番外編:初恋の温もりと、新たな命の予感

秋の夕暮れが、放課後の職員室に柔らかな光を投げかける。佐倉葵は、今日提出された生徒たちのノートに赤ペンを走らせながら、ふと、窓の外を眺めた。校庭では、部活動に励む生徒たちの声が響いている。その中に、かつて自分もそうであった、夢と希望に満ちた瞳があった。そして、その生徒たちを指導する、見慣れた後ろ姿。夫である佐倉悠人(ゆうと)だった。柔道着姿で生徒を指導する彼の体格は、大学時代に引退したとはいえ、未だがっしりとしている 。


(悠人さん……)


葵の心に、温かい記憶が蘇る。


あれは、悠人が佐倉家に下宿しに来た、あの日からのことだった。好奇心旺盛な葵は、初めて会う従兄という存在に興味津々で、彼の荷物を勝手に漁ったり、彼の前で平気で下着姿になったり、さらには全裸で風呂にまで入ろうとしたりした 。悠人はいつもどぎまぎしていたが、自分が恥じらうそぶりを見せないことから、彼は次第にそれに慣れていった 。


特に思い出深いのは、初めてキスを交わした瞬間だ。家庭教師の打ち合わせを始めようとした矢先に「悠人さんキスして」と要求し、彼が悪戯だと思って触れるだけのキスで応じると、舌を絡ませるディープなキスで返した 。あの時の悠人の動揺した顔は、今でも鮮明に覚えている。それから、顔を合わせればキスを要求し、夜は彼のベッドに忍び込んで添い寝をした 。彼の理性を試すような、自分のルールの中で彼を翻弄するのが楽しかった。


水着姿のインパクトは格別だったと、後になって悠人から聞いた。普段から一緒に風呂に入って髪や体を洗ってやったり、自宅内を下着姿で闊歩したりしていたのには慣れてはいた彼でも、水着姿は別次元の刺激だったらしい 。彼の瞳の奥に宿る、抗いがたい欲求を読み取るたびに、葵の心は満たされていった。


クリスマス・イブの夜、ついに一線を越えた。あの夜の熱情、身体と身体が深く結びついた感覚、そして絶頂の後の一体感と、同時に訪れる漠然とした寂しさ。その寂しさを埋めるように、何度も彼を求めた 。あの夜から、悠人との絆は、誰にも触れさせない、特別なものになった。


受験勉強の追い込み期間も、悠人は本当に献身的だった。彼は自分と自分の将来を真剣に考えて、避妊の必要性を明確に話してくれた 。彼に主導権がある時は、必ず避妊をしていたことも知っている 。だからこそ、合格発表後のあの夜、高揚感に身を任せて、避妊もせずに彼の上に跨り、すべてを絞りつくすように自分だけのものにしようとした 。あの衝動が、まさか新しい命に繋がるとは思ってもみなかったが、後悔は微塵もない。


ポン、ポン、ポン。


職員室の窓の下から、バスケットボールの音が聞こえてきた。校庭の片隅で、息子である佐倉陽太(ようた)が、友人とバスケをしている。悠人も、部活指導の合間に、陽太に声をかけているのが見えた。陽太は、悠人にそっくりのがっしりした体格と、葵の明るい笑顔を受け継いでいた。その姿を見ていると、葵の胸に、じんわりと温かい感情が広がった。


教師として、悠人と同じ学校に赴任して二年目。毎日、夫と息子と同じ屋根の下で、そして同じ職場で過ごす。それは、かつて思い描いた未来とは違う形だったけれど、これ以上ないほど満ち足りた日々だった。悠人も、あの頃の内省的で戸惑いがちだった青年から、今は頼れる夫であり、父親であり、そして同僚として、立派に成長していた。


陽太の弾むような笑い声が風に乗って届く。葵はペンを置き、そっとお腹に手を当てた。

(そろそろ、陽太にも弟か妹が欲しいな……)

かつての無邪気な好奇心が、今は新たな命への、そして家族への、深く穏やかな愛情へと変わっていた。葵の心には、もう一人、新しい家族を迎え入れたいという、温かい予感が満ちていた。きっと、悠人も、同じ気持ちのはずだ。この、彼女が「全て」を手に入れた場所で、新たな物語の始まりを予感しながら、葵はそっと微笑んだ。


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君が僕の全てになるまで 舞夢宜人 @MyTime1969

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