恨まれるほど美しくなる女
@meguneeda
恨まれる事で美しくなる女
気になる人がいた。
俺が通う大学、その大学図書館に俺は足繁く通っていた時期があった。
表面上は勉強に勤しむ健康的な大学生を演じていたと思う。
でもその本当の目的はとある女性との距離を物理的に縮める事にあった。
その日も彼女は、いつものテーブルに静かに腰を下ろし、本を読んでいた。
一瞬、水に濡れているのかと錯覚してしまうほど艶やかでさらさらとした黒髪。
透き通るような白い肌に、どこか憂いを帯びた目元。
相変わらず今日も美しい。
東京中を歩き回ったって、こんな人にはめったに出会えない。そう思えるほどだった。
彼女が読む本の内容は決まって心理学の本だった。
自分の本に目を落とすフリをして横目でチラチラ見ていたからよく知っている。
きっと同じ大学の心理学を専攻している生徒なのだろう。
そう、俺は彼女が好きだ。
話した事もない、名前も知らない。
それでも好きだった。
こうして2年近く彼女目当てで足繁く大学図書館に通うくらいには。
そしてその日、俺はついに声をかけた。
この時こそが、人生の分岐点だったと思う。
普通の人生を生きるか、暗黒面に落ちるかの。
これは、俺がとある女と出会ったしまったばかりに人生を破壊し尽くされてしまった話だ。
「し、心理学って…面白いですよね」
2年間、常に本にのみ向けられてきた視線が、今ついに俺に向いた。
彼女は急に見知らぬ男に声をかけられた事に対して特に戸惑う事もなく平然と答えてくれた。
「ええ……人の心って、怖いほど深いものね」
対して心理学なんて興味も無いのに知ったふうな口で投げかけた言葉だった。
それが何の接点もなかった俺と彼女のあいだに、初めて細い橋をかけてくれた。
彼女の名前は小夜子さんと言うらしい。
少し古風な名前だか彼女のお淑やかな雰囲気にはよく合っていた。
それ以来、彼女とよく話すようになった。
漫画や食べ物、専攻している学部の話――どれを切り取っても、小夜子さんは驚くほど博識で、時に俺の知らないことまで教えてくれた。
中でも驚いたのは、誰にも通じたことがなかった男向けのマイナーアニメの話に、彼女がごく自然に反応してきた事だ。
小夜子さんは男性がよく好む趣味の知識にかなり精通していた。
だからこそ話が合うのが楽しかった。
俺はますます小夜子さんにのめり込んで行った。
そしてついにその日が来た。
「小夜子さん、ちょっと外歩きませんか」
「ふーん……デートしたいの?」
「うっ……ま、まぁそんな感じです」
「ふふっ……いいよ、ちょっと本読んでて目疲れてきたし」
小夜子さんを横に連れて大学内を歩きたいという邪な打算だったが了承された。
言ってみるもんだな。
「ふーん、じゃあ裕太くん結構寂しがり屋なんだ……かわいいね」
「や、やめてくださいよ…あの時だって俺が一方的に振られちゃって」
過去の恋愛失敗談を小夜子さんにからかわれながら夕方の大学内を隣合って歩く。
小夜子さんは恋愛経験豊富なのかこういった話が得意だ。
きっとモテるのだろう、経験豊富な雰囲気に逆に胸を締め付けられるのも事実だが、それでも彼女のそばに居られるだけで俺は幸せだった。
「ふーん、私なら裕太くんみたいな素敵な人、簡単に振ったりはしないけどな」
「え゛」
小夜子さんの言葉に固まっていると、彼女はそっと俺の手に自分の指を絡めてきた。
——恋人繋ぎ。
あまりに突然のことで、頭の中がまるで新品のノートの1ページ目みたいになった。
俺は顔を真っ赤にして、目をぱちくりさせながら小夜子さんを見つめる。
彼女は、少しだけ頬を染めながら、静かに顔を近づけてきた。
キスされた。
「え……」
「ねぇ…裕太くん……私たち付き合わない?」
耳を疑った。
今の幻聴じゃないよな。
小夜子さんの事好きになり過ぎて俺の耳がおかしくなったとかじゃないよな。
いつか俺から言おうと思ってた事を向こうから言われたのだ。
「い、いいんですか」
「うん、裕太くんがいい」
それは突然の出来事だった。
俺に彼女が出来た。
俺の物語が、それまでとはまるで違う章に入ったような。
幸福感で、時計の針が少しゆっくり進んでいるような、そんな感覚だった。
その日以来、昼は一緒に昼食をとり、休みの日は手をつないで歩いて、夜は電話して、勉強なんてしてる場合じゃなかった。
