第12話 魔女のシークレット合宿、開始!

 高坂葵が、父の代わりに大会へ出場すると決意した、その翌日のことだった。

 まだ夜も明けきらぬ薄闇の中、葵は一人、道場でがむしゃらにサンドバッグを叩いていた。焦りがあった。父の代わりという重圧、全国レベルの相手と戦うことへの恐怖。それらが、彼女の突きを力ませ、呼吸を浅くさせている。


(もっと、もっと強くならなきゃ!)


 その一心だけで、身体に鞭を打つ。しかし、その動きは空回りするばかりで、ただ無駄に体力を消耗させていた。


 その時だった。道場の入り口に、マグカップを片手に持ったリリー・ヴァレスクが、静かに立っていた。


「……しょーがないな」


 リリーは、大きなあくびを一つすると、呆れたような、それでいてどこか楽しそうな声で言った。


「騎士様が一人で空回りしてたら、見てるこっちの目が腐る。僕が、お前の専属コーチになってやんよ」


 そして、リリーはスマホを取り出すと、高らかに宣言した。


「――これより、高坂葵・優勝のための、僕様謹製シークレット強化合宿を開始する!」


 そのヘーゼル色の瞳は、真剣な光でギラギラと輝いていた。葵は、その力強い光に吸い込まれるように、こくりと頷く。


「うん。お願いします!」

「よろしい」


 リリーのコーチングは、葵の想像とは全く違うものだった。

 まず、彼女がメスを入れたのは、食事だった。


「闇の秘術(ネット検索)と、ルミエールに伝わる古代薬膳の知識によれば、今の葵に必要なのは、筋肉量よりも、瞬発力と持続力を高める栄養素だ」


 そう言って、リリーは厨房に立つと、驚くほど手際よく料理を始めたのだ。その姿は、いつもの引きこもり姫とは似ても似つかない。

 稽古後、葵の前に並べられたのは、鶏胸肉のハーブ焼き、回復を促すという謎のスパイスが入った野菜スープ、エネルギー効率を高めるための特製ドリンク。


「……別に。僕が食いたいもの、ついでに作ってるだけだし」


 そう言って顔をそむけるリリーの耳が、ほんのり赤く染まっていたのを、葵は見逃さなかった。


 夜には、リリーの軍師としての才能が発揮された。彼女は卓越した情報収集能力を駆使し、有力選手たちの過去の試合映像を分析したレポートを葵に見せる。


「この相手、右の突きが単調すぎ、草。完全にパターン化してる。誘ってカウンター狙えるぞ」

「こいつの弱点はスタミナ。長期戦に持ち込めば、後半は雑になる。守りを固めて、相手の自滅を待て」


 その分析は、ぎっくり腰で休んでいる父も思わず唸るほど的確で、鋭かった。


 ***


 リリーのサポートは、葵の内に秘めた闘志に、新たな炎を灯した。


(リリーが、ここまでしてくれるんだ。僕も、応えなきゃ)


 翌日。リリーはまだ離れの部屋で眠っている、夜明け前の時間。

 葵は一人、静かに家を抜け出し、近所の河川敷を走り込んでいた。白い息を弾ませ、アスファルトを力強く蹴る。誰に言われたわけでもない、彼女自身の、覚悟の表れだった。

 そして、道場に戻ると、月明かりだけが差し込む静謐な空間で、一人、型の演舞を行う。

 道着の裾が、ひらりと舞う。その動きは、戦いのための技でありながら、まるで神に捧げる舞のように美しく、神聖ですらあった。

 リリーが立てた作戦を、この身体に完璧に刻み込むために。自分自身の心と、深く、深く向き合うために。


 その姿を、離れの部屋の窓から、そっと見守る影があった。

 リリーだった。

 彼女は、眠っているフリをして、毎朝、葵が一人で鍛錬に励んでいることを知っていた。

 月明かりに照らされた葵の、ひたむきで、どこか儚げなその姿。

 リリーは、胸が締め付けられるような、愛おしさを感じていた。


「……ばか葵。無茶しすぎなんだよ……」


 窓ガラスに小さく呟き、リリーは、ぎゅっと自分の胸元のペンダントを握りしめる。

(僕の、騎士様……)


 葵を勝たせたい。葵を守りたい。

 その強い想いが、引きこもりの魔法使いを、突き動かしていた。

 大会までの数日間、二人の奇妙で、甘くて、そして真剣な強化合宿は、まだ始まったばかりであった。

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