第16話 カメラを手にした日

——それは、まだ風が素直に吹いていたころの記憶。


古びた店の片隅に、ひとつだけ残された引き出しがあった。

ユウに言われるまま、その引き出しを開けた主人公は、思わず息をのんだ。


 


そこには、小さなカメラが入っていた。

手のひらより少し大きい程度の古いフィルム式。レンズには薄いホコリが被っていたが、傷ひとつない。


 


「……これは」


「君のだよ。ずっと前に預かった。忘れてたけどね」


ユウはわざとらしく伸びをしながら、棚の上で丸くなる。

その仕草にツッコむ余裕もなく、主人公はそっとカメラを手に取った。


 


触れた瞬間、何かが指先に戻ってくる。

懐かしいような、でも思い出せない。

レンズの奥に、自分が知らない“景色”が見えたような気がした。


 


「これで、誰かを……撮ってたんだっけ?」


「うん、毎日のように。相手は一人じゃなかったみたいだけどね」


「……どういう意味?」


「ふふ、内緒。少しずつ思い出すといい」


 


カメラの底に、一本のフィルムが入っていた。

すでに巻き終えられているが、現像はされていない。


 


「現像、してみようかな」


「おすすめしないけど、君が望むなら」


ユウは、目を細めてそう言った。


 


——その日の午後、主人公は久しぶりに外へ出た。


記憶の風が吹き抜けるような坂道。

忘れたはずの風景が、まるで空気の匂いとともに蘇る。


 


駅前の古い写真屋。まだ看板が残っている。

中に入ると、昔ながらの機材が今も動いていた。


 


「……現像、お願いできますか?」


「もちろん。でも、これはちょっと古いね。時間がかかるよ」


 


主人公は、少しだけ笑った。

時間は、いくらでもあった。

いまは“何か”を待つことすら、怖くなかった。


 


——数時間後、封筒を受け取って帰った店の扉を開けると、ユウがすでにカウンターの上で待っていた。


 


「戻った?」


「戻った。これ……見るの、怖いけど」


 


封筒を開ける。


そこには、色あせた光景が写っていた。

笑っている誰かの横顔。風に揺れる髪。夕暮れの屋上。

どれも、記憶のどこにもないはずなのに、心のどこかが強く反応していた。


 


「……この人、知らない。でも……」


「でも?」


「忘れたくない気がする」


 


その言葉に、ユウがにっこりと笑った。


 


「それで十分だよ。記憶は、思い出すだけじゃなく、選ぶこともできる。

 君が“忘れたくない”と願った時、その人はもう、ここに戻ってきたんだよ」


 


主人公は、そっと写真を棚の一番奥に差し込んだ。


もう一度会えるかどうかはわからない。

でもその横顔だけは、もう見失わないように。


 


——店の外で、ひとつだけ風鈴が鳴った。


今日は、ほんの少しだけ、風が吹いていた。


 


続く

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