第20話 騎士の覚悟と、降臨した姫君

 リリー・ヴァレスクが、文化祭に来ると宣言してから、高坂葵の心は、二つの相反する感情の間で揺れ動いていた。

 一つは、自分のメイド服姿を、一番見られたくない相手に見られるという、身悶えするほどの羞恥心。

 そして、もう一つは、これが絶好の好機だという、淡い期待だった。


(私が、リリーを外に連れ出す、チャンスかもしれない)


 幼馴染が、薄暗い部屋に引きこもっている現状は、恋人として、そして一人の親友として、やはり気になっていた。この文化祭という非日常が、リリーの固く閉ざされた心に、何か少しでも変化をもたらしてくれるかもしれない。学校という場所の楽しさを、ほんの少しでも感じてくれれば。

 そんな、葵の切実な願い。


「葵、どうしたの?最近、なんか気合入ってない?」

「いや、そんなことないです!」


 文化祭の準備期間中、葵は、クラスの友人たちからそう言われるほど、どこか上の空だった。しかし、その内面では、かつてないほどの葛藤と、そして覚悟が渦巻いていた。


(やるからには、中途半半端は、ダメだ)


 それは、空手で培われた、彼女の信条だった。


(リリーをがっかりさせたくない。そして、このチャンスを、絶対に無駄にしたくない)


 その日から、葵の、人知れぬ「メイド修行」が始まった。


 夜、道場で一人、空手の型の練習をした後、葵は鏡の前に立った。


「お、お帰りなさいませ、ご主人様……」


 誰もいない道場に、自分の、か細く、震えた声が響く。その瞬間に、羞恥で顔から火が出そうになるのを、必死で堪える。

 お盆の持ち方、綺麗なお辞儀の角度、そして、何より、メイドらしい、柔らかい微笑みの作り方。ネットの動画を参考に、葵は、来るべき日に向けて、真剣に、そして必死に練習を重ねた。

 その姿は、まるで、全国大会決勝戦に挑むアスリートのように、真摯で、ひたむきだった。

 全ては、愛しい恋人の心を、少しでも外の世界へと向かせるために。


 ***


 そして、文化祭当日。

 校内は、朝から生徒たちの熱気と、楽しげな喧騒に包まれていた。葵のクラスの「メイド喫茶」も、開店準備に追われている。

 葵は、まだ自分の出番ではないため、制服姿で校門の前に立っていた。携帯端末の時間表示を、何度も確認する。約束の時間まで、あと数分。

(本当に、来てくれるかな…)

 期待と不安が、胸の中で入り混じる。


 その時だった。

 校門の辺りが、急に、水を打ったように静かになった。ざわめいていた生徒たちが、まるで時間を止められたかのように、一斉にある一点を見つめている。

 葵も、その視線の先を追った。

 そして、息をのむ。


 人混みの中から、ゆっくりと、一人の少女が姿を現した。

 フリルのついた黒いブラウスに、アシンメトリーなデザインのスカート。足元は、少し厚底のブーツ。その、少しゴシックで、上質な私服に身を包んだ少女は、文化祭という日常の延長線上にある風景の中で、明らかに異質な、そして圧倒的なオーラを放っていた。

 風が、彼女の艶やかな栗色の髪を、ふわりと揺らす。

 その人間離れした美しさと、ミステリアスな雰囲気に、その場にいた誰もが、言葉を失っていた。


 リリー・ヴァレスクが、そこに立っていた。


「……あおい」


 リリーは、周囲の視線など全く意に介さず、まっすぐに葵だけを見つめて、小さく手を振った。

 その瞬間、止まっていた時間が、再び動き出す。


「え、あの子、誰?!」

「モデル?」

「雑誌から抜け出てきたみたい…」

「てか、高坂さんと一緒にいるぞ…!」


 周囲からの囁き声と、好奇の視線。リリーは、その全てが不快でたまらない、というように顔をしかめると、葵の元へと駆け寄り、その制服の袖を、ぎゅっと掴んだ。


「……葵。人、多すぎ!うるさい……もう帰りたい……」

「ま、まあまあ!せっかく来たんだから!」


 葵は、助けを求めるように自分にまとわりつく恋人の姿に、困惑しつつも、どうしようもない優越感と、そして、今日という一日が、特別な一日になるという、確かな予感を覚えていた。


 引きこもりの姫君が、ついに、騎士の待つ城の外へと、その一歩を踏み出したのだ。

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