妖精は囁くー真実(マミ)の青春・恋愛模様ー

稲子 東(トウゴ ハル)

第1話 妖精は囁くー真実(マミ)の青春・恋愛模様ー

 私はロンドンから帰国して、しばらくは真由の部屋のドアを開けなかった。私はどれくらいの時間をどのように過ごしたのか実はほとんど意識していなかった。ただ、最近、主が居なくなった部屋の空気を入れ換えていなかったことを思い出して、私はそのドアを開け放した。真由の声が聞こえたような気がした。

「真美ちゃん、何? ノックぐらいしなさいよ。」

 私はやっと彼女の遺品を整理しようという決心をした。私は真由という姉の存在があるからこそ、ここまで来られた。その存在は頼もしく、優しい愛情に満ちていた。しかしながら、あるときからその存在は疎ましく、嫌らしく、押し潰されそうな圧力をもって、私を苛んできたことも偽らざる心境であった。でも、私の唯一無二の姉であったことは誰も否定できない。

 私は鏡台の横を通り過ぎ、台本と思われる冊子の山とPCが置かれている真由のデスクに腰掛けた。デスクは窓に面していて、右側の壁に大型のクッションボードがフックで掛けてある。縦一メートルくらい、横一・二メートルくらいあるものだ。そのボードには数多くの写真が小さなピンで几帳面に留めてある。一瞥しても、約百枚以上はあるだろうか。私は左上端の少々古ぼけた写真が真由の人生始まりのそれであることは一目で分かった。赤ちゃんの真由のあどけない笑顔。二枚目は女児が三人写っているもの。真由が中心に立ち、私が左側、そして彼女の右側には長い髪の綺麗な子が立っていた。私たちが、母の関係でキッズモデルをやらされていた当時のものであるから、だいたい二~三歳ごろのものであろう。でも、私自身には当時の記憶がほとんどない。でも、今ならこの写真の意味がよく分かる。左上端からスタートした写真は右端まで行くと段を降りていく。その後の写真では、母と私が姉である真由の入園式や卒園式、小学校・中学校の入学式や卒業式などで、それぞれツーショットや三人で写っているものであった。真由が中学校時代に活躍した陸上競技部の雄姿もあった。全国中学校陸上大会で不甲斐なく破れて涙を溜めた真由の顔。同級生たちとの運動会や修学旅行など。それらの中には、たまに私も映り込んでいたりした。しかし、真由がS女子高に入学した翌年から私と姉のツーショットは皆無に等しい。姉にヨシとのことで平手を食らってから? 私は目線を次に移した。真由が高校生のときに短期海外研修でヨーロッパに行ったときの写真を見つけた。その中に父と姉のツーショット写真があった。一度、その父の顔をマジックペンか何かでぐちゃぐちゃにした痕跡があった。

「あれっ?」と、私は心で言葉を漏らした。その写真の後ろにもう一枚の写真がある。その写真は、ぱっと見て、姉の自撮り写真だと分かる。次の瞬間、私は言葉を失った。これはあのスコットランド西北部スカイ島のダンベイガン城近郊のホテルの一室だ。ベッドの上で胡坐をかいて座って真顔でいる真由。その右肩に彼女の方を向いて微笑んでいる小さな女の子がいた。

「あの、フェアリー……。」

 私は、ただただ驚いた。フェアリーって、写真に写るの? 確かにあるTV番組で、妖精のモノトーンの古い写真を見たことがあったが。真由はこの写真を誰かに見せたことがあるのだろうか。 多分、姉の性格からしてそれはなさそうに感じた。私はピンを抜いてその重なっていた二枚を手に取った。正確には、真由とフェアリーの写った方をもっと詳しく見たかったからである。よく見るためにその写真を明るい光に照らした。その写真の裏に文字らしきものを認めた。私はそれを裏返した。

「Until my death, I am Loving you, Mami.」と、少々丸文字に近い彼女特有の筆跡でインク書きされていた。私は息が突然詰まった。そして、次に息継ぎをしようとしたとき、私の瞳から熱いものが込み上げてきた。涙が止めどなく流れ出した。子供のようにワンワンと泣きたい衝動に駆られた。開け放った窓のレースのカーテンが大きくはためき、私の頬を撫でた。私はあれから時がしばらく経ったことを自覚した。

 このボードの右下端がマユにとって、最後の写真である。何を彼女は伝えようとしているのかは、当然のことながら私には定かではない。しかし、その写真は昨年の大学学園祭―G女よ立ち上がれ―のときのものであった。真由の所属する演劇部の打ち上げがはねた後、私たち、つまり、私と真由と麻耶がバブル期を彷彿とさせるボディコンで、三人で一緒にモデル張りに決めポーズを取ったときのもの。プリントされた写真の私たちのそれぞれの立ち位置は左上のキッズモデルのときと同じ。そのときの場は、騒々しく賑やかだった。麻耶が真由に振った言葉を不意に思い出した。そのときは完全に私は聞き流していたのだが。それは次の言葉だったような気がする。

「真由ネエ、また昔のように三人でモデルしよう。」

 私はこれまで、今を精一杯生きることで、別言すれば、死にたくない一心で真由に付いてきた。もっと言えば、私は愛されたい一心で助けてくれる人に従ってきた。未熟で不器用で表現能力を持たない生命力の希薄な私がいつもそこにはいた。でも、そろそろ私は与えられた環境ではなく、自分で自分の住む環境を整えられるだけの力を蓄積できたのではないかと思っている。私はいままで、記憶の戸棚にしまい込んでいた思い出したくない出来事を自らに開示して、自分の愛の形を確かめたくなった。

 私は片付け作業を何一つしないまま、静かに瞼を閉じてみた。


 私は未熟児で生まれた。早く生まれようと自ら決意したわけでもないが、結果的に母親のお腹の中からこの世に予定日よりもかなり早くに誕生した。早産である。そのことが自分の身体にどのような影響を与えたかは、私自身が知る由もない。ただ、私が物心ついたときには、私は女子として自分のことを自認していた。これは間違いのないこと。あるとき、私は自分の症状を、性分化疾患(DSD)あるいはアンドロゲン不応症などと呼ばれていることをかつて調べたことがある。また、出生届が基本的に二週間以内で性別の判断が行われて、私の性別がどちらかに確定されたこともどうでもいいことだった。これらの些末な事は、すでに自分の心の中では処理している。もう私はれっきとした女性であると自覚、自認している。

 私は、姉である真由といつも遊んでいた。いつも姉妹で同じ服を着ていた。当然、下着から洋服に至るまですべて女児のそれであった。私の性器は実際の女性のそれに近いが、陰茎が小さなグミのように僅かに数ミリ突起している状態で、その後ろに僅かに筋状の浅いくぼみ―陰裂らしきもの―がある。男の子であれば足を踏ん張って腰を前に出せば用を足せるが、私にはそれができないので、トイレに行って座って用を足すのが至極当たり前と心得ていた。私は母に聞いたことがある。

「私はどうしてママやマーちゃん(真由)のようにお股が割れてないの?」

「マーくん(マコト=真実)も、もう少ししたらそのサキッポは引っ込んで、ちゃんと割れるよ。」

「ふーん、そう。」

 たぶんそのときの私はそれで納得したわけではないが、簡単にそう思い込んだんだと思う。

 また、それから少しして近所の子供と遊んでいる時も、私は女の子のお友達と遊んでいたし、いつも真由の背中を必死で追いかけていた。

「マーちゃん、いつかママに聞いたんだ。」

「何を?」

「マーちゃんが、妹が欲しいって、ギャアギャア泣たんだって。」

「そんなことあったかな。」

「私、マーちゃんの妹だよね。」

「当たり前じゃあーん。」

 あるときには、立石家の呪い話を聞いたことがあった。立石家は代々女系家族で、男の子が生まれると病弱な子が多く、三歳までに世を去ることが多かったそうだ。そのため、婿を取るのであるが、その婿様もだいたい五十代を前に病気を患って亡くなることが多かった。実際、私の祖父は四十九歳で他界をし、その後、母が祖父の仕事=不動産業を継いでいた。そこで、私が生まれたとき、確かに出生届の性別欄には「男」と記載したが、「女」として育て上げた方が長生きをするであろうという母親の身勝手な(?)判断から、そして親の子への深い愛情からか、このように育てる決心を母がしたとも聞いたことがある。


 私の名前は、戸籍上は立石真実。真実と書いて「マコト」と読ませる。パパが私の名を付けたという話は聞いている。幼稚園時代は、姉、真由がマーちゃん、私、真実がマーくんとそれぞれ呼ばれていた。それがいつしか「マミ」と呼ばれるようになった。性別は男だそうです。パスポートには「F」ではなく、確かに「M」のアルファベットが表示してある。

 でも、外見はすでに女の子。声質はもとから女子のそれ。女子として育てられる環境に私は最初から置かれた。そのことで私は、そんな妙な環境に私を放り込んだ誰かに恨みなんて持ったことはない。ただ、ただ、私自身がお姉ちゃんのように、真由のような女性になりたいという気持ちで一杯、その一心だった。これだけは間違いない。


 一歳違いの真由と私はカトリック系の幼稚園に通っていた。そして、女児の仲間たちと遊ぶのが常だった。幼稚園の先生もそのように私を扱ってくれた。とても幸せな時間を持たせてもらったと思っている。でも、ある日、こんなことがあった。

「ねえ、マーくん」と声をかけてきたのは、マギー(マーガレット)という青い目をした金髪の娘。

「ぼくさぁ、マーくんのお股、見たよ。とっても小さいけど尖がりが付いていたよ。」

 私はドキッとした。いつ見られたのだろうか? そんな不安が私を襲った。お漏らしをしたときだろうか、と考えた。でも、素早く着替えているから大丈夫のはず、などと思っていた。

「ねえ、マーくん。見せてくれる? 良かったら、ぼくにそれをくれないかなあ。」

「えっ?」と、私は、今度は彼女の瞳を見詰めて小さく驚いた。

「ぼくは、男の子になりたんだ。そして、パイロットになりたい、パパのように。」

「私、女の子だもの。分かんない。」と、私。

 マギーのパパは在日米軍の戦闘機のパイロットをしていた。そして、マギーはどうも筋骨隆々のパパに憧れているようだった。

「本当は、マーくん、男の子でしょう?」と、青い瞳はどこかで、正当な回答を懇願していた。私は、このとき初めて自分の性に気付かされたかもしれないと思う。このとき私自身がマギーへどのような答え方をしたのかはよく覚えていない。確か、

「マギーは、どうして男の子になりたいの?」

「マーくんはどうして女の子なの?」

 その変梃りんな押し問答の後、私たちはなぜか仲良くなった。園の男の子に私が苛められていると体の大きなマギーがやってきて、男の子の集団を一掃してくれることが多くなった。それは、ちょうど姉である真由が小学校へ上がった年だった気がする。

 その日はマギーの親も私の母も仕事が遅くなるという連絡が園に入り、二人きりで遊んで親のピックアップを待っていた。私たちはなかなか来ない親を待って退屈したので、二人で園内の礼拝堂にこっそり忍び込んだ。

「マギー、少し怖くない?」と私は素直に思ったまま告げた。

「そんなことないよ。マリア様は僕たちだけを見ているから、今がチャンスだよ。」

「何のチャンス?」

「ぼくたちがなりたいものになるチャンス。それをお願いするチャンス。」

「なりたいもの?」

「そう、ぼくは男の子になる。マーくんは本物の女の子になる。」

「うん」と私はすぐに答えた。二人は礼拝堂の中で、仲良く並んで跪いて十字を切り、両手を合わせた。しばらくすると、マギーは私に立つように促した。私はすっくと立ち上がった。

「ぼくね、パパとママが一緒になっている所、見たんだ。もしかすると、二人は入れ替わりたかったのかな、って思うんだ。」

 マギーは私の水色のスモックの下、ショートパンツとショーツを一緒に脱がした。マギーも自分の下半身を露出すると、私のグミ粒ほどもない出っ張りを右手で包み込んだ。マギーは私の右手を自分の割れ目へ促した。私の右手はマギーの襞を感じ取った。

「感じる?」とマギーが尋ねた。

「感じる」と、私も条件反射的に素直に返した。

「ぼくたち、入れ替われるかな?」

「うん。」

 そのとき、マギーと私は本当にそう思ったのを今でも覚えている。マギーの真剣な顔がその後、ずっと私の脳裏から離れなかった。私たちの奇妙な友情は小学校でも続いた。

 

 私が男の子に分類されることが嫌なように、マギーは自分が女の子に分類されるのを嫌がった。小学校低学年までは男女が一緒に着替え、体育など行うことは多いが、高学年になると体育の着替えなどは別々となる。私たち二人は保健室で着替えを許された。もっと昔ならとても恥ずかしい気持ちで、自分からすれば異性と思われる集団の中で着替えさせられたのだ。さらに、私たちは水泳の授業もスクール水着の着用となり、プライベートで着られるようなラッシュガードを使うことは許されなかったので、学校の教育的配慮もあり、二人で教室に残り自習をすることを許されていた。それに飽きると教室から抜け出し、私たち二人は、小学校の正面玄関口に設置してある大水槽を覗きによく行った。私たちが通っていた小学校は海岸からもそうは遠くなく、近所の水族館の社会貢献的事業の一環で、海水魚の飼育方法を飼育員の方から教えてもらう学習時間を持っていたので、いつでもお魚が泳ぐ様を観察することが出来た。その水槽の中には、それぞれのお気に入りのお魚がいたのだ。マギーは赤オレンジのサクラダイで、私はオレンジの身体に白い帯のストライプの入ったカクレクマノミがお気に入りだった。その頃には、マギーの身体は女性らしさを増していた。私はいつもマギーの、とくに膨らんでいく胸に憧れていた。

「マギーの胸、また大きくなったね」と、私は羨ましそうな眼をして声をかけた。

「バーカ。こんなのいらないよ!」と、マギーは自分の胸のふくらみを押しつぶす仕草をして、怒った表情で言葉を私に返した。

「ごめんなさい。」

「いいよ、謝らなくても。マーくんのオッパイ膨らむといいね」と、彼女は今度、表情をガラリと変えてにこやかに私を見た。私は自分の身長が伸びるにしたがって、自分の体型を気にし始めたのは確かだ。多くの女の子たちの体形は着実に整えられていく。その体形変化に後れを取ることが我慢ならない自分があった。ただ一方で、少しずつ自分の体全体が丸みを帯びてきたことはうれしく感じ、そのことを意識していた。


 小学校時代、さらに中学校時代に私がDSDであり、私が女子として育てられていることを、まず学校側に伝えるのはいつも真由の役目だった。母は仕事が忙しく、真由が母の書いた長文の手紙と診断書を持って、私が通学するだろう場所(幼稚園・小学校)に赴き、真由自身も私の境遇を拙いボキャブラリーで自分なりに相手に伝えようとしていたことを、後で知った。真由にとっては、さぞや煩わしい妹であったか。また、自分がどんなに周りに気づかいと迷惑をかけていたかは当時の私はやはり知らない。


 小学校に入って、さすがに服装には気をつけるようになった。というもの、低学年のときは上級生より早く下校するときがある。基本的には、真由の授業が終わるのを待って、一緒に手をつないで帰るのが私の小学校放課後の日常だった。その日、真由がいつものように私の教室に来た。

「マーくん、今日は私、委員会があるから、もうちょっと待てる?」

「うん」と私は返事をしたが、どこかで早くこの嫌な学校という空間から逃げ帰って、自分らしい服装で、姿で時間を過ごしたいと思っていた。真由にはそう返事したが、独りでもお家まで帰ることができるとそのときは考えた。そして、私は、子供の足で約十五分かかる道のりを帰る決心をした。田舎であるから帰る途中には田んぼや畑もある。小川もある。モンシロチョウも糸トンボも飛んでいる。いつもなら真由と共に虫やカエルを捕まえて遊ぶ時間でもある。ただし、その日、私はとにかく早く帰って、女子らしいスカートが履きたい衝動に無性に駆られていた。でも、普段の学校生活ではそうは容易くいかない。自らの女子としての心のジレンマと現況との間のどこかに妥協点を探らなければならなかった。その日、青いパーカーと青いスカッツを履くことで、自分の女子らしさの一端を主張したかった。でも、そんなことが他の幼稚園から来た悪ガキ達に分かるはずなかった。

 田んぼの畦道の小川の橋の上で、先に帰ったはずの男の子数名に囲まれた。

「おい、おまえ、今日は独りか?」

「うん」と、私が答えるなり、次のように言葉を浴びせた。

「おまえ、男なのか、女なのか、はっきりしろよ!」

「おまえ、チンチン、付いているだろう?」とひとりの男の子が言うと、次の瞬間に私のスカッツの裾を引っ張った。私は即座に反応して、「止めて!」とハイトーンボイスで勇気を振り絞って怒鳴った。

「おまえの声、女だよな。ハハハッ」

 すると別の男子が、私の背中を押した。私はバランスを崩して、小川に頭から突っ込んだ。声を上げられないままの状態で、私は急いで捕まるものを探した。小川の淵は水草と苔で覆われていた。伸ばした手が滑った。私は無意識に体を反転させていた。浅いはずの水面が私の目に迫った。私はゴクリと水を飲み込んだ。「もう駄目!」と私が心の中で言葉にできないで叫んだとき、誰かが私の手首を掴んだ。

「大丈夫?」

 私は助かった、と思う間もなく、自分の体中の力が抜けていくのを感じた。それは、真由と同年で、同じ幼稚園時代から兄のような存在のヨッチャン(良夫)の声であり、彼の手の温もりと力のこもった掌であった。

「おまえら、弱いもの苛めして何か楽しいか? 先生に言ってやるからな!」

 私の同級生の男の子たちは、蜘蛛の子を散らすように一目散にその場から逃げ去った。

 ヨッチャンは、ずぶ濡れの私の両脇を抱えて小川から畦道に持ち上げ、あぜ道の脇の小さな空き地に運んでくれた。私はその場でわんわん泣き出した。

「大丈夫か、マーくん。今日、真由ちゃんはどうしたの? 珍しいな、独りで帰るなんて。もう、泣くなよ。俺が泣かしているみたいだよ。」

 私はわんわんから、少し落ち着いてきて、しくしく泣いていたが、やっとヨッチャンにお礼の言葉を言えた。

「ありがとう。」

「マーくん、歩けるか?」

「ダメ……。」

「えーっ」と、ヨッチャンは言ったが、びしょ濡れの私に背中を向けた。自分のランドセルを胸に移し替えて、私を背負おうとしていた。さすがに、私も悪いような気がした。また、真由にも悪いような気がした。でも、ヨッチャンが再び、声をかけた。

「おい、マーくん。乗れよ。」

 私は無言で、従った。すぐに私の服に含んでいた水分がヨッチャンのトレーナーに染み込んでいった。私は、「ごめんなさい」と小さな声でヨッチャンの後ろ頭に呟いた。ヨッチャンの掌が私のお尻の両の膨らみを支えてくれた。今度は、私はうれしくて、目に涙を溜め込んだ。しばらく負ぶわれていたら、後ろから真由の大きな怒っていそうな声がした。   

真由はすぐさま私たちに追いついた。

「だから、『独りで帰るな!』って、言ったよね。今度から宿題や明日の予習をして、絶対に待っていること。」

「マーくん。お姉ちゃん、スゲー怖いよな」と、少しだけ首を私の顔の方に向けて、ヨッチャンが笑っていたのをよく覚えている。

 この日、真由に言われたことがある。「マーくんは身体ひ弱だから、頭だけでも一番になりなさい。何か一つでも一番になったら、人は認めてくれる」と。

 その日以降、私は真由の学校での役割が終わるまで、図書室で、それも図書室の先生の前の席で、ひたすら本を読み、勉強をするようになった。また、自分の服装にも気を付けるようになった。普段はどう頑張っても、ジーンズやスキニーパンツ止まりにした。また、女子の好む暖色系は学校では決して着ないように心に誓った。そのかわり、お家に帰るとすぐさまミニワンピやスカートに着替え、自分好みのピンクのTシャツやパフ袖やフリルの付いたブラウスやニット上着に合わせていた。その生活(学校では極力目立たず)は高学年になるにしたがって、徹底してきたから、大きないじめや喧嘩はなくなった。休日に買い物に行くときは、必ず、真由と一緒に本当の女子として、姉妹として出掛けた。


 私には、幼少の頃から小学校低学年時代の思い出として残っているのが、母と姉とで月に一、二回程度、週末になると都会へお出かけしたことである。都会では美味しいスイーツを母は食べさせてくれた。そこでは私たちは多くの大人の人たちに様々な洋服を着せられて、写真を取られていた。それ自身は、様々な衣装との出会いがあり、全く嫌ではなかった。ただそのことがどういう状況かを飲み込めていなかった。そのときも、私は真由にべったりとくっ付いて、すべての事柄を真似していたように思う。したがって、その場がどのような場所であったかとか、スタジオであったとか、誰がそこで何をしていたかはほとんど覚えていない。ただ、カメラのシャッター音とライトが自分たちを追いかけていたことだけはしっかりと記憶に残っている。また、私たちとあまり年が離れていない少女がいたことも覚えていた。


