第19話 姫君への報告と、意外な反応
その日の夜、高坂葵は、ひどく落ち込んでいた。
夕食の席でも、どこか上の空。母の佳代に「葵?何かあったの?」と心配されたが、「ううん、なんでもない」と力なく返すのが精一杯だった。
(どうしよう……)
頭の中は、クラスでの一件でいっぱいだった。自分が、フリルのついたエプロンをつけ、「お帰りなさいませ、ご主人様」などと言う姿を想像するだけで、羞恥で身悶えしそうになる。空手の全国大会決勝戦の、あの極度の緊張感とは、また質の違うプレッシャーだった。
そして、葵にとって最大の難関が、まだ残っていた。
愛しい恋人、リリー・ヴァレスクへの報告である。
葵は、リリーの分の夕食を乗せたお盆を手に、まるで処刑台へ向かう罪人のような、重い足取りで離れへと向かった。
(絶対に、馬鹿にされる『は?メイド?ダッサ。ウケる』とか言って、一生からかわれるに決まってる)
いっそ、黙っていようか。いや、でも、文化祭の日はどうせ一緒に過ごせないのだから、正直に話すしかない。
葵は、意を決して、離れの引き戸を開けた。
「……なに、葵。今日、変な顔してる。世界の終わりみたいな顔じゃん。どしたの」
ゲームの手を止め、リリーが、ゲーミングチェアをくるりと回転させて言った。その大きなヘーゼル色の瞳が、じっと葵の顔を覗き込んでくる。リリーは、葵の僅かな変化にも、驚くほど敏感なのだ。
「い、いや、別に、なんでも……」
「ふーん。まあ、言いたくないなら、いいけど」
リリーはそう言うと、あっさりと興味を失ったように、再びゲーム画面へと向き直ってしまった。その態度に、葵は逆に、話さなければいけない、という気持ちに駆られる。
隠し事など、この魔法使いの前では、通用しないのだ。
葵は、お盆をローテーブルに置き、観念して、消え入りそうな声で白状した。
「……あのさ、リリー……僕、文化祭でメイド、やらされることになっちゃって……」
***
葵は、リリーがどんな反応をするか、身構えていた。
きっと、腹を抱えて大笑いされるだろう。あるいは、心底呆れた顔で、蔑まれるかもしれない。
しかし、リリーの反応は、葵の予想とは、全く、全く違うものだった。
リリーは、ピクリとも動かない。ただ、ヘッドセットをゆっくりと外し、その大きな瞳を、まん丸に見開いて、固まっていた。
長い、長い沈黙。
やがて、その薄い唇から、吐息のような、呟きが漏れた。
「…………葵の、メイド服?」
その声には、嘲笑の色など、微塵もなかった。
代わりに宿っていたのは、ゲームの世界で、超激レアなアイテムを見つけてしまった時のような、純粋な好奇心と、そして、明確な独占欲の光だった。
いつもの気だるげな雰囲気はどこへやら、リリーは椅子から降りると、葵の目の前までやってきて、キラキラとした瞳で詰め寄った。
「……へぇ。それって、僕も見に行っても、いいわけ?」
「え、あ、うん。……でも、その」
「葵が、他の知らないやつのために、『ご主人様』とか言って、給仕する姿を、僕も見れるってこと?」
その言葉には、からかいと、そして、自分の恋人が他人にとられることに対する、子供のような嫉ゆが、確かに混じっていた。
葵は、リリーのその意外すぎる反応に、嬉しいような、さらに恥ずかしいような、訳の分からない感情に襲われる。
「決めた」
リリーは、ポンと手を打った。
「その文化祭、僕も行く」
「ええっ!?」
「葵のメイド服姿、特等席で、じっくり見てやんよ。僕以外のやつに、変なサービスしてないか、ちゃんと監視してあげる」
そう言って、リリーは、にやりと、最高に意地の悪い、そして最高に楽しそうな笑顔を見せた。
葵の「受難」は、図らずも、引きこもりの姫君の重い腰を上げさせる、最高の「餌」となってしまったのだった。
リリーが、自分のために、学校に来てくれる。
その事実は、素直に嬉しい。
だが、あの恥ずかしい姿を、一番見られたくない相手に見られるという、新たな、そして最大級の受難が確定した瞬間でもあった。
葵は、喜びと絶望が入り混じった複雑な心境で、その場に立ち尽くすしかなかった。
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