世界って、こんなに楽しかったんだ。
そんな風に思える毎日を、俺は確かに過ごしていた。
「小夜子さんの家ってどこなんですか?」
「うーん……ひみつかな」
その日、初めて小夜子さんと一緒に帰った。
彼女は、あまり大学の外で行動を共にしたがらない。
会うのも基本的には大学、デートも大学の近くばかり。
家の場所も教えてくれないし、プライベートな話はほとんどしてくれなかった。
それでもその日は、俺がどうしても一緒に帰りたいと駄々をこねて、ようやく実現した。
当時の俺は、そんな彼女を「ちょっとミステリアスなタイプ」くらいにしか思っていなかった。
「ついに見つけたぞ、このクソ女」
夜の帳が降りた街を歩いていると、突然、背後から声をかけられた。
俺は驚いて、慌てて振り返る。
そこに立っていたのは、短い黒髪をジェルで固め、黒いトレーナーにやけにピチピチのダメージジーンズという男だった。
普段の俺なら絶対に関わりたくないような、ヤンチャ系の男。
顔を真っ赤にして睨みつけている。
けれど、その視線の先は俺じゃなかった。
睨まれていたのは——俺の隣にいる、小夜子さんだった。
「お前のせいで……お前のせいで……」
男はそう呟きながら、ズカズカとこちらへ向かってきた。
その姿を見た小夜子は、そっと俺の背中に隠れ、か細い声で呟いた。
「裕太くん……怖い……助けて」
そのとき、小さな手が俺の腕をぎゅっと掴んだ、震えていた。
——それだけで十分だった。
俺はこの人を守らなきゃいけない、と心の底から思った。
あとはもう、ただ必死だった。
「裕太くん……大丈夫?」
俺は公園のベンチで、小夜子さんの太ももに頭を預けていた。
全身が痛む──有り体に言えば、ボコボコにされたのだ。
それでも粘った末に、相手が根負けした。
体の痛みにさめざめ泣くダサい俺を、小夜子さんが静かにあやしてくれていた。
「あの人、なんだったんですか……」
小夜子さんは何も言わなかった。
目を伏せ、口を結んでいる。
何か後ろめたい事でもあるようだった。
小夜子さんが何か説明していた気がする。
けれど、俺の意識はすっかり別のところにあった。
去り際、あの男が俺に向かって吐いた、あの言葉。
頭から離れなかったのは、それだけだった。
『お前も……あの女と関わった事を後悔する日が来る』
それからだった、俺が小夜子さんを疑うようになったのは。
恐ろしいものを見た。
良くない事だとは分かっていたが俺は小夜子さんを尾行した、尾行した先で見たのだ。
いや、見た、というより聞いたの方が正しいかもしれない。
「お前が離婚して会社も辞めろって言ったからそうしたんだ!!そしたら結婚しようって!!なのにお前は消えた!!」
「あら、そんな事言った?」
「ふざけんな!!そのせいで俺は人生めちゃくちゃだ!!」
「ふふっ、初めて会った時よりずっと素敵な顔よ……今のあなた…素敵だわ」
「な、なぁ!!小夜子!!嘘なんだよな??本当はまだ愛してくれてるんだよな!?なっ!?もう1回やり直そう!!な!?」
「……あなたもう用はないの、さようなら、金田サマトシさん」
小夜子さんは、地面にうなだれるクマだらけのサラリーマンを見て、楽しげに笑った。
そして、カツカツとヒールを響かせながら、そのまま何も言わずに歩き去っていった。
これだけじゃない。
「な、なぁ小夜子ちゃん……小夜子ちゃんが言った指輪も、ブランドのバッグも全部買ってあげたし……そ、そろそろ……結婚とかも視野に入れていいんじゃないか??」
「なんで?」
「え」
「なんで私が借金まみれになったあなたなんかと結婚しなくちゃいけないの?」
「そ、そんな!!借金だって小夜子ちゃんがそうしろって言ったから!!」
「もう興味ないわ……さようなら…飯田サトシさん」
他にも。
「あなたが私の旦那を誑かしたんでしょ!!」
「あら、彼言ってたわよ……奥さんは料理は不味いし顔はブサイクだしまともに家事は出来ない、そのくせ専業主婦で働こうとしないって……ダメな女を捕まえちゃって彼も可哀想ね」
「な、なな……そ、そんな…あの人はそんな事言わないわ!そんな事」
「彼……元気にしてるかしらね…今頃どこの海をほっつき歩いてるのかしら」
「そ、そうよ!あの人は今どこに居るのよ!あなたの家に居るんじゃないの!!」
「“この船に乗ってマグロ獲ってきてくれたら結婚してあげる”って冗談で言ったのよ?