 中学校時代の幕開けは、私にとってショッキングな事件から幕を開けた。地元の公立中学校だから、まだDSDやLGBTQに完璧には適応した措置はできていなかった。したがって、私は、男の子として学生服の着用を余儀なくされた。ただし、髪型はショートボブぽいし、顔は、当たり前であるが、姉真由に似て丸顔で目鼻立ちはスキっとしていて、唇は少し下唇がぽっちゃりとしていて、どこから見ても女子顔をしていた。だから、女子が男子の格好をしているとしか見えないとも言われたことがあった。まさに、トランスジェンダー。自分としては、あの宝塚の男役のようなところに少しあこがれがあって、始めから半分粋がって学生服を着用した。ただし、このときもすでに真由が学校に私の内実を伝えていたことは間違いない。

 クラス分けの掲示を見て、新入生が各部屋に散っていった。私も四組に自分の名前を見つけてその指示に従った。席次は五十音順になっていたので、立石真実のネームシールを見つけてその椅子に腰掛けた。クラスにはマギーもいた。私は嬉しくなって手を軽く胸のあたりで振った。マギーはセーラー服を着ていた。あれだけ嫌がっていたのに、なぜだろうと私は思った。後で、マギーに聞いてみようと思っていた。

 私は、自分の前に誰かが座るのを感じて、前を見た。その子の後ろ姿のセーラー服に黒髪がさらさらと音を立てて流れるのを私は目の前で見た。「きれいな髪の毛」と呟いた。私は意識していなかったが、クラス中が騒然となっていた。私はあまりドラマなどを見ない。彼女は子役として、モデルとして最近活躍している立川麻耶だった。彼女は教室に入るなり軽く手を上げ、クラスの皆に挨拶したようだった。私は静かに学校での時間が過ぎ去ることだけを願っていた。有名人がそんな登場の仕方をした後で、私の席の前に座ったのだ。また、さらさらと音を立てて髪が私の目の前を通過した。

私はそのままの姿勢で前を向いたままでいたら、そこに不意に彼女の顔が現れた。

「うふっ、可愛い」と、彼女の小さな声を耳にした。

「あなた、たていし まみ って、言うんだ。」

「えっ?」

「マミちゃん。」

「違います。私は、たていし、まこと、です。」

「じゃ、誰かが言っていたように、マーくん?」

 私は、この立川麻耶の言っている意味が分からなかった。彼女は、前を向いた。担任の男の先生がガラッと扉を開けて入ってきた。先生は点呼を取った。私を見て、ふむ、という表情を浮かべたように思った。どんな印象を担任は抱いたか、私は内心、心配した。しかし、先生の関心は、立川麻耶の存在の方にあった。彼女は芸能界での知名度を上げつつある生徒。どうやって、彼女をクラス全体で守ってやるかを、まずは考えているようだった。しかし、それは学校そのものが抱えている問題。

 立川麻耶は、あえてこの田舎町を選んだ。というより、彼女の母の郷里がこの町であり、祖母がここで暮らしていた。彼女の母は、都会より牧歌的情緒が残るこの町での教育を望み、彼女自身も希望して入学した。私は彼女の母と私の母が友人であった事実も、母親同士が若かりし頃モデルであった事実も、当時は何も知らなかった。

 立川麻耶は、あっけらかんとしていた。私は、先生の話など耳に入らず、麻耶のさらさらとした黒髪を羨ましく眺めていた。私も髪を思い切り伸ばしてみたいな。

 先生は、クラスの委員長を決めるように促した。

「先生、学級委員長は、立川麻耶さんがいいと思います。」

「それがいいと思います。」

 クラスの多くが面白半分で、発言したことだと思う。しかし、多くの生徒たちが賛同した。このときも、私は麻耶の輝くキューティクルに覆われた髪に見惚れていたので、クラスルーム内の進行状況を把握していなかった。

 麻耶が、伸びやかにすっと立って、発言した。

「本当に私でいいのですか? クラスのみんなにもしかしたら迷惑を掛けるかもしれません。支えてくださいますか?」

 クラスの大勢が、「もちろん!」と安易に返事をしたように思う。私は、その進行から離れたまま。黙ったまま。

「であれば、私からお願いがあります。副委員長に立石マコトさんを推薦したいのです。いいでしょうか?」

 クラスが一瞬、どよめいた。当然のことかもしれない。副委員長であれば、いつでも有名人とともにいられるわけである。私は、麻耶が何を言っているか、全く自分が置かれた現状を把握できないでいた。私は、麻耶に立つように促された。麻耶は小声で私の耳元でこう言った。

「お願い、私を助けて。」

「うん」と私も小声で返事をした。

すると、先生が「いいじゃないか」と私たちのカップリングを認める発言をしてしまった。確かに、誰もがクラス委員はあまりやりたがらないのが実情。渡りに船という雰囲気がクラスに流れ、その成り行きで決まってしまった。その後、私たち二人がその他の委員を決めるために、教壇に立ってホームルームが進んでいった。私は内心で、とんでもないことに巻き込まれたと思っていた。ただし、一方で、目立つことがみんなに認知してもらうのに都合がいいとも考えていた。クラスルームの後、麻耶が、放課後に校門の前にいるように囁いた。私は、「うん」と言って、頷いた。

 校門の前に、わずかではあるがメデイアらしき大人が誰かを待っていた。もしかすると、立川麻耶かもしれないと思いつつ、私自身も彼女を待っていた。一台の黒塗りの自動車が止まったと思った次の瞬間、麻耶が下りてくるなり、私に抱きついた。

「真実、私と付き合って!」

メデイアは、餌を求め漁るハイエナのように私たちの周りに集まってきた。

「好き!」と大きな声で言った後に、私の顔に麻耶の髪が流れてきた。その瞬間、私は彼女に唇を奪われた。

「明日朝、早く来るね」と麻耶は言うと、すぐさま乗ってきた車に身を翻し、その後部座席に姿を消した。私は、誰かに右手首を強く掴まれ、群衆の塊から引っこ抜かれた。それは姉の真由の仕業であった。

「マーくん、バーカ。何をやってんの? これで事が済むと思う?」

「何?」と、私。

私には事の重大さと今後の展開が皆目予測つかないままだった。

 真由はすでに陸上部のジャージ姿に着替えていた。彼女は、この地区での百メートルと二百メートル短距離走の記録を昨秋だし、現在、この学校のスポーツ部活の期待を背負っていた。したがって、彼女は朝練と放課後の服装と言えば、トレーニングウエアが定番となっていた。

「さっさと図書室に行きなさい」と、真由が私の背中を強く押した。後ろの喧騒が迫ってくるのを感じて、懸命に駆けた。そして、ひたすら図書室の隅の席で固まって何か分からない不安に身を縮めていた。

 私は麻耶に抱きつかれて、キスをされた。もう彼女身長は一六〇センチ近くあった。私も同年代の女子では高身長の方だと思っていたが、二~三センチほど彼女の方が高い。私の顔に麻耶の爽やかなシャンプーの残り香が漂い、私は夢みがちに彼女の瞳が閉じられ、私の顔を覆うのを思い出した。これは何を意味しているの? 私は、その次の情景を予測する想像力を当時、全く持ち合わせていなかった。私と麻耶のことだけで頭が一杯だった。

 真由が私をピックアップしに、図書室にやって来た。

「外は、まだ人でザワザワしているよ。さっき、麻耶が抱きついた子は誰か?という詮索が始まっている。おまけに、ほら……」と言って、真由はリュックの中からスマホを出して、私に見せた。アップされていたのは、麻耶が私に抱きついた映像だった。私は後ろ姿だけ映っていた。

「このショートボブの髪、特徴的だよね」と、困った真由の顔が私を覗き込んだ。まず、私は学生服を脱がされ、ジャージの上着を着せられた。短い髪の毛を少し結わくように姉に言われた。私が姉のリュックを背負い、真由が私の新しい鞄を下げた。私たちは裏門から静かに下校した。というより、秘かに抜け出した。

 私は、スマホは持っていない。母から許されていないのだ。唯一の手段はガラケーのショートメールだけ。また、この中学校ではスマホや携帯は持ち込みが禁止されていた。真由は部活の関係で、所持は許されていたが、人前での使用は制限されていた。一つのメールが入っているのを見つけた。

「マーくん、見たよ。大変だよ!」という、短文であった。私は、まだ、自分がどのような状況に置かれたか把握できない状態が続いていた。その後も、幼稚園時代の仲良し、桃花、夏帆、愛美などなどから私の身の上を案じる心配メールが次々と届いた。


 翌朝、真由の朝練に合わせて私も登校した。まだ、正門は開いておらず、裏門から私は上履きに履き替えるために校舎の正門側へ回った。真由はそのままグランドへ向かった。私は自分の下駄箱を開けた。すると、上履きの中に泥が詰められていた。

「アッ、やられた」と、心の中で苦々しく呟いた。私は鞄と共に持ってきたショルダーバッグに替えの上履きが入っていることを思い出して、それを履いた。もちろん、泥まみれの上履きは手洗い場に持っていき、洗った。春の朝の水は冷たい、と私はそのとき初めて感じた。私は、小学校に入ってからこれまでに幾度も悪戯された。自分ではもう慣れっこだと思っていた。異質なものへの偏見はすでに小さい頃から幾度も経験していた。同質性を求める群れから、小学生時代は軽微なものから小々悪質なものまでやられた。履物を水浸しにされたことも、トイレの個室にいるときに上からバケツの水をかけられたことも……。思い出すとキリがないと私は思いながら、その履物を洗ってから教室へ向かった。

 教室の扉を開けた。なにか異臭がしたような気がした。私はまず自分の机を探した。まだ、不慣れなことも手伝っていることは確かだったが。自分のネームシールがない。そればかりか、机の上に「いい気になるじゃあねーぞう」、「出ていけ」、「死ね!」と油性の太文字のマジックだと思われるペンで大きく黒々と書かれていた。そればかりか、椅子の上に(犬の?人の?)ウンコらしきものが乗せられていて悪臭を漂わせていた。私の身体は固まった。もう動けない! 私はこれまで味わったことのない不安と恐怖を肌を通して感じた。それは今まで経験したことのない嫉妬と羨望と怒りの入り混じった黒い大きな物体が、怪物がまさに私を飲み込もうとしているように思われた。私は金縛りにあったように動けなくなった。目を瞑り、頭をうなだれて首から下は何か得体のしれない冥府の蛇か、それ以上の力を持つ大海の巨大オクトパスか何かに締め付けられた状態になった。

「マリア様、助けて!」と、私は頭の中にできた暗闇の只中で何度も何度も叫んだ。悲痛とはこのこと? 絶望とはこのこと?

 誰かが、私の固まった学生服の身体を上から包み込んでくれた。まだ、正門の開く時間には早かった。

「マリア様?」私は言葉を発したいが、声は全然、出なかった。

「ごめん、私のせいよ。」

 それは、麻耶の声だった。麻耶の身体がブルブル震えている、と私の肌が感じた。本当は私の体がぶるぶる震えていたのかもしれない。麻耶は私の左腕を掴むと、教室を出た。私の身体は硬直したまま、ぎこちなく関節の動かない操り人形みたいにしか動かなかった。

「保健室にいて。真由ネエを呼んでくるから、ここに座っていて」と麻耶は言うと、保健室のドアをバタンと閉めて、駆けていった。私は、その場に突っ立ったままでいた。私の身体は自分ではもうどうにも動かせなかった。私の身体は私の魂を入れた棺のようだ、と感覚のどこかで感じていた。私の頬を伝うものは静かに、そして、床に落ち続けた。私にそれを止める手立てはなかった。どれくらい時間が経過したかも、もう分からなかった。私は目を閉じたまま、何人もの人々の声を聞いたような気がした。言っていることは分かるが、自分からはその言葉に返す文言は浮かんでこない。私は無言でいたようだ。真由の声、麻耶の声、保健室の先生の声、担任の男の先生の声……、校長先生も?

「マーくん、帰るよ」と、母の声がしたとき、私の喉から空気が漏れた。弱弱しい、返事とは受け取れない空気が、私を縛って離さなかった張り詰めた空間に放たれた。


 「おやすみ」と母の優しい声を聞いて、私は眠りについたようだ。少しの間、「今日、お母さんは忙しくなかったの?」というフレーズが脳裏に浮かんだ。日常的に私は夕食を真由と一緒に摂った。母は仕事柄、いつも夜遅いことが多かった。私たちは女三人で暮らしていたからだ。パパと母は私が生まれた二~三年後に離婚したことはずいぶん後になって知った。

 どれくらい眠ったか、自分では分からなかった。でも、ひとつ分かっていたことは、目を開けると元の状態が再び襲ってくるという恐怖と不安だった。でも、私のお腹は正直だった。私は戸外が暗くなっていることを目を開けて、確認した。自分がパイル地の薄いピンクのルームウェアを着ていることが分かった。ベッドの上でお布団に自分が入っていることも体が意識した。私は恐る恐る上半身を起こして、足を床につけようとした。本当に私の足は固い床に届くのだろうか、と不安が心をよぎった。足は冷たい感触を捉えた。自分の足を進めるのにこれだけの勇気がいるのだということを初めて知った。自分の部屋のドアをそっと開けた。階下から母と真由の声が微かに耳に届いてきた。私は階段をトントンと降りていった。わざと私は体重をかけて音を立てて降りていった。階下の会話は何か聞こえないが、その方がいいと私は無意識的に判断した。

「マーくん、よく眠れた?」と母が私に優しく尋ねた。

「マー、生きていたの?」と、お道化て真由が訊いてきた。

「うん、お腹空いたよ」と、私は気丈に振る舞ってみせた。でも、私は朝の出来事を鮮明に脳裏に収めていた。だから、二人が優しくしてくれればくれるほど、私の瞳は泉のように感情がふわふわして瞳が濡れてきた。

「今日は、私がホワイトシチュー作ったよ」と、真由はガスコンロの方に動き、私に鍋からお玉でスープ皿によそってくれた。

「ありがとう」と、ぽつりと私の返事。

 母は、次のように切り出した。

「マーくん、もう、強がりはお止め。あなたは正真正銘、女の子なんだから。戸籍上、『男』って決めたのは誰? 私? お医者さん? そんなことはどうでもいい。あなたは私の娘。私はあなたを女の子として育てる決心をしたの。あなたは誰でもないあなた。あなたは精巣を失った子。あなたは男の子でも女の子でもない、真ん中の子。誰かがあなたの生きる道を作ってあげなくちゃいけなかったの。ごめんね。私の我が儘で、あなたを不幸にしたかも……。」

 母は下唇を前歯で噛みしめて、静かに泣いた。すると、真由が言った。

「私が悪いの。男の子だって誰かが言ったとき、妹が欲しいって駄々をこねたのは私。」

 真由は泣かなかった。私はいつも姉真由のようになりたいと思ってきた。今もそう、と心の中で思った。

「私の我が儘、私の我が儘が、一番、いけなかったの。お母さん、真由。ごめんね」と、私は声を振り絞った。すると、母が私の想像を超えたことを口にした。

「マーちゃん、マーくん、ごめんね。一番悪いのはお母さん。パパと別れる決心をしたこと。それがマーくんをこんな風にした一番の理由かも……。」

「お母さんは悪くない!」と真由は激しく叫んだ。

「何?」と、全く事情の知らない私は、小さな声で尋ねる以外に手立てはなかった。

「パパが原因。あんな男、嫌いだったの。男なんて信じられない。誠実な子に育てたかった。あなたを男の子ではなく、誠実な女の子に……」そう言うと、母は涙を拭いながら、「ごめんね」と言って、自分の部屋に足早に去っていった。

 私は、「お母さん!」って、母を呼び止めようとしたが、その声は母に届かなかったようだ。

「真由、お母さんは悪くないよね」と、私。

「お母さんの気持ちも、もう分かるよね」と、寂しそうな横顔の真由。

 私は、理由も分からず、小さく頷いた。


 私はその日からベッドの上で、膝を抱えて時を過ごした。朝からお昼まではパジャマ姿で、お昼から寝るまではカットソーサックスワンピースにカーデを羽織って、回るはずもない頭をフル回転して、自分自身の心を、安定した感情に必死に立て直そうとしていた。

 お母さんは悪くない、悪くない。私が生まれてきたことが悪いのだ。私が中途半端に生まれたばっかりに周りの人たちに迷惑を掛けているのだ。中途半端な私って、一体、何なの? 男のはずだけど男ではない。女のはずだけど女ではない。私の体の中からはすでにオス性は完全に消滅している。でも、メス性を持ちうるかというとそのような生殖器を持ち合わせていない。わたしは、どこかで聞いたことのある言葉、インターセックス? 私が、今、流行りのマイノリティLGBTQの枠組みには入らないことは誰が知っていようか。性分化疾患(DSD)って言葉を誰が知っていようか。きっと多くの人たちは知らない。私の身体はきっと自分で自分の性別を決めかねたんだと思う。神様はきっとどっちになりたいかを、私に随分と聞いたんだと思う。でも、私はたぶん自分に三次元の肉体をくださること自体に至極感動して、性別の返事をしなかったんだと思う。だから、神様が思案しているうちに、私は早産で生まれたのだと思う。私自身がいけないのだ。私がちゃんと神様に返事をしなかったから、股間には、小指の先だけのグミみたいな小さなチンチン?とその後に本来であれば睾丸が下りてくるはずの袋が育たず、女性器の割れ目―陰裂―のように少しの溝のラインが付いた。

 母は、もしかすると神様に頼まれたのかもしれない。私の人生でどちらがいいのかを決める判断を任されたのかもしれない。戸籍上は男の子となった私を、女の子として育てることを母は苦渋の末、決めたのだと思う。私は、母からその環境を準備されて、私自身、姉真由のようになりたいと思って、ここまで来た。この状況そのものは確かに与えられた、事後的なものであるが、私自身がその道を進んだ瞬間から、私自身が選んだ道と言っていいのかな? きっと、そう。私は女を選らんだのだから。私は……。知らない間に、私は深い眠りに引き込まれたようだ。私は、どこか日本ではない知らない場所で、可愛い羽の生えた不思議な生き物、そう、フェアリーかな? 彼らと大空をゆったりと飛んでいる夢を、断続的に見続けた。


 一方、中学校では、全校を巻き込む前代未聞の事件が起こったことで右往左往していたらしい。私は、再び登校できるようになってから内容の断片を知ったのであるが。

 私が自分の机と椅子を見た中学校生活の二日目の朝、担任はその惨状をそのままにして、教室でホームルームを行ったそうである。悪臭が立ち込める中、多くの生徒が不調を訴える中、私の身体に起こっていること、その現状を伝えたそうである。

「君たちは、立石真実(マコト)のクラスメイトではないか。君たちは立川麻耶のクラスメイトではないか。クラスメイトがクラスメイトのことを思ってやらなくて、誰が力になってやるんだ? 普通や常識って、何だ? 確かにみんなはまだ、世の中のことのたぶん半分も知らない。知らないなら、素敵な相手を思いやる好奇心を持って、まだ知らない世界のことを知る努力をしようじゃないか。誰かの口車、そうだ、今はネットであらゆるものが拡散する時代だ。だからこそ、自分の目で見て、自分の鼻で嗅いで、自分のこの手で触ってみて、いろいろなものを感じようや。」

 その空気は、校長を動かし、全校生徒の前でLBGTQとは異なるDSD(性分化疾患)の専門医をも招いて講演や講座が持たれた。そこで私の母、真由が家族としての発言をしたそうだが、二人ともその当時は全く教えてくれなかった。ただ、彼らは「愛している」としか言ってくれなかった。そこでは、マギーのようなトランスジェンダーについても当然、話し合いが行われたそうである。さらに、様々な虐めや差別についても各クラスでホームルームを持ち、その後には校区・地域全体への広がりを持った運動となっていった。私は、その全容を知らない。


 私は眠りから目覚めると、シャワーを浴びたいと思った。パジャマの上を脱いだ。上半身に下着を着けず、素肌に直接着ていた。大きな姿見が私の家には玄関、居間、バスルームに設置してある。母がモデルの経験があり、私たちにも自分の姿勢と身なりには気をつけるよういつも、小言のように口が酸っぱくなるくらい母は言い続けていた。私は、母が鏡の前で、必ず格好良くポーズをとっていたことを思い出す。いつでもそうだ。右足爪先、左足爪先を交互に鏡の前に出し、その後に、反転して後ろ姿を写し、最後に両脇をチェックする様をずっと見ていた。そこには子供心にもびりびりと伝わってくるプロ意識の凄まじさを感じていた。私は横向きに上半身を見た。私の胸は少し膨らみを帯びてきた。胸を張るとつんとまだ小さいが、といっても一年前よりも大きくなった乳頭が主張していた。

 今度は、正面を向いた。私の肩幅は狭い。真由は陸上競技をやるようになって、私が見る限り、女性らしい肉体に少しずつ筋肉が鎧のように、でもエレガントなボディーになりつつあるように感じていた。さらに、真由の胸は豊かに、かつシェイプに整っていた。私は自分の胸を見た。少し膨らんだ胸の中で乳輪も前に比べたら大きくなった気がした。もしかしたら、数か月前よりも女子らしくなったと、自分で思ってみた。

 私はパジャマの下を脱いだ。ビキニショーツ一枚の身体になった。ウエストは小学校時代より締まったようだ。さらに、柔らかな肉体もふくよかさを増して、ヒップラインが格好良くなったと自分は誇らしく思った。私の身体は、しだいに女子化していることは間違いなかった。ショーツを脱いだ。全裸の女子の姿がミラー一面に写った。立石家特有の白い肌は私にも受け継がれていた。さらに、小顔で、手足はすらりと長かった。

