第8話通じ合えた思い

一瞬だけ目を合わせた後、互いに何事もなかったかのように机に向かった。その夜、樹さんからLINEが届く。


──「今週、どこか空いてる?」


理由は書かれていなかったけれど、わざわざ聞いてくるということは、きっと“あの話”だ。私は胸に小さな期待を抱き、その数日を過ごした。授業中も、採点中も、視界の端に樹さんの横顔が入るたび、心臓がいつもより速く脈打つ。もし本当に両思いになれたら、この気持ちはどうなってしまうのだろう。そんな想像ばかりが、頭の中を駆け巡った。


そして迎えた、週末の夜。駅前の喫茶店。静かな片隅で、私はカップの縁を指でなぞっていた。話す内容は察しているけれど、待つ時間はどうしてこうも心を落ち着かせないのだろう。緊張で、カップを持つ指先が少し冷たくなっていた。


「架純」


ふいに名前を呼ばれ、自然に顔を上げた。樹さんの声は、いつもより少しだけ柔らかい。


「前にさ。気持ちが固まったらでいいって、言ってくれたよな」

「……はい」


彼の言葉に、喉の奥がキュッと締め付けられた。期待と不安が入り混じったような、複雑な感情が胸を占める。


「待っててくれてありがとう。時間はかかっちゃったけど、でも今はもう固まってるから」


その言葉が届いた瞬間、体の奥がふわりと浮いたような感覚があった。心臓がいつもより強く脈打ち、落ち着け、と自分に言い聞かせる。まるで、ずっと張り詰めていた糸が、ゆっくりと緩んでいくようだった。


「ちゃんと好きだって思ってるよ。恋愛感情として。だからもう、待たせてるっていう距離感じゃなくて……これからは対等に、関係をつくっていきたい」


言葉がうまく出てこない。ただ頷くことしかできないのは、本当に嬉しいときって、うまく感情を取り出せないものだからかもしれない。目頭が熱くなるのを感じて、慌てて伏せた。


「……はい。よろしくお願いします」


それだけ。けれど、その言葉に、これまでの樹さんへの憧れ、そして募るばかりだった「好き」という気持ち、そのすべてを詰め込んだつもりだった。彼は何も言わず、ただ優しく頷いてくれた。その沈黙が、今の私には何よりも雄弁で、深く、温かく感じられた。


彼の言葉が胸に染み込んでいくにつれて、少しずつ息ができるような気がする。浮き立つ気持ちをそっと胸の奥にしまい、目の前のコーヒーを一口すくった。まだ少し熱かったけれど、その苦みが、高揚した心をそっと落ち着かせてくれた。


「もっと、ずっと先だと思ってました」


そう呟くと、樹さんは少し驚いた顔をして、すぐに照れたように笑った。


「俺ってそんなに手強そう?全然、めちゃめちゃチョロいよ」

「そんなことないです。ずっと、どうしたらいいか必死で、いっぱいいっぱいでした」

「……うん。いつも真っ直ぐぶつかってきてくれてたよな」


息が止まりそうになった。樹さんにそう言ってもらえただけで、これまでの全てが報われたような気持ちになった。報われた、というよりは、自分の気持ちが彼にきちんと届いていた、その事実が何よりも嬉しかった。


