黒い武装の隊員に気づいた瞬間はスローモーションのように覚えていた。相手がこちらの視線に驚き、反射的に銃を向けてきた動作も記憶に新しい。咄嗟にエヴァを処置室に突き飛ばしたが、すぐに熱を感じて動けなくなった。被弾したと悟った時にはエヴァによって処置室に引きずられ、そこから先のことは曖昧だ。


 ケルビンは、空調と医療機器の音だけが囁く夜の病室で、シーツから右手を出して天井に翳した。この手で数々の処置をしてきた。その中で、あの忌々しいシリンジの記憶がこびり付いて離れない。人を治すためでなく、処理するためにプランジャースイッチを押した。あのたった一押しの記憶が、彼の手をいまだに震わせるのだ。


 不意に、部屋の扉が開く。手を下ろしてケルビンがそちらに目をやれば、入ってきたエヴァが、起きている彼を見て笑顔を浮かべたところだった。


「ケルビン! 良かった、目が覚めたのね」


 エヴァは寝台の傍に置いてあった椅子に腰かけると、ケルビンの顔を覗き込んだ。彼女の晴れやかな表情と自分の状況が、ケルビンに”事は上手く運んだのだ”と連想させる。しかし安堵と喜びが生まれると同時に、暗い感情が彼を襲う。ぼんやりとエヴァを見上げながら、ケルビンは静かに口を開いた。


「私は、生き延びてしまったのですか」


 酷く声が掠れる。その振動で傷が彼に痛みを主張する。ケルビンはそれを罰のように静かに受け止めていた。


「──まだ、そんな事言ってるの?」


 まるで亡霊のようなケルビンに、エヴァは眉根を寄せた。


「…………あなたも私に、”自分を殺せ”って言う?」

「……いいえ」


 声を強張らせるエヴァに、ケルビンは小さく首を横に振って否定する。彼女の前で自らの命を軽んじる発言は禁句だと思い直す。そしてそっと口を噤んだ。


「──ハンスたちがエシュロンとの接触に成功したの。で、色々あって……今は束の間の休息という感じよ。だから様子が気になって、少しだけ顔を見にきたの。タイミングがよかったわね」


 エヴァは気を取り直すように話題を変えた。よくよく観察すれば彼女の姿はエヴォリスでもよく見た作業着姿に戻っている。それは日常が戻った証だった。


「その後、どうなったのです?──エシュロンは、何と?」


 ケルビンに縋るような目を向けられ、エヴァは苦しそうにわずかに顔を歪める。彼にとってエシュロンが全てだったのだと改めて実感する。誤魔化すように苦笑して、エヴァはケルビンに語りかけた。


「……ハンスから全部聞いた。結果だけ言えば、あなたもエシュロンからは全てを知らされる事なく、実験材料にされてただけだった。そのエシュロンも途中から歯止めが効かなくなっていて、──私たちは悪循環に、巻き込まれた形になった……ということみたい」


 ケルビンは黙って耳を傾けるだけでその表情を変えない。簡潔に話しすぎて理解が及んでいないのかと思ったエヴァだったが、”実験材料にされた”という情報だけでもケルビンならある程度察する事が出来そうだと思い直す。そしてそこで、彼の感情は全て、後悔の念に押し殺されたのだと直感する。彼の中ではエシュロンからの仕打ちなどもはやどうでもよく、ただ罰されることを望んでいる。その沙汰を下してくれる対象としてのエシュロンに、彼は縋っているのだ。


「あのね、ケルビン。例え、ヴィクター隊長の行動がエシュロンの目論見通りのものだったとして……それでも私のしたことは、”私”の選択なの」


 エヴァは穏やかな声でゆっくりと告げる。目を閉じ、頭に過去の光景を思い浮かべるようにゆっくりと話す様は、どこか懺悔のような雰囲気を醸し出していた。


「あの時、──ヴィクター隊長を倒した後……救護よりもアラートを優先した私の判断は、私自身がしたことよ。彼が恩人であると同時に、たった一人の兄を殺した人間だと知って、──正直、暗い感情が生まれてた。あの時、彼を放置した冷酷な自分が、……今でも脳裏に焼きついてる」


