終章:目覚めの残響

 光の回廊で人間としての姿を自ら解体したアオイの意識は、猛烈な速度で現実へと逆流した。それは、宇宙を漂う光が、再び肉の器へと収斂するような、厳粛な帰還であった。


 意識が身体に定着した瞬間、全身を包み込んだのは、慣れ親しんだ猫の身体が持つ、柔らかな重さと温もりであった。瞼を開けると、視界いっぱいに広がるのは、ユキの安心感に満ちた寝顔である。私は、ユキの心臓の力強い鼓動を、自分の耳元で直接感じ取っていた。


 トクトク……トクトク……


 この音が、あの夢の完璧な誘惑から私を引き戻した「現実の錨」であった。言葉によって永遠の愛を得る夢の幸福と引き換えに、私は、この温もりと沈黙の愛を選ぶことを決意したのだ。


 私は小さく、深く息を吐いた。


(これでいい。愛を言葉にする必要はない。私は、私の選んだ場所へ帰ってきた。)


 喉の奥で、無意識のうちに安堵の「ゴロゴロ」という音が鳴る。それは猫としての本能的な反応であり、同時に、人間の心による「私は今、満たされている」という、言葉を超えた自己肯定の表明でもあった。


 *


 一方、ネオ・ルナリアの、アパートから遠く離れた取材先の編集室で、シオンは執筆途中の記事の前で手を止めていた。


 彼は、旧市街で多発する奇妙な出来事の核心に迫る記事を書いていた。だが、彼の筆は、ある哲学的な疑問の前で停止していた。


「『言葉にできる真実』と『言葉を超えた真実』の境界……」


 その瞬間、彼の心臓を貫くような、強烈な直感が走った。それは、夢の中でアオイが最後に残した、「沈黙の余白の中にこそ、あなたの新しい物語の、最も力強い核心がある」という言葉が、文字通り彼の意識に響いたかのようであった。


 シオンは、その直感の意味を論理で説明できなかった。しかし、彼の探求者としての魂は、その言葉が、彼が次に追うべき真実の鍵であることを理解した。彼の顔に、迷いのない、清々しい笑顔が浮かぶ。


「そうだ。真実は、語り尽くすものではない。感じ取るものだ」


 彼は記事の方向性を変え、論理の壁の向こう側にある、人々の心に残る「沈黙の余白」を描き出す決意を固めた。アオイが彼に与えた最後の贈り物は、シオンの人生に、新たな深みと確信をもたらしたのである。


 *


 アオイは、ユキの温かい手のひらの感触の中で、静かに目を閉じた。


 彼女の愛は、言葉にならなかった。

 しかし、その愛は、夢の境界を超えて、愛する者の探求心を突き動かし、彼の未来を創り出した。


 この沈黙の選択こそが、彼女が人間としての全てを賭けて選び取った、最も高貴な愛の形であった。アオイの「人間の心」は、永遠に言葉を選ばない、最も崇高な沈黙の愛を貫いた賢者として、ユキの膝の上で、静かにその物語を完結させるのであった。




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硝子と星屑の境界で しおん @sora_mj

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