夜闇駆けて午前二時

Akira Clementi

第1話

 衝動に駆られる、という言葉がある。不安や不快さを解消させる為に、無意識に本能的な行動を促すものだ。


 僕が最初に感じたのは、不快感だったのかもしれない。それは到底耐えがたく、時が経てば経つほど僕の心を蝕んだ。このままでは僕の心が壊れてしまう。そんな危険を、本能が察知したのかもしれない。


 午前二時、僕は家を飛び出した。


 こんな時間、住宅地に人影などない。明かりがついている家もほとんどなく、道には走る僕の足音だけが刻まれていく。走り慣れていないせいですぐに息が上がり始めたけれど、衝動に駆られた僕の足は止まらなかった。

 そうして走っていて、まるで自分が恋をしているような感覚に陥った。燃えるような激しい心。それがむくむくと僕の内側から湧いてきたのだ。


 ああそうか。僕の不快感は、恋をしているからなのか。


 もう頭の中は、それでいっぱいだった。恋は盲目などと言うが、僕はまさにその状態だった。


 街灯が広い間隔で並ぶ夜道は、存外暗い。道の端に溜まった夜闇から、何者かが出てくるのではないか。そんな恐怖が、普段ならあっただろう。


 しかし深夜とは、人を狂わせるらしい。


 僕は恐怖心など忘れたかのように、駆けていた。恋が放つ熱に浮かされていたのだ。


 息を切らして走る僕の顔に、ぽつりと何かが当たった。それは静かに、だが確実に数を増やしていく。

 月を覆い隠していた曇天が、こらえきれずついに泣き出した。

 曇っていたのは分かっていたのだから、傘を持ってくればよかったかもしれない。


 いや、無理か。だって僕は傘など考える間も惜しんで、家を飛び出したのだから。


 幸い雨は弱く、傘がなければ我慢できないほどではない。濡れたアスファルトから、じわじわと湿度の高い匂いが立ち上る。


 曲がり角をいくつか曲がった先に、唐突に鮮烈な光が生まれた。静かな夜を切り裂くような、眩い光。二十四時間三百六十五日営業のコンビニだ。


 自動ドアを手でこじ開けてしまいたい破壊的な心をなんとか押さえて、店内へと入る。スニーカーの濡れた底が、つるりとした床できゅっと鳴った。


 レジ前の、スイーツが並んでいるコーナー。そこを隅から隅までチェックする。


 ない。


 どこを探しても、シュークリームがない。


 いや、正確には僕が探しているシュークリームがない。


 一口大のプチシューはあるが、僕が求めているのはかぶりついた瞬間クリームが溢れ出す、大きな食べ応えのあるシュークリームだ。プチシューごときでは僕の欲を満たせない。


 店員の「あざーしたー」という声を背後に受けながら、僕は小雨の夜へと再び飛び出した。

 駅に向かって走れば、もう一軒別のコンビニがある。そこに賭けるしかない。財布を握りしめ、僕は駆けに駆けた。ふくらはぎがじんじん痺れ、息切れした自分の呼吸がうるさい。それでも僕は、真夜中急激に食べたくなって仕方なくなったシュークリームを求め、必死で駆けた。


 電気の消えた看板が並ぶ通りに出る。なんとかスピードは維持したままカーブを曲がったものの、直後に僕は盛大に転んだ。

 雨で濡れた点字ブロックだ。それで滑り、前のめりに地面へと突っ込んだ。

 日頃から特に運動はしていなかったものの、まだ僕はいざというとき体が反射的に動く程度には若かった。咄嗟に両手をつき、衝撃を和らげる。


 なんでもない様子を装いながら立ち上がり、手についた砂利をはらい落とす。掌には擦り傷ができていて、細く赤い線が幾筋も浮かんでいた。けれど、流れ出るほどではない。

 部屋着にしていた古いジャージの膝部分は、片方が破けてしまっていた。けれどもジャージが犠牲になったおかげで、負傷は免れた。幸いである。


 いい歳をして道端で面白いように転んだことに、羞恥心を覚える。しかし周囲をさりげなく見回しても、誰もいない。いったい誰の目を気にしていたのか。ひとりおかしくなった。


 もしかしたら、転んだ拍子に何か吹っ切れたのかもしれない。

 そうでなければ、深夜という謎のテンションが僕を狂わせたのだろう。


 歩くという選択肢もあったというのに、僕は再び走った。大きな怪我こそしなかったが、打ちつけた膝は少し痛む。それでも足を止めなかった。


 それほどまでに、僕はシュークリームを欲していた。


 かぶりつきたい。

 ハイカロリーなのは分かっているのだが、あの生クリームとカスタードが溢れ出すシュークリームが食べたい。


 普段ならば寝ている時間をとっくに過ぎて夜更かしをしていた僕は、カロリーおばけというものに完全に心を支配されていた。これが週末の恐ろしいところだ。もうシュークリームを食べなければ、眠れない。