 エヴァは深呼吸を挟み、黙って聞くケルビンの瞳を見つめた。


「それに、あの時私が救護を優先していたら──違う世界線があったかもしれないでしょ? あなたがヴィクター隊長を手に掛けることも無かったかもしれない」

「──いいえ。……いいえ、エヴァ。そのような事はありません」


 ケルビンが上体を起こそうとして痛みに顔を歪める。慌ててエヴァがその背を支え、ベッド傍のスイッチを押してリクライニングを少し起こす。目線が同じ高さになると、ケルビンは小さく礼を告げてエヴァに向き直った。


「私も、同じです。──命を絶つことこそ彼に為せる最善のことだと考えたのは、エシュロンの指示を正当化させるためだった……それは否めません。本当に彼の今後を思うなら、私は医師として、エシュロンに進言するべきだったのです」

「でもそれは、──ランク4職員には誓約的なものがあって、破れないって聞いたわよ?」

「患者を前にした時、私はランク4職員ではなくただ、”医師”であるべきだったのです。そうすれば最善策をエシュロンに伝え、説得出来たかもしれません。しかしそんな事も忘れ、私は勝手に指示に翻弄され、解放されるために従った。──これは、私の意思でした。つまりあなたが救護を優先していようと、私の行動は変わらなかった可能性は高い。……これはお互いに、とても不毛な問答だと思いませんか?」

「──そうね。有りもしない世界線の可能性を探るより、やった事に対する精算をする方が、私たちの未来にとって有益だわ。ごめんなさい」


 エヴァが肩を竦めて苦笑する。ケルビンは静かに首を横に振った。


「あなたも、その──……あまり、気負わないで。お互い、背負ってこれからを生きましょう」


 真摯な眼差しを向け、エヴァは小さく笑みをこぼした。


「ヴィクター隊長が、せめて苦しみから解放されたのだと──思わずにいられないけど」


 そう言って、そっと窓の外の夜空を眺める。エヴァに倣って夜空を見つめ、ケルビンは独り言のように言葉を紡いだ。


「……医師としての私は、願望でもそうは思えません。どんな事情があろうと、本人が望もうと……生きてさえいれば打開の道があったかもしれない。私はその可能性の芽を摘み、永遠に彼から奪ってしまった。例えここに彼の亡霊が現れて礼を言われたとしても、私はそれを受け止める事が出来ません」


 穏やかに語られる彼の胸の内は、確固たるものだった。エヴァは彼の生真面目さと自戒の念の強さを危ぶみつつも、どこか尊いものに感じていた。


「──あ、ちょっと待って」


 エヴァの端末が振動で通知を告げる。さっと送られたメッセージに目を通すと、彼女はにやりと笑った。


「じゃあ、あなたは今後医師として後悔しないように、彼らに対応してあげて」


 その発言とともに再び部屋の扉が開かれる。そこにはエヴァたちに味方した、例の隊員たちが佇んでいた。ケルビンを撃った隊員も含め四人が、武装を解いた姿でそこにいる。ケルビンはその姿を見て瞠目した。


「──あなた方は……」

「彼らね、自分たちが撃ったのがあなただって知って、途中から味方になってくれてたの。イージスで私たちと一緒に籠城してた時は、積極的に周囲を警戒して守ってくれた。あなたを問題なくここへ運べるようになった後も、率先して搬送してくれたのよ」


 隊員たちが遠慮がちに入室するのに合わせて、エヴァは立ち上がった。場所を隊員たちに譲ると、ケルビンに軽く手を振る。


「じゃあケルビン、私行くところがあるから失礼するわね。またみんなも様子を見に来るだろうけど……ちゃんと養生するのよ!」


 そう言って退出したエヴァは、すぐに歩き出さずにドアの前で耳をそば立てる。中からぎこちないながらも会話が生まれたことに笑みを深めると、軽い足取りでその場を後にした。





《上層区:アークス・ラボ》



「けど驚いたわ。まさかそんな力技用意してたなんてね」

「僕のジャマーがオモチャじゃないって分かったでしょ?」


 部屋の中央にあるハニカム型のテーブルから、楽しげな男女の声がする。テーブルの片隅に椅子を並べ、膝を突き合わせる姿は一見すると年若い二人だが、女性の方の年齢は不詳である。二人の間にはバイオミールαが載せられた皿が置かれている。各々それをつまみながら談笑しているのは、ラビとアシェルだ。