そしたら本気にしちゃって、ヤクザの漁船に乗って出てったの。バカみたいでしょ?」
「え……」
「あの人たち、使えない新人はよく海に捨てちゃうの。……今頃、どうしてるかしらね。そんなに心配なら、私に文句言ってないで、漁協にでも連絡すれば?」
それは、小夜子さんじゃなかった。
俺が愛した小夜子さんはボロボロと音を立てて崩れていった。
「ねぇ裕太くん…最近よそよそしいけどどうしたの?」
「え」
大学図書館でレポートを書いていると、隣に座っていた小夜子さんがそっと俺の手を握ってきた。
その表情は本当に俺のことを心配してくれているかのようだった。
「なにか……悩んでる?」
「いや…とくには」
「そっか……悩みがあったら言ってね?…私、一応君の彼女なんだから」
「あ、ありがとうございます」
可愛い、優しい、好き。
この顔を見ているとフツフツとそんな感情が沸いてくる。
だからこそ、この小夜子さんとあの小夜子さんが乖離している。
正直嘘だと思いたい、俺が尾行したのは小夜子さんと同じ名前で同じ顔の別の人だと思いたい。
そういう気持ちが働いて、俺はその日も、小夜子さんを尾行した。
そうすればなにかの間違いだったと安心出来る気がしたからだ。
「じゃ、じゃあ……なにか?…俺が大学辞めたのも、中学生の時から付き合ってた彼女と別れたのも…全部俺の勝手な勘違いだったって言いたいのか?」
「そうよ…私そうしてって一言でも言ったかしら」
「い、言ってねぇけど………そう仄めかしたじゃねえか」
「知らないわ」
俺の希望はいとも簡単に崩れ去る。
小夜子さんはまた知らない男の人と会っていた。
「…さようなら、石田トモアキさん」
小夜子さんはそう言い残すと俺と同い年くらいの男性の前から去ろうとした。
その時、だった。
「殺してやる」
その男小さく呟くと懐から包丁を取り出した。
包丁を振りかぶり小夜子さんの背中を狙う。
「危ないっっ」
俺は物陰から飛び出すと小夜子さんを突き飛ばした。
「えっ」
小夜子さんは突然現れた俺の姿に目を丸くしていたようだった。
包丁は俺の肩に刺さった。
男は唐突に物陰から飛び出てきた俺に目を見開いていた。
俺は痛みに構わず、男の手から包丁を奪い取り、そのままなぎ倒した。
俺の怒気に気圧されたのか、男は逃げるようにその場から立ち去っていった。
その場には俺と小夜子さんだけが残された。
しばらくお互い沈黙した。
小夜子さんはじっと俺を見ていた。
けれどその目には、あのいつもの優しさはなかった。
それは、視界に映るものすべてから熱を奪っているかのような、そんな目だった。
しばらくして小夜子さんは大きくため息をついた。
「……いつから尾行してたの」
「……小夜子さんと初めて帰った日から」
「ふーん」
小夜子さんは静かにガードレールに腰をかけると、しばらく黙って空を見上げた。
そして、一言つぶやいた。
「つまんない」
「……」
「あーあ……裕太くんウブだからもう少しお膳立てすれば最高に絶望してくれるって思ってたんだけどな…残念」
そう言って夕焼けの空を眺めている。
どうでも良くなったと言いたそうな様子だった。
「なんの為に…こんな事してるんですか」
「別にどうだっていいでしょ……そんな事」
「良くないですよ!さっきだって危なかったじゃないですか」
「別に私は刺されたって死なないんだから問題ないの」
「え……それ、どういう意味ですか」
それきり小夜子さんはしばらく黙ってしまった。
どういう意味か、本当に分からない。
刺されても死なない人間なんて居るわけない。
「もう、大学には行かないから」
「え、でも…単位はどうするんですか」
「単位?……ふふっ…そもそも私…あの大学の生徒じゃないし」
「え」
「じゃ、そういうことで……。
私今、大事に育ててたスイカを盗まれたような気分なの。だからちょっと機嫌悪いの。帰るね」
「そ、そんな…小夜子さん……」
「さようなら…佐藤ユウタさん」
そう言って、小夜子さんは去っていった。
それきり、本当に大学には現れなくなった。
連絡も取れない。すべてが途切れた。
俺の生活から“小夜子さん”という色が消えた。
世界は、灰色になった。
色のない景色を、ただ呆然と見つめるだけの日々が続いた。
何をしてもつまらない。生きているだけで、心がすり減っていく。
そしてある日、疲れ切った脳が、ある結論に行き着いた。
イカれてると分かっていても、止められなかった。
俺は、小夜子さんを探すことにした。
家も知らない。
どこに住んでいるのかも、本当は何者なのかさえも知らない。
——何も、わかっていなかった。
だから俺は、彼女の痕跡を追った。
今まで尾行していた時、小夜子さんが接触していた相手たちを一人ずつ当たっていった。
実は、彼らの連絡先はすでに持っていた。
尾行の後、「彼女に何をされたのか」聞くつもりで、それとなく声をかけていたのだ。
……当時はただの好奇心だった。
だが今となっては、それが役に立った。
そして、分かった。
小夜子さんは、詐欺師だった。
ただし、普通の詐欺師じゃない。
金を貢がせることが目的ではなかったのだ。
彼女は、男と出会い、恋人になり、
そして最後に——必ず裏切る。
金銭の搾取には興味がないようだった。
むしろ彼女が重視していたのは、「絶望」だった。
相手の心を壊すこと、人生を折ること、それこそが目的だった。
中には一円も巻き上げられることなく、
ただ人生だけを破壊された人もいた。
彼女の行動パターンも、出没しやすい場所も、だいたい絞れてきた。
だが、最後まで分からなかった。
