第2章:クロノの残響と永遠の提案

 沈黙の回廊を満たす、夢のシオンとの愛の時間は、アオイにとって完璧で、甘美なものであった。現実では決して叶わない「言葉の交流」は、彼女の魂が渇望していた要素であり、その幸福感は、現実への帰還の意思を揺るがすに足る力を持っていた。


 アオイは、人間としての姿でシオンと向き合い、彼と抱擁を交わした。その温もりは、彼女が猫として受け取る安らぎとは異なる、魂が対等に結ばれていることの証であった。


「この愛は、現実のどんな制約も超えた、君と僕だけの真実だ」と、夢のシオンは優しく囁く。


 アオイは彼の言葉に深く頷きそうになった。彼女の心の大部分は、この夢に永遠に留まることを求めていた。愛の言葉に満たされ、孤独から解放される。これこそが、彼女が負った自己犠牲への最高の報酬であるかに思えた。


 その時、完璧に澄み切っていた回廊の光に、不協和音が生じた。空間の一角が、静かに、しかし断続的に揺らぎ始めたのだ。


 ザワ……ザワ……


 光の揺らぎの中心から、かつてアオイの記憶を編集しようとした、クロノの「意志の残響」が、半透明の霧となって現れた。それはもはや、強大な敵の力ではなく、アオイの心の奥底にある「愛への執着」と「物語の完成への欲望」が、エーテル的に増幅された存在であった。


 クロノの残響は、シオンとアオイの間に割って入ろうとはしなかった。代わりに、アオイの意識に直接語りかける。


 ――愛はすぐそこにある。なぜ、手放す必要がある?


 その声は、悪意に満ちた命令ではなく、アオイの心の深層にある疑問を代弁する、甘い誘惑であった。


 ――君は、シオンの解放のために自己を犠牲にした。だが、その犠牲が、君にこの「言葉を持つ自由」を与えたのだ。この愛は、君の物語の最も価値ある成果である。


 残響は、言葉の自由と愛の成就を渇望するアオイの心の隙を突いた。


 ――永遠に夢の中に留まりなさい。この深い繋がりを、物語として永遠に保存すべきだ。現実に戻れば、君は再び沈黙の檻に閉じ込められる。言葉を持たない愛は、虚しい。ここで、君の物語を完璧に完成させるのだ。


 アオイの心は、激しく揺れた。彼女は確かに、この愛の達成を望んでいた。シオンを失うことのない安心感、言葉によって感情を伝えられる喜び。この誘惑は、自己犠牲を「美しい物語」として完結させたいという、彼女自身の根源的な欲望に起因していた。


 もしこのまま夢に留まれば、シオンは永遠に「神秘的な導き手」の幻想に囚われたままとなるだろう。彼の「新しい物語」は、現実で力強く紡がれることなく、アオイの愛の夢の中で停止してしまう。


 しかし、クロノの残響が提示する「永遠」は、あまりにも魅力的であった。


「アオイ……」夢のシオンが、不安げにアオイの肩に手を置いた。夢のシオンは、この外部の干渉を排除できない。なぜなら、彼もまた、アオイの心の深層から生まれた、「永遠を求める欲望」の結晶だからだ。


 アオイは、この甘美な永遠を選ぶか、それとも再び、言葉なき孤独と現実への責任を背負って沈黙の檻へ戻るかという、究極の選択を迫られていた。彼女の「人間の心」は、愛の成就と、愛する者の自由という、二つの絶対的な価値の間で、引き裂かれようとしていた。

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