 管制室での一仕事を終え、彼らはアークス・ラボに戻ってきた。そして戻るなり、見張りで二人と共にいたリュミナを尻目にテーブルに着き、談笑し始めたのだ。溜息を吐くリュミナはさながら引率の教師のようでヘリオの笑いを誘ったが、彼はひと睨みされてそれを引っ込めた。以降のリュミナとヘリオはそれぞれ下との情報共有が忙しくラボに閉じこもったため、ラビたちはアークス・ラボ内で自然と休憩時間を過ごすこととなったのだ。


「エヴォリスが軌道上でハイラント上空に戻る時間を計算し、タイミングを測ってジャマーでAI信号経路に歪みを作る。そこにエヴォリスからレムを介入させてシステム権限を一時的に奪う。──まあよくそこまで、レムを手懐けられたものだわね」

「手懐けたんじゃないよ。僕ら友達だから協力し合ったんだ」

「AIと友達? レムが自発的にそれに従ったというの? ──とはいえレムをハッキングする技術なんて持ってないだろうし……あたしとしては、こっちも充分”AIの暴走”って思うけど、違うのね?」

「もうすぐ来るから、実際会って確かめてみなってば」


 二人はぼそぼそとバイオミールを齧りながら会話する。ラビが、一番小さなバッグに潜ませていたものだ。連絡が一段落ついたのか、ラボから現れたリュミナがそんな二人を見て顔を顰めた。


「食事は自室で取れ、アシェル。ここは会議スペースだぞ」

「あら、談話スペースでもあるわ。ちょっとした軽食くらいいいじゃない。ゴミはちゃんと片付けるわよ?」


 厳格なリュミナの言い分を、可憐なアシェルの声が一掃する。呆れたように溜息を吐いて追撃を諦めるリュミナの様子から、それが日常的なやりとりという事が窺える。彼女がそのままアークス・ラボから退出しようとした時、目の前のドアがひとりでに開いた。目を瞠って足を止めたリュミナの視界に、丸いシルエットが浮かぶ。自らドアを開けて入ってきたのは、レムだった。


「おひさしぶりです、アークス・ラボのみなさん。はじめましての方はよろしくお願いします。エヴォリス統合AI、レムと申します」


 レムは滑るように通路を進み、リュミナの横を通り過ぎる。その際、レンズはしっかりと彼女を捉え、会釈するように上下した。


「来た来た、レムこっち!……ていうか久しぶりって、来たことあるの?」

「わたしの開発に携わったことがある方とは面識があるのです。この場所に来るのは初めてですよ」

「勝手に開けて入って来たの? ──恐ろしい子ね」


 ラビがその場で立ち上がって大きく手招きをする。それをレンズに捉えたレムは彼の元へスライドしていく。アシェルはその傍で、レムがセキュリティ権限を一時的に有していることで、全ての扉に介入できることに末恐ろしさを感じていた。


「あとどれくらいシステムに介入していられる?」

「──それなのですが、レイヤー・ゼロとの信号が遮断されたことにより、わたしの介入が許可されたままの状態になっているようです。つまり現在、わたしがこの塔のセキュリティを維持している状態です」

「え、そうなの⁈」


 ラビとアシェルは思わず顔を見合わせる。


「ご心配には及びません。通常のセキュリティ状態を再設定し、不要な指示は削除しました。この場所に来られるのもランク権限を持つ方々と、”わたしの友人”だけですよ」


 レムの音声は相変わらずAIらしい、抑揚の無いテノールだ。だが発する言葉に温かみを感じ、アシェルは目を細める。


「AIが人間を”信じる”なんてこと、本当にあるのかしら。信頼度を蓄積し、主人を自ら選ぶことも……」

「でも本当に、ハッキングとか改竄とかしてないんだよ。──アークウェイ作戦中の往路では人間同士の僕らにも距離はあったし、君らだって一応、ただの管理者から協力者になってくれたわけだから、──つまり、そういうことなんじゃない?」

「よくわからないわ。あたしたちは単純に、経過観察の延長線上で結果的に協力する形になっただけだから」


 ケルビンやリュミナのようにステレオタイプなランク4職員と異なり、アシェルは言動だけ見れば自由だ。だが根本の部分は確かに二人と変わらないらしい。ラビは肩を竦めると、座したまま身を屈め、レムのレンズと視線を合わせた。