——なぜ、彼女がそんなことをしているのか。
その理由だけは、どこにもなかった。
「久しぶりですね、小夜子さん」
小夜子さんを見つけ俺は話しかけた。
小夜子さんは、俺の顔を見ると、逃げた。
冗談みたいに足が速かった。
その逃げ足こそ、きっと今まで彼女を守ってきた武器なのだろう。
その日は逃げられてしまった。
だが、俺は諦めなかった。
「小夜子さん」
逃げられる。
「小夜子さん!ちょっと待って!!」
また逃げられる。
「小夜子さんっ!!話を聞いて!!」
またまた逃げられる。
「小夜子さん!!一つだけ言いたい事が!!!」
結局逃げれる。
そんないたちごっこを1年近くは続けたと思う。
俺も存外暇だな。
そして今回、ついに会話が成立した。
「小夜子さん、見つけました」
「だ、誰だよこの男」
小夜子さんは見つかった。
今回は彼女がよく使うデートスポットを張ったら1発だった。
この男は、まだ裏切られていない。
いや、これから裏切られるんだろう。
——ああ、かつての俺と立場がまるで逆だ。
今回は逃げない。男が一緒にいるからか。
思えば、俺の時もそうだった。
この人に守ってもらうつもりなんだろう。
「はぁ…君もしつこいね……」
「小夜子さん…一つだけ…一つだけお願いがあるんです」
隣の男は、怪訝そうに俺を見ていた。
「何言ってんだこいつ」とでも言いたげな顔で。
小夜子さんは深くため息をつくと、呆れたように言った。
「なに?最後にヤラせてとか?」
「そんなんじゃ無いです」
彼女は肩をすくめ、わずかに眉をひそめた。
この手のやり取りは、きっと何度も経験済みなのだろう。
「いいよ、いい加減鬼ごっこも疲れたし、話だけ聞いてあげる」
最初で、たぶん最後のチャンスだった。
俺は一度、深く息を吸い込むと、用意していた言葉を口にした。
「俺に小夜子さんの手伝いをさせてくれませんか」
「……は?」
小夜子さんは、一瞬きょとんとした。
まさかそんな言葉が返ってくるとは思っていなかったのだろう。
それでも、俺は言葉を止めなかった。
「小夜子さんが出来るだけ動きやすくなるよう俺がサポートします」
小夜子さんは黙って俺の言葉を聞いていた。隣の男は、俺たちの会話がまったく理解できないといった様子だ。
「危険があれば守ります、雑用は俺が片付けます」
「……」
「小夜子さんの邪魔をする存在が現れれば、俺が排除します」
小夜子さんは視線を外し、数秒だけ沈黙した。その顔に、ほんのわずかだが迷いの色が差したように見えた。
「……ふーん。だから、隣に置けってこと?」
「そうです」
「おい、マジで何の話してんだお前ら!小夜子、行こうぜ!」
「ちょっと黙って」
「え」
小夜子さんは隣の男にそうぴしゃりと言い放つと、しばらく目を閉じて黙り込んだ。空を仰ぎ、何か考えているようだった。そして、しばらくして目を開いた。
「……わかった」
「利用してあげる。ただし、主従関係ね」
「十分です」
そう言うと小夜子さんは繋いでいた男の手をパンと振り払った。
「え、小夜子……?」
「さようなら、平田ヨウスケさん」
そう言って、小夜子さんは俺の隣に来た。
そして迷いなく歩き出す。
俺もその背に合わせて、静かに並ぶ。
その背中を、取り残された男はしばし呆然と見送っていたが、やがて我に返ったように駆け寄り、小夜子さんの腕を掴んだ。
「ちょっと待てよ小夜子!意味わかんねーよ!」
小夜子さんは冷たい目で掴まれた腕を一瞥すると、俺に顔を向けた。
「裕太くん…仕事」
「了解」
俺は男を殴り飛ばした。男は地面に叩きつけられ、何が起きたのか分からず気が動転しているようだった。
「上出来」
「どうも」
そして俺と小夜子さんは唐突に殴られ呆然とする男を後にした。
それから俺は小夜子さんと悪の道を歩いていく事になった。
「なー小夜子…こいつらに何したん?生半可なキレ方じゃなかったぞ」
「別に?いつも通りだけど」
「いつも通りってなんだよ」
俺は額の汗をタオルで拭きながらシャベルで地面を掘っていた。
隣には仏となった刺青男が3人ほど寝かせられている。
そんな様子を小夜子はつまらなそうにショベルカーの座席に横向きで座って眺めている。
「はぁ、まさかショベルカーがガス欠で動かんとは」
恨み言を呟いては地面にシャベルを叩きつける。
小夜子と契約が成立してから5年は経っただろうか、本当に汚いことを山ほどやった。
厄介な警察対策は、基本的に小夜子がすべて片付けてくれる。
今もこうして、小夜子が所有している山で埋葬作業をしているわけだ。
なんで山を持ってるのかは知らない。きっと、どこかの大金持ちにでも貢がせたのだろう。
「はぁ、ちょっと休憩」
「はい、水」
「ありがと」
小夜子から貰ったミネラルウォーターをがぶ飲みし、余った分を頭からかぶった。火照った体を冷ましながら、小夜子の座るショベルカーに背中を預ける。
「ん、なに?」
小夜子がぼーっと俺を見ていたので尋ねた。
「ユウくん、強くなったよね」
「え?そうかな…今でもたまに危ない場面あるけど」
「昔はヤンキー1人にボコボコにされて私の膝でメソメソしてたのにね」
「あー、あったねそんな事」
「こいつらもパパーッと片付けちゃったし、体も仕上がってきたんじゃない?」
僧帽筋のあたりに手を伸ばしてつついてくる。確かにそれなりに鍛えた。というか、鍛えないと生き残れなかった。
「そういえばドスで刺されたんだっけ…ごめん、守るって言ったのに」
「いいよ別に、もう傷塞がったし……ほら」