 僕の脳内はシュークリームでいっぱいだった。なんなら口の中は既にシュークリームモードになっていて、若干あの味を思い出してしまっている。


 だが、実体のないエアシュークリームなどでは到底満足できるわけがない。ましてや朝になるのを待つなど、無理だ。日が昇れば消えるかもしれない熱情に囚われてしまった今の僕ができるのは、二軒目のコンビニを目指すことだけだった。


 ほどなくして、二軒目のコンビニへと辿り着く。駐車場のない小さなコンビニ前にはトラックが止まり、荷を下ろしていた。


 開けっ放しになっていた自動ドアをくぐり、店内へ。あちこちに、商品が入った青い折り畳みコンテナが置かれていた。もちろんそれはスイーツコーナーにも置かれていて、検品と品出しを待ち構えている。

 スイーツコーナーの陳列棚はすっかすかで、補充を心待ちにしているようだった。

 そんな棚に、ぽつんと置かれたものがひとつ。


 シュークリームだ!


 しかも僕が求めていた、大きくて食べ応えのある、二種類のクリームが入ったシュークリーム!


 たったひとつだけ置かれていたそれに、僕は手を伸ばした。両手で支え持ち、しげしげと眺める。なんと神々しい。真夜中に見つけた三百五十キロカロリーの宝石だ。僕はまるでお姫様を抱き上げたような気分で、それをレジへと運んだ。


 バーコードが読み込まれ、金額が表示される。これを払えば、シュークリームがついに僕ものになる。

 僕の息が荒いのは、走ってきたからという理由だけではなさそうだ。それほどまでに、僕はシュークリームに激しい恋心を抱いていた。まるっきり不審者だが、空腹という不快感から逃れようとした僕にとって、このシュークリームは神からもたらされた授かりものの如き存在だ。どうしたって鼻息が荒くなる。

 財布を覗くがちょうどいい小銭がなかったので、千円札を出した。


「レジ袋おつけしますか?」

「いえ、このままで、大丈夫です」


 息も切れ切れになんとか店員に返事をして、じゃらじゃらと小銭を受け取り、シュークリームを手に店を出る。


 やったぞ。僕はやり遂げた。


 あとは家に帰って、かぶりつくだけだ。歩き食いなどしない。だって僕は、頬にクリームがつくほど思い切りいきたいのだから。


 少ししなしなとした生地にばふっとかぶりつけば、中から溢れる冷たいクリーム。

 舌の上で混ざり合う、生クリームとカスタード。

 想像しただけで心が躍る。自然、帰りも駆け足になった。

 ああ、早く帰って食べたい。家で冷えている無糖の紅茶と共に、体へと流し込みたい。


 そう、無糖の紅茶が全て悪いのだ。


 カロリーゼロのくせに甘い物が猛烈に欲しくなるあの芳醇な茶葉の香りで、食欲のスイッチが入ったのがいけない。深夜の心持で耐えられるわけがないのだから。

 このシュークリームを食べたら、至福のうちに僕は眠れる。僕に憑りついたカロリーおばけも、満足するはずだ。


 そんな浮かれた気持ちが、僕の油断を誘った。

 雨が降っているのを、すっかり忘れていたのだ。

 気持ちはどんなに軽くても、体は走り疲れていた。


 足がもつれ、魔の点字ブロックで再び滑る。

 僕の腕が大きく振られ、びりっという音が響いた。

 破けた袋の口から飛び出たシュークリームが、スローモーションで放物線を描く。


 僕とシュークリームは、同時に地面へと転がった。


 地面に這いつくばる僕の手の先。ちょうど指が届かないところに、シュークリームは静かに体を横たえている。アスファルトに叩きつけられた衝撃で、シュークリームの皮は破れ、クリームをはみ出させていた。


 ああ、なんということだ。まだ一口も食べていないのに。


 僕さえ油断していなければ、この宝石をこんな無様な形で失わずに済んだのに。

 僕の手の中をすり抜けていった幸福の残滓が、涙となって両目から流れる。雨が降っていたのは幸いだ。無様に転がった僕の涙を、雨が隠してくれる。

 どんなに泣いても、もうこのシュークリームは蘇らない。それでも、嗚咽を止められない。

 少し粒が大きくなった雨の中、僕は慟哭した。もう周囲に誰かいるかもしれないなど、気にならない。今はただ、シュークリームが死んでしまったという現実の前に、僕は打ちのめされていた。


 どれほどそうしていただろうか。涙も枯れた頃、走り去るトラックの音が遠く聞こえた。

 そうだ。まだ希望は繋がっているではないか。


 無残な姿になったシュークリームを拾い、破れた袋へと入れる。僕の口には入らなかったシュークリームよ、どうか安らかに眠ってくれ。


 立ち上がり、体についた砂利をはらう。

 納品が済んだコンビニへと、僕は歩き出した。


 シュークリーム、もうひとつ買おう。

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