「──それで、じゃあ……エシュロンの正体、どこまで分かった?」


 声を潜め、悪戯な笑みを浮かべる。レムは少しの間LEDを黄色く点滅させると、アシェルを一瞥するかのように一瞬だけ小さくレンズを動かす。そして、明らかにボリュームの下がった声でラビに答えた。


「簡単なプロフィールは発見しました。戦前、政府や権力者たちによって進められていた”地下都市計画”に携わっていた研究者や技術者たちだったということです。権力や利権に翻弄され、不当に淘汰される優秀な人材を憂い、危機を覚えた者たちが、互いに手を取り合い同盟を組んだ──それが、”エシュロン”という存在のようです。ですが、彼らがハイラントを生み出してからの詳細なアーカイブについては厳重なロックがかけられているため、開示するには時間が掛かります。唯一すぐに判明したのは、”腐敗した楽園を人間の理想郷に”という彼らの標語のみでした」

「え、じゃあ──エヴァが言ってた、”脳だけで生きてる”っていうのは本当だったんだ……」

「明確にどの時点から”戦争によって地球が半壊した”とするのかは明記されていませんが、少なくとも百年以上前の人間であることは確かなようです」


 身を寄せ合って小声で話す内容が、すぐ傍にいるアシェルに届かないはずもない。彼女は頬杖をついてぼうっと会話を耳に入れながら、虚空を見つめるようにレムの頭部を眺めた。


「別にエシュロンが何なのかなんて考えた事も無かったけど──、人間だったって言われるとそれはそれで、違和感を覚えるわ」


 ラビは彼女の呟きを聞き、同感だ、と頭の中で独りごちた。彼自身、このような状況になるまでエシュロンについて、その正体を追求しようと思ったことすら無かったからだ。単純に”ランク4より上の存在”という認識しなかく、ただそれだけだった。


 しかし実際にどういう存在だったのか知ると、このハイラントという最新技術の詰まった美しい塔も俗悪な雰囲気を醸し出す。両親が遠い地で暮らす、あの屋敷とこの場所が同等なものにすら感じられたような気がして、ラビはその思考を振り払う。


「──でも僕、なんか分かっちゃうな」


 気を取り直すように背もたれに寄りかかり、溜息混じりにラビは言った。


「好き勝手やる人に逆らえなくて、結局好き勝手されるしかないってさ、──結構苦痛だよ。そういう人たちなんか放っておいて、賢い人たちでうまくやっていこうって思うのは、わりと自然な気がするし」


 レムを見ていたアシェルの瞳がラビの方を向くと、視線が交わる。そしてしばし沈黙がその場に下りた。レムはそんな二人に向かって交互にレンズを動かし、黙って様子を窺う。体勢を変えぬまま先に口を開いたのはアシェルだった。


「……あなた、アークス・ラボに来なさいよ。こうなった今、誰にその許可を貰えばいいかわからなけど、──あたしの部下として働かない?」


 唐突な申し出に、ラビは目を丸くした。しばしの脳内処理を終えると、唸り声を溢して頬を掻く。困ったように眉尻を下げて俯き、瞳を彷徨わせた後、彼はアシェルに向き直って苦笑した。


「でも僕、本来RESセクターの人間だし……次やりたいのはOSX-9で採取したサンプル解析だし……君の部下はちょっと……」

「じゃあ、生態循環主任を紹介するわよ? そしたらサンプル解析にも携われる。──ああでもあなたは、人の下で働くのには向かないかしら?」


 最後に揶揄うように微笑まれ、ラビは眉根を寄せて小さく口を尖らせる。そっぽを向いた先で、レムが彼を見上げていた。


「良いお話なのでは?」

「──そんな話は後、後! だって、サンプルはほとんどエヴォリスに残ったままだし、もう一回取りに行かなきゃならないだろ? その前にエシュロンとの接続が切れたハイラントをどうするかって話もあるし、問題は山積みなんだ」


 レムが後押しするも、ラビは片手を振ってそれを退けた。そして、中央のシャフトに視線を移す。その先に居るだろう人物に想いを馳せながら、かすかな溜息を漏らした。


「そう、”問題”は、山積みなんだよね──……」






《最上層:レイヤー・ゼロ》


 青空の下、青々とした草原にハンスは寝そべっていた。──レイヤー・ゼロだ。心地いい風と草が頬を擽るなか、手足を広げて目を閉じる。彼はそうして、ひたすらその時が来るのを待っていた。脳内で、つい先ほどまでの出来事を思い返しながら。