小夜子はお腹の部分の服をめくって見せた。確かに傷は見当たらない。刺されて半日も経っていないのに、もう塞がったらしい。
「なぁ…あと何人やったら小夜子は完璧になるんだ?」
「うーん、最近伸び代がないからな…大きなピースが必要なのかも」
「もう十分可愛いけどな」
「まだだね、私の理想には1歩届いてない」
小夜子はスマホの内カメで自分の顔を見ながらそう言った。
小夜子は、人に恨まれれば恨まれるほど美しくなる。
妖怪なのか、怪異なのか、またはどこぞの研究所から脱走してきた物体Xなのか、その正体は判然としないが、そういう存在だった。
だから小夜子は人を騙す、そして恨まれて美しくなり、その美しさでまた人を騙す。
そういうサイクルを繰り返してきた。
しかしその過程でどうしてもコイツらみたいなのが出てくる、それを始末するのが俺の仕事だ。
その後埋葬を終えアジトに帰った。
ここは小夜子がずっとねぐらにしていた巨大な廃墟。
元は実験施設だったようだが今は山ごと小夜子が所有している。
付き合ってた頃再三聞いても教えてくれなかった小夜子の家はここだったわけだ。
「おい小夜子…食った茶碗、水漬けとけって言ったじゃん」
「あれー?君の仕事なんだったっけ」
「ちっ…はいはい、雑用ですよ」
「そうでしょ?あーあと明日はサンマがいいな」
「最近サンマ高いんだよな」
俺は小夜子が使った食器1式を洗う。
最近の俺、お母さんだな、小夜子の。
ソファに寝転んでいた小夜子がスマホを弄っていると大きな声で「はぁぁぁ」とため息をついた。
「どうした」
「まーたあいつらだ」
どうやらスマホで遠隔の監視カメラアプリを開いていたらしい。自分の行動範囲各所に監視カメラを仕掛け、定期的に厄介者がいないか確認しているのだ。
「あいつら?…あー、サイノメ?」
特別な存在というのはいつの時代も信仰の対象とされるものだ。
常人では考えられない長い寿命を生き、老いず、不死身で、人を魅了する力を持つ、そんな小夜子みたいな存在はまさにうってつけだ。
そんな偶像崇拝の法則の例に漏れず小夜子も崇拝されてしまっているわけだ。
サイノメはその小夜子を崇拝している集団でありそこまで名は広まってないが規模はそれなりにデカイ。
そんなサイノメは昔からずっと小夜子を追い続けている。
「あいつら小夜子捕まえたとしてどうするつもりなんだろうな」
「しらない、どーせホルマリン漬けにでもして地下室に飾りたいんじゃない?」
「こわ」
「そうこわーい、ユウくんたすけてー」
小夜子はきゃー、とわざとらしい演技を浮かべソファで足をパタパタさせている。
「あいつらゴキブリだもん埒が明かねーよ」
俺は洗い物を終えると、ソファの端に座った。リモコンでテレビをつけ、今回の仕事で使ったハンドガンを分解して手入れを始めた。
俺が横でカチャカチャしているのを見た小夜子が、俺の太ももに頭を乗せて邪魔してきた。
「作業できないんすけど小夜子さん」
「最近のユウくん冷たい」
「コレもっかい組み立てて頭に1発入れんぞ」
「弾が勿体ないからやめて、それ手に入れられるのだって私のおかげなんだからね」
「はいはい、ありがとうございます、おかげで仕事が楽になりました」
「分かればよろしい」
視線を手元の分解したバレルから、太ももの小夜子に下ろす。肩あたりまで短くなった髪が膝に擦れてくすぐったい。
「随分短くしたな、しかも紫て」
「気分」
「気分ね……まあ、週一で髪型変わるからもう慣れたけどさ」
小夜子は再生能力の応用で、髪の長さや色を自由自在に操れる。会ったばかりの頃は黒髪ロングで覚えていたが、今は顔と声でしか認識していない。
「なんで俺に追われてた時見た目変えなかった?そしたら簡単に撒けたろ」
「あの時は黒髪ロングにハマってたから」
どうやらこの女は、自分の体をゲームのキャラクター作成画面のような感覚で見ているようだ。
コスプレイヤーにでもなれば大成しそうなものだが。
「でもこれもそろそろ飽きたなー、なんかリクエストある?」
「あー、じゃあ虹色に輝くアフロ」
「できるけど却下」
「できんのかよ」
本来目指していた関係性と現状の乖離に頭を掻きながら、俺は小夜子の髪を手櫛で梳いた。
まあ、小夜子がこの現状を良しとしているなら、それでいいか。
「お前に出会ったせいで…俺も、俺の仲間も、人生めちゃくちゃだ…どうしてくれんだ、小夜子」
「そんなの知らないわ…さようなら、飯島キョウスケさん」
いつも通りの流れに耳を傾けながら俺は物陰に隠れてスマホを弄る。
何事もなく終われば仕事が減って楽なのだが。
「おい、行かせると思ってんのか…クソアマ!!」
男がそう怒鳴ったのを皮切りに、横道からゾロゾロとガラが悪そうな連中が六人ほど現れた。中にはバットのような物を手にしている奴もいる。
「きっちり落とし前付けてもらうぜ?小夜子さんよ」
小夜子はそれを見てため息をついた。
「ユウくーん…仕事ー」
小夜子からの合図がかかったので俺は寝転がっていた誰かの家の屋根から道路に飛び降りると小夜子の前に立った。
「ちっ…用心棒か…お前らやっちまえ」
俺は袖をまくると男達と肉薄した。
「お疲れ様」
事が終わると俺の隣に小夜子が立っていた。
「これを機にガラの悪い連中は狙わないようにしたらどうだ」
そう言いながら手の汚れをパンパンと叩いていると小夜子は地面に倒れ伏して伸びている男たちの山に腰をかけ足を組んだ。
「ねーユウくん…デート行かない?」
「は?」
薮から棒すぎる。
今の会話の何処にデートに繋がる要素があったのだろうか。
「最近私たちマンネリ化してる気がするし気分転換にいいかなって」