 私の目は下半身の一点を見詰めた。股間の部分。すでにアンダーヘアも生え、私の男部分である小さなグミはこのままでは見ることができない。陰毛を少しまさぐるとまだ居心地が悪そうに居た。その程度の男の片鱗がここにはあった。そんなものがいかに自己の存在を主張しても、抵抗しても、もう私の身体は女性の姿形であった。お尻を鏡に写した。お尻のトップからの曲線下の太腿へ下る途中にパッチが貼ってあった。これは三~四日ごとに張り替えていた。私は小学校に入学する以前、とても身体が弱かった。よく言われるように、子供の頃は女子より男子の方が健康面では弱いと言われている。もしかするとその通りなのかもしれない。母は、まず小さな絆創膏に少量の液体を染み込ませ、私のお尻に張り始めたのを覚えている。確かに、私自身、その絆創膏を張ってから、体の不調を訴える回数は次第に減ったように思っていた。小学校高学年から今の肌色の丸いパッチに代わった。

 あるとき、姉である真由のバージスラインがしっかりしてきたので、彼女の初めてのブラジャーを購入するために私たち三人は百貨店の下着売り場に足を運んだ。真由はファーストブラを購入した。私も姉のそれを見て、欲しくてたまらなくなった。

「私にも、買って!」

「まだ、マーくんには早い」と、威張ったように真由は私の言葉を遮ろうとした。「そうね」と、母は笑顔で言って、「じゃあ、これを」と買ってくれたのが、胸元が二重になったタンクトップだった。それだけでもとてもうれしくて、真由がブラを付けると自分もそのタンクトップを着た。私には胸を覆ってくれる圧が心地よかった。まだ、揺れないぺたんこの胸であったが、たまらなく自分自身を女子だと感じていたように思う。私は、今でも乳房とは呼べる程度ではないが、膨らんできた両胸を両手で下から支えてみた。十分に今のブラを満たすほどに成長していたのだ。私は嬉しくて、弾んで、バスルームに入っていった。ボディーソープは、私のこれまでの諸々の汚れを洗い流してくれたように感じた。私の肌をシャワー水が滑って行った。なぜか、自分がバスルームの鏡の前で微笑んでいた。

「私、生きてく」とほんの少し唇を動かして、しかし、はっきりと自分の胸中に言い聞かせ、その気持ちを刻んだ。


 もう、あの事件から何日経ったか自分では分からなくなっていた。たぶん、私自身には引きこもりという意識はさらさらなかったが。定かではないが十日以上は、またはそれ以上はとうに経った土曜の午後、珍しく家の呼び鈴がなった。ピン、ポーン。

 家には私以外の住人はいない。母は、今日は東京で仕事があると言って、朝早くからいなかった。真由は陸上の大会があるので、もっと早く家を出ていた。私は重い腰をゆっくりとベッドから離した。

「はーい」とけだるそうに言いながら、内心ではどうして居留守を使わなかったのだろうかと後悔しつつ、ドアフォンの画面を覗いた。映った影はマギーだった。マギーは金色の髪をグリスか何かで固め、長髪リーゼント風な髪型をしていた。上着はパステルブルーで襟が立ったシャツを着て、下はダメージジーンズ姿だった。ドアフォン越しに、私は咄嗟に叫んだ。

「マギー!」と久しぶりに口角を躍動させると、廊下を駆け出し、玄関を開けて、マギーに思いっ切り飛びついた。マギーはそんな私という弾丸を大きな胸でしっかりと受け止めてくれた。

「マーくん、元気そう。」

「うん。マギー、カッコいい。」

「ありがとう。僕、やっぱり、男子だよ。」

「今更、何言っているの? ああ、そういえば、もうずいぶん昔の話だけど、マギー、中学校の一日目、セーラー服着ていたよね。」

「そう、そう。だって、パパが『マギーのセーラー服姿を見ておきたい』、って言うから。凄く、嫌だったけど我慢して着てみた。だから、次の日からは、学ランで行くつもりでいたんだ。」

「そうだったの。良かった。何だか、初日からとんでもないことが起こって……。」

「うん、分かるよ。マーくん。」

「学校どう?」と、私は恐る恐る尋ねてみた。すると、時間を置かず、

「マーくん、みんな待っているよ。」と、マギーの言葉。

「ウソだ、嘘だよね?」と、私は彼から離れて少し後ずさりした。マギーは私の身体をグイっと引き寄せた。

「大丈夫だよ。僕の大切なフレンドだもの」と言うと、私より大きな身長でアメリカンボディー。たぶん、すでに一七〇センチを超えていた。さらに、バストはきっとCカップはありそうな胸元に押しつぶされた。しばらく私はマギーに拘束されたまま。私はマギーの身体の熱をもっと感じていたかった。

「マーくん、散歩しない?」

「でも……」

「いいよ、待っていてあげる」と言うと、マギーは玄関の門柱に寄りかかった。

 戸外へ出る勇気をまだ持ち合わせていなかったが、私は急いで、身支度を始めた。パープル系のショーツに替え、それとお揃いのインナー付きのキャミを着て、薄いパープル系のギャザーワンピに自分の身体を潜らせた。少し外は寒そうな空気をさっき感じたので、白いカーデを羽織り、ストッキングを穿いた足を白いスニーカーに通したが、髪にブラシを通すのを忘れていたので慌てて洗面所の鏡台の前に立った。髪にブラシを通し、唇につやを出すリップを塗った。

「お待たせ、マギー。」

「いい女になったね。」

「えっ?」

「前より、ずっと輝いているように見える。何か変わった?」

「マギーも、いい男だよ。」

「ありがとう」と言うと、マギーは私の手を取った。私たちは仲の良いカップルに見えるかな?

 私たちはゆっくりと歩き出した。近くの海の見える公園へ向かっているみたいだった。巨木の松の枝に覆われた日を遮るベンチに二人して腰掛けた。その日は風が強く、肌寒いのか私たちの周りには人影はなかった。

「みんなが待っているよ」と、マギーは繰り返した。

「あれから学校は大変な騒ぎだったよ。」

「それは、真由からちょっと聞いている。」

「そうだよね。今日は、二つマーくんに伝えることがあるから。一つ目、先生から『みんなが待っているよ。君がいないと学校に来ない人がいる。みんなが心底心配しているぞ。クラスメイトは敵じゃないよ。みんな友達だから、立石も今度は自分の素の姿を見せてくれ』って。僕からは、『夏になったら、アメリカに引っ越すよ。マーくんとそれまで、一緒に中学校生活を送りたい』ってこと。」

「えーっ、本当?」と私は唐突に驚きの声を上げた。私はマギーに抱きつき、自分の次の行動が予測できず、ただ衝動のままに彼と唇を合わせた。マギーからもしっかりと唇の温かみが返ってきた。私は失いたくなかった。何も失いたくなかった。私はマギーの顔をじっと見詰めた。マギーも穏やかな、私をいとおしむ瞳を返してくれた。

「学校で、遊ぼう。幼馴染、一杯いるよ。また、僕がマーくんを守ってあげる。ただし、完璧な女の子のマーくんだよ。マーくんに似合わないよ、学ランはね。僕はばっちりだけど。ハハハッ」と大声でマギーは楽しそうに笑った。その後、学校での出来事や他愛もない同級生の恋バナをマギーから聞いていた。何だか、無性にみんなと会いたくなった。日が傾きかけて辺りは少しずつ夕暮れの光に包まれてきた。

 二人は同時に立ち上がると、抱き合った。本当の恋人と思われる空気感で。松林が茂る道すがらで、マギーが急に私の足を救い上げた。私は宙に体がふわりと浮かび、マギーに抱っこされたかと思うと、ちくちくとワンピの布に松葉の先端が当たった。すっぽりと松のない小さな空間に私たちは入りこんだ。私はストンとその場に下ろされた。すぐにマギーは強引に私を抱くと、彼の唇が私の息を遮った。そして、マギーはこう言った。

「あのときみたいに、マーくんのあそこを触っていい?」

 私は躊躇しなかった。

「いいよ」と言って、ワンピの裾をたくし上げた。すると、マギーはストッキングとショーツを私の膝まで下ろすと、そっと柔らかな掌を私の股間に当てた。私はすでにじんじんと感じていた。マギーの優しい柔らかな気持ちを感じていた。自分が女子だと感じていた。マギーは自分のジーンズを下ろし、私の手を自分のショーツの中に導いた。私の指先がマギーの割れ目に触れたとき、彼は私に微笑んだ。

「濡れているでしょう。」

「うん、マギー、とても濡れているよ。」

「深く入れて」とマギーが小声で言ったのを、私は聞き違えかと思った。確かに、私の中指の先はマギーの濡れそぼった襞の中へ、つまり小陰唇の中へするりと納まった。指を上げていくとクリトリスと思われる小さな突起に触れた。彼は、私のグミを撫でていた。私のグミは以前より小さくなったかもしれない。

「マーくんも濡れているよ。」

「ええ……。」

マギーに寄りかかるように上体は前かがみになり、私は左手を彼の背中に回してシャツを掴んでいる手に力を入れた。マギーは私の右のお尻を自分の方に引き寄せた。私たちはどれくらいお互いのものに触れていたかは定かではないが、すでに辺りは暗く、松林の向こうに街灯が灯っていた。このとき私とマギーはともに、幼稚園のときとは違って、マリア様にお願いをすることを忘れていた。ごめんなさい、神様。


私は母と真由に宣言した。

「明日から学校に行きます。セーラー服を着ていきます。」

 母と真由の二人は顔を見合わせて明るい表情をして微笑み、喜んだ。

 その夜、幼少の頃、私は不安を抱えると必ず真由に添い寝をしてもらっていたことを思い出し、彼女にそのお願いをしようとしてした。その矢先に姉が不意に名を呼んだ。

「ねえ、マミ。」

「何?」

「アッ、反応した。」

「何よ? 真由。」

「いつも麻耶ちゃんが、あなたのことをマコトと言わずに、マミって言うのよ。」

「そう、入学式の後のクラスで初めて会ったとき、真実(マコト)を『マミ』って呼んだよ。だから、私、ちゃんと訂正したけど。あれから直ってないんだ。」

「そうみたいね。でもね、パパが無理やり真実を『マコト』って、呼ばせたのより、ずっと、素直な素敵な呼び方なんじゃないかな。」

「うん、『マーくん』って呼ばれ方、もう、私も卒業したい。」

「そうね。マミ」

「はーい」と、私は、自分の愛称が一段と女性化することにうれしさを感じた。確かに、「マコト」という呼称の女性もいるが、どうしても男性の呼称の印象が自分には強かった。また、「マーくん」という呼び方には、幼さを感じ取っていたので、最初に麻耶にそう呼ばれたとき、少しくすぐったかったけど、嬉しかったことを思い出した。

「そうそう、伝えとくね。」

「何を?」と、私は姉に尋ねた。

「この問題と麻耶の恋人事件は、別々に処理された、ということ。」

「どういうこと?」

「そうだなあ、大人の事情も関係しているかも。だから、学校のイジメやマイノリティー問題は麻耶の奔走で、学校や地域社会が解決へ向けて動き出した、という事実。当然、裏方の私の仕事量を増やしてくれたけどね。いい迷惑よ、こんな妹を持ったばっかりに。そしてもう一つ、麻耶があなたにキスした恋人スクープ報道事件は、学校イジメ問題解決へ向けての麻耶の精力的な活躍をクローズアップさせることによって、現在のところウヤムヤな状態だということ。まあ、体裁のいいもみ消しかな。」

「何か、麻耶は得してない?」と、私は素直に感想を述べた。

「うん、そこに大人の思惑ってものが入ってきたということかな」と真由は言って、こう続けた。

「要は、あなた次第、ということね。兎にも角にも、真実は真実でしっかり生きるということ。私ね、考えたことあるの」と、真由は少し間を取った。

「人生って、といっても、私自身、あなたより一つ上だけど、人生って短距離走みたいなものということ。つまり、パーンとスターターがピストルを鳴らすと、競技者は一斉に走り出す。そのとき他人のことなど考える余裕はない。いつもゴールへ向かって突っ走るだけ。だって、もう後戻りできないもの。最近よく言うじゃない? プランAがだめならプランBに変更って。でも、それって時間と労力の無駄遣いじゃない? もう、走り出しいているんだもの。プランB、次案、つまり次の案、次の考えを準備するよりもまずは前へ向かうこと。これが素直に生きるってことじゃないかな。生き続ける、生き残るってことじゃないかな。」

「よく分からないかも。でも、私たちは、もう後戻りできないってことは良く分かるよ。」

「じゃあ、それでいいよ」と、真由はぶっきら棒だけど愛情のある口調で言うと、私の瞼の上に彼女の温かい掌が置かれた。と、思ったら、私は、するりと眠りに落ちていった。夢の中で、あのフェアリーが私の方に振り向きながら微笑んでいだ。


 次の朝、私が目覚めると、すでに真由の姿はなかった。母に聞くと、今日も陸上部の朝練にいつものように早くに出かけた、ということだった。

「そうそう、時間ができたら、あなたの様子見に行くって、真由が言っていた」と、母は私に優しく語りかけた。

 私は、紺のセーラー服に袖を通した。白い靴下に黒いローファーを履き、玄関の側壁に設置してある姿見に自分を映して、胸の赤いスカーフを整え、くるりと上体から自分の身体を反転させた。スカートの裾がふわりと膨らみ、それは想像以上に奇麗に弧を描いた。私は唇の両端を表情筋で引っ張り、口角を上げて笑顔を作ってみた。それを見ていた母が、一段と嬉しそうにして一度手を振って、「行ってらっしゃい」と私の背中を押した。

私は職員室にまっすぐ来るように指示されていた。登校時の時刻は、多くの生徒が校門に吸い込まれていく。私もその群れの一員として門をくぐった。校門の門柱に金髪で青い目をして学生服を着た、どこからみても外国人のヤンキー風の人物がいた。もちろん、マギーだ。彼は軽く手を上げ、優しいまなざしを私に向けると近寄ってきた。

「マーくん、教室で待っている」と言うと、軽やかに風のように私の前から駆けて行った。私は口をきりりと閉めて、自分自身に頷いた。

「おはようございます」と言いながら、私は職員室のドアを開けた。まだ、顔を知らない先生方の視線が私に向けられた。しかし、職員室の空気は穏やかに感じた。すぐに女性の若い先生が私に声をかけてきた。

「おはよう、立石さんね。」

「はい。」

「担任の石橋先生は、もう教室を覗きに行ったみたいだけど、もうじき戻ってこられるわ。私、英語を教えている澤田です。よろしく。身長、私よりも高くない?」と澤田先生は私を少し見上げるように目線を私に合わせた。

「よろしくお願いします」と、私は自分を鼓舞する意味も込めて、元気よく答えた。

 程なく、石橋先生が帰ってきた。

「やあ! 来たか。立石真実(マミ)さん。」

「はい。先生、お久しぶりです。」

「そうなるかなあ。でも、今日が、立石真実さんのスタートだね。」

「はい」と、私は、今度は、もっと力強く返事をした。

「ハハハッ、そんなに緊張しなくてもいいよ。クラスはいい仲間がいっぱいいるよ。それに、学校の雰囲気、何か変わったと感じた?」

「さあ……」と、私。たぶん、私は極めて鈍感な生き物だと、思った。もしかすると、昔から鈍感になることによって、自分の心と感情を防御してきたのだ。そこに起因しているのかもしれなかった。

「じゃあ、行こうか。教室へ」と、石橋先生は言うと、私についてくるように手招きをした。先生に付き従って、廊下を歩き、階段を上ってすぐの教室が私の所属するクラス。もう、私は教室の位置さえ、すっかり忘れていた。教室のドアを開けた。誰かがダッシュで近づいてきた。麻耶が私に抱きついた。「悪い予感!」と私は心の中で目を閉じて呟いた。でも、それは徒労に終わったみたいだった。

 麻耶の第一声。

「おかえり、マ、ミ。」

 麻耶は私の耳元で、大きめの声を発した。すると、クラス全員が、「おかえりなさい、マミ!」とハモった。

 石橋先生は、麻耶に席に着くように促すと、教卓に両手を置いた。

「さあ、今日は、新しい友だちを紹介します。立石マミさんです」と先生は言うと、隣に立っていた私に自己紹介をするように言った。私は、このような事態は想定していなかったので、戸惑ったが、確かに私は一日だけしかまだ中学校生活を過ごしていなかったことを思い出して、心をしっかり前向きにしようと決意した。

「初めまして、たていし」とそこまで口にして、一拍置いて「まみ、です」と言った。

クラス中の皆が、大きな声で、「立石マミさん、よろしく!」と大合唱が返ってきた。私の耳がどうなるかと心配するくらいの大音量だった。すると、マギーが私の横に進みより、並び立った。

「マミをいじめる奴は、ぶっ潰すからね、僕が」と、宣言した。

「マギー」と小声で言って、私は恥ずかしいので、彼の学生服の袖を幾度か引っ張った。

「マミがマミであるように、僕は、今、マイクだよ」と、彼も小声で答え返してくれた。

 クラスはマイクの言葉で、盛り上がった。こんなに教室が笑い声で満たされた経験のない私は、とても戸惑った。どんなリアクションを取ればいいのかさっぱり分からなかった。何度も、ペコリ、ペコリと私はお辞儀を繰り返していた。

「さて、立石さん。学級委員長の後ろの席に座って」と石橋先生に言われて、麻耶の後ろの席に座った。彼女の香りが纏わりつき、黒髪がさらさらと音を立てた。麻耶の瞳が輝いて、唇の両端が上がった。

「真実、ずっと一緒だよ」と、彼女は甘い香りのするトーンで私に声をかけてきた。私は、自分が現実ではなく、仮想的な空間に漂っているのではないかと思うくらい、自分が置かれた新しい環境に酔いつつ、ふわふわとした高揚感に包まれていた。

 私の中学校生活がスタートを切った。麻耶に誘われて、部活は書道部に所属した。週に二回の活動と言う所が決め手だと、麻耶が言っていた。また、それが麻耶の母親の助言だったらしい。相変わらず姉真由は私のクラスをしばしば覗きに来た。さらに、ヨッチャンも時折、階下から降りてきて、「よっ!」て声をかけては、さり気なく去っていった。真由は陸上に忙しく、ヨッチャンはバレーボール部で、すでに彼はエースWS(ウイング・スパイカー)で活躍していた。私の日常も、麻耶をサポートする学級副委員長の仕事と共に、学業にも身を入れる生活となっていった。マイクは、何かと私の彼氏を装い、世話を焼いてくれた。私は、マイクの存在を非常に頼もしく、愛おしく思っていた。


 それからひと月程が、瞬く間に過ぎて去っていった。放課後に学級委員(実は、真由もヨッチャンもそれぞれのクラス学級委員長等をしていた)の全体会が行われた日だった。その日は、このメンバーにマイクも加わって、学校からの帰路についた。こんな幸せな時間を味わった経験が、これまでに私にはなかった。いつも姉が、ヨッチャンが、マイクが私に襲い掛かる恐怖や不安、さらには偏見という視線から守ってくれることが多かった。自分ひとりで生きることは不可能ではないかと思うくらい、皆に守られる生活が永遠に続くのではないかと小さい頃から、私の頭の中を満たしていた。でも、今、そのような巨大な闇から出られる可能性があることを感じ始めていた。私は、少し足を速めて、皆の先頭に出て、反転してから、「ありがとうございます」と感謝の言葉を皆に告げた。

「何言っているの? 真実」と、ぽかんとする真由。

「何を改まっているの」と、驚くヨッチャン。

「ハハハッ」と、受け流し気味のマイク。

 そして、麻耶は一歩進んで振り返ってから胸を張り、「そうね、私のお陰かしら」と、いつものようにお道化てみせた。

 皆で、大きな笑いの華を咲かせているみたいで、本当に心の底から楽しいと感じるようになった。生きて行っていいのだ、と私は初めて思えるようになったのを覚えている。

 麻耶が私に甘えるように言った。

「そうだ、今度、ちょっと仕事手伝ってくれる?」

「お断り。麻耶といると、何が起こるか分からないもの。」

「そうそう、大体、こんな風に帰れるようになったこと自体、大事件だもの」と、真由が大人世界の取り決めの恐ろしさを語った。

「いいじゃん、そんなこと」と、少し膨れて麻耶が言葉を吐いた。

「まあ、許す」と、麻耶を眺めつつの真由。

「あのさ、真実。もうあなたのお母さんの許可を貰っているんだけど。お仕事、手伝ってください」と、今度は少しばかりの低姿勢から麻耶は私に丁重と思われるような仕草で頼んできた。横で、真由は笑っていた。ヨッチャンとマイクは女子たちから離れて、二人で男の話をしていたようだ。

「真由、そんな話、私、聞いてないから」と拒んだが、真由は麻耶の味方をした。

「一度くらい、麻耶を助けてあげなさいよ。本当に麻耶はあなたのために東奔西走して、この環境を作った立役者なんだから。」

 私は、真由がなぜ麻耶の肩を持つか、そのときはまったく気が付かなかった。


 ある金曜日の放課後、私は麻耶の黒塗りの専用車に乗せられ、校門前から拉致された。麻耶と私は制服のまま、東京のあるオフィスに連れていかれた。麻耶は私を伴って、社長室の扉を開けた。

「失礼します。立石真実さんをお連れしました」と、麻耶は緊張した面持ちで相手に伝えた。私はどうすればいいか、全く分からず、立ったままドギマギしていた。すると、麻耶が社長に挨拶しろと言わんばかりに、私の頭を下げるように、彼女の手が私の後頭部を押した。