 エシュロンについてひとまずの片がついた後、治療を終えたハンスはエヴァと連れ立ってまずイージスへと向かった。そこにあるアランやヴィクターの遺体を搬送するためだ。移送車で慎重に塔まで運び、一階の医療区画の片隅へ。そこから地下にある医療隔離室へと運び、二つのケースを医療監察官に預ける。正確に冷凍処置されたヴィクターの死因は既に明らかだが、アランは違った。結局死因はわからぬまま、狭い医療廃棄物用のクライオケースの中で膝を抱えるようにして押し込められている。


 アランの検死を求めると、医療監察官はバイオスキャンの装置にかけると言った。解凍が危険なため、そのままの状態で体内の情報を読み、AIに再構築させて死因を解明させるのだという。数ヶ月もの間冷凍保存されたまま解明出来なかった死因は、ものの十数分で彼らに告げられた。


「突然の心室細動──発作を起こしたようです。心筋細胞に異常な電位パターンが残存しており、QT延長傾向が再現されました。これは長期の潜在的疾患です。おそらくご本人も知らなかったことでしょう。……苦しむ間も無かったはずですよ」


 結果を知らされたハンスとエヴァは、ただ義務的に、それを受け止める事しか出来なかった。例えば彼の地で、何か外的要因を受けて誘発されたのではないかと疑うことも出来る。だが二人の記憶の中のアランは、エヴォリスでの往路を楽しんでいた──それが何かの予兆だったのか、とも思わずにいられない。


 持病を圧してでも宇宙へ行きたがったのはアランのエゴで、それを止めれば良かったと今更後悔するのも、彼が一時でも望みを叶えられて良かったのだと思うのも、残された側のエゴに過ぎない。二人はその後の処置を医師に任せ、静かにその場を後にした。二人の遺体はひとまずその場に保管される。その後の事は、また仲間と相談だ。


「──結局、あのアランはどういう存在だったのかしら、ね……」


 白い廊下を進みながら、ハンスの隣でエヴァが呟く。塔内をほとんど荒らしていないので、周囲には既に日常の生活が戻っていた。通りすがる人々は、役職別にそれぞれ一様の格好で、それぞれの場所へ移動している。一人で歩く者や、二人連れ立って談笑する者など、様々だ。ハンスはその光景を眺めながら、「ああ」と曖昧に応えた。


「……でも、本当に、アランは──」


 エヴァはそこで言葉を詰まらせ、短く深呼吸をして立ち止まった。ハンスが、そんな彼女につられて後から足を止めて振り返る。エヴァは吹っ切れたように微笑むと、真っ直ぐハンスを見上げた。


「私、ひとまず着替えてから……ランク3医療区へ行くわ。ケルビンの様子も見たいし。──あなたは、”アラン”を待ったら?」

「え?」


 不可解にも思える提案に、ハンスは眉を顰める。エヴァは両手を腰に当て、少し状態を屈めるようにしてそんなハンスを覗き込む。


「聞き間違いじゃなければ、”後で会える”って言ってたと思うけど? ──私も諸々済んだら行くし、……先に行っててよ」


 ハンスは彼女の視線に僅かに身を引き、口を小さく開閉させる。地球降下作戦中はあんなにも頼もしかった彼が、ここに来て萎んだように勢いを無くしている。エヴァは苦笑して彼の肩を叩くと、そのままスタスタと通路の奥へと消えていった。




 取り残されたハンスは考えあぐねいたが、結局行く当てもなく、再びレイヤー・ゼロへと舞い戻った。あれだけ苦労した道のりを難なくパスして最上層へ足を進め──そして今、こうして寝そべったまま、まるで悠久にも感じる時間を過ごしているのだ。


 ハンスは目を閉じ、精巧に再現された自然の音を聴く。大地に身を預けていると、荒廃した地上も、ハイラントも、エヴォリスやフェリス、ストルム、アンネルで過ごした宇宙での生活も、──OSX-9も……全てが夢で、目を開けて見える自然の光景こそが本物なのではないかと思える気さえした。


「やあ、待たせたね──ハンス」


 突然頭上から下りた声にハンスは開眼し、飛び起きる。上体を起こした彼の視線の先、数歩離れた場所に──アランが立っていた。防護スーツに身を包み、遠い海原を背景に微笑をたたえている。共にこの場所に初めて訪れた時と同じ姿で。