「はぁ…で、どこ行くんだ」
「遊園地」
「今からか」
時刻は午後3時、今から行って果たして楽しめるのだろうか。
「男を騙す練習でもするのか?」
「違うって、そんなのとっくの昔に履修済み」
小夜子は練習とかじゃなくて普通に行きたいだけと言っていた。
「はぁ……まぁいいや、行くか」
「やった」
そう言って小夜子は男たちの背中から立ち上がった。
「久しぶりのユウくんとのデートだし…気合い入れるか」
そう呟くと小夜子は手鏡を取り出し自身の顔を見つめ始めた。
すると茶髪のショートヘアだった小夜子の髪はみるみると伸びていき黒くなった。
それは、見覚えのある髪だった。
「どう?似合ってる?」
「お前、それ」
「ふふっ…会ったばっかりの時のやつ、ユウくんこの髪に惚れたんでしょ?」
なんとも言えない表情でその髪を眺めていると小夜子はなにか物欲しそうに顔を覗き込んできた。
「なんか言う事あるんじゃない?」
「あ?…あー…その、似合ってるよ」
「よろしい」
そう言うと小夜子は俺の手を引いて歩き出した。
俺はその後小夜子とデートを楽しんだ。
その遊園地は夜遅くまで開いていた。
ジェットコースターに乗ったり一緒にお化け屋敷に入ったりやや高めの値段設定のデミオムライスを一緒に食べたりした。
「ねぇ、私が完璧になったら……どうしよっか」
「どうするってなんだよ」
夜に包まれた観覧車の中で、小夜子が夜景を眺めながら小さく呟いた。
「私が完璧になれればもう人を騙す必要もないじゃん?」
「まぁ、そうだな」
「こういう生活からも足洗えるし、そしたらユウくんと普通の生活するのもアリかなーって思ったんだけど」
そう言って小夜子は俺の肩に頭を寄せてきた。
小夜子と普通の生活か、あまり想像できないな。
「そうだな、もうあんなきっったねぇ廃墟で生活しなくて良くなるしな」
「きっったなくて悪かったね」
小夜子は寄せた頭でガンと肩に頭突きしてきた。
あんな廃墟でも一応自宅としての誇りがあるのかと少し口角が上がった。
「全部終わったら普通の人みたいに暮らすの、で、私は大学受験する」
「大学?なんで今更」
ここまで来て急にまともな社会人を目指すという事だろうか、小夜子ならモデルの仕事とか役者の方が性に合いそうだが。
「ほら、私らが出会った大学、私は生徒じゃなかった訳だし、ユウくんは私の為に中退しちゃったし」
そういえばそうだったな。
俺は小夜子に人生を捧げる為に大学は辞めた。
「だから、まずは大学の近くにお家買ってそこから二人で通おう?」
小夜子の語るビジョンを思い浮かべる、正直俺らの関係性からは少し想像しずらい未来だが。
「それもいいかもな」
「じゃあ約束」
小夜子が差し出した小指に、俺は自分の小指をそっと絡めた。
小夜子がどうして完璧になる事に固執しているのか俺は知らない、ただ、その願いを叶えるために力を貸すこと。それが俺の仕事だ。
小夜子の少し冷たい指が俺の小指の体温で中和されていく感覚に浸りながら、俺は観覧車から見える夜の夜景に思いを馳せた。
「はぁ……はぁ……キリがねぇ」
血を垂れ流す腕の傷口を押さえつけながら最後の防火扉を押さえつけ、鍵を閉める。
まともな怪我なんてしたのは久しぶりだ。
俺らのアジトは100人近くの武装した集団に囲まれていた。
全員変な白い服を着ている。
そう、サイノメだ。
どうやったのか知らないがサイノメ達はこのアジトを突き止め攻め込んできたのだ。
最初こそ返り討ちにするつもりだったが多勢に無勢だった。
「おい小夜子…もうここは捨てよう」
「うん、そうだね〜」
なんだこいつ。
心ここに在らずといった感じの小夜子は窓の外の群衆を黄昏れるかのように眺めていた。
俺はお前を守る為に必死になってるというのに、なんでそんな他人事みたいな顔ができるんだよ。
「とりあえず逃げるぞ、裏手に非常時用の車がある」
「うん…」
なんだこいつ、元気無いな。
俺は何故か無気力気味な小夜子の手を引くとそのまま抱きかかえて3階から飛び降りた。
「イッテェ、小夜子お前太った?」
「ユウくんのご飯美味しいからな〜」
なんだ?
いつものお前なら『殺すよ?』って秒で返すところだろ。
まじでどうしたんだこいつ。
俺は小夜子を車に乗せるとエンジンをかけ急発進した。
恐らく連中にはこのエンジン音で脱出がバレただろう、追っ手の車に追いつかれる前に撒かなくては。
「なんであの場所がバレたんだ、尾行出来ないようにしてたのに……クッソ」
ハンドルを殴り悪態をつく俺の言葉にも小夜子は一切反応せず、助手席で頬杖をついて静かに窓の外を眺めていた。
「なぁ小夜子、なんで黙ってんだよ」
「…そういう気分なの」
意味が分からん。
何考えてんだこいつは。
そりゃあずっと愛用してきたアジトを捨てなくてはならないのだからセンチな気分になるのは分かるが、今じゃないだろ。
と、そこで車がゆっくりと停車した。
「はぁ!?」
古い廃トンネルに差し掛かったあたりで車が止まってしまった。
ガス欠だった。
おかしい、俺はいざって時の為に給油は満タンにしておいたはずなのに。
俺は小夜子を車から出すとトランクを開けた、念の為予備タンクを積んでおいたからだ。
しかし、予備タンクも無くなっていた。
意味が分からない。
サイノメが事前に逃げられないように細工をした?いや、そんな回りくどい事をする余裕があるならさっさと小夜子を攫うはずだ。
俺が空のトランクを睨んでいるとそれを見ていた小夜子が小さく呟き出した。
「私さ、山奥の小さな村で生まれたんだ」
「はぁ??」
こんな時に昔話か?