「聞いていいですか?」


そうして落ち着いてくると、抑えきれない好奇心が口をついて出た。


「うん。なに?」

「私の、どこを好きになってくれたんですか」


聞くのが怖かったけれど、どうしても知りたかった。彼の言葉一つ一つが、今の私にとって、何よりも確かな真実だったから。


「真っ直ぐでひたむきで、一緒にいると俺まで前向きになれるところ」


こちらを見つめる樹さんの瞳がひどく優しくて、それだけで簡単に泣いてしまいそうになる。そうして樹さんは、とびきり優しそうな声で続けて言った。


「架純といると背筋が伸びるような気持ちになるんだ。気持ちの種類は違ってたけど、きっと最初からずっと惹かれてた」


その言葉は、私の心の奥底にまで染み渡った。彼が私を「すごい」と見てくれていたこと、それが「惹かれる」という感情に繋がっていたこと。これほど嬉しいことはなかった。


「……ありがとうございます」


精一杯の感謝を込めて告げると、樹さんは少しだけ口角を上げた。今度は彼が私に問いかける番だった。


「架純こそ、俺の何が良かったの。俺なんかのどこをそんなに好きになってくれたの?」

「ずっと憧れてて。そんな人が自分を下げるように言うのが嫌だったんです。それで、なら私がって。そうやって見たらもう、全部が好きになっちゃって」


彼の謙虚な言葉に、思わず本音が漏れた。憧れだった人が、自分を過小評価する姿を見るのが、たまらなく嫌だったのだ。その衝動が、いつしか彼への確かな「好き」へと変わっていった。


「…うん」


樹さんは、ただ静かに私の言葉を聞いてくれた。その視線が、私の心を温かく包み込む。


「本当に、大好きなんです」


真っ直ぐに、彼を見つめて告げた。もう、隠す必要なんてない。


「ありがとう。俺も好きだよ。……はは、やっとこうやって返せる」


擽ったそうに、幸せそうに笑ってくれた。そのくしゃりとした笑い方すらも愛おしいのだから、恋というものは全く恐ろしいものだと思った。





「気持ちが固まった」そう言ってもらえたあの日から、私はまるで夢を見ているようだった。「付き合ってる」という言葉の意味が、ようやく現実として胸の奥に降りてきた。ちゃんと向き合ってもらえたことが嬉しくて、私は毎日少しずつ、彼との距離を縮めていった。


とはいえ、職場ではいつも通り。「天野」呼びは変わらないし、あからさまに近づくこともできない。だからこそ、私はその“見えない境界線”のギリギリまで、慎重に寄り添っていった。


いつものようにすれ違うとき、ほんの一瞬だけ目を合わせる。その短い時間の中に、これまでの何倍もの情報が詰まっている気がした。講師室の机を並べて座るとき、彼が手を伸ばすより少し早くホッチキスを差し出す。そんな些細なことが、私にとっては全部、特別だった。彼の行動を先読みできる自分に、密かな喜びを感じていた。


もっと知りたい。彼の考え方も、言葉の選び方も、授業の組み立て方も。今まで「尊敬」だったそれに、“好き”が混ざるようになっただけで、すべての景色が色づいたように見えた。彼の隣にいることで、世界がこんなにも鮮やかになるなんて、想像もしなかった。


ある日の帰り道、模試の記述採点を終えて並んで歩いていたとき、「この前の設問、ちょっと踏み込みすぎたかな」と彼がぽつりとこぼした。私はすかさず言葉を返す。彼の言葉の意図を汲み取り、的確に返したいという気持ちが、自然と湧き上がった。


「でも、あれで思考の“深さ”見れましたよ。ああいう問いで引き出される生徒の視点、すごく面白かった」


彼の顔が、ふっと緩む。その表情を見るだけで、胸があたたかくなるのを感じた。彼にとって、自分の存在が少しでも意味を持てているなら──その実感が、何よりも嬉しかった。


私は、もう少しだけ、一歩踏み込んでみたくなった。これは、これまでの私なら決して言えなかったことだ。


「今度、模試の設問案、私も作ってみたいです。見てもらえますか?」


それはただの相談の体を装った、個人的な願いだった。彼と一緒に何かを作ること。それ自体が、今の私には特別な時間に思えたから。彼の隣で、同じ目標に向かって進む。それが、今の私にとっての最高の幸せだった。


「もちろん。楽しみにしてる」


その返事に、胸の奥がきゅっとなる。たぶん、恋ってこういうことなんだ。手をつないだり、名前を呼び合ったりすることだけじゃなくて──誰かの中に、自分の居場所が少しずつ根を張っていくような、そういう感覚。彼との間に、確かな絆が生まれていることを肌で感じた。