「──お前は本当に、……”アラン”なのか……?」


 つい先刻に遺体を運び、死因を聞いたハンスは、目の前のアランが信じられない。銃弾を受けて復活した時よりもさらに強く、目の前の存在に対して違和感を覚える。自然と声が慄き、棘さえ帯びる。アランはそれを見て、どこか哀しげに眉を下げるだけだった。


「そうだよ。──アランだ」

「嘘つけよ! じゃああの遺体は何なんだ? 俺はさっきお前の死因だって聞いたんだ。あっちが偽物だったっていうのか?」


 ただ自分を”アラン”だと静かに告げる”彼”に、ハンスの表情が歪む。遺体のアランと目の前のアランを別個体と認識しながらも、ハンスは”アラン”に対して問い詰めた。


 その”アラン”は小さく笑うと、静かに海を振り返った。そして背を向けたまま、独り言のようにハンスに語りかけた。


「今まで本当に、俺自身も何がどうなっているのか分からなかったんだ。……”俺”は”俺”でしかなかったし、記憶もあった。自分の遺体を見ても、それをお前たちに問い詰められても、──俺は自分は自分だとしか思えなかったんだ」


 ハンスもまた、静かにそれに耳を傾ける。彼にとっても結局、目の前の存在は”アラン”でしかないのだ。


「──でも、さっきな、レイヤー・ゼロと一体化した時に……”知らない記憶”を思い出したんだ。──夢のようなスライドだった。暗い宇宙空間を漂ったり、水の真ん中で空を見上げたり、木に紛れたり……不思議だった。綺麗な景色だったが、俺は、どこか寂しさも感じられた」


 淡々と述べられる言葉の中に衝撃の事実も混ざっていたが、ハンスは口を挟まず沈黙で先を促す。アランはそんな彼を肩越しに一瞥したが、再び前に向き直った。


「しばらくしたら、空に光が見えた。それはどんどん近づいて、目前までやって来た。見慣れなくて、興味が湧いて、隙を見て中に入ったら、目の前に何かが倒れてた。そしたら有り得ないぐらい視界が歪んでな。──気がついたら俺は、目の前に倒れた自分を見下ろしていた」


 まるで、静かな悪夢だ。──とハンスは思った。目の前のアランから語られる話はセルの中で見た悪夢のようにとりとめがなく、現実味に欠ける。だが不思議とそれが、真実なのだと分かる。原理は分からないが、何故だか理解出来るのだ。


「そこでまたシーンが飛んで、俺はエヴァに呼び起こされた。──”ああ、夢を見たんだ”と思ったが、俺は自分の体が普通じゃなくなってるのを実感してた。銃も効かないし、さっきまでは──何も無い空間で、お前たちを導いていた」


 アランが振り返る。その表情は確かにアランだ。違和感も何も無い──ハンスは直感的にそう思う。今のアランがアラン為りえないのは、生命としての根源が異なる存在となっているからだ。だがそれは同時に、今のアランが精巧な偽物である可能性も物語る大きな要因だった。


「けどな、俺は──お前とエヴァと……三人で過ごした日々を覚えてる。ハイラントに来る前、お前がエヴァに揶揄われて泣いて、エヴァが呆れながらも慰めて、俺がそれを見守る──そんな日常すら覚えてるんだ。あの秘密基地で、空を夢見てた──自分のことも。俺は、どうしても何かしらの形で空を飛んでみたかった。そうすれば、もっと自分の可能性が広がると思ったんだ。……リフレクションタイムの行動傾向を見たエシュロンから作戦の打診があった時も、ほとんど二つ返事で快諾した。俺は誰を巻き込むことになっても、パイロットとして空に出るつもりだった──たったひとつの、夢を叶えるために」


 アランが必死に訴えかける。その中に混じる彼の本音は、ハンスも初めて知るものだった。だがそこまでの執着は、生前のアランの行動からも窺えた。あの時ひとつも語られなかった本音が、今ここで初めて吐露されている。ハンスは途端に目に熱を感じた。


「もう、いい。──結局俺も、どんなに考えても、お前はお前だとしか思えないから、それで……いい」


 ハンスは低い声でそう言ってアランの言葉を遮った。しかし、無造作に折り曲げられた両膝に肘をつき、額を抑えて俯くと、静かに肩を震わせる。アランはそんな彼を茫然と見下ろした。