何考えてんだこいつは。
少し黙っててくれと遮る俺の言葉を無視して小夜子は昔話を続けた。
「ほんと、笑っちゃうくらい不細工だったの……顔は左右非対称でぐちゃぐちゃだし、骨格のバランス悪すぎてまともに発音出来ないから、いつも死にかけの豚みたいな声を出してた」
小夜子はそれを笑い飛ばすように語った。
それが本当なら、俺が想像していた小夜子の過去とは、かなりかけ離れている。だが、それ以上に俺の胸を満たしたのは、なぜ今その話をするのかという不安だった。
「多分この世で1番醜い顔してたと思う、今思えば奇形ってやつだったのかな」
その後も小夜子は続けた。
それは俺が今まで何度か聞いたが頑なに濁されてきた小夜子の過去だった。
忌み子として生まれ、村人達に殺されかけた事、死の間際に「生まれ変わるのなら、この世で最も美しい女にしてほしい」と願った事。
そしてその声を聞き届けた得体の知れない存在から授かったのは人から恨まれる事で美しくなる呪いと死ねない体だった。
夢が叶った喜びよりも小夜子の心を支配したのは、恐れだった。
人として当たり前に享受するはずの「死」という恩恵が、自分から奪われた事を。
「私さ、地球が滅んだ後も宇宙空間で漂ったりしたくなかったから、探したの、死ぬ方法」
小夜子の声に、切実な響きがこもる。
「いっぱい考えて、考えて、それで、思い出したの、あの神もどきみたいのが去り際に言い残したこと」
「なんて、言ってたんだ?」
小夜子は少し黙って唇を湿らせてから、ぽつりと言った。
「『それは、呪いだ。お前の願いが叶うその日まで、お前の体を蝕み続ける……』って」
「はぁ……」
俺は大きくため息をつくと、トランクに腰を下ろした。今の言葉でこれまでのすべての辻褄が合ったからだ。
ふと道の先に目をやると、松明の集団がこちらへ近づいてくるのが見えた。
俺を殺し、小夜子を手に入れることが目的の集団、それがすぐそこまで来ている。
だが、もうどうでもよかった。
松明の群れをしばらくの間、二人で眺めた、トンネルは静寂に包まれた。
先に口を開いたのは俺だった。
「おまえだったんだな…サイノメに情報漏らしたの」
小夜子は何も言わない。
無言で肯定していた。
サイノメに情報を提供したのも、車からガソリンを抜いたのも、予備タンクを隠したのも、全て。
「そっか……今日、なんだな」
「うん、今日なんだよ……ユウくん」
今まで、小夜子は沢山の人間を裏切ってきた、そして俺はその手伝いをし続けてきた。
今日は、俺は小夜子に裏切られる。
そして、小夜子は完成する。
俺という最後のピースを手に入れる事で。
小夜子は俺の前に立つとそっと手で優しく俺の頬を包み、額を合わせてきた。
相変わらず冷たい手だ。
手が冷たい女は心が暖かいって最初に言ったのは誰だよ、全く。
「なんとなくさ、気づいてた……いつかこうなるって」
「こないだのデートの時とか?」
小夜子は楽しげに囁く。
今が今際の際だと言うことを忘れてしまいそうだ。
俺も少し苦笑しながら言葉を返す。
「そうだな、小夜子にしては、下手な演技だったよ」
「ふふっ、私、演技には自身あったんだけどな」
「バレバレだったよ」
「…………こんなに誰かと長続きしたの初めてだったから……情が移ったのかな」
最後にそう言うと小夜子は一呼吸置いて静かに目を合わせてきた。
そして、小さく呟いた。
「私の為に…ここで死んで…ユウくん」
それは今まで聞いた小夜子の声の中で、1番優しかった。
俺は肺に溜まった空気をゆっくり吐き出すと、小夜子と目を合わせた。
「……わかった」
そう返事をすると俺はトランクから降り後部座席に入れて置いたある物を取り出した。
元々いざって時に敵に向けてぶつけるつもりだったが、こんな使い方をする羽目になるとは。
俺はそれをトンネルの壁に均等に設置していく。
設置が終わると俺は小夜子と向き合った。
「じゃあな、綺麗になれよ…小夜子」
「うん……分かってる」
そう言って小夜子はトンネルを歩いていく、俺はその背中を見送った。
最後に小夜子は「あ、そうだ」となにか思い出したようにクルッとこちらに向いてきた。
「いつものやつ、やってなかったね」
「俺にもやんのかよ」
「当たり前じゃん、私の決めゼリフだし」
「はいはい、どーぞ」
小夜子を深呼吸のような物をすると声を投げた。
「さようなら、ユウくん……楽しかったよ」
「そりゃどーも」
俺の返答に小夜子は満足そうにするとトンネルを歩いていった。
暗闇に消えゆく背中を見届けると俺は手元のスイッチを押した。
爆発音と共に落盤を起こすトンネル。
小夜子へ続く道は完全に塞がれた。
俺は手持ちの武器を確認する。
予備の弾倉含めて残弾数40発程のハンドガンとコンバットナイフ1本。
「まぁ、足掻くだけ足掻いてみるか」
