『午前二時のインターホン』

ぼくしっち

第1話完結

大学進学を機に始めた一人暮らし。

 都心から少し離れたそのアパートは、築年数こそ経っていたが、南向きの窓から差し込む光が心地よかった。なにより、破格の家賃が俺の背中を押した。

 段ボールの山に囲まれながら、これから始まる新しい生活に胸を躍らせていた。

 あの夜までは。


 最初のチャイムが鳴ったのは、引っ越して三日目のことだった。

 深夜。慣れないベッドで浅い眠りを繰り返していた俺は、無機質な電子音で目を覚ました。


 ピンポーン。


 一瞬、何の音か分からなかった。ぼんやりとした頭で壁の時計を見上げると、短針と長針は、真上の「2」を指していた。

 午前二時。こんな時間に誰だ?

 友人はまだいないし、実家からの荷物はすべて届いている。酔っ払いが部屋を間違えたか、あるいは、たちの悪いイタズラか。

 ベッドから這い出し、玄関脇のモニター付きインターホンを覗き込む。

 画面に映っていたのは、暗い廊下だけだった。ざらついたノイズが走り、人影ひとつ見えない。

「……なんだよ」

 悪態をつき、再びベッドに戻る。だが、一度途切れた眠りは、なかなか戻ってこなかった。


 翌日も、インターホンは鳴った。

 スマホの時計が「2:00」に切り替わった、その瞬間。寸分違わず、正確に。

 ピンポーン。

 飛び起きてモニターを確認するが、やはり誰もいない。ただ、昨日よりも画面のノイズが少し酷くなっている気がした。


 それが、毎晩続いた。

 きっかり午前二時に鳴り響くチャイムと、誰も映らないモニター。

 四日、五日と続くうちに、俺の精神は着実に蝕まれていった。管理会社に電話しても、「日中は問題ないんでしょう? 業者を呼ぶにしても、深夜二時の現象を確認するのは難しいですよ」と、気のない返事をされるだけだった。

 俺は、夜が来るのが怖くなった。午前二時が近づくと、心臓が嫌な音を立てて脈打った。


 一週間が過ぎた日の朝、ゴミ出しのために部屋を出ると、隣の部屋のドアが開き、人の良さそうな中年女性が出てきた。

「あら、203号室に越してきた方? よろしくね」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 会釈を交わしたところで、彼女は何かを思い出したように顔を曇らせた。

「あの……夜、うるさくない? チャイムの音とか」

「えっ」

 核心を突く言葉に、心臓が跳ねる。

「やっぱり? 前に住んでた若い男の子もね、夜中のインターホンがおかしいって、ずっと悩んでたのよ。結局、気味が悪いって言って、すぐに越して行っちゃったんだけど……」

 イタズラでも、故障でもない。

 この部屋で起きる、固有の現象なのだ。

 その事実が、鉛のように重く俺の腹に沈んだ。


 その夜、俺は眠るのをやめた。

 部屋の電気を煌々とつけ、テレビの音量を上げ、必死で午前二時から意識を逸らそうとした。

 だが、無駄だった。

 バラエティ番組のけたたましい笑い声の合間を縫って、それははっきりと聞こえた。


 ピンポーン。


 もう、モニターを見る気力もなかった。

 耳を塞ぎ、時間が過ぎるのを待つ。

 すると、今まではなかった音が、俺の鼓膜を震わせた。

 インターホンのスピーカーから漏れ聞こえる、ブツッ、というノイズ。

 そのノイズの向こう側から、空気を擦るような、微かな声がした。


「……あ……け……て……」


 全身の血液が、一瞬で凍りついた。

 聞き間違えじゃない。俺は確かに、それを聞いた。

 恐怖で身動きが取れず、息を殺す。

 お願いだから、どこかへ行ってくれ。


 コン、コン。


 今度は、インターホンじゃない。

 鉄のドアそのものが、直接ノックされた。

 最初は、指の関節で叩くような、控えめな音だった。

 コン、コン、コン、コン……。

 俺が応えないと分かると、それは次第に敵意を帯びていく。

 ドン! ドン!

 ガンッ! ガンッ! ガンッ!

 まるでドアを破壊しようとするかのような、暴力的で、狂ったノック。

 俺はベッドの上で胎児のように丸まり、両手で力いっぱい耳を塞いだ。それでも、骨を伝って響いてくる衝撃音からは逃れられない。


 どれくらいの時間が経っただろう。

 嵐のようなノックは、不意に、ぴたりと止んだ。

 静寂が戻った部屋の中で、俺は震えが止まらなかった。

 窓の外が白み始め、朝の光が差し込んでくるのを見て、ようやく硬直した身体を動かすことができた。


 もう限界だ。

 今日、この部屋を出て行こう。絶対に。


 俺はほとんど逃げ出すように、最低限の荷物をバッグに詰め込み始めた。

 震える手で玄関のドアノブに手をかける。

 その時、ドアポストから何かがするりと落ちているのに、気づいた。

 床に落ちた、一枚のメモ用紙。

 なんだ、これ。昨日の夜は、確かになかったはずだ。

 恐る恐るそれを拾い上げると、そこには震えるような、拙い文字が書かれていた。


『あしたも、またくるね』


 全身から、急速に血の気が引いていく。

 なぜ、と思った。どうして、と。

 そして、何気なくそのメモを裏返した俺は、息を呑んだ。


 そこには、ボールペンでぐりぐりと、何度もなぞるようにして。

 この部屋の、俺の部屋の――正確な間取り図が描かれていた。

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『午前二時のインターホン』 ぼくしっち @duplantier

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