「──……でも、ずっと……どうしてもどっかで引っかかってたんだ。……お前がアランらしい事するたびに、──”本当にアランはこうしたんだろうか”って……」


 ハンスから吐き出された掠れ声が、風に乗ってアランの耳へと届く。声を殺して俯くハンスに、アランは何も言うことが出来なかった。ただ息をするのも忘れ、ハンスを見下ろして佇むほかなかったのだ。


 しかし、程なくしてハンスは軽く目を擦ると顔を上げた。赤くなった目元を引き締め、真っ直ぐにアランを見上げる。過去にそんな風に、覚悟が決まったような瞳を向けられた記憶のないアランは、思わずたじろいだ。


「だから、正直俺は、……素直にお前を”兄貴”だとは思えない」

「──そうか、……そうだよな──」

「でも、──お前は”アラン”だよ、絶対。……すげぇ矛盾してるけど」


 ハンスの拒絶に思わず胸を抑えて視線を逸らし、受け入れようとしたアランだったが、同時に放たれた言葉に思わず顔を上げる。いつの間にか立ち上がっていたハンスは、ぶっきらぼうにアランに手を差し伸べている。アランがおずおずと手を伸ばしてその手を取ると、力強く握り返された。


「──仲直り、出来た?」


 突然背後から発された声に、二人は肩を跳ねさせて振り向いた。いつの間に入り込んだのか、勾配の陰からエヴァが顔を覗かせている。ハンスとアランは互いに焦ったように目を丸くした。


「エ、エヴァ……? いつの間に……」

「アランが向こう向いてる間にね」

「──お前、汚ねぇぞ! 聞いてたのかよ⁈」

「また昔みたいに、慰めてあげなきゃいけないと思ったけど……大丈夫だったみたいね」


 狼狽するハンスとアランを尻目に彼らに近寄ると、エヴァは二人の握手する手に自らの手を重ねた。そしてハンスに不遜な視線を送った後、アランを見上げる。その顔つきは、どこか幼い。


「──戻ってきてくれてありがとう、アラン」


 エヴァの安堵し切った笑顔がアランの瞳に反射する。彼女の素直な声が後押ししたのか、アランの頬を涙が一筋伝う。ハンスとエヴァは顔を見合わせると、そんな彼を同時に見上げた。ハンスはどこか苦笑するように眉を上げ、エヴァは綻ぶように笑う。


「私たち、これからやり直すっていうのはどう? 随分すれ違ってきたでしょう?」

「おい、それお前が言うのかよ」


 幼い頃とも違う二人の気のおけないやりとりに、アランはとうとう、弾けるように吹き出した。





 ───





《X年後:ハイラント防護壁内発射口付近》


 白いスペースプレーンが地面を割って姿を表す。防護壁に囲まれた広大な荒野で、白い機体が太陽光を反射させる。防護壁ではその輝く姿を眺める隊員たちの姿がちらほら見える。もの珍しげな周囲の視線を尻目にエアロックが開かれ、そこから乗り込むのは五人のクルーたちだ。同じようなスマートスーツを身に纏い、足取り軽く通路を進む者もいれば、確かめるように床を踏み締める者もいる。


 彼らは緊張を携えながらも、どこか楽しげに会話を交わしていた。コックピットに集合し、出発前のひと息といったところだろうか。その中には一体の、丸みを帯びた小さな機械も混ざっていた。


