第15話 魔法使いの激励と、憧れの背中

「だめなの、リリー……私、無理だよ……」


 高坂葵の、絶望に濡れたその呟き。

 それを聞いた瞬間、リリー・ヴァレスクの、いつもは気だるそうなヘーゼル色の瞳に、カッと激しい光が宿った。

 インターバル終了を告げるブザーが鳴り響く直前。リリーは、葵の両肩を、その小さな手で、しかし、信じられないほどの力で掴んだ。


「――ふざけんな!」


 静かな、しかし、怒りに満ちた声が、葵の鼓膜を突き刺す。


「僕がついてるのに、負けるとかありえないから。あんた、誰のために戦ってんの。僕のためだろ。僕の騎士様なんだろ!」


 リリーは、葵の頬を、ぱん、と軽く、しかし鋭く叩いた。


「僕が最強だって、あんたがここで証明すんだよ!分かったら、さっさと行って、あの脳筋をぶっ飛ばしてこい!」


 その自分勝手で、傲慢で、でも、どこまでも真っ直ぐな激励。

 そして、リリーは、観客席からは見えないように、葵の手のひらに、そっと自分の指で何かを描いた。ルミエールに伝わる、集中力を極限まで高めるという、古い紋様。


「これは、契約。もう、あんたは勝つしかないからな」

 

 手のひらに灯る、不思議な熱。

 葵の心に、リリーの言葉と、その熱が、深く、深く染み込んでいく。


(そうだ……私は、一人じゃない)

(私の隣には、世界一の魔法使いがついてるんだ!)


 第二ラウンド開始のブザーが鳴る。

 マットに戻った葵の姿は、先程までとは、まるで別人だった。

 瞳からは迷いが消え、ただ目の前の相手だけを捉えている。震えていた手足は、大地に根を張ったかのように、微動だにしない。

 相手選手が、先程と同じように大振りの突きを繰り出す。

 しかし、今の葵には、その動きが、まるでスローモーションのように見えていた。

 葵は、最小限の動きでそれをいなすと、がら空きになった相手の胴体に、電光石火のカウンターを叩き込む。


「――技あり!」

 審判の声が響く。会場が、どよめいた。


「な、なんだ、あの子!」

「動きが、一気に変わったぞ!」


 そこからの展開は、一方的だった。リリーの分析通り、葵は相手のスタミナを削り、冷静に弱点を突き、完全に試合を支配した。

 試合終了のブザーが鳴った時、葵は、圧勝と言っていい内容で、初戦を突破していた。


 ***


 あの覚醒から、葵の快進撃は続いた。

 二回戦、三回戦、そして準々決勝。リリーの的確な分析と、葵の迷いのない拳が完璧にシンクロし、格上の選手たちを次々と撃破していく。

 そして、ついに迎えた、準決勝。

 電光掲示板に表示された相手の名前に、葵は息をのんだ。


『氷川 静(ひかわ しずか)』


 葵が空手を始めた頃から、専門誌の片隅で、ずっとその姿を追いかけていた憧れの選手だった。

 葵より一つ年上。冷静沈着な試合運びと、一切の無駄がない、舞うように美しい型。一部では、「氷の女王」とまで呼ばれる、天才空手家。


(あの、氷川先輩と……僕が、戦う!)


 恐怖よりも、喜びが、葵の心を支配していた。最高の舞台で、最高の相手と戦える。これ以上の幸せはない。


「――始め!」

 準決勝の幕が切って落とされる。

 力と速さで、嵐のように攻め立てる葵。

 その猛攻を、氷のような冷静さで受け流し、鋭いカウンターで返す、氷川。

 対照的な二人の、ハイレベルな攻防。それは、もはや単なる試合ではなく、一つの芸術作品のようだった。

 会場中が、固唾をのんでその一挙手一投足を見守る。


「なんだ、この試合は!」

「女子の試合で、ここまでレベルが高いとは!」


 観客は、二人の美しくも激しい戦いに、完全に魅了されていた。

 一進一退。互いにポイントを取り合い、どちらも一歩も譲らない。


 最終ラウンド開始のブザーが鳴る。

 汗だくのまま、二人はマットの中央で、静かに、しかし激しく、視線を交わした。

 憧れの背中は、今、手の届く場所にいる。

 葵は、この死闘の果てに、何を見るのだろうか。

 会場のボルテージが、最高潮に達しようとしていた。

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