第3章:現実の錨と猫の誓い
沈黙の回廊は、今や言葉の奔流で満たされていた。夢のシオンとの愛の語らい、そして、空間の亀裂から響くクロノの残響による甘美な誘惑。その二つの声が、アオイの心を激しく揺さぶっていた。
「ここに、すべてがある。君の愛も、僕の感謝も。そして君自身の、人間としての存在意義も。この夢の中で、君は解放されたのだ」と、夢のシオンは優しく囁いた。
アオイは、人間としての身体を持つ喜びと、言葉によって愛を伝えられる幸福感に溺れかけていた。これこそが、自己犠牲の先にあった、報われた物語の結末ではないか。彼女の理性は、夢に留まることがシオンの現実を奪うと警鐘を鳴らし続けていたが、言葉による愛の完璧な成就は、理性の声をかき消そうとしていた。
その時、完璧なエーテル空間に、微かな、しかし揺るぎない「異物」が混入した。
それは、遥か遠く、光の回廊の最も外側の膜から伝わってくる、一定のリズムであった。
トクトク……トクトク……
それは、生命を刻む心臓の鼓動。そして、静かで安らかな、ユキの寝息であった。
その音は、アオイの意識が深く潜り込んでいる、現実の猫の身体を抱きしめている、ユキの鼓動の残響であった。
夢のシオンは、その音に気づかなかった。彼の世界は、アオイの願望が創り出した完璧な虚構だからだ。
アオイの瞳に、激しい動揺が走った。ユキの鼓動は、彼女が自ら選んだ「現実への錨」であった。この音は、この夢の甘さが、どれほど危うい虚構であるかを、痛ましく告げていた。
(私は……私は、ユキの温もりを、この猫の身体で守ると誓ったのではないか?)
ユキの鼓動は、アオイに、自分が現実で選んだ「沈黙の愛」の尊さを思い出させた。シオンを愛している。その愛を言葉で伝えたいという欲望は、魂を焦がすほど強い。しかし、ユキの温かさと、猫としての日常こそが、アオイの「人間の心」を支える、唯一の場所であった。
もしこの夢に留まれば、現実の猫の身体は抜け殻となり、ユキは愛する家族を失う。そして、シオンは永遠に、偽りの物語の迷宮から逃れられなくなる。
アオイは、夢のシオンの胸から離れた。
「シオン」
アオイが発した言葉は、愛の告白ではなかった。
「私の愛は……あなたの自由を奪うものではない」
クロノの残響が、「馬鹿な! 愛とは、所有だ!」と叫び声をあげる。しかし、アオイの決意の前では、その声は砂のように崩れ落ちた。
アオイは悟ったのだ。最高の愛とは、言葉によって相手を縛りつけ、自分の欲望を満たすことではない。最高の愛とは、愛する者の選んだ現実と、その自由を尊重し、見返りを求めないことであると。それが、彼女が猫の姿で選び取った、最も高貴な愛の形であった。
アオイは、ユキの鼓動の響きをしっかりと胸に刻み込んだ。
「私は帰る。私の、沈黙の愛が待つ場所へ」
彼女は、夢のシオンに背を向けた。残された時間は少ない。アオイは、この言葉を持つ最後の瞬間を、自分の幸福のためではなく、シオンの未来を確固たるものにするための「最後の贈り物」に使うことを決意した。
彼女は、光の回廊の出口、現実の猫の身体が眠る場所へと、力強い足取りで歩き始めた。
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