この人の気持ちが、ちゃんと自分に向いてるってわかった今──ほんの小さなことでも、もっと欲しくなってしまう自分が、ちょっとだけ怖かった。まるで乾いた砂漠に水が染み渡るように、心が満たされていく感覚と同時に、もっともっとと求めてしまう衝動に駆られる。


それを確かめるように、彼のとなりで歩幅を揃えながら言った。


「じゃあ……そのあと、ごはん、行きませんか?」

「うん、行こう」


ふたりの声が重なって、自然に笑いがこぼれる。私の中の何かが、確かに変わり始めている。


この幸せがずっと続くなんて、まだどこか信じられない。でも、信じたくてたまらない。だから私は、彼との時間を、自分の手で、一つずつ丁寧に積み重ねていこうと思った。


それからの私は、少しずつ──けれど確実に、変わっていった。


たとえば、LINEの返信は、少しだけ早くなった。スタンプだけじゃなく、短くても必ず言葉を添えるようにした。本当は、送りすぎて重いと思われたらどうしようって、何度も指が止まりかけたけれど──それでも、一つずつ、自分の気持ちを届けるようにした。彼がそれを見て、少しでも喜んでくれたら、それだけで十分だと思った。


会話の流れで「最近、疲れてるかも」と彼がぽつりと漏らしたとき、私は翌日の昼、職員用冷蔵庫のすみに、カフェで買った瓶入りのスムージーをそっと入れておいた。名前は書かなかったけど、付箋に小さく「お疲れさまです」とだけ。


──気づかれたかどうか、確かめる勇気はなかった。でも、その日の帰り際、講師室で彼が一瞬だけ私の方を見て、小さくうなずいたような気がして、胸がきゅっとなった。それだけで、私の心は満たされた。


わかりやすく甘えることも、強く求めることも、私はまだできない。ただ、彼の中に少しずつ自分を根付かせていくように、静かに、でも確かに、近づいていた。このまま、彼の日常の一部になれたら。


放課後、誰もいない自習室で、印刷物をまとめているとき。「ちょっと待ってて」と言っていた樹さんが戻ってくるまでの数分、私は誰もいない空間で、ふと鏡越しに自分の表情を見た。頬が少しだけ赤くて、胸元のシャツに添えた手が、いつもより落ち着きなく動いているのに気づく。


──何してるんだろう、私。


そう思うのに、心は止まらなかった。もっと彼に触れたい。もっと、自分を見てほしい。そんな気持ちが、ふとした拍子に顔を出してしまう。彼が席を立っただけでも、戻ってくるまでの時間が長く感じられる。彼が他の講師と話しているのを見ていると、なぜか胸がざわつく。そのたびに、そんな自分に気づいて、慌てて平静を装う。


心を満たすって、こういうことなんだろうか。それとも、私の中の空洞が、ただ渇いてるだけなんだろうか。満たされるほどに、もっと深く、彼を求めてしまう。


「架純」名を呼ばれるだけで全身が一瞬、静かに緊張する。その響きが、心臓を直接掴まれるような感覚をもたらす。それでも私の口元は自然と緩んで、「はい」と返事をする。


彼と一緒にいる時間は、確かにあたたかい。でも、そのぬくもりが、いつか消えてしまうんじゃないかという不安は、いつも心の隅に小さくうずくまっていた。この幸せが、あまりにも尊くて、壊れるのが怖かった。


だから私は──何かを埋めるように、彼に少しずつ触れた。遠慮がちに、けれど確かに。


一緒に帰る道、ふと彼の手が私のすぐそばにあることに気づく。前より少しだけ歩幅を詰めて、けれど直接は触れずに、その距離を保ったまま並ぶ。その指先が、ほんの少しでも触れ合えば、きっと私の心臓は止まってしまうだろう。


たぶんそれは、愛されたいという気持ちと、壊したくないという怖さの、どちらも本当だったから。


──そして私は、もう一歩だけ、近づこうとしていた。

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誰の特別にもなれないと言うので、私が特別にすることにした。 まひる @plain0911

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