「初めまして、立石真実と申します。」

「よくいらっしゃたわ」と、女社長は、優しく、しかし、威厳のある言葉遣いだった。

「一度、あなたたち二人で、制服のまま写真を撮らせて。超かわいいじゃない」と、女社長は茶目っ気たっぷりに語った。彼女は、ある有名ブランドの紺色のスーツを着ていた。それはちょうど母がグレーのスーツを着ているような、着こなしであった。もしかすると、母のスーツブランドと同じかもしれない。私は、すぐに気が付いた。モデル・エージェンシーであるから、社長も元モデルではないかと。

「そう、あなたのお母さんにお許しをいただいているから、これから私たちに付き合ってくださいね。」

「えっ?」と、キョトンとする私。

「これから、私たちは伊豆へ向けて出発よ!」と、麻耶が大きな声を出した。

「麻耶、はしゃぎすぎよ」と社長が窘めると、麻耶は素直に頭を下げた。

 オフィス内撮影室で、私たちは専属カメラマンに制服姿をカメラに収められた。ひとり一人の制服姿。二人で手をつないで、楽しそうに振る舞う姿。

「真実ちゃん、表情、硬いよ。もっと、楽しいことを想像して。」

「はい」と、私は只々返事を繰り返すしかなかった。

「ハーイ、 頂き」と、カメラマン。

 自分の身体のどこかで、幼少の頃の記憶が蘇ってきた。確かに、私はこのようなこと、キッズモデルを経験していた。いつも真由の顔を見ては、指示を仰いでいた。その断片的な記憶が途切れ途切れにスターダストのようにちらついた。

「真由ネエも、来ることが出来ればよかったのに」と、麻耶は漏らした。彼女の口から「真由ネエ」?って言葉。

「これに着替えて」と、スタイリストと思われる人から指示が出された。「さあ、着替えるよ」と、麻耶が私をフィッティングルームへ背中を押しながら、導いた。

「真実、昔、あなたもキッズモデルをやっていたでしょう。」

「そうみたい。」

「そうよね。だって、体が自然に動き出していたもの。」

「そうかな?」と、半信半疑な私。確かに、衒いとか恥ずかしさはほとんど感じなかった。スタッフに声をかけられると、昔は真由が「笑うの。もっと、笑うの」と言って、私をくすぐった光景も思い浮かんできた。それが楽しかったことを記憶していた。それに、着せ替え人形のように様々な洋服を着ることができることに、喜びを子供心にも感じていた。その感覚が再びわき上がってくるのを体感していた。

「二人とも、中学一年生にしては高身長だね」と、衣装さん。所狭しと、衣装が並べられていた。私に真っ赤なミニのワンピが、麻耶に白のボトルネックのシャツと青のワイドパンツがまず渡された。鏡の前に座らされ、メイクさんが爽やかなライトメイクを施し、清潔感を印象付けるように、ブラシを頬に走らせ、髪を整えた。

「真実ちゃん、スチール撮るね」と、カメラが寄ってきた。

 私は、自分が本物のモデルになった気がしてきた。自分をこんなに必要としてくれるところがあるんだ。私は居心地の良さを感じるとともに、ずうーっとこの時間が続けばいいと思い始めた。途中まで気が付かなかったが、社長の鋭い眼差しが私に向けられていることに途中で気付いた。社長がOKサインを担当者に出しているのを見た。

「じゃあ、行くぞ!」とスタッフの誰かが声をかけたかと思うと、私の手を麻耶が引っ張った。マイクロバスは伊豆へ向けて動き出した。麻耶は「あなたの着替えは預かった」と言って、見覚えのある青いディバックを私に差し出した。

バスには私たちとスタッフ、社長を含めた十名が搭乗していた。私は、すでに興奮していたのが自分でもわかるくらい賑やかに麻耶とともにはしゃいでいた。何を二人で喋っていたかは思い出せないが、多分、他愛もないことだったと思う。到着したときにはすでに日が暮れていた。その暗闇の中に、英国ヴィクトリア朝建築を模したホテルの全景が浮かんでいた。麻耶と私は個別の露天風呂付きアンティーク家具が綺麗に配置されている一室をあてがわれた。今夜はホテル全体が、このオフィスの貸し切りみたいだった。

 私たちは早速、部屋を覗いた。「すごーい」と、私たちは口を揃えて言った。その後、皆で遅い夕食をわいわいといっていい雰囲気で時間を過ごした。私にとって夕食は、母と真由と一緒に、あるいは、母が遅いときは真由と二人きりで摂ることが多かった。だから、このように家族以外の人たちと夕食を頂くのは初めての経験だった。大勢が一か所に集まり、様々な話題で盛り上がること自体初めてだった。多くのスタッフの方々がいろいろと質問を私に浴びせた。時折、麻耶が、そして社長が助け舟を出してくれた。私は完璧に幼気な中学女子なのだ。

「可愛いよね。麻耶ちゃんとどこか似ているね。高身長といい、体型といい、さらに顔の輪郭もね。違うのは髪型と目元の印象かな?」と、ベテランのスタイリストさんが言うと、その他の方々も「そうだね」と、同意した。私は、そんなに麻耶に似ているとは思っていなかった。

 その後、私は麻耶が打ち合わせをしている隙に、先にお風呂に入った。家族以外の人間に自分の裸を見られるのはとても恥ずかしかったからだ。

「あれっ、もう浴衣姿? 一緒に入りたかったのに~」と、麻耶が少々ふてくされて詰まらなそうに言った。

「うん。だって、今日は初めてのことがたくさんあって疲れたから、私ベッドに先に行くね。」

「そう? じゃあ、明日は一緒にお風呂に入ろう。約束だよ。」

「えっ、もう一泊するの?」

「そうだよ。だって、サボテン公園で、TJ(テーンズ・ジュニア)の撮影と私の初めてのPVを撮るんだから。もちろん、あなたと一緒にね。真実!」

 私は、彼女をその場に置いてベッドに急いだ。しかし、なかなか寝付けなかった。やはり、自分が経験したことのない相当なテンションの高さから降りてこられないでいた。目を瞑っていると、電気を消して、麻耶がベッドルームに入ってきた。私の顔の付近に影が近づくと、麻耶の唇が私の唇と重なった。やはり、どこかでこの唇の形と柔らかさを覚えていると思ったが、そのキスで私は深い眠りに誘われていった。

翌日は、朝早くから公園内に入り、観光客が来る前から私たちは動物と共に撮影に入った。また、近くの豪華なホテルのレストラン・カフェでも私たちは被写体となった。今回のコンセプトは『スニーカーでお出かけコーデ』、『スイーツでおしゃれを』という二本立ての撮影であった。真っ白なものからマーブル系、さらに七色のスニーカーが用意され、服装もパステルカラーのTシャツを始めとして、胸元に大きなフリルやリボンのついたちょっとロリータぽいブラウスやチュニックなど、ボトムスには長い足を見せるデニムショートパンツやミニスカート、フィッシュテールスカート、スキニーパンツなどなど。私は只々、スタイリストさんとカメラマンの指示に抵抗なく従うだけだった。麻耶はとっても楽しそうに私に微笑み返すことが多かった。だから、私も精一杯、彼女の笑顔を真似ているうちに、心底、きついはずの撮影時間がだんだんと楽しくなったのを覚えている。

 雑誌TJの撮影が終わると、次に待っていたのは麻耶のPV撮影。撮影クルーが打ち合わせ通り、先程、カメラ撮影に使用したホテルのロビーにやってきた。私は最初、麻耶だけの撮影と聞いていたので、私自身はおおよその仕事は終えて、これで無罪放免だと考えていたが。

「さあ、行くよ!真実。」

「何? 私も行くの?」

「当たり前でしょう。今度は、一瞬の切り取り画像じゃなくて、動画だからね。」

「なぜ、私も映らなくちゃいけないの?」

「だって、タイトル知っている?」

「えっ? 何なのよ?」

「タイトルは『マヤの休日編―真実と一緒―』だもの。」

「そんなこと、全く聞いてないよ。勝手に決めないでよ。もう、そんなに露出したくないよ。」

「もう、それは無理な話。だって、私たちはオフィスM&Rの専属モデルであり、TJのモデルでもあるのよ。それに、今回の撮影分はTJ来月号に私たち載るのよ。」

「麻耶が手伝って、って言ったから、私、軽い気持ちでここに来ただけなのに……。」

「もう遅い。覚悟しな」というと、私の手首を麻耶が力を込めて引っ張り、ホテルのロビーからカメラは回り出した。さらに、ぐらんぱる公園内の様々なアトラクションや大室山、城ヶ崎海岸にも足を運んだ。しかし、私が最初に思ったほど自分が疲れていないことに驚いていた。それは、麻耶と行動を共にしていたからかもしれない。何度も不慣れな私がNGを出すにもかかわらず、麻耶は笑って、「ドンマイ」を連発し、ダメだしするスタッフさんたちと掛け合い漫才風の言葉遊びをしていた。さすがにこの業界での彼女の手慣れた仕事ぶりを私は目の当たりにしたことになる。この小撮影旅行はその日の夜の八時にすべての工程が終了した。

「お疲れ様でした」という声をかけれた途端に、私の身体は鉛のように重くなってきた。スタッフの皆さんとの合同夕食が終わってから、私は社長に声をかけられた。

「真実ちゃん、グッド・ジョブ!」

「ありがとうございます」と、私は緊張気味に答えた。

「これであなたも、オフィスの専属モデルだからね。これからも麻耶と一緒に頑張ってくれる?」

「はい、頑張らせて頂きます」と、私はそれ以外の言葉を見出せなかった。私は社長に強くハグされた。それは、身内に示すような愛情深い抱擁だった。麻耶が手招きしていた。

 自分たちの部屋に入ると、麻耶が「ありがとう」と言って、柔らかく抱きついてきた。背丈が数センチしか違わないのに、マヤの存在が私には大きく感じられた。すでに麻耶は私から見れば完全に大人だった。麻耶の視線が少し上から注がれ、私の瞳をじっと見詰めていた。また、来るな、と私が思った瞬間に、彼女の唇が私の口を塞いだ。

「ぷうー」と私は、息をするために麻耶を押し返した。何だか少し恥ずかしかった。なぜって、麻耶が日増しに愛おしい存在に思えてきて、自分が彼女に素直に接することができないでいることが自分として許せない気持ちだった。麻耶は負けない性格である。私をアンティークテーブルの前に腰掛けさせた。

「さあ、乾杯しよう。真実のメジャーデビューに!」と雄叫びを上げるとと、麻耶は小さなワインボトルを私の前に置いた。

「これって、ワインだよね。私たち、まだアルコールは駄目だよ」と私が注意すると、麻耶は面白そうに笑った。

「そう? 私、ママの許可もらったよ。」

「えー、それって不良だよ。私、こんなことが母と姉に知れたらお家から出ていけって、言われるよ。特に、真由に……。」

「そうなんだ。真由ネエって怖そうだものね。」

 私と麻耶は同時に笑った。そして、ワインの小瓶を開けて、ホテル備え付けのグラスに紫色の赤ワインを注いだ。私の心は決まった。今日は不良になってやるぞ!と心が開き直り、今まで気が付かなかった大胆な自分が顔を出した。

「乾杯!」と、グラスの響き合う音が二人だけの部屋中に木霊した。

「うわー、甘い!」と、麻耶の一声。

「美味しい」って、私。初めてのワインの口当たり。その液体は私の喉をやすやすと通り越し、胃袋で次第に熱を帯びてきた。そのワインにはカマンベールチーズが添えてあり、私たちはそれを齧りながら、再び、飲み干したグラスに液体を注いだ。一体、何度のアルコール度数があったかは知るはずもない。

 私たちは、テーブルからソファーに場所を移し、まだ、片手にはグラスを持ち、チーズを頬張っていた。

「真実、白状しなさいよ。マイクはあなたの何なのよ!」と、麻耶の声が大きくなった。

「何って、幼馴染だよ。」

「そうかな? 怪しいときがあるもの。」

「怪しくないよ。」

「真実は、誰が好きなの?」と、麻耶の気持ちのボルテージは確かに上がった。

「麻耶だって、いるでしょう、好きな人」と、私も声を大きくして応戦した。

 麻耶は沈黙した。突然、麻耶は黙ると、私の肩に自分の頭を傾げてきて、こう言った。

「真実が、大好き。本当だよ。」

 麻耶の顔はすでに真っ赤になっていた。

「麻耶の顔、赤いよ」と私は見たままを言った。

「真実だって!」と、麻耶は大声で言うと、私に覆いかぶさってきた。私の顔の前にあった天上の明かりが消えた。私の唇をマヤの唇が再び塞いだ。その後、私は自然と彼女の長い舌と私の舌を絡めていることに気付いた。ワインの甘さが彼女の舌、唾液から伝わってきた。私の気持ちがざわついた。ざわついた、といっても嫌な、気持ち悪いざわざわではなかった。何か、まだ自分が経験してはいけないような禁断的な感覚とでもいえるものだった。だから、このときの自分にはその状況を表現する語句を持っていなかった。

「真実、マイクのことが好きでしょう」と、今度は咎めるような口調で麻耶は私に訊いてきた。私は、ドキッとした。自分の心臓がどきどきと脈を打っていた。

「こんなことしているんでしょう?」と麻耶は言って、私のミニスカートのジッパーを下ろすと、ショーツの太腿側から指を私の股間に当てがった。

「止めて。麻耶のこと、嫌いになるから!」と、私は麻耶の手を上から強く押さえた。

 麻耶は「ごめん」とすぐに返すと、床にフニャフニャとへたり込んだ。

「頭を冷やした方がいいよね」と言うと、麻耶は露天風呂のある戸外へのサッシを開けて出ていった。私は麻耶の後を追った。麻耶は露天風呂脇の石に腰掛けて髪で顔を隠した状態でうな垂れていた。私は麻耶の顔を覗き込んだ。彼女の髪の毛の奥に水玉を抱えた瞳があった。私が、今度は「ごめん」と声をかけた。「うわーん」という声とともに、麻耶が覗きこんでいた私の上に覆いかぶさってきた。私は起き上がろうとして、バランスを崩した。私たち二人はその露天風呂の湯船の中にザブーンと音を立てて落ちた。私たちはお湯の中から身を起こし、立ち上がった。着ている服はお湯で濡れ、髪の毛もずぶ濡れ状態となった。

「ハハハッ、ハハハ。アハハ。」

私たちは、お互いの濡れ鼠の姿があまりにも惨めで面白くって、笑ったのだと思う。だって、二人とも、イエイエ、麻耶はれっきとしたモデル。私はデビューしたてだから、まだ誰も私の存在なんか知らないけど。麻耶は今、売り出し中の中学女子モデルがこんな格好しているところを隠し撮りされたら、たまったものではないはず。また大ごとになってしまうはず。それが分かっているから余計に自分たちの惨めな姿がとても滑稽に思えた。

 私たちは、その場で濡れた服と下着を脱ぎ棄てて、湯船に身を沈めた。私はマヤの裸体が白く眩しく見えた。さらに、彼女の早熟の胸の膨らみがうらやましく、艶めかしかった。麻耶が私の胸をお湯の中で触った。その手はゆっくりと私のウエスト部分を通過し、お尻を撫でた。さらに私の内腿をたどり、多くはないアンダーヘアを掻き分けた。

「あった。これ真実のでしょう。」

「駄目だって、言っているでしょう。嫌いになるから」と、私は言ったものの、今度は私の身体は麻耶の指の動きを拒めなかった。私の身体の真ん中が熱くなるのを初めて知った。麻耶の指は私の小さなグミの下にある溝に沿って下って行った。私は自分の怪しい感覚を目を閉じて押し殺そうとした。

「真実って、やっぱり女の子だね」と、麻耶は私のグミの塊を親指の腹で押し、人差し指で溝ラインをなぞりながら言った。私は、自分自身の秘所をこんなにも他人に触られたことがなかった。それもお湯の中でじっくりと。麻耶があたかも私という珍品を品定めしているかと思われるほど、時間をかけてじっくりと。私はこれから人身売買でどこか遠い国に売り飛ばされる、と少しだけ真剣に不安な思いを抱きつつ、私の身体はお湯の熱と麻耶の熱い思いで、気を失いそうなほど感じていたことは間違いなかった。よく晴れた雲一つない夜空で、まともに数えられないくせに星の数を何度何度も数えたのを覚えている。


 私の中学女子としての生活は、忙しさが増した。学校では麻耶と共に、学校行事に追われ、週末は東京近郊でのTJ等の撮影現場に行く日々が多かった。すでに、学校は有名人に慣れ切っていた。あっという間に、夏祭りの季節がやって来た。もうすぐ、マイクがアメリカに立つ日も近づいていた。真由とヨッチャンはいつも仲良くて、学校で各々の部活に励んでいた。私と麻耶も、たまに書道部の活動で学校に長時間いる日もあった。マイクはというと、多くの同級生や上級生の女子たちの間で、学校中の人気者になっていた。

「僕、真実と二人きりで、祭りにいきたい」と、マイクから電話がかかってきた。すでに祭りには、皆で、そのメンバーは、真由、ヨッチャン、麻耶、マイクと私なのだが、行くことになっていた。

「マイク、何、我が儘言っているの?」と、私。

「僕、本当に真実のことが好きなんだ」と、マイクがはっきりと宣言した。

 ある日、夏休みの前に、ヨッチャンと私は帰りが同時刻になったとき、道すがら、ヨッチャンが私に話したことがあった。マイクが「真実のことが本当に好きで、好きでたまらない、真実を食べたいくらいだ」と言っていたそうだと。私はとっても嬉しかった。でも、私が本当に好きなのは……。目の前の人に自分の気持ちを伝えられなかった。目の前の男子は私の姉の恋人。告白してはならない人。小学校のとき、真由が熱を出した時、ヨッチャンが私の手を握って学校まで連れて行ってくれた。真由の熱が下がらないように神様にお祈りした。そんな自分が嫌だと思ったことが何度かあった。

「そうだ。途中でみんなと逸れればいいじゃん」と、私が提案すると、マイクが頷いている光景が想像できるほどはっきりと私の脳裏に浮かんだ。

「OK!」と、元気に応える彼。

 夏祭りの当日、真由、麻耶、そして私三人は浴衣を着た。中学女子にしては高身長の色っぽい女子三人の出来上がり。真由は白地に赤の朝顔柄、麻耶は紺地に白ユリ柄、そして私は白地に椿柄の浴衣を纏った。待ち合わせは祭のメイン通りから横道に入った商店街の入り口。そこに濃紺の浴衣姿のヨッチャンが登場した。女子一同から「素敵!」の声が上がり、ヨッチャンもまんざらではない様子だった。すぐにヨッチャンの横に真由が寄って行き、彼の襟元を直す仕草をした。

「真由ネエ、私にヨッチャンを譲って」と麻耶が声をかけた。その発言は冗談だが、私には冗談では済まされない感情を自分の中に抱いていた。私は、真由とヨッチャンの並んだ姿を羨ましく、妬ましく、意地悪く思い始めた自分に少し嫌な側面が芽生えだしたのを実によく覚えている。

「遅いなあ。マイクがまだ来ないよ」と、心配する私。

「もうすぐ来るよ」と、楽観的な麻耶。

「あれ?」と、ヨッチャンが一番高い目線からマイクを見つけたらしかった。

 人ごみを掻き分けながら、大柄なアメリカン二人が、特に金髪男性は頭一つ一般人から抜きん出ており、彼は格子柄の浴衣姿を着ていた。その脇に金髪の女性が艶やかな大ぶりのアジサイがデザインされた浴衣を着て、彼の腕に巻き付いてこちらに向かってきた。程なく、金髪の女子が私たちの方へ、手を上げて、その手を大きく振ってきた。

「はーい」と、まごうことなきマイクの声。でも、その声は女子のそれであった。

「ハーイ、エブリバディ」と、よく見ると顔立ちはアメリカ男優のT・クルーズっぽい男性は私たちに気さくに挨拶をしてきた。

「いつも、マーガレットがお世話になっています。」

 マイクは私の耳元で、「こんな格好になっちゃった」と、少し恥じらいをみせた。

「私のパパです」と、中学女子に見えない金髪ハンサムショートのマイクが私たちに自分のパパを紹介した。私たちも自己紹介をと思っていたら、マイクのパパは、私たちをひとり一人指さして、名前を言ってのけた。すでにマイクのスマホに撮ってあった写真を見せてもらっていたとのこと。マイク(マギー)の父親は駐留米軍のパイロットで、時間の多くを空母の上で過ごし、この田舎町の家(マイクのパパは白井家に婿養子という形で入ったことはすでに知っていたが)に帰ってくるのは年に二、三回ということだった。そのマイクのパパがオハイオの祖父の牧場を継がなくてはならなくなったとのこと。本来であれば、長子が継ぐはずであったが、病に倒れてから健康状態が芳しくなく、そのお鉢が回ってきたとのことだった。では、白井家はというと、ちゃんと最終的にパパが日本に帰ってくる条件で今回は許したとのこと。したがって、マイクの母は日本に残り、彼ら二人がしばらく牧場の面倒を見ることになったそうだ。なかなか会えない娘の浴衣姿を父親は見たかったそうである。

