第4章:最後のメッセージと沈黙の選択
アオイが夢のシオンに背を向けた瞬間、光の回廊は激しく揺らめき始めた。ユキの鼓動が現実の錨として強烈に響く中、夢のシオンの姿は悲哀に満ちた表情を浮かべた。彼は、彼女が選んだ道が、彼の自由を保証するものであることを、本能的に理解していた。
しかし、アオイは立ち止まった。
この夢は、言葉を持つことのできる「最後の空間」である。彼女は、この奇跡的な機会を、ただ自己の解放のためだけに終わらせるつもりはなかった。この瞬間にこそ、現実のシオンが彼の「新しい物語」を生き抜くために必要な、最終的な導きを与えるべきだと確信したのだ。
アオイは振り返り、言葉を発した。その声は、愛の告白という個人的な欲望から完全に切り離された、清冽な叡智に満ちた響きを持っていた。
「シオン。あなたは、真実を追う探求者であり、物語の書き手です。ですが、あなたはまだ、最も重要な『境界』を理解していません」
夢のシオンは真剣な眼差しで、アオイの言葉に耳を傾けた。
「エーテル界と現実の境界ではない。過去と未来の境界でもない。それは、『言葉にできる真実』と『言葉を超えた真実』の境界です」
アオイは、一歩前に進み出た。
「あなたは言葉を尽くして真実を語ろうとする。しかし、真に人々の心を動かし、世界を変えるのは、文字や論理では捕えられない、『沈黙の余白』にある。あなたは、その余白を恐れてはならない。その沈黙の中にこそ、あなたの新しい物語の、最も力強い核心があるのです」
それは、シオンが記者として、あるいは人として、次に立ちはだかるであろう壁に対する、アオイからの最終的な助言であった。言葉で語れない愛情や、説明できない奇跡の存在を、彼自身が信じ、受け入れること。それが、彼の物語の「完成」に繋がる。
愛を言葉で伝える誘惑は、この助言を口にした瞬間に、完全に消滅した。アオイにとって、この言葉は、永遠に愛を封印する代償として、シオンの未来に手渡された、最後の切符であった。
「さあ、行って。そして、あなたの沈黙の核心を見つけるのです」
夢のシオンは、深く、静かに頷いた。彼の瞳には、迷いの影は一切なく、アオイの言葉が、彼の探求の道を照らす、新たな光となったことを示していた。彼はアオイを抱きしめることなく、ただ、深い感謝と尊敬の念を込めた一瞥を残し、光の回廊の奥へと静かに消えていった。
アオイは一人、光の回廊に残された。
彼女は、自身の両手を広げた。完璧な人間の身体。言葉の自由。そして、愛する者との完全な理解。この夢は、あまりにも甘美で、あまりにも容易であった。
アオイは、決意を固めた。
この、人間としての「私」を、ここで完全に終わらせなければならない。
「私の居場所は、ユキの温もりの傍。そして、言葉を持たない、沈黙の愛の中にある」
アオイは、強く願いを込めた。エーテル界との繋がりを断ち切ったときのように、彼女は自らの意志で、人間という存在形態を拒絶した。
彼女の身体は、足元から急速に光の粒子へと分解され始めた。それは痛みではなく、自身が最も安らぎを感じる場所へと還る、解放のプロセスであった。
その光が、猫の身体が待つ現実へと向けて、一つの強い波動となって打ち出された。アオイの意識が、現実のユキの膝の上へと、静かに、そして確固たる決意とともに、帰還しようとしていた。
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