第13話 騎士様の休息と、甘い痛み

 リリー・ヴァレスクによる「シークレット強化合宿」が始まってから、数日が過ぎた。

 高坂葵の動きは、日を追うごとに、洗練されていった。リリーの的確な分析に基づく戦略的な動きと、葵が本来持つ速さと力が融合し、彼女の実力は目に見えて向上していた。

 しかし、その代償は、葵の身体に、確かな疲労として蓄積されていた。リリーの組んだ特訓メニューに加え、彼女に内緒で続けている早朝の自主練。その両方が、葵の体力を、じりじりと、しかし確実に削っていたのだ。


 大会を二日後に控えた、その夜のことだった。

 道場で、仮想の敵を想定した組手の練習中、葵の足が、僅かにもつれた。いつもの彼女ならありえない、ほんの小さなミス。だが、道場の隅でタブレット片手にその動きを監視していたリリーの目は、それを見逃さなかった。


「――ストップ」

 凛、とした、有無を言わさぬ声が響く。


「今日は、もう終わり」

「で、でも、まだやれる!」

「ばか。疲弊した身体で無理やり続けるのは、稽古じゃなくて、ただの自傷行為だ。それに、僕の完璧なプランを、騎士様のコンディション不良で台無しにされたら、寝覚めが悪い」


 リリーはそう言うと、葵の手を取り、有無を言わさず道場の奥へと引っ張っていった。


 その先で葵を待っていたのは、湯気がもうもうと立ち上る、檜の香りがするお風呂だった。

 リリーは、小さな、刺繍の入った布袋を湯船に浮かべながら言った。


「今日は稽古禁止。コーチ命令で、騎士様には、強制的な休息(メンテナンス)を命じます。これは、ルミエール王家に伝わる秘薬。筋肉の炎症を抑え、精神を安定させる効果がある」


(多分、近所のインターネットで買った、良い入浴剤なんだろうな)


 葵は、そう思いながらも、何も言わずにその優しさを受け入れた。湯船に身体を沈めると、ラベンダーとカモミールが混ざったような、心地よい香りが鼻腔をくすぐる。蓄積した疲労が、じんわりと身体の芯から溶けていくようだった。


 ***


 お風呂から上がり、部屋着に着替えてリビングに戻ると、リリーがソファの前に大きな座布団を置いて、手招きをしていた。


「うつ伏せになれ。最後の仕上げだ」

「え、でも……」

「いいから。僕の作戦を100%遂行できる身体に、完璧に調整してやんよ」


 葵は、もうリリーに抗うことをやめた。言われるがままにうつ伏せになると、リリーの、小さくて、でも驚くほど力のこもった指が、葵の凝り固まった肩や背中の筋肉を、ゆっくりと解きほぐしていく。


「……右のふくらはぎ、張りすぎ。踏み込みの時、無駄な力が入ってる証拠」

「左肩も、ガチガチじゃん。ガードの時、力みすぎなんだよ」


 ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その手つきは、どこまでも優しかった。自分の身体のどこに負担がかかっているのか、リリーは全てお見通しのようだった。自分のことを、自分以上に理解してくれている。その事実が、葵の胸を熱くする。

 身体の芯まで温まった心地よさと、リリーの優しいマッサージ。そして、何より、自分だけに向けられる、その献身的な愛情。

 葵の意識は、ゆっくりと、心地よい微睡みの中へと沈んでいった。


 やがて、葵からすうすう、と穏やかな寝息が聞こえ始めたことに、リリーは気づいた。

 マッサージの手を止め、リリーは、眠ってしまった恋人の無防備な顔を、ただ静かに見つめる。

 普段の、凛とした表情はどこにもない。そこにあるのは、疲れ果てて、安心しきって眠る、年相応の少女の寝顔。

 リリーは、その頬にかかった黒髪を、そっと指で払った。


「……ばか葵。無茶しすぎなんだよ……」


 誰に聞かせるともない、小さな、小さな呟き。


「僕が、ちゃんと勝たせてやるから…」


 リリーは、葵の肩にそっとタオルケットをかけると、その場に座り込み、しばらくの間、愛しい騎士様の寝顔を見守っていた。

 この温かくて、少しだけ甘く痛む気持ちを、何と呼ぶのだろう。

 リリーはまだ、その答えを知らない。

 ただ、この寝顔を、この存在を、自分の持つ力の全てで守りたいと、心の底から願うだけだった。


 大会前夜。静まり返った高坂道場に、二人の少女の、穏やかな時間が流れていく。

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