「パパの言うことは聞かなくちゃね。ごめん、マミ。こんなことになっちゃって。」

「いいよ、マイク。でも、女子に戻ったマイクって、女子からみたら、これはこれで惚れ直すよ。」

 私とマイクは並んで手をつないで歩いていた。麻耶はマイクのパパに張り付いてアメリカのことを尋ねていた。もちろん、真由はヨッチャンと腕を組んで、どこからみても恋人同士のオーラを放っていた。私にはそう見えた。私たち、マイクと私はグループの最後尾につけていた。私たちはそれぞれが親から軍資金をせしめていたが、多くのアトラクションの代金をマイクのパパが支払ってくれた。綿あめ、リンゴあめ、いか焼き、人形焼、お面、バルーン、金魚すくい等などと、私たちは大いに遊び、盛り上がった。

 港から大きな音がし始めた。パパーン。それは祭のフィナーレでもある夏の花火。私とマイク、この場合、マイクは女子に戻っているからマギーが正しいのかな? 浴衣姿女子二人は、小高い場所にある神社の階段を軽やかに駆け登った。御一行様の残りもそれに続いた。そこは地元民が知っている花火見物ベストプレイス。すでに顔見知りたちが陣取っていた。尺玉が、夜空に大輪を咲かせた。私の紅とマギーの紅が重なった。マギーはその数日後、女子姿のままでで彼女のパパと一緒にアメリカに旅発った。


 中学校での日々は、すでに三年の夏休み前に移り、私も高校受験を考えなくてはいけない時期に来ていた。私はと言えば、普段から麻耶と行動を共にし、とうとう三年間も同じクラスで学級委員を引き受ける羽目になった。また、モデル業はオフィスの指示に従い、麻耶の妹分的扱いを受けて大変行動しやすい環境に身を置いていた。身体的には治療により、スレンダーな体型からより女子体型へと移行しているのが自分でも分かった。ただ、胸の膨らみだけはまだ自分が欲しい乳房の膨らみには程遠かった。したがって、私は当たり前のように胸にコンプレックスを持っていた。最近一つ気がかりなことは、、麻耶が何か言いかけた仕草だった。彼女も真由のいるS女子高へ一緒に行こうと言っていた。

 一方、真由は母の母校である地元の名門S女子高へ進学し、演劇に情熱を傾けつつあった。私もS女子高への進学打診があった。確か、真由が私の事情を話し、受け入れ態勢を整えてくれるとの話が進んでいた。

「ねぇ、来るでしょう? うちの学校へ二人とも。」

「うん、行くつもりだよ。」

「あなたのことは、うちの学校ならちゃんと面倒見てくれるよ。事情が事情だからね。」

「それは、分かってくれるところが一番。さらに、真由がいてくれればすごく安心。勇気百人力だよ」と、私は軽くマユに返答した。

「じゃあ、今度の土曜日に入学担当の主任先生に会ってくれる?」

「今度の土曜日は……。、あっ、空いているよ、スケジュール」と、私は言った。真由は私よりも私のスケジュールを把握、熟知していた。

「じゃあ、先生に言っとくからね。すっぽかしたら承知しないからね。私も付いていくから」と、真由は私に対してきつめに念を押した。

 では、ヨッチャンはどうしたかというと、彼は旧制中学校の流れをくむ県立難関進学高校であるH高校へ進学し、中学校と同様にバレーボール部に所属していた。その高校は、中学校から先へ進んだ道の行き止まりの小高い丘の上にあった。なので、中学生で頭のいい子は、「憧れの丘」と呼んでいた。あるときまでは、私には全く関係のない少々ダサい伝統高だと思っていた。


 夏休みに入ったある日、私は学校で書道部のミーティングがあるので、制服の白いシャツに紺のスカートで登校の道を歩いていた。すると、後ろから声をかけられた。

「真実ちゃん」と、ヨッチャンの声がした。私の横に自転車が止まった。

「久しぶり、益々綺麗になったね。」

「それって、知っている? それはセクハラになるんだよ。」

「えー、そうかな? 本当のこと言ってもセクハラかよ。世の中おかしくないか。」

「私も、そう思う」と私が真顔で言うと、ヨッチャンは楽しそうに笑った。その笑顔は私のすぐそばで輝いていた。彼の首筋に汗が光っていた。

「そうだ。もし良ければ高校覗いてみない?」

「何で?」

「これから練習試合があるんだ。まだ、二時間後位だけどね。ところで、今日は学校?」

「うん、書道部のミーティング。秋の文化祭に向けての準備だよ。」

「じゃ、もし、早く終わったらおいでよ。大歓迎だから」と、ヨッチャンは言うと、また自転車のペダルを漕いで、軽く後ろ向きで手を私に振った。H高校って、どんなところだろうか? 私のイメージは、天才・秀才ぞろいの堅苦しい真面目な古めかしい学校というものであった。

 書道部のミーティングに麻耶は姿を現さなかった。ミーティングの後、すぐにラインを送ったが、既読にもならず、返事はなかった。少し彼女のことを心配したが、私の心はH高校へ向かっていた。いや、ヨッチャンへ向かっていた。そのミーティングは一時間半ほどで終わり、今年のテーマと役割分担を決めてから解散した。お昼前の時刻でになっていた。夏の日差しは強烈さを増していた。私は、鞄から日傘を出した。中学女子が日傘? もう常識でしょう、と言っときます。タオルハンカチで首辺りの汗ばんだ肌を拭い、彼の高校へ向かった。全く私には関係のない場所へ、彼の姿だけを追って。

 県立H高校の敷地は殊の外広かった。学校案内板を見て歩き出そうとすると、先生と思われる男性に呼び止められた。私はすぐさま後ろ手に日傘を隠した。

「君も、学校説明会に来たの? こちらですよ。」

「はい」と、私は咄嗟に返事をしてしまった。

「もうすぐ始まりますから急いでください。」

 非常に丁寧な応対だった。私はその先生に連れられて大きな講堂の中へ入った。すでに多くの中学生、それも見るからに頭の良さそうなきりりとした面々がパイプ椅子に座っていた。わたしもこの冷房のよく利いた講堂の最後尾の席に座った。私の後からも何人かの生徒が足早に入ってきた。最初の挨拶は女性の校長先生だった。

「皆さん、よくお越しくださいました。私はこのH高校始まって以来の初の女性校長に就任しました沖永晶子(おきなが あきこ)と申します。私自身もこの学校が母校です。ということは、皆さんがめでたく合格されると、私の後輩となります。是非、その日を待ち望んでいます。これから先生方による学校説明と模擬授業を体験してもらいますが、是非、自分で、自分の目で、自分の耳で、そして五感でこの学校の良さを体感してください。巷では、単なる難関進学校と呼ばれているかもしれませんが、それは一人ひとりの生徒が自らの力で勝ち取ったものです。決して、ただ勉強だけをしているのではありません。高校生活の素敵な時間は自分で作るものです。ですから、私たちは多くの授業はもちろんですが、学校行事も目白押しです。『よく遊べ、よく学べ。良き人間たれ』という、シンプルな校訓は、一人ひとりが、自らが形にするのです。したがって、ここの生徒は個人主義的な人が多いと言われていますが、そのことは自らが大人となり、共に過ごすという共同体的意識をも自然と培われるからです。さあ、皆さんでしたらお分かりなるはずです。私たちの学校は単なる進学校ではありません。大切な青春を謳歌できる多くの施設と環境を整えた「良き人間」をともに育む場所です。私たちに付いて来てください。共にこの伝統を受け継ぐ者となってください。」

 沖永校長はそう私に語った。私にはそのように感じ取れた。私の身体は自然に立ち上がり、その校長が壇上から降りていく途中で、私は彼女に言葉を投げた。私は、自分が周りからどう見られるかなどは、その瞬間には考えなかった。否、考えられなかった。彼女の言葉がストンと私の心の核に落ちたのだ。

「本当ですか?」

「本当です」と、彼女は立ち止まりきっぱりと断言し、私に微笑みを返した。

 その後、学校説明を同講堂で受けたのち、希望科目ごとに教室を振り分けられた。私は国語の授業を体験した。聡明な先生の流れる語り口調、興味を引く題材の数々。私はその授業にのめり込んだ。そのとき、私の気持ちは決まった。「ここに入るぞ!」と。

 そのとき、ある女子が私に声をかけてきた。

「面白かったね。まさか、中学生に『巫山の雲雨』を語る先生っているとは、驚いちゃった」と、私の横に座っていた女子が私のほうを見て、言った。

「うん。でも今一歩、理解できなかったの。これが『男女間の深い契り』を表すことは理解できたけど、なぜ、その女性は『朝は雲になり、夕には雨になって』ずっと王様を慕い続けたの?」

「そこのところがね。やはり、恋愛経験の積み重ねと違うかな。 まだ、私たちには分からくてもいいんじゃない。でも、なんとなく身体が感じない?」

 面白い女子だった。私は名前を名乗ろうとすると、彼女が先手を打ってきた。

「真実ちゃん、でしょう。」

「ええ?」と、腑に落ちない私。

「あなたがH高校の説明会にいること自体、私にとっては意外だけどね。フフ。私は、上川恵(かみかわ めぐみ)だけど、皆が『ケイ』って呼ぶの。よろしくね。」

「どうして、私の名前を知っているの?」

「真実ちゃん、あなたは有名人よ。分かる?」

「どんなふうに?」

「あなたは、TJモデルでしょう。私たちの年代で知らない女子はいないわよ。私が知っているもの」と、ケイは私に誇るように捲し立てた。そんなに誇れるもの?と、私は思うのだが、彼女曰く、私ほど、流行やトレンドから隔絶している環境に身を置いている女子はいないと自負するのである。その彼女が私を知っている、ということは、私は有名人と言っていいの?と、自問自答した。

「確かに、モデルだけど。それだけだよ。」

「それだけでも違うでしょう。世間とはそういう目で見るの。あなたも、相当な天然かもね。私ほどではないかもしれないけど、まあ、そういうことにしてあげる」などと、ケイは自分の世界から私を見下ろしたような感覚で話していた。

「ところで、真実ちゃんは本気でH高に入る気なの? だって、忙しくて勉強できないんじゃない?」

「失礼な女。」

「あっ、怒った、ということは図星!」

「そんなことないよ。クラスでは麻耶の次だもの。」

「じゃあ、麻耶ちゃんは何番なの?」

「一番。だから、私は二番目だよ。」

「まさか。 だって、あんなにひょうきんで、生意気そうで、五月蠅そうな人が、一番だなんて。」

「半分以上は当たっているかな、うん。」

「へえ、M(麻耶)&M(真美)は結構できる女子なのか、ふーん。少し、データ修正しなくてはいけないかも……。」と、一度、彼女は自分の世界に籠っていた。

「ねえ、おケイちゃん。」

「何て呼んだ?」

「おケイちゃん」と私は単純に繰り返した。だって、この方が彼女を呼ぶのにしっくりくると判断したからだ。おケイちゃんは、私の肩くらいの背丈、髪は肩にかかり、緩く外にウェーブしているのが彼女のお嬢様らしさを象徴していた。そして体型はややぽっちゃりとして、私の目線から判断できる彼女の胸は羨ましいくらい豊かであった。隣町のF中のシャツの隙間から彼女の胸の谷間が深く見えた。

「何見ているの?」

「羨ましいなあ、って思って見ていた。ごめんなさい。」

「謝る必要はないわ。あなたも結構、思ったこと口に出すよね」と、おケイちゃんは言うと、言葉を続けた。

「真実ちゃん、私の友達になってくれる? 私、同じ中学校に友達いないのよね。」

 また、私は驚いた。失礼なことを投げつけたかと思うと、今度は非常に距離を縮めて予想外のお願いをしてきた。この子の性格って、癖ある。でも、人のことは言えない。

「いいよ」と、私が言うと、おケイちゃんは私の両手を包むように握ってきた。掌は汗ばんでいたはず。私たちはすでに、H高の先生に促されて、校舎間の渡り廊下を正面玄関に向かうべく、大きな二階建て体育館の脇を通り過ぎるところだった。大汗を掻いたTシャツ姿の男子が顔を洗っていた。私の脳は、「体育館」というワードに引っ掛かった。男子連中の中に、よく見るとヨッチャンの姿があった。私は、説明会の多くの生徒とともに進みながら、大きな声で「ヨッチャン!」と叫んでいだ。生徒、先生、顔を洗っている男子たちが一斉に私の方を向いた。

「コラっ、真実ちゃん。次、最後の練習試合だから」と、ヨッチャンが大きな声で私に返した。すると、私を見ていた目線が今度は、声の主であるヨッチャンの方へ向かった。

「ねえ、真実ちゃん。あの男子、知り合い?」

「うん。お姉ちゃんの彼氏で、幼馴染。私たちより一つ上で、今、ここのバレーボール部だよ」と、私はおケイちゃんに彼の情報を与えた。

「す、凄い。ここで体育会の部活ができるくらい頭が良いってこと?」

「分かんない。そんな話、聞いたことないから」としか、私は答えることができなかった。

 私は、説明会が終了したので、本筋へ戻ろうと考えた。正確に言うと、ヨッチャンの姿を見るまでは、彼に練習試合をみるように誘われていたことを、とんと忘れていた。

「おケイちゃん、私、ヨッチャンの試合見てから帰るね」と、私は彼女に告げた。

「見てもいいかも」と、おケイちゃんが言った。おケイちゃんは一体何を考えているのか不明だったが、実は私も都合が良かった。なぜなら、友達が見たいっていうから仕方なしに付き合ったなどと言い訳もできると思ったからだ。

 すでに、今日最後の試合がスタートしているようだった。対戦相手はバレーボール界ではT海地区でナンバーワン校であるQ大学付属高校。彼らの平均身長は190センチを超えていた。一方、H高校のそれはやっと一八〇センチあるかないかくらいだった。このときのヨッチャンの身長は一八一センチ。体育館の床コートとシューズのこすれ合う音が館内に折り重なるように幾度となく木霊していた。時折、バーンという大きなボールが爆発するのではないかと思われる衝撃も伝わってきた。私はヨッチャンが中学校からバレーボールをやっていたことは知っていたが、一度も見たことがなかった。私が見たことのあるスポーツは真由の短距離走の姿だけだった。真由は地区の百、二百メートルの中学女子の記録を作り、高校陸上界からも有望視されていたのだが、全国大会での姉の涙を見てから、彼女は走るのをパタリと止めた。そのことについて私は真由に尋ねたことはない。とにかく、モデル業界に足を入れてから、私の生活の軸は学校と業界の仕事の二色に彩られていたから。

 ヨッチャンが天井に向かって飛んだ。私は、ただただ人間があんなに飛べるということを知らなかった。次の瞬間、ボールがヨッチャンの手の平から猛スピードで放たれたが、高い壁に当たり、あっという間にそのボールが僅かのスピードロスを生じているが、ヨッチャンの顔面に強く跳ね返ってきた。彼は空中で姿勢を崩した。足は先に着地はしたが彼の後頭部は耐え切れず、コートの床に叩き付けられた。ヨッチャンが動かなかった。

「ヨッチャン!」と言って、私は、私の身体を制御できず、入り口近くの人垣の後ろにいたにもかかわらず、彼らを押しのけてコートの中に許可なく入った。ヨッチャンを起こすべく、彼の身体を抱え上げようとした。すると、「バーカ。恥ずかしいじゃんか」と、ニヤッと笑うヨッチャンの顔があった。私は心底、安心した。

 私はすぐに思い出す光景があった。小学校の頃、まだいじめが続いていた時、真由の姿が見えなくなるとどこからともなくいじめっ子が現われ、私を取り囲んだ。そのときに飛び込んで来て、私をその囲みの中から救出してくれるのがヨッチャンだった。私は木の陰で、あるいは校舎の角で隠れていた。大きな音と共に、ヨッチャンがその場に倒れていることがあった。私は、当時、ヨッチャンが死んじゃうと思ってすぐに彼を起こしに行った。抱き上げるような力はないくせに、しっかりとヨッチャンを抱こうとして上半身をヨッチャンの胸に付けた。すると、必ず、ヨッチャンは唇から血を出していても、また鼻血を出していても、ニヤッと笑って「バーカ」と私に向かって言った光景。私は試合を中断させてしまった。結果は、その後もH高は相手ブロックを破れず、大敗を期した。

 おケイちゃんは私に訝しそうに尋ねた。

「真実ちゃん、さっき、彼はお姉ちゃんの彼氏って、言ったよね。あれじゃあ、あなたの彼氏みたいじゃない? 多分、周りの皆もそう思ったよ、絶対!」と、見たままの情景をおケイちゃんは私に投げつけた。

「そんなことないよ。ヨッチャンは真由の彼氏だもの。うん」と、最後の「うん」は自分にそう言い聞かせるために言ったことは明らかだった。私は慌てていた。これでは、先ほど沖永校長先生が言っていた校訓の一部の「良き人間」にはなれないことは明らかだった。結局、おケイちゃんは私に付き合ってくれて、ヨッチャンの部活の反省会が終わるのを待った。ヨッチャンは私たちがいることに意外性を感じつつ、私とおケイちゃんの声援のおかげで意欲的に対戦相手に挑んでいけたと感謝の意を表した。私たちは、おケイちゃんを見送るために駅まで一緒に連れ立った。

「絶対だよ。『憧れの丘』で来春、会おうね。」

「うん、私、頑張る。絶対、H高に合格するからね。」

それを横から聞いていたヨッチャンは、あれっ、と思ったようだった。

 私たちがおケイちゃんに手を振っていると、ブスッとした顔であるが、容姿端麗なS女生がおケイちゃんの方を振り返りつつ、私たちの存在に気付いて、改札に足を速めた。そして改札を抜けると、いきなり私たちに声をかけた。

「よっ、二人で何しているのよ?」と、まごうことなき姉真由だった。

「まさか、私がいないと思ってデートと洒落こんでいたわけでは?」

「違うよ、真由」と、私の慌てた様子を真由はチラッと見た気がしたが、彼女はヨッチャンの手を取ると、駅前のカフェに促した。私は、これでと頭を下げたが、ヨッチャンが二人を家まで送るのは自分の役目だからと言って、私も一緒にそこに連れていかれた。

「本当に、頭に来ることばっかり!」

「何が?」

「だってさぁ、S女が共学になるって話、聞いてないよ。学校の上層部は何を考えているの? S女はブランドよ。あなたのH高だって、ブランドでしょう。」

「あのう、ブランドって、そこにいる個々人が努力して作り上げたものでしょう。」

「わかっているじゃない、真実。珍しく頭の回転が速くなっている。天下のS女のプライドってもんがあるわけで。時代が違う、という論法はどうかな?」

「まあまあ、落ち着けよ」と、真由を宥めるヨッチャン。

「まだあるの。あんな台本ないよ。あれでよく高校演劇のS女の看板を背負っている、なんて言えるほど、一年上の先輩方のセンスの無さ。加えて、何で、二人がここにいるのよ!」と、ご機嫌斜めな真由がそこには岩のような不動さで構えていた。

「私、今日、H高の学校説明会に行ってきた。」

「ハア? 真実、あなたは今度、うちの面接を受けるはずじゃない」と、私の頭上に大きな爆弾が投下された。

「あなたのようなヒッヨッ子が県立H高校に受かるはずないよ。」

「そんなことないもん!」

「おーい」と、そこにヨッチャンが二人の間に割って入ってきた。

「真由、妹に失礼だろう。真実ちゃんだよ。今、クラスでも上位って聞いたぞ。」

「私だって、H高に入れたわよ。受験していたらね。」

「じゃあ、受ければ良かったじゃないか。真由だろう、高校演劇のトップに立ちたいと言ったのは。だから、S女を選択したんだろう。」

「はい」と、瞬時に素直になった姉真由の姿がそこにあった。

「それなら、真実ちゃんを責める必要ないじゃんか。真実ちゃんが決めることだよ。」

「まさか、ヨッチャンが誘ったわけではなよね?」と、真顔で真由はヨッチャンの目を覗き込んだ。

「僕がたまたま、書道部のミーティングに行く真実ちゃんに練習試合があるから見に来ないかと、軽く声をかけた。まさか、その日がH高の学校説明会だったとは、僕も知らなかったもの。」

「ふーん」と、真由はまだ猜疑の目をヨッチャンに、そして私に向けた。

「あなたたち、何かあったんじゃ、な・い・よ・ね?」

「ない! 神に誓って、ないよ」と、私は手を大きく自分の目の前で振ってみせた。

「あなたは?」と、真由は真ん前のヨッチャンに矛先を向けた。

「あったら? なんて、ないよな。真由のこと好きだし……」と、ヨッチャンは少しはにかんだように言った。私の心は再び、動揺した。なぜか動揺した。私のことを「好きだ」と言ってほしいと、そのとき切に思ったのを覚えている。


 立石家の食卓では、再び、真由が怒鳴った。その前に、私たちが玄関で「ただいま」を言った直後、真由が私のシャツに鼻を付けて嗅いできた。「男の汗臭い!」と、責めるような口調だった。私には、言いがかりではないかと思われたが、確かに、体育館でヨッチャンを抱きかかえたことは確かだった。

「真実、あなたね。どれだけあなたの周りの人々があなたを助けているか、分かっている? 甘えた挙句、その恩を仇で返すわけ?」

「真由、落ち着きなさい。あなたがそこまで言わなくても真実も分かっているわよ。もう泣き出しそうよ」と、母が真由を諭そうとした。真由は、テーブルをパアンと叩いて自分の部屋のある二階への階段を、ドンドンと鳴らしながら駆け上がっていった。私は、十分すぎるくらい多くの恩恵を与えられてきたことを実感しているし、今もその中にあり、その状況に甘えていることもよく承知していた。もう、誰から指摘されなくても自分の置かれた状況を理解できる年齢に達したと、自分では思っていたから、実の姉の真由に言われると耐えきれないくらい悲しかった。本当は真由の方がもっと悲しい気持ちを持っているだろうということも、少しは分かっているつもりだった。

