第14話 初陣と、震える拳
大会当日の朝、高坂葵は、ここ数週間で最もすっきりと目覚めた。
リリー・ヴァレスクの献身的なマッサージと、不思議なハーブの香りがするお風呂のおかげで、身体の疲労は嘘のように消え去っていた。身体は軽い。コンディションは、最高のはずだった。
「これを食えば勝てる。僕の計算(アナライズ)ではな」
リリーが差し出した、消化が良くエネルギー効率を高めるという特製の「勝負メシ」を、葵は感謝を込めて口に運んだ。
道場を出る前、父の源一郎が、ベッドの上から力強い声で言った。
「葵、気負うな。お前らしく、思いっきり戦ってこい」
「うん!」
母の佳代からは、「これ、お守りだから」と、小さな袋を渡された。家族の想いを胸に、葵はリリーと共に、決戦の地である、都内の大きな体育館へと向かった。
しかし、会場に一歩足を踏み入れた瞬間、葵の身体を、これまで感じたことのないようなプレッシャーが襲った。
全国から集まった猛者たちの、むせ返るような熱気と、ピリピリとした殺気。観客席のざわめき。消毒液の匂い。その全てが、葵の覚悟を、いとも簡単に上回ってきた。
(すごい……これが、全国大会!)
高鳴る心臓。浅くなる呼吸。葵は、自分の手足が、小刻みに震えていることに気づいた。
「ビビってんの、葵?大丈夫だって。初戦の相手、僕のデータによれば、ただの脳筋パワータイプだ。練習通りにやれば、瞬殺できる」
隣で、リリーが、いつものように不遜な口調で言う。でも、葵の耳には、その言葉がどこか遠くに聞こえていた。
頭が、真っ白になる。
リリーと二人で積み重ねてきた、あの濃密な日々が、まるで遠い昔の出来事のように感じられた。
***
「女子の部、第一試合!赤、高坂葵選手!白、田中幸子選手!」
アナウンスと共に、自分の名前が呼ばれる。
葵は、まるで他人の身体を動かしているかのように、ふらふらと試合マットへと歩み出た。観客席から聞こえる、父さんと母さんの声援が、やけに遠い。
セコンドについているリリーの顔も、緊張でよく見えなかった。
「――始め!」
審判の、張りのある声が響き渡る。
目の前の相手が、気合いと共に突進してくる。データ通り、大振りで、単調な攻撃。練習で、来るべき軌道は、何百回と身体に叩き込んだはずだった。
(カウンターを合わせるんだ!リリーの言った通りに!)
頭では、分かっている。
しかし、葵の身体は、まるで鉛のように重く、動かなかった。
練習通りの、流れるようなステップは影を潜め、ただ相手の攻撃を、不格好なガードで受け止めるのが精一杯。
(動け!動いてよ、僕の身体!)
心は叫んでいるのに、手足は、主人の命令を完全に無視していた。
相手選手は、葵のあまりの動きの悪さに、戸惑いながらも、好機と見て攻撃を畳み掛けてくる。
重い突きが、葵の腹部にめり込む。
「技あり!」
審判の声。会場のどよめき。
葵は、ただ呆然と、自分の失ったポイントを示す電光掲示板を見つめていた。
第一ラウンド終了を告げるブザーが、無情に鳴り響く。
葵は、セコンドの椅子に戻る足取りも、ひどくおぼつかなかった。リリーが、厳しい顔でタオルと水を差し出す。
「葵、どうした。練習と全然違う。もっと周りを使え。相手のスタミナを削るんじゃなかったのか」
リリーの冷静な声が、葵の心を、さらに深く凍らせていく。
(違う、違うんだ、リリー!)
(分かってる、分かってるんだよ!でも、できないんだ!)
葵は、蒼白な顔で、リリーを見つめ返した。
その瞳からは、戦うべき者の光が、完全に消え失せていた。
そして、震える唇から、絶望的な言葉がこぼれ落ちる。
「だめなの、リリー……」
「私、無理だよ……」
その弱々しい呟きは、体育館の喧騒にかき消された。
しかし、リリーの耳には、はっきりと届いていた。
葵の、心が折れる音が。
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