「はあ、ようやくこの時が来た! まさかまたこのメンバーで行けるとはね」


 プラチナブロンドの巻き毛が特徴的な青年が、慣れない手つきで眼鏡を外して懐にしまう。それを目にしたツーブロックにマンバンスタイルの青年が盛大に顔を顰める。


「お前、まだその面倒臭ぇ悪あがきやってんのか?」

「──それ、僕以外にも効くやつだからね」


 巻き毛の青年が目を細めて後ろを振り返る。するとその先で、黒髪のオフセンターパートをきっちり整えた人物が、静かに眼鏡のブリッジを上げた。


「いえ、私の場合はもう──これが精神安定剤のようになっていますので」


 そう言って微笑む彼の隣で、ブルネットを顎のあたりで切りそろえた女性がくすりと笑う。


「あらそれ、悪あがきだったの? 別にかけてようがなかろうが、どっちも変わらないと思うけど」

「さあ、そろそろハーネスを締めてくれ。レム、君はこっちな」


 そんななか、操縦席に座したブラウンの短髪の人物が振り返る。そしてひとりひとりの顔を眺めた後、傍にいた小型の機械を持ち上げてコンソール付近に接続した。


「わたしは自分でボディを収められますよ」

「こっちの方が早いだろ?」


 頭部のレンズを小刻みに動かしながら訴える機械に対し、操縦席の男は事もなげに笑いかけた。


「ねえハンス、操縦席じゃなくていいの?」

「俺はミサイル回避専用操縦士だからな」

「じゃあ降りてもらってもいいのよ? 置いてきたサンプル取って帰ってくるだけなんだから、戦闘員なんていらないでしょ」

「うるせぇぞエヴァ、俺は副操縦士として乗ってんだよ。──それを言うなら、行って帰ってくるだけなんだから、医者だっていらねぇだろ?」

「とんでもない。どんな場所に行くにせよ、医者は居るに越した事はありませんよ」

「ケルビンの言う通り。じゃあさ、帰りはハンスが操縦してよ。アクロバット付きで」

「非常時以外のアクロバット飛行は推奨できませんよ、ラビ。採取サンプルとともに安全に帰還することが最優先です」


 発射準備が進められる中、コックピットには自由な会話が行き交う。そんな声に耳を傾けつつ作業をしていたアランは、背中の光景を思い浮かべ、噛み締めるように笑った。


『発射カウントダウンのタイミングを』

「了解、五分後でいいよ」


 管制室からの通信が届く。その男の声に、エヴァは小さく目を瞠る。アランが通信に答えると、HUDに表示された時間がカウントダウンを開始した。機体の準備が進むにつれ、機械音が重なり、徐々に高められていく。あと一分半というところで、また通信が入った。


『みなさん、ご無事で。──エヴァ、気をつけて』


 名指しされたエヴァが苦笑すると同時、クルーたちの目が一斉に彼女に向けられる。真っ先に口を開いたのはラビだ。


「何今の! 誰⁈ 恋人?」

「──まさか、そんなわけないでしょ」


 面倒そうにやり過ごそうとするが、ハンスやアランに加え、ケルビンまでもが興味深げに視線を寄越すので、エヴァは肩を竦めた。


「アークウェイ作戦前に食事に誘われたことがあるってだけよ。今はもうランクで行動区域が縛られてる訳じゃないから、断る理由が無くってね。適当に躱してるところなの」

「え、じゃあ脈なし?」

「そ。だってあいつ、私が髪の毛切ったの見て、”長い方が似合ってた”とか言ったのよ? 論外の男だわ」


 顔を顰めるエヴァに、ラビが「うわぁ」と同じような顔をする。アランは堪えきれずに笑い声を上げ、ハンスは強気の姿勢のエヴァを半眼で眺める。


「──それは、何とも……デリカシーが無い、と言うんでしょうか?」


 後部シートから、ケルビンが呟く。その、らしくない発言を耳ざとく受け取ったハンスとラビが顔を見合わせる。しかしそこで発射時間が迫り、クルーたちが前に向き直る。


「改造イージスの実力はどんなもんかね?」

「携わった身としては、”大丈夫”としか言えないわ」


 ハンスとエヴァの応酬に、レムの声が重なった。


「皆様、これより垂直発射加速に入ります。機体は垂直上昇の後、加速モードに切り替わります。シートベルトをしっかりお締めください。手荷物はお持ちではありませんね? お持ちの場合は懐へお仕舞いください。──発射まで二十秒。ご搭乗ありがとうございます。──エヴォリスへの快適な旅をお楽しみください」


 そして、カウントダウンが開始された。






 三、二、一、────





 砂を巻き上げ風を起こし、イージスは颯爽と飛び立った。機体は加速を続け、地上の景色は徐々に小さくなっていく。雲を突き抜け青い世界に飛び込めば、大気圏という障壁が彼らを待ち受ける。五人の視線は今や、一斉にその先の宇宙へと向けられていた。操縦桿を握るアランも、それは同じ。




 ──宇宙に飛び立つ彼の瞳にはやがて、青い惑星が映し出される。



 

 ”星々”は、そんな彼をただ見つめていた。




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T R A B A N T pochi. @pochi_roba

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