「真実、本当に県立H高校を受験するの?」

「はい、H高の沖永校長先生のお話に感激したの。あの先生の下で、『遊べ、学べ、良き人間たれ』という校訓を自分のものにしたいの。それにもうあの学校で、友達もできたのよ。」

「えっ、友達?」と、本当に驚いた様子の母。

「真実が、自分で友達を作った? 奇跡ねぇ、とは冗談だけど。本当なの?」

「そう。失礼だと思われるほどズケズケしたお嬢様、かな? でも、人に対して愛があると思うの。おケイちゃん、っていうの。絶対、来春、『憧れの丘』で会おうね、って約束したの。」

 母はとても喜んでいる様子だった。母は全面的に応援すると言ってくれた。真由も本当は私の自立を内心は喜んでいるのだけれど、姉のプライドからうまく表わせないでいるのだと、母は私に告げた。とはいえ、それから数日間、真由は口を聞いてくれなかった。

 真由は台本を書いていた。それが、彼女の処女作であり、出世作『ジャンヌ・ダクル(次案怠子)女子高を救う』の誕生であった。真由は、S女子高の置かれた環境を皮肉りつつ、S女のあるべき方向性を舞台で体現してみせた。当時、S女の秋の文化祭で上演され、地元でS女の共学問題は表面化し、それがメディアで取り上げられたことが女子高の人気を高めて、S女の倍率が急激に上がっていった。その舞台で、真由が「ジャンヌ・ダクル(次案怠子)」を自ら演じた。何も取り柄がないと思っていた女子が、学校理事の優柔不断な態度に呆れて、理事会に父兄の格好をして現われた。それも真っ赤なスーツに超ミニスカートを履き、真っ赤なハイヒールを鳴らしながら登場した。彼女は言い放った。

「何が共学よ。あなた方はいつもスチューデント・ファーストと言いつつ、何も生徒の言うことを聴いてくれない。ただ、プランAを聞き入れなかったらプランBに行く用意をしている。やりもしないプランだけ立てる、何てナンセンス! あー、怠い。次案を考える前にすることがあるでしょう。私たちはどうあるべきか! 何を伝えていくべきか! 何をするべきか! それができないなら理事長、あんたがお辞めなさい。」

 真由は、S女を全国高校演劇のトップとはいかなかったが、準トップに押し上げた。彼女はかつて私に言った。「演劇で、私は食っていく」と。


 麻耶の動向は?って。あの夏、麻耶からの連絡より早く、オフィスM&Rの社長から呼び出しがかかった。私たちは久しぶりに移動中の車の中で話した。

「真実、私、修行に行くことに決めたの。」

「それはラインで見た。どこへ?」

「ニューヨーク。地元の高校に通って勉強して、NYのファッション界の最新情報を吸収してきたくなっちゃった。分かってくれる?」

「うん、麻耶が決めたことだもの」と、私は自分の中の甘えを断ち切るように返事をしたように覚えている。

「私、もっと勉強して、H高校へ受かりたい。」

「真実がそこまで決心するとは、よっぽど、いい男がいるということだよね。」

 私の顔は直ぐに真っ赤に染まっていった。その隠せない感情は自分でも自覚していた。

「ははっ、図星だ。私をフルんだよね。」

「そんなことないよ。麻耶のこと大好き!」

「私も、あなたが大好き。愛しているもの。浮気するなよな。」

 オフィスに着くと、社長が待っていた。彼女はいつもスタイリッシュで見習いたいくらいのファッション性と身のこなしだった。ある年齢にいけば、私もああいう風になりたいと思えるほどの女姿を体現していた。

「あなた方の事情は、双方の保護者から聞きました。真実ちゃんは地元難関校受験のため、麻耶はニューヨーク留学準備のため、でしたね。」

「はい」と、二人は同時に返事をした。

「では、TJ秋号―特別編―で、M&M(麻耶と真実)の活動休止を発表します。再開は三年後とします。それまで、自分の人生をしっかり歩みなさい。そして素敵な人間性と女性性を磨きなさい。それが私からの宿題です。以上」と、社長は言うと、気丈に見える彼女は涙ぐんでいた。私と麻耶は秋・冬号の撮影を兼ねて、馴染みのスタッフさんたちと泊りがけの仕事をこなした。言うまでもなく私たちは同じ部屋で素敵な飲み物を飲み、温泉につかり、一緒にベッドに入った。そのとき、麻耶は長い髪を切って、私と同じようなショートボブにして、前髪を垂らしていた。周りのスタッフさんたちは、益々、姉妹っぽいと囃し立てた。さらに、学校では、私、真由(高校生になった彼女が中学校陸上部に顔を出す機会があると)、麻耶までショートボブ系の髪型になったので、M三姉妹とまで言われるようになった。


 私はめでたくと言っていいのか、かろうじてと言っていいのか、H高に合格できた。入学の事前面接が行われた。これはH高では恒例のことではあったが、私にとっては大事な面談だった。その面談は制服を注文する前に行われる。案内書面には「私服にてお越しください」と記してあった。私は礼を逸してはいけないと思い、トップスはレーススリーブブラウスとボトムスはネイビー色のフレアスカートを身に纏っていた。

「失礼します。」

「どうぞ、お入りください」と、沖永校長先生の凛とした声のトーンが校長室の内部から聞こえた。私は緊張した面持ちでドアを開けた。

「さあ、腰掛けてちょうだい。私は、この事前面接が楽しみなの。なぜって、生徒の素の部分や性格が見て取れるから」と、校長は自分の隣に座っている女性教師を紹介した。保健・カウンセリング担当の御園真樹子先生だった。ソファーに腰掛ける前に、改めて丁寧にお辞儀をした。私は、まだその場に立ったままでいた。このまま座ると、単なる子供と思われそうに感じたからだ。

「なるほど、さすがにスタイルはいいわね。よく手入れが行き届いている。やはり、ジュニアモデルを最近までしていたせいね。身長もあるし、年頃の女子の体型ね。まだ少しやせ気味かな?」

 私は、校長に褒められているのか、皮肉を言われているのか、定かに判断しかねていた。

「ありがとうございます」と、私が言い終えるところで、御園先生が立ち上がった。私を嘗め回すように、といっても彼女の身長は私の耳元くらい。したがって、少々見上げるように顔から私の胸元、そして、「失礼」と言ってから、軽く私のウエストのくびれ、スカートの上からお尻の丸みを計測するようにタッチした。

「どこから、どう見ても、また、あなたの姿形、仕草は女子そのものね。」

 再び、校長が私に腰を下ろすように促した。

「失礼なことして、ごめんなさい。私たちはあなたを女子として迎い入れます。私は、あなたの中学校での一件をよく存じています。当時、私は市の教育委員会の委員をしていました。あなたのお母さんやお姉さんにもお会いしてお話を伺いました。それまでは、ただ単に時代の要請に合わせてLGBTQに対処すればという風潮でした。あなたのようなDSD、Disorders of sex development、すなわち性分化疾患の存在は全くと言っていいほど認知されていなかった。何をなすべきかあらゆる事情を勘案して、総合的なマイノリティへの心遣いをしなければいけないことに教育界が動き出すきっかけを作ってくれた出来事でした。」

 校長はそこまで言うと、一拍置いてから微笑んだ。私は、今日、まさに自分の身体のこと、戸籍上男性であるとされていること、女子として最初から育てられたこと等々、自分のすべてをこの校長先生に話そうと、半ば、心の中の私は裸体をさらす覚悟で、それ以上に、この場で、自身の裸体を思う存分見て、触ってもらって、何もかも自分で自分の居場所を見つけようと覚悟して、大げさではあるが、死ぬつもりでやって来た。


 この日の朝、高校まで春の日差しを避けるように母に言われ、市街の会社に向かう途中の母の車に同乗した。

「あなたは、もう大人の女になるのね。」

「お母さん、それって大げさじゃない。私まだこれから高校生になるんですけど。」

「そうか、そうね。大げさか、フフフツッ」と、母は微笑むと、片手でハンドルを、もう片方の手で私の髪を撫でてくれた。


 校長先生はすべてを理解してくださっている、と思うと私は大きく、長く息を吐きたい気持ちになった。安堵の本当の意味が分かったような気がした。

「そうそう、あなたのような人が海外にいること知っていらっしゃる? 確か、ベルギーの方だったかしら。すでに手術も受け、モデルとして活躍されている方。名前は……。忘れちゃった」と校長は言うと、この情報は私ではなく、自分の娘から入手したものだと打ち明けてくれた。私自身、そんなにネットで情報を集める方ではない。というより、そのような時間を持ち合わせていなかったと言った方がいいかもしれない。自分がこの時間どうやってこの存在を維持し、生きていけるかが最優先事項だったからだ。その方に会ってみたいという欲望を私は持った。

「あなたも、将来的には性別変更し、手術も考えているわけね?」

「はい、あの日、校長先生が言われた『良き人間』になりたいのです。」

「覚えているわ。学校説明会の私の挨拶が終わったときでしょう。あなたのオーラ凄かったわよ。私は嬉しかったの。あの場で、しっかりと私の問い掛けにある種の疑問を持って訴えてくれたことが。教師冥利に尽きるとは、このことね。そして、あなたは難関を越えてやって来た。運命かな。」

 校長先生は、ざっくばらんな方だった。実は、H高の女子の制服がダサい、という話題も持ち上がった。セーラー服は藍色で襟には中紅色の三本の線があり、スカーフも同じ中紅色、スカート丈は膝程度である。果たして、あなたがそのような制服を着たいと思ったことがあるのか。さらに、制服で選ぶなら、あなたのお母さんが関与したS女の制服の方があなたにはふさわしいのでは。あなたに私たちの制服を着てもらえば、ダサいという世間の評価も少しは変わるのではないかなど、気晴らし風の軽い話題も提供していただいた。もっとお話しを伺えば、校長先生は実はもっと大変な人生を歩んでこられた方かもしれない、とふっと思うようなテーマもあった。例えば、男女同権とは何か。また、ハラスメントの基準とはなども。その傍らの御園先生は終始穏やかな笑みを浮かべ、私を和ませてくださっていた。本当は誰もが何か暗い部分を抱えて生きている。こんな清々しい気持ちを自分が抱く日が来るとは思ってもみなかった。

「沖永校長、そろそろ時間です」と、御園先生が声をかけた。

「あら、そんなに時間が経ったの? もっと、あなたのこと聞きたいな。今度はH高の女子同士、先輩と後輩で、女子トークをしましょう」と、校長は言うと、帰り際に、私たちは握手した。校長先生の掌は情熱を形にしたかのように、熱量満載だった。


 私の高校生活はこのように始まった。私は、チタン製の黒い細いフレームの伊達メガネをかけてみた。おケイちゃんと再会を果たした。それも偶然にも同じクラスになった。私たちは会うなり、お互いに手を取り合い、二人だけで異様な盛り上がりをみせ、クラスの仲間に引かれたのを覚えている。彼女の誘いで文芸部に入部することとなった。ただし、私が中学校でやっていた書道部にも籍を置いた。書道部は水曜日に地元大学で書道を教えていらっしゃる先生が来られるので、七時限が終わってから1時間半ほど指導を受けていた。したがって、下校時刻が午後七時頃になる。ある日、私は校門から女子先輩方(一年生は私しかいない)と出ようとしていると、後ろから声をかけられた。

「真実ちゃん」と。私はヨッチャンの声だとすぐに分かった。先輩方は気を利かせて、「また、来週ね。さようなら」と口々に言うと、市道へ通じる坂を下って行った。

「同じ学校にいるのに、なかなか会えないね」と、伏し目がちな私。

「そうだね。一年生と二年生の校舎は離れているからね」と、さらりとヨッチャン。

「ここ、『憧れの丘』じゃないよ。地獄かも。勉強ついていけないよおう。」

「そうだろう。僕も最初、参ったよ。」

「えっ、ヨッチャンでもそうだったの?」

 主に学校のことが話題であった。その日から、毎週水曜日は決まってヨッチャンと下校するようになった。普段は、バスで往復をすることが多かったが、この日ばかりは、私のカバンはヨッチャンの自転車の前籠に納まり、彼は自転車を押しながら歩いてゆっくりと家まで送ってくれるというパターンとなった。その間、私はヨッチャンと話ができる。そのことだけで夢見心地だった。私は、思い出したことがある。やはり、小学校のとき、真由が熱を出して学校を休むことになり、ヨッチャンが私と手をつないで登校することがあった。私は当時、歩くのが遅く、また注意力散漫な子だった。したがって、誰かが手を握って引っ張って行かないと学校へ着けない有様であった。私は黙って、内心好きでたまらない異性と手をつないでいることだけで、胸が一杯になっていた。

 何回目かの水曜日の帰宅時、家の前に真由が立っていた。最近の真由は、演劇部の活動に熱が入り、生活の多くの時間を割いていた。さらに、学校帰りに、都会まで足を伸ばし、芝居を観る機会を積極的に作っていた。したがって、最近は、私が家に帰っても、家の明かりは付いておらず、独りで鍵を開けて、誰もいない廊下に向かって「ただいま」と言葉を駆けることが多かった。それに、夕食は母の作り置きか、レトルト・冷凍食品の割合が多くなった。確かに、新鮮な野菜と果物は常備してあったが。

「お二人さん、仲のいいこと」と、ご機嫌斜め、不機嫌な真由の言葉使いが見て取れた。

「よお、真由。久しぶり。生きていたか?」

「何よ、私がラインしても返事を寄こさないくせに……。」

 益々、真由の感情の雲行きが怪しくなってきた、と私は感じて、彼らが会話を続けている間に家の門をくぐった。私が部屋で着替えて、ダイニングにいくと、お味噌汁の香りがしていた。真由のお味噌汁はとってもおいしい、と私は知っていた。内心、今日は温かい食事だ!とうれしい気持ちで満たされてきた。私がお茶碗を出して準備していると、真由が顔を出して、私の腕を掴んで居間に引っ張り入れた。

 次の瞬間、私の頬に強い衝撃を感じたと同時に、私の身体はソファーの上にあった。私の頬に時間差で痛みが走った。

「この泥棒猫!」と、敵意をあらわした真由の眼が私の身体を刺した。私は言葉を失ったまま、まだ自分の身に何が起こったか認識しかねていた。真由の口が開いた。

「真実がヨッチャンのこと好きなことは、昔から、私は良く知っている。でもね、ヨッチャンは私のものなの……。」

 真由の瞳がキラリと光ると、大粒の涙が溢れてきた。私はこんな姉を見るのは、もしかすると初めてかもしれなかった。いつもの真由は気丈に、そして筋の通った姿勢の良い何事にも動じない姉、という印象が強かった。その姉が、子供のようにワンワン泣いていた。なぜ、真由が泣いているの? なぜ、真由は私を打ったの? なぜ、真由はヨッチャンのことを「私のもの」って怒鳴ったの? なぜ、なぜ、私は頬を打たれなくてはならないの。私は、真由に対して悪いことしたの? 分からない。分からない。私の頭の思考回路はバッグっている。外界との通信を遮断した状態になった。まだ、真由は泣いていた。こんなに号泣する真由は今まで見たことない。

「ただいま。今日も東京でのお仕事があったから、遅くなっちゃった。ごめんね」と、母の声がしてきた。母のヒールが玄関のたたきで撥ねる音がした。

「誰か、泣いているの?」と、心配そうな母の声。

私はまだ、状況が飲み込めないで、眉を顰め、口を開けられないでいた。傍らで、真由がまだ泣いていた。

「どうしたの、二人とも」と言って、母は状況を把握しようとしているようだった。

「真実が、私のヨッチャンを取ったの……」と、涙声で弱々しく真由が母に訴えた。

「私、ヨッチャンを取ってないよ」と、弁明しようとする私。

私はこのときやっと状況が飲み込めた気がした。私がヨッチャンと下校すること、イコール、真実はヨッチャンとデートしているという図式? それではあまりにも幼稚すぎませんか?と、真由に尋ねたく思った。

「真由。真実はね、ヨッチャンと同じ高校よ。それは分かっているわよね。」

「分かんない!」と、真由は大声で叫ぶと、また幼児のようにワンワン泣き出した。

 母は、私に頬を冷やすように言うと、真由をダイニングに連れていった。そして、私のところに戻ってきて、真由が精神的にとても疲れていることを私に告げた。真由が演劇部を良くしようとして先輩方と軋轢を起こしていることは私も承知していた。さらに、自分の将来の方向性を決めかねて心が不安定に揺れ動いているのだ、と母は私に姉の現状を語った。母は次のように言った。

「真由にとって、ヨッチャンは自分のお兄ちゃん的存在で、尚且つ、恋人でなくてはならない存在なのよ。真由がここまであなたを支えてこられたのも、ヨッチャンが真由を何処かで、心の何処かでいつも支えてくれていたからよ。少し、分かってやって。」

 私は頷くしかなかった。私の頬は熱を帯び膨れてきた。こんな顔になったことは生まれて一度も経験したことがなかった。私は母に再度、冷やすように言われたので、洗面台に行って自分の顔をまじまじと眺めた。私の左の頬が赤く、それも真由の手形の跡が付いていた。

居間の方から、母の電話をする声が聞こえてきた。どうも、これからヨッチャンが私たちの家に来ることになったみたい。もう、時計は九時を回っていた。ヨッチャンの家は近所だからすぐに彼はやって来た。私は頬にアイスノンを当てて、廊下の先の玄関が開くのを見た。ヨッチャンが私に気付いて、目を丸くした。軽く私の方に手を上げたと思うと、彼は居間に姿を消した。再び、居間から真由の泣く声が聞こえてきた。私は母のいるダイニングに戻った。

「真実、真由のこと許してあげて。真由はあなたが女として認められたことに安心すると同時に、本当の女として嫉妬したのよ。分かる?」

「それって、真由を傷付けたことになるの?」

 母はゆっくりと頷いた。初めて事の重大さに気付いた私だった。真由は私を女として認めたの? 女として認められたということは嬉しいはずなのに。姉の真由を私は女として傷付けたことになるの? 私はあなたの彼氏を奪った悪女? そんなんじゃない! 

「あなたは、れっきとした女。」

「嘘! だって、好きな人がいても受け入れられない。」

 私は何を喋ろうとしているの? 今、自分が何て言った? 私は……。何を口走った?

 母は、何も言わずに私に歩み寄ってきた。母は私の背中に手を回した。そして強く抱いてくれた。

「ごめんなさい、真実。」

 母の一言が私の心に深く、深く、染みていった。

 その日から週末まで、私は学校をお休みした。その理由は至極簡単だった。頬の腫れを皆に見られたくなかったからだ。そういうと外部的要因だけを提示している、と誰かに言われそうに思い、自分自身の本当の姿を拾ってみた。真由の気持ちを分かってあげられなかった自分がいる。真由が私を女として認めてくれた、ということに対して嬉しがっている自分がいる。真由が嫉妬したことに対する女の怖さを知った自分がいる。母の気持ちを思いやれなかった自分がいる。そして、異性を受け入れられない身体的事実がある。私は、あまりにも多くの現実に、さらに多くの人の思いを察することができなった自分自身に嫌悪感さえ抱いていた。

 おケイちゃんが翌日、心配してラインをくれた。

「真実ちゃん、どうしたの? クラスの皆が心配しているよ、ホント。あなたが微笑むからクラスが明るいのよ。あなたは私たちのマドンナだからネ。」

 おケイちゃんの言葉が嬉しかった。こんなにも私のことを気遣ってくれる友人がいただろうか? 麻耶は、どうだった? 麻耶は親友? 麻耶とは本当は姉妹(あまりにも多くの方々からのそのような指摘)? 麻耶は、今、ニューヨークへ行っちゃった、という現実。

「私、あなたがいないから吐き出すところがなくて、こんな詩を作ってみた。

    男と女のYKK    

 男は、YKKよね。

 Yって何かって? Yは野蛮の、Y

 Kって何かって? Kは汚いの、K

 もう一つのKは? Kは臭いの、K

 

 その点、女のYKKは、違う

 Yって何かって? Yは優しいの、Y

 Kって何かって? Kは可愛いの、K

 もう一つのKは何? Kは香しいの、K


 男と女の違いは決定的

 男は下半身の唇を尖がらせる 女は下半身の唇を開く


 でも、男と女の望むことは一緒

 男は女を、女は男を求める 唇はいつしか合わせられる

 そして一つとなる 一つとなり溶け合う。

(後に、H高文芸部文集『若葉』に一部修正の上、掲載。「東麦子」のペンネームで)

どうかしら? 気に入った? 実は真実ちゃんに相談したいことがある。来週には元気になるよね。それとも、私があなたのお家にお見舞いに行っていい? とにかく、返事寄こしなさいよお!!!」

 私は、おケイちゃんの詩に複雑な気持ちになった。彼女の作品は人をおちょくるようなコミカルな発想で、非常に楽しめた。でも、男と女の核心部分の後半は、生殖器の話となって、私には切実な問題として突き刺さった。私は、「月曜日から元気よく学校に行くから、そのときにね!」と一文をおケイちゃんに素っ気なく返しておいた。


 学校への坂を上っていると、いつものように多くの生徒が私に手を振ってくれた。私は笑顔で、彼らに手を振って挨拶を返していた。

「ほら、私たちのマドンナのお帰りだ。」

 私は声のする方向へ、体を後ろに捻った。

「アッ、おケイちゃん!」と言って、私はいつものように彼女に抱きついた。

「あなた、分かっている。きっと、真実ちゃんにとっては、業界で身についたご挨拶。でもね、一般人はどう思うかしら?」

「どうって?」と、私はきょとんとした顔をおケイちゃんに向けた。そのとき始業のベルが鳴った。私たちは慌てて教室に駆け込んだ。

 お昼休みになった。H高には学生食堂があった。私はよくおケイちゃんを始めとして、三~四人程度でテーブルを囲むのが常であった。私の経歴を知っている女子が業界の話やファッションの流行りを訊いてきた。ある女子は、「どうして真実ちゃんは、復帰しないの?」とストレートに質問する子もいた。その間も、食堂で私たちに手を振ってくれる男子もいた。

「真実ちゃん、それって営業癖だよね」と、少し咎める口調でおケイちゃんは言ってきた。

 私は、このときまで自分の行為に自分自身が疑問を差し挟んだことはなかった。私は恐る恐るおケイちゃんに聞いた。

「いけないことだよね。止めた方がいい?」

「『いけない』とは、言わないよ。だって、もう、皆が、それもH高の誰もがあなたを良く知っているから、続けた方が自然だと思うけどね。ねえ、あなたは意識しないだろうけど、先生にもやっているよね」と、半ばあきれ顔の彼女であった。私の記憶にはそのような失礼を働いているという自覚は全然なかった。

おケイちゃんと二人になったとき、彼女はこう話を切り出した。

「真実ちゃんは、デートしたことある?」

「ないことはないかな……。というより、私の中にデートの定義がないかもしれない。」

「えーとね」と言って、おケイちゃんはスマホで検索した。

「デートの定義とは、一緒にいたい気持ちがある。相手のために時間を作る。非日常を二人で体験する。自然体で食事をする。それでね、男子の場合の定義はエッチな下心をもって誘うことが多く『二人きり』でいることだって」と、おケイちゃんは文面を読んでくれた。

「なぜ、そんなこと聞くの?」

「実は……」とおケイちゃんが切り出したところで、午後の授業時間を知らせるチャイムが鳴った。

 その午後の授業中、私はおケイちゃんが読み上げたデートの定義を反芻していた。

 一緒にいたい気持ちがある。相手のために時間を作る。非日常を二人で体験する。どれも幼少の頃から、ヨッチャンとしてきたかも。私がいじめられるという日常? その中でいろいろな危険な目にあってきた非日常? ヨッチャンが私を助けてくれた。もう水曜日の下校は「二人きり」ではできない? デートの定義に合致してしまう? マユからみれば、ヨッチャンと私は下校という口実の下にデートを繰り返している? そう、常習犯? もう、ヨッチャンと帰れない? そんな!

そこで、私は自分の名前を呼ばれた気がして、「はい」と返事をした。数学の難解な問題が空からドスンと頭の上に降ってきた。


 文芸部の部室の中は、壁に向かって机が配置してあり、スタンドがそれぞれに設置してある。いつでもどれだけ居て創作活動に時間を使ってもいいようにしてある。昔は部室に泊まり込んで、執筆した先輩もいたと聞いたことがあるが、今は、午後八時までと決まっている。この文芸部からは芥川賞の先輩も輩出し、名のある文芸評論家も何人か活躍していた。そのように歴史ある部活であった。したがって、部員が集まると、椅子をみんなが反転させて膝が付く距離でミーティングが始まるのが常だった。しかし、ここ数年は男子が入部してこないのが悩みの種だと、最初の会合で中渡瀬凛子先輩がこぼしていた。ところが、今日のミーティングに男子が姿を現したのであった。

「小林豊です。よろしくお願いします。」

 女子部員たちから拍手が湧きあがった。とくに四人の女子先輩は大喜びだった。

「これで、今年の新入部員は三人になりました。良かったです。今後も、百年以上の伝統のある部はしっかりと繋がっていく気がします」と中渡瀬先輩が誇らしげに言った。すると、

「凛子先輩は、私と真実ちゃんだけでは頼りなく、部が存続しないと思ったのですか?」と、いつものおケイちゃんパンチが先輩に飛んだ。

「そんなこと言ってないでしょう、上川さん。いちいち絡まないこと。」

「すみません」と、おケイちゃんは、今日はすぐに引き下がった。

 ミーティングは、夏の合宿の日程と秋のH高祭である「双葉祭」までに発行する文集の役割分担を決めて、各自の作品を夏までに仕上げてくることで解散した。

 H高の丘の後方にはもう一つ山があり、そこは公園となっていた。といっても、場所が場所だけに利用するのは多くがH高の生徒たちだった。おケイちゃんとその公園の丘に登った。

「グラウンドが、よく見えるね」と、おケイちゃん。

「そうそう、ヨッチャンから聞いたんだけど、双葉祭は体育祭と文化祭を合体させた盛大な学校行事だって。そのとき、各クラスで体育祭用の応援のために三メートルくらいの張り子を造るそうだよ。ここからその張り子がライトアップされて、それらが並んだ様を見るのは壮観だって。」

「ふーん。真実ちゃんは、またヨッチャンの話だね。大好きなんでしょう?」

「そんなことないよ、といっても無駄かな。おケイちゃんには」と、舌を出した私。

「ところで、今日は私の話を聞いて。」

「聴く、聴く。」

「今日、入部した小林君のことどこまで知っている?」

「全然、知らない。」

「小林くんね、朝、同じ電車になるの。それで先週、地元の駅に降りたときに呼び止められて、彼、こう言ったの。『僕、上川さんと同じ中学の小林です。中学のときから君を知っていたけど、声かける勇気がなくて。でも、H高に入ったら声をかけるって、決心していて……。僕と付き合ってくれませんか?』だって。そしたら、今日、現れたというわけ。」

「そういうことなんだ。おケイちゃん、コクられたんだ!」と、からかう私。

「まあね」と、満更でもないおケイちゃんの少し威張った態度。その後、急に、言葉を優しくして、こう言った。

「お願いします。男子と、どうやって付き合えばいいの? 全く経験ないもの」と、おケイちゃんの言葉尻が小さくなった。

「じゃあ、目を閉じて。こちらに顔を向けて。」

「こう?」と、おケイちゃんの顔がこちらに向いて、一呼吸置いて私は彼女の唇にキスをした。彼女の唇の色が私好みだったので。

「えっ、」と言って、おケイちゃんは私を見るために瞳を開いた。

「簡単でしょう? キスって」と、私は自慢げにおケイちゃんを見下ろすように胸を張った。

「どうしてくれるのよ! 私のファーストキス」と、憤懣やるかたないおケイちゃん。

「でも、良かったかも。うん、確かにキスは簡単と言えば簡単なんだけど。私たち女子同士なんですけど」と、おケイちゃん。そして、おケイちゃんは続けた。

「でも、キスまでは時間かかるよね。真実ちゃん。その前段階を、私は周到にシミュレーションしたいのよ。」

「私、本当はよく分からないかもしれない。」

「どうして? 真実ちゃんは経験豊富だからと思って相談してみたのに……。」

「何が不満なの? 私だって本当の恋がしたいの。でも……」と、その先を私は濁した。

 私は逆におケイちゃんに相談した。学校を休んだ理由を話した。姉の真由にヨッチャンとの仲を疑われたこと。そして、姉の平手打ちを食らったことを。おケイちゃんはその件について率直な感想を述べた。

「あなたは悪女かもしれない。あなたはヨッチャンが好きでたまらないでしょう。でも、あなたは、ヨッチャンは姉の彼氏だという。そのことこそ、嫌らしいと思うよ。なぜ、奪わない? 私がこんなこと言っていい経験も権利ないけど。本当に好きなら、ちゃんと伝えなさいよ。そうすべきだと思う。でも、あなたとお姉さんの関係がどうなるかは保証しないけど。じゃあ、ヨッチャンに選んでもらうとか?」

 何もできない私がここにいた。私は黙ったままうな垂れた。私は自分の身の内をもっとおケイちゃんに告白すべきか思案していた。

「おケイちゃん、今日はもう帰ろう。私、おケイちゃんだからコンフェスしたいことがあるの。今度、時間を作ってくれる。じっくりと、しっかりとおケイちゃんに伝えたいことがあるの」と、私は一つの決心をしていた。自分の存在をしっかり受け止めてくれる友達が欲しい、と切に思った。もしかすると、私はおケイちゃんという素敵な友達を失うことになるのかな、と何処かで不安を感じていた。私はまた孤独の淵に佇むのかな? おケイちゃんを駅まで送り、独りになると涙が自然と零れ落ちた。


 水曜日がやって来た。私は高校正門近くの大きな松の木陰に身を潜めていた。駐輪場の方で、「じゃあ、また明日」、「バイバイ」などの男子生徒の声が聞こえてきた。その中の一人にヨッチャンがいることは分かっていた。彼が自転車を押しながら松の大樹の方へ近づいてきた。

「ヨッチャン」と、私はその陰から顔を出して彼を呼び止めた。

「よお、真実ちゃん。元気している? ライン読んでくれた?」

「うん。本当にごめんなさい。これから駅まで真由を迎えに行くのでしょう?」

「そういうこと。小母さんにお願いされちゃったしね。」

 駅近くの交差点に差し掛かったところで、私たちは別れた。ヨッチャンは駅の改札口へ、私はバス停へ向かった。ステーションビルディング一階の入り口からS女の制服の真由が楽しそうにヨッチャンとお喋りしながら出てきたのを私は目視した。バス停付近は駅の明かりより弱弱しく、向こうからはこの場にH高の女子生徒が立っているのは識別できるが、多分、誰だという判別は難しいと私は思っていた。無暗に姿を隠す必要を感じなかった。バスはまだ来ない。私の視界から二人の姿が遠ざかって行った。それから程なくして、バスがロータリーを大きく回って私の前に到着した。始発の停留所ということもあって、バスは私と数名の乗客を飲み込むとエンジン音を轟かせた。それから数分後、左手の歩道を歩く二人の姿を見つけた。座席前方から視界の横へ、そして二人の姿は私の後方へ去って行った。バスが二人を追い越した。私は思った。もしかすると、このような光景を何度か真由は目にしていたのではないか、と。また、私は、私の眼とヨッチャンの眼が合ったように感じていた。ヨッチャンの想いはどこに、誰にあるのだろうと、私は考え、悩んでいた。

 私は真由より先に家に着き、二階の自分の部屋で制服を脱いでハンガーに掛けた。キャミとショーツだけの下着姿の自分を見た。真由とヨッチャンの声が近づいてきた。こんな家の中まで聞こえていたの? 音は下方から上方へ登っていくって本当なの? 二人の楽しそうな、とくに真由の弾んだ声が私の耳に届いてきた。私は慌てて家着のTワンピに頭を通すと、玄関に駆けて行った。ドアを開けた。

 にこやかに真由は、後ろ姿になって自分から離れていくヨッチャンに手を振り続けていた。

「おかえり、真由。」

「ただいま、真実。」

「今日は、学校どうだったの?」

「別に。」

「そう……」と、私は言って、先にダイニングへ急いだ。お腹がペコペコだった。

 真由が着替えを終えて、そそくさとエプロンを着けると台所に立った。

「今から夕食作るから、ちょっと待って」と、真由はまだ先ほどの空気を漂わせて、鼻歌を歌いながら、包丁の音をまな板の上で響かせて玉ねぎを切っていた。私から見ると、とっても楽しそうな真由に見えたが、彼女の精神状態が通常レベルに治まったわけではなかった。

 母に聞くと、私を引っ叩いた数日後、真由は自分でS女の共学反対の団体を立ち上げ、精力的に各学年をまとめて、学校理事会側に生徒の嘆願書を提出したらしい。その嘆願書に明確な回答がすぐにでなかったので、真由は独りで校長室に押し込み、直談判に及んだ。まだ回答の用意ができていない旨を伝えられると、真由は激高し、入り口付近にあった大きな花瓶を校長めがけて両手を使って投げつけた。幸い、校長に怪我はなかったが、高価な花瓶は粉々に割れ、部屋中にその破片が飛び散った。その一片が壁に当たり跳ね返って、真由は腕に傷を負った。彼女の感情の起伏は乱高下し続けた。さらに、演劇部の中での先輩との言い争いから、とうとう真由は相手に手を出したのだ。この夏前の真由は退学寸前の状況に追い込まれていた。

 私は、自分の学校生活が楽しくかつ忙しくて、姉である真由の健康状態がどうあるのかを気に留めなかったのは認めざるをえなかった。私は県立H高の広告塔として、学校公認の取材を受けたり、少々の文面をタウン誌などに依頼されたり、勉強の時間を削って自分に訪れた仕事を、まるでモデル当時のような時間配分でこなしていた。当然、学校全体やクラスでの成績は危機に瀕することとなった。

 一方、ヨッチャンは、私が忙しく動いていた時期に、私の母に頼まれて、時折、S女のある駅までマユを迎えに行っていた。真由はヨッチャンの姿を見ると、激高していてもすぐに自分を取り戻したという。ヨッチャンは真由にとっては欠かせない精神安定剤となった。そして、しばらくの間は昔の気丈で優しい姉に戻っていた。

 私とヨッチャンはしばしばH高の食堂で、姉についての情報交換をする時間を持った。他者から見れば、仲の良いカップルに映るかもしれないと思われるが、私たち二人は姉真由の精神状態が一刻も早く落ち着く、あるいは完治するのを願って会っていた。おケイちゃんは、私とヨッチャンの関係を「十五分の逢瀬」と茶化した。この十五分の時間が持てないとしたら、今度は私自身の精神状態がマユ以上に混乱し、錯乱するのではないかと思われた。

 私は、喉元から次の質問をヨッチャンにぶつけたくてしかたのない衝動に駆られた。

「私と真由と、ヨッチャンはどっちが好きなの? 選んで!」って。でも、当然、そんな馬鹿げた(?)質問を今、投げかけることは、彼に嫌われることだと分かっていた。真由がこうなったのは、少なからず私の事情が一因していた。私が真由を追い込んだのだという罪悪感があった。ヨッチャンと他の話題で盛り上がりたい。ヨッチャンのことしか考えていたくない。そんな思いが私の内側でどんどん積み重なっていった。


 学期末試験が近づいてきた。週末に私は、おケイちゃんに助け舟を出してほしいことを告げた。それはおケイちゃんに私が不得意としている数学を教えてほしいということ。それも全範囲を網羅した形で教えてほしいと頭を下げてお願いした。彼女は「助けてやらないでもない」と、皮肉っぽく突き、「あなたの学業怠慢とマドンナ的営業癖、それに恋にうつつを抜かしている場合ではない」ことをくどくどしく並べ立てた上で、次のように言った。

「そうね。じゃあ、土日で特訓をしましょう。ちょうど親も土曜日に一泊で温泉旅行にいくから。ゆっくり、じっくり私の家でいたぶるように教えてあげるからね。逃げ出すんじゃないよ」と、私に脅しをかけてきた。私は、これは大変な状況に身を置くことになったと、少し後悔が頭を擡げた。おケイちゃんは確かに頭脳明晰。しかし、狂人的に自分のできることは他者もできるはずだといわんばかりに、スパルタ的に教える性向があった。私は恐怖した。もしできないときはできるようになるまで家に帰してもらえない。そう思うと、人選を間違えたのではないかと、おケイちゃんに頼んだことを後悔し始めた。

 「いらっしゃい。あなたがH高のマドンナの真実ちゃんね。かわいいし、スタイルいいわね。恵(めぐみ)はね、TJを欠かさず買っていたのよ」と、おケイちゃんの母親が玄関の扉を開けるなり、そう言ってきた。

「お邪魔します」と、照れたフリをする私。

 おケイちゃんの母親は、階下から彼女に私が来たことを告げた。そこへ、彼女の父親がいかにも偶然というふうに現れた。

「おや、君がH高のマドンナ、真実ちゃんか。恵ことをよろしくね。うちの恵は友人を家に呼んだことは今までなかったんだよ。君が来たのはまさに奇跡としか言いようがないな。」

 私は何と応答していいか迷っていた。本当におケイちゃんに友人がいなかったの?と少々訝った。階段をトトントトンとリズミカルに音を立てて猫が下りてくるような雰囲気を醸し出しながらおケイちゃんが下りてくる。その登場する姿を眺めていた。

「お父さん、何を喋っているの? 私だって友人を選ぶ権利はあるでしょう。今まで友達に値する子がいなかっただけよ。真実ちゃんは確かに学校中のマドンナだけれど、私の大切な、聡明で超天然な不思議ちゃんなんだから。」

 私はおケイちゃんに褒められているのか、貶されているのか分からない彼女のコメントにドキドキしながら、彼女のご両親に改めて自己紹介を兼ねつつ、挨拶をした。彼女の両親は、「じゃあ、後は仲良くやってね」と言って、旅行に出かけた。彼女の話によると、ある懸賞で当選し、その景品としての温泉旅行だそうだ。

「さて、始めるよ!」と、おケイちゃんの号令が直ちにかかり、私は彼女の部屋に本当に監禁された。

「どうして、この等比数列の考え方が分からいかなあ? じゃあ、もう一回説明するよ」と、万事、この調子。私は教えられるまま一つ一つ暗記するしかない、と観念した。

「暗記するのは、公式だけでいいんだよ! ちゃんと数式の意味を考えてよ。」

「分かりました」と言う他に身を守るすべはないと諦め、私は即座に返事をした。だが、実際少しずつではあるが、宿題に出た問題が解けるようになった。内心、「やった!」と私は喜び叫びたかった。

 もう午後七時を時計の針が指していた。

「よくここまでやったね。褒めてあげる。真実ちゃん、あなたも出来る子なのよ。」

「ありがとう、おケイちゃん」

「では、食事にする? それともビール?」

「おケイちゃん、ダメです。私たちは未成年だし、それに高一だもの。」

「何を言っておる。H高生にとって飲酒は当たり前だと親から聞いたもん。うちの親は二人ともH高卒だもん。」

「ということは? やっぱり、ダメでしょう」

「イヤイヤ、双葉祭までに嗜んでおかなくちゃ。双葉祭では飲酒は当たり前って。それに『良き人間』への第一歩よ。」

「嘘だ。絶対!」と私も言いながら、確かに双葉祭の慣習を先輩のどなたかに伺ったことがあった。進学校は皆の結束が強く、決して誰もそのようなことを口外しない。

「乾杯!」と、中瓶から注がれた黄色い液体の入ったグラスを私とおケイちゃんは合わせた。ガラスどうしのチンという音が、小さいが、戦いを終えた後では私に清々しさと安らぎを与えた。私はおケイという勉強地獄を仕切る魔王から解放された小鳥であった。

 おケイちゃんの母親が作り置きしてくれたハンバーグを温め、それを頬張りつつ、ビールを口にした私だった。

「苦いよう。」

「そう? そんなに苦くないよ。お子ちゃまに、ラガーは早かったかな?」

「子供じゃないもん」と拗ねて言うと、私はグイっと勢いよく杯を空けた。苦いので、もう一片ハンバーグをすぐに口に入れた。

「いい子じゃない。やはり我々は天下のH高生よね」と、おケイちゃんは私の方に瓶を差し出した。何でも、上川家では中学校の頃からアルコールを嗜んでいたそうである。(二十歳になるまでは駄目ですよ。いい子は。)彼女も自分のものを飲み干すと、お互いのグラスを再び満たした。

「H高に幸あれ! 私たちの友情よ、永遠に!」とおケイちゃんが雄叫びを上げ、彼女は杯を頭もよりも高く上げた。私もおケイちゃんの真似をしてから、再び、高く掲げたグラスを合わせた。

 私自身、アルコールを知らないわけではないけれど、ビールは初体験だった。どうも試験勉強の進捗状況が良くて、その開放感から少々酔ったみたい。おケイちゃんは親のいない開放感からか、私より調子に乗って分量を多く飲んだように思えた。私はおケイちゃんから先にシャワーを浴びるように促されて、浴室へお泊りセットを持って入った。私がショーツを脱いだ時、頬を真っ赤に染めたおケイちゃんがそこに乱入してきた。

「真実ちゃんのお尻、白いお餅みたいできれーい」と言って、間髪入れず触ってきた。

「キャッ」と、私は驚いて半歩前へ飛んだ。私はおケイちゃんの方に振り向いた。

「真実ちゃんの身体、お手入れ行き届いている! でもね、あなたは私に勝てないところがある。それはお胸!」と言うと、おケイちゃんはブラトップスを勢いよく脱いだ。豊満な乳房はプルンプルンと揺れて、私の目の前に参上した。

「一緒にシャワー浴びよう!」と、おケイちゃんの提案。

「ダメ!」と、私は思い切り拒否してみたが、おケイちゃんは自分のハーフパンツを、そしてフリル付きのかわいい黄色のショーツを脱ぎ捨てると、私より先に浴室へ入って、シャワーのコックを捻った。私はヤバイと思った。こんなところで私の本当の姿を彼女に伝えたら、その途端に私は彼女に変態扱いされてしまう。この状態を何としても切り抜けなくては……。焦りが、不安が、仲の良い友人を失う絶望感が私の内に急に充満してきた。私は意を決した。

「私、DSDなの!」と必死に声を振り絞って、彼女に告白したつもりだった。

「?」が、おケイちゃんの頭の上のふき出しの中に浮かんだよう私には見えた。

「私、DSDなの、性分化疾病なの!」とボリュームを上げて言うと、私はおケイちゃんの右手を掴んで、自分の股間に、自分のアンダーヘア部分に彼女の手を押し付けた。おケイちゃんは何を思ったのか、彼女の指は私の陰毛を掻き分け、私の小指の先もない少し硬くなったグミにおケイちゃんは自分の中指をグイっと立てた。

「真実ちゃんが、何言っているか分からないよ」彼女はその指先をさらに押し当てて、「これマミちゃんのクリトリスだよね」と言って、私のアソコをフニフニと弄び始めた。私はすでにほのかに感じていた。

「アハハッ、感じる?」

「うん、感じる。おケイちゃん、も、もう、止めて」と、私は快感を享受してしまう自分を抑止しようと必死だった。

「おケイちゃん、私には割れ目がないの」と、私は正直に率直に彼女に告げた。彼女の指が私のアソコから下にある(陰裂と思わしき)溝を伝って、お尻の方へ移動した。その指の動きが私の溝(大陰唇に似て)に沿っていったとき、あるとき経験した感覚が私の身体をがくがくと震わせていた。

「無いことはない。真実ちゃんの襞は防備が固いということ?」と、おケイちゃん。

 どうも彼女は私の身体の重大事については、全く気が付いていないらしかった。おケイちゃんはニコニコしながら私に凭れかかりご自慢の胸を私に押し付けながら続けた。私は彼女の身体を離そうとしたが、彼女は私の大切なデリケートな部分への愛撫をやめなかった。さらに、おケイちゃんはにっこり笑いながら、私の乳首に吸い付いてきた。確かに、おケイちゃんの判断力、理解力がアルコールの性で鈍っている、タガが外れていることは明らかだった。私は私自身の身体の感覚が悦楽へと向かっていくように感じて、おケイちゃんに警告した。

「それ以上、私を弄ぶと、私は悪い子になるよ。」


 H高校文芸部 文集「若葉」より   

   友人M       東米子(ペンネーム)

 すでに彼女の秘所は濡れそぼっていた。彼女は私に自慢の大きな乳房を誇示し、大腿部を広げて、私の侵入を誘っているようだった。私は彼女の唇にもう一度熱い刻印を押した後、私は自分の顔を彼女の胸まで滑らせ、つんとした彼女が誇る乳房の頂を舌先で突いた。すでに彼女の潤んだ瞳は妖艶と言った方が適確かもしれなかった。彼女の乳首に前歯を軽く立てた。「アー」と、大きな息が彼女の口から漏れた。やさしく舐め上げてから、私はもう片方の膨らみを責めた。私の舌は彼女のお臍にたどり着いた。彼女はじれったくなったとみえて、自分からさらに脚を大胆に広げていった。私の指は、すでに無自覚によだれを垂らしている彼女の割れ目にゆっくりと潜り込んだ。彼女の敏感なその下の唇は私の指を銜えむと同時に、さらにジュワリと愛液を泉のように流しながら、それでいてその襞は少し怯えながら、もっと欲しがるようにおねだりをしていた。彼女の陰部全体から溢れ出す快楽への欲望の泉は、涸れることはなかった。私は溢れ出す彼女の露を吸いつくし、少しずつ自分の口を移動させ、私の紅の唇は膣口にキスをし、ヴァギナに長い舌先をぐっと挿入した後、一気に秘所を突き上げ、舐め上げた。彼女の本能的な喘ぎ声。この娘があられもない姿で、こんな悦びに我を忘れていやらしい声を出していることを誰が知っていようか。私だけが知っている。私だけがこの娘を天空の園へ飛び立たせることができるのだ。(以後、省略。私とおケイちゃんの作品は、当時、H高の品位を損ねるという批判が内部会議で持ち上がり、掲載時に書き直しを命じられた。)


 私はおケイちゃんとベッドの上で、並んで横になっていた。おケイちゃんはまだ私の肌に張り付いていた。しばらくして、おケイちゃんはやっと酔いがさめたのか、正気に戻った顔で、でもまだ恥ずかしそうな色のついた揺れる瞳をしながら、こう言った。

「私はマコトに侵されたの? マミちゃんに愛されたの?」と、彼女は私の目の奥を覗き込むように少し心配そうに尋ねた。そして、彼女は続けた。

「私はマコトを責めてやる。『あなたの子供を宿したの。責任取ってくれる?』って。私はマミにこう言ってやる。『私はあなたの秘密を全部知っているんだからね。一生、私に仕えさせてやる』って。真実ちゃん、女って怖い生き物だよ。女って恐ろしいんだよ。女はメス性を身体の中に、子宮に宿しているんだよ。メス性こそ母性であり、自分に帰属する者はすべて守ろうとするけれど、敵とみれば容赦なく襲いかかり、相手の息の根を止めるまで攻撃を止めない。真実ちゃん、分かっている?」

「うん」と私は首を縦に動かして答えて、おケイちゃんのお喋りな唇に軽くキスをした。

「私は、男でも女でもない存在。それって、生きている意味あるの? ずーと、小さい頃から悩んできたの。」

「あなたは、天使か、妖精かな。彼らに性別ないじゃん。でも、実在し、私たちを助けてくれる存在。強いて言えば、あなたは、真実ちゃん。唯一無二の真実ちゃん。私の真実ちゃん。私、あなたのこともっと好きになっていい?」と、おケイちゃんは喋りながら、私の小さな胸の谷間に顔を密着させ、唇で私の胸の素肌に印を付けた。その唇を離すと、小さな声で、おケイちゃんは「いい香り」と呟いた。

 私は、おケイちゃんの唇が自分の乳首を頬張るのを感じながら、答えた。

「いいよ」と。「私もおケイちゃんのこと、もっと愛していい?」

 おケイちゃんは体を起こし、私に馬乗りになった。彼女の顔が私に覆いかぶさってきた。

 私は麻耶を失ってから、どこかで満たされない自分の感情と身体の怠さを感じていた。おケイちゃんは麻耶の代わり? 違う。おケイちゃんは私の一番の友人。私のすべてを受け入れてくれた人。私を終始襲っていた正体の分からない(実は、よく分かっている「世間の常識」という物差し)不安と恐怖は、このとき雲散霧消し、自分の目の前の情景が霧の切れ目からはっきりとした形をして現れた。実在する私。存在することを許された私。私は、高校生活での自分の居場所、住処を見つけた大きな喜びと安心感をそのとき抱いた。


 学校の食堂では、まずおケイちゃんとテーブルを陣取って昼食をとり、その後に、ヨッチャンが現れるという流れが確立した。おケイちゃんはヨッチャンが現れると「ヨッチャン先輩、真実ちゃんをお願いします」と言うと、ニコニコしながら席を立ち、私たち二人に手を振って教室に戻っていく。そんな光景が繰り返されるようになった。

私のメス性は強くなっているという自覚があった。ヨッチャンの伝える真由の症状は良くなっていることは確かだが、姉真由が彼を独占することが許せない気持ちが破裂する前の風船のように膨張していった。

 一年生のとき、双葉祭の前夜祭に、私とヨッチャンは学校のグラウンドが一望できる公園でキスをした。私には、小さい頃、ヨッチャンにチューをしたという記憶があるが、その行為は真由の言葉で完全に遮られてしまった。

「ダメ! マーくん。ヨッチャンは私のだから、キスしちゃダメよ。」

 そのとき、私は真由の動作を真似ただけだった気がする。それが真由を怒らせた。その当時、気がつかなかったが、すでに真由のメス性は発揮されていたこと、女子は幼少の頃から本能的にそれを持っていることに私は後になって気づいた。

 双葉祭のグラウンドでは、各クラスの大きな張り子がライトアップされ、多くの近隣住民、さらには他校の生徒も招かれて、お祭りの人出のようだった。某所から回ってきたサワー缶を私も皆に倣って、一口飲んだ。私のクラスでは男女が共に張り子のピカチュウの完成を喜んでいた。その最中、ヨッチャンに後ろから私は肩を叩かれた。おケイちゃんは私に向かってニヤッとして、「行ってきなよ」と言うと、私を彼に押し付けた。

 私たちは夕暮れ漂う学校のさらに上の公園へ登ってみた。すでに三々五々集ったカップルやグループがはしゃいでいた。私はヨッチャンとグラウンドが良く見えるもう一段高い岩の上に登ろうとした。ヨッチャンは私の手を握って引っ張り上げてくれた。私はローファーのつま先部分を岩の突起に当ててよろけた。彼が私の腰を片手で掬い上げてくれた。私は「ありがとう」の言葉を、また、「ライトアップされて、素敵ね」という言葉を予め用意していたが、私の身体は掬い上げてられた勢いで、彼に抱きかかえられる格好となり、私の目の前にヨッチャンの真顔があった。次の瞬間、私の瞼は開いたまま、私の唇は彼に奪われた。これは「奪われた」のであると、冷静なひとりの私が分析がてら無表情に現れたが、すぐに別のひとりの私が登場した。

「甘い。甘美!」などと浮足立っている女。私は私を取り戻そうとしたが、彼の唇は私の唇に当てがわれたままだ。私の中の女は求め始めた。瞳を閉じて、彼の世界に引きずり込まれるままに身を任せた。私の頭の中のスクリーンは真っ白になった。これまでのキスとは異なった、異性とのつながりがこんなにも甘く、麗しく、永遠に時の流れを止めたくなるほどの切なさに私は感じ入った。彼の唇が私から離れると同時に、私の体内の細胞という細胞が訴えた。「もっと、もっと欲しい!」私のメス性細胞が連呼した。その後のグラウンドの夜景は、私の記憶の中からはデリートされたままとなった。


 私は、ついに、と言うべきか、とうとう二年生の一学期の数学(幾何・代数)で赤点を取ってしまい、夏休みの補講が確定してしまった。

 すでにヨッチャンの所属するバレーボール部はインターハイ予選の地区大会で敗退したので、彼は受験勉強に本格的に取り組み始めていた。一方、私の立石家では、真由がG女学院大学文芸芸術学部(演劇・芸術界では一流の現役講師陣を抱えていた)へのAO入試を受けるため、この早朝、姉は母の車で東京へ向かった。このとき、母も東京での仕事があった。確かにこのころには、姉真由の精神状態は非常に落ち着いていた。昨年、S女で初演した「ジャンヌ・ダルク(次案怠子)女子高を救う」が、当年度の高校演劇祭で準グランプリを取り、さらに脚本賞をマユ自身が獲得したので、私が知っている本物の姉、気丈で優しいが、しかも頑固という姉真由に戻っていたのだが。

 二人を乗せた車を見送ると、私はヨッチャンにラインした。

「数学の補講が始まるよ、ヘルプ!!!」

「OK」

「うちに来て!」

「いいけど。」

「真由はAO入試で、東京に行っちゃった」

「OK、今から行くよ」

 この日は真夏の陽光が一段と強い日だった。でも、自宅は冷房がきいていて快適な状態だったが、冷やし過ぎると体に障るから、立石家では温度設定は高めに設定してあった。私はブルーのキャミと白いショートパンツ姿で過ごしていた。

 玄関が開くと、私は彼を認めて、彼の首に両腕を巻き付けた。言葉を発する必要はなかった。私の女が、メス性が私の理性中枢を占拠し、勝手にコントロールしていた。

 私は彼の唇を求めた。求める以前に、私の行動は決まっていた。私の小さな乳房が彼の広い胸に合わさった。彼の手から鞄が床にドスンと落ちた。さらに、今度はお互いの性がお互いの存在を確かめ合うように手探り、抱き合った。

「真実、愛している」と、私は初めてヨッチャンの口から「愛している」という言葉を聞いたのだ。否、私がその言葉を引き出したのだと、もうひとりの私こそ、メス性の権化である悪女が調子に乗って自負していた。

「ヨッチャ……」と私が言いかけると、彼は、それは変だよねという顔をして、こう言った。

「良夫、ヨシオでいいよ。『ちゃん』付けると子供っぽいだろう。」

「じゃあ、ヨシ?」

「いいよ、ヨシで。」

 その間にも、もうひとりの心配性の私が「本論に入るね」と介入してきた。

「単刀直入に本論に入るね。あなたは女性器、ヴァギナを持っていた? 持ってないよね。そこのところよく考えてよね。いかに愛する異性でも受け入れることはできないのよ。」

 その言葉を悪女は遮った。

「愛する男のためなら、何でも、あなたができることの全てをしてあげればいいわ。それが愛というもの。健気なあなたを彼なら本当に愛してくれるはず。あなたのことを全て知っている彼氏だもの。」

 私が今着ているキャミはインナーが付いていなかった。彼の目には玄関から入ってくるなり、私の胸の高鳴りからピンと立った小さな乳首の形が見えていたはず。彼は私のキャミを頭から剥ぎ取った。彼のつむじが私の眼下に見えた。彼の唇が私の乳首を頬張った。「あっ」と、小さな振動が私の中を高速で走った。どこまで行くの?と私は彼に言いかけたが、そんな余裕はもう心の中に持ち合わせていなかった。片方の乳房を鷲掴みにされ、もう片方の膨らみの頂に彼の舌先が触れた。敏感になっている私はもう耐えられなくなっていた。「ダメ」と蚊の鳴くような声を漏らしたのを私は覚えている。

 彼は、私のショートパンツとショーツを一緒に剥がした。「もうどうなってもいい」と私は……。私は本能のままに自分を従わせるしかなかった。私は気づくと、彼のいきり立つ男性のシンボルにキスをして、自分の舌でソフトアイスクリームを舐めるように舌を彼のものに這わせていた。何も考えられない状態で、メス性の要求に私は従っていた。私は彼のモノを小さな口を大きく開けて頬張った。そして、唇をぴったりと彼の形に合わせて、前後に首を動かした。私の口の中で彼のモノはピクン、ピクンと脈打っていた。時折、私の顎が外れるくらいそのモノは上下動した。私は彼の腰に手をやり、下半身を固定して、その動作を続けた。彼が「うっ」と口走った。

「出ちゃう、真実」と言い終えようとしたとき、私の口の中にネバっとした液体の塊が発射された。

「ごめん、出しちゃった」と、ヨシは心配そうな表情で私の顔を見下ろした。

「ヨシの大切なもの、私、飲み込んじゃった」と言って、私は指で唇についている粘り気を拭いながら、満面の笑みを浮かべているであろう私自身を、どこからかもうひとりの自分が見ていたような気がした。私はその口で、彼の唇に舌を絡めた。彼のオス性にスイッチが入ったように、私を過激に求めてきた。彼の手は私のアンダーヘアへ、そしてⅠラインを探った。彼の指は私のグミ(クリ)を愛撫し始めた。私の中のひとりが「もう、ダメ。受け入れられないって言って、彼の行為を止めなくちゃ」と目を白黒させて、焦っていた。私の身体を走る快感はより高まりを求めていた。私はある卑猥な情景を思い出し、「ヨシ、お風呂場に行こう」と誘った。彼もすぐに反応して、私をお姫様抱っこして連れていってくれた。お互いの裸体にシャワーを浴びせ、ボディーソープを両手で泡立てて体中に広げた。彼のモノは、さっきよりも高く空を望み、雄叫びを上げているように見えた。最初、私はその彼のものを片手で握りしめて初めてしごいた。彼は私の秘所にヌルリと指を入れてきた。私は両脚を閉じて、覚悟を決めた。私の股間には、脚の付け根には小さな三角形の隙間ができる。その空間に彼の上空を見上げる大きな棒状の怪物が突進してきた。わたしはつま先立ち状態になるほど、彼の太い棒が私の身体を押し上げた。

 俗にいう素股なのかな、と私は一秒たらず思ったが、そんなつまらないエロい知識と情報と意識は吹き飛んで行った。彼の手は私が逃げないように私のヒップの肉をえぐるかのように鷲掴みの恰好だった。私は彼を決して離さないように思い切り抱きついていた。彼の腰が私の腰とぐっと密着したり、少し離れたりする動作が繰り返された。私のクリは彼の棒の中央部とこすれてとんでもない刺激が、快感が……、急激な悦楽に繰り返し襲われていた。時折、彼の先端部が私のクリを突いてきた。さらに、私の襞(浅い溝)は彼の棒の摩擦に刺激された。それどころか彼の棒の先は私の襞―大陰唇?―を押し開けようと根気よく何度も何度も繰り返し押したり、突いたりしてきた。私は女性器を持っていないが、まるで彼のモノを受け入れている錯覚に陥り、自然と大切な男のモノを肌で、自分の秘所で感じ取っていた。その行為はますます私を夢中にさせた。私はこれ以上、詳細で、適切な表現で行為自体を説明できない。この後、日常生活のある場面で、彼とのこの交わりをちょっとでも思い出すだけで体の芯が熱くなり、私のクリは自然と濡れてくる経験を繰り返すようになった。(私のポーチに生理用パッドが自ずと入れられるようになった。)

 私の白い太腿の裏側に彼の白濁した欲望を固めた液体が放出され、その液体は私の膝裏からふくらはぎを伝って床タイルへ流れていった。私のメス性は留まるところを知らず、「欲しい、もっと欲しい!」と私自身に懇願していた。愛にお酒の力などの、小細工はいらないことが彼との関係で私には痛いほどよく分かった。シャワーを浴びた状態のまま、私とヨシは再び抱き合っていた。彼のモノが私のお腹の辺りで再び蠢いていた。

「真実、愛している。」

「ヨシ、愛している。」


 私が三年生になる年に、真由はG女学院大学文芸芸術学部演劇科へ、ヨシはT大学経済学部経済学科へ、進学した。そう、二人とも上京していった。私は実家で取り残された寂しさに苛まれていた。姉真由とヨシのことを一緒くたにしては考えられなかった。絶対、彼ら二人が他人さまからカップルに見られようとも断固としてそうとは認めたくなかった。真由は真由。ヨシはヨシ。という風に、単品扱いで私は彼らのことを処理しようとしていた。しかし、真由からたびたび、東京生活の連絡が入るたび、必ず彼女の口からヨッチャンの話が出てきた。真由は私が次年度に東京の大学に進学してくる前段階として、大きめの2DKのマンションを借りていた。また、彼女は、母の妹の真衣子叔母さん(通称、東京のママ)の経営する「バー・ビークワイエット」で夜にバイトをして、芝居修行資金を稼いでいた。そのお店のメリットは、ママが元々シャンソン歌手で業界との関係もあり、芸能業界の面々が大勢出入りしていたので、真由はチャンスを掴めるかも、とも言っていた。そして、私の気持ちを知ってか知らずか。

「東京に来てから、ヨッチャン、すごく優しいよ。真実ちゃんも、頑張って勉強して来年はこっちに来なさいよ」と、真由は自分とヨッチャンとの関係が良好であることを私に語ることによって、私とヨシとの関係を崩壊させるかのごとく、話を続けた。その攻撃に対して、私は「ダメ、ダメ。真由はまだ症状が完治したわけではないのだから」と、自分に言い聞かせた。私のほうがまだアドバンテージをもっているのだからと。

 ヨシから私には毎日、決まった時間に「愛している」の一言が届いていた。私はそれだけで生きている、自己自身の存在意義と充実感を噛みしめて、受験へ臨もうとしていた。

 真由が私にG女学院大学の推薦受験を勧めてきた。私が好きな作家先生もその学部の文芸学科で教鞭を執っていらっしゃった。恋はさて置き、ずっと私のために粉骨砕身、さらに精神を削ってきた姉を今度は支えてあげたいという気持ちが私の中に芽生えたのは確かだった。人間として、感謝し、恩を返すのは「良き人間」としての当然の行いだ(といっても、良き人間になるには遅すぎる気がしないではないが)。一方で、ヨシの進んだT大学受験も考えたが、今の私の学力では到底行けない結果が出ていた。ある模試の判定では絶望的なE判定だった。T大学はともかく、東京の大学、できればT大学に距離的に近い方がいい。その一つが真由の進学したG女学院大学であった。余りにも浅はかと言われようが、恋に目がくらんだ女の発想だと指摘され、叱責されようが、私には進学先としてこれしか思い至らなかった。

 夏の学校説明会と相談会、さらには、AO・推薦受験に関わる事前面接(事実上の面接試験)も行われるということで、私は東京に行くことになった。実は、すでに高校で沖永校長先生に相談して、G女学院大学への推薦状並びに健康・身体に関わる証明書を同大学に提出し、了解が取れていた。これも短絡的と言われるかもしれないが、私自身、女性だけの世界で厳しく女性性と人間性を育みたいと考えていた。いかに女が同性に対して辛辣かはもう経験済みではあったが。まだ、姉真由には、私が彼女と同じ大学に入学希望であることは正確には伝えていなかった。なぜか、今は、真由に伏せておきたかった。


 夏休みの前半、八月上旬に、私は真由とヨシがいる東京へ新幹線で向かった。当日、母は地元の会合に出席するついでに私を駅まで見送ってくれた。

「真由によろしくね」と、母は車の窓を少し開けて私に伝えた。私は駅前で一人になると、つばの大きな帽子で顔を隠して改札口へと急いだ。そこにおケイちゃんが私を待っていた。彼女とお茶を飲む約束をしていたことを忘れていた。私の脳みその中を占めるのは、東京の二人にどの面を下げて、最初の言葉をかけようかという難題だった。

「そうだよね。真実のお姉さん、ご機嫌がいいといいわね。」

「うん、そうだね。」

「それと、ヨッチャン先輩に、まず何て言うの? 『愛している』かな? ウフフ」

「バーカ」と、私はおケイちゃんのいつものジャブをかわそうとした。

 おケイちゃんの進学先は、地元の公立大学地域教育学部となった。彼女は沖永校長を目指すと言っていた。すでに彼女