視線をトンネルの出口に向ける、もうの目の前まで来ていたようだ。
「よぉ、教祖様なら男振って逃げたぜ」
その言葉が開戦の合図だった。
「おーい、小夜子、起きろー」
小夜子はうにゃうにゃ言いながらなかなかベッドから出ようとしない。
「おい、一限遅れるぞ、単位やばいんだろ〜」
「そうしたらユウくんと留年するー」
「なんで道連れ前提なんだよ」
小夜子を片手で抱えて洗面所まで降りると歯を磨かせる。
顔にこれでもかってくらい水をぶっかけると流石に目が覚めたようでそのままテーブル連れていった。
小夜子はホットサンドに挟んだ玉ねぎを丁寧に取り除き終えるとおもむろにかぶりついた。
「にしても、今更だけど、まさか普通に生き残って来るとはなぁ」
小夜子はホットサンド片手にニヤニヤしながら言ってきた。
あの日、俺は100人近い武装したサイノメと対峙した。正面からの衝突は無謀だと判断し、奴らの群れを一度突破すると、巧みに森の中へと誘導した。
奴らは連携が全く取れていない烏合の衆だった。暗闇での奇襲は、俺の十八番だ。夜の森で散り散りになったサイノメを、俺は各個撃破していった。
そのまま逃げる選択肢も確かにあった。だが、「ここで死んで」という小夜子の命令が、俺を戦場に縛り付けた。
そして、そのまま死に損なっただけだ。
「俺も、死ぬつもりだったんだけどさ、なんか、何とかなっちゃったんだよ」
「はぁ、あれだね、ユウくんは強くなり過ぎたね」
小夜子はリモコンで俺が見ていた天気予報を昨日録画したバラエティ番組に変えながらそう言った。
「小夜子は人に戻れたんだから良かったじゃん、あと天気予報に戻せ」
「天気予報つまんない」
小夜子は人に戻れた。
一応本人的には世界一美しい女になれたらしい、俺の目からだとそこまで大きな変化は無いように思える。
まぁ自分にとってのコンプレックスなんて他人からすれば些細な自己満足、という事だろう。
見た目こそ相変わらず絶世の美女だが、かつてのようなブラックホールみたいに男を魅了する魔力は、もう宿っていなかった。
また、小夜子は目的を達成したからか、男を渡り歩くという悪癖もぱたりと辞めた。
何より、小夜子が最も恐れていた異常な再生力が失われた。
その能力の応用だった、髪型を自由自在に変えることもできなくなった。どうやら、こいつの本来の髪の色は黒だったらしい。
今では基本ロングヘアで固定している。
まあそのサラサラロングヘアは俺の前でホットサンドを頬張るたび、寝癖と共に楽しげに揺れているわけだが。
「そういえば、思ってた事なんだけどさ」
「何?」
「小夜子の呪いって、恨まれて美しくなる力じゃないよな」
小夜子は俺の言葉を聞いて「あー」となにか心当たりでもありそうな反応をした。
「うん、そうかもね」
あの日、俺は別に小夜子の事を恨んでなかったし、憎んでもいなかった、少し寂しかったのは事実だが。
だから俺は戦いの最中、このままじゃ小夜子が人に戻れないのではと不安になっていた。
まぁそれは再会したときに取り越し苦労だったとわかった訳だが。
「どういう制約なのか、私もイマイチ分かってないんだけど、多分人を裏切るっていう過程に意味があるんだろうね」
「ふーん、まぁ今更どうでもいいか」
小夜子はそこで大きなあくびをした、口の中のもん見えるからやめて欲しい。
「つか、そんなに起きるの辛いなら3限目とか選べば良かったじゃん」
「だってユウくんが取ってるの1限目なんだもん、3限目じゃ一緒に登校出来ないじゃん」
小夜子が取り除いた玉ねぎをピッと俺の皿に飛ばしながら口を尖らせる。
行儀が悪すぎる、次やったらひっぱたこう。
「ユウくんこそ、なんで1限目なんて取ったの?朝ゆっくり出来ないじゃん」
「文芸学科が1限目しかなかったんだよ」
俺は再び大学の門を叩いた際、前回取っていた経済学部にはそっぽを向き文芸学科へ向かった。
それに小夜子が着いてきた形だ。
「なんで文芸学科?」
「本書くんだよ」
「ふーん」と小夜子は訝しげな顔をしている。
そんなに意外だっただろうか。
「で?何書くの」
「お前の事」
「私?」
小夜子は不意打ちでも食らったように目を丸くした。
「だって、小夜子みたいな面白い存在なかなか居ないじゃん、だから小夜子とのこれまでの話でも書こうかと思ったんだ」
「それ、どういう文芸ジャンルになるのよ」
小夜子は小首をかしげるように言った。
確かに、言われてみれば、何になるんだろう、考えてなかった。
俺は食事の手を止めてひとしきり考える。
そしてふと思いついた言葉を呟いた。
「怪談?」
恨まれるほど美しくなる女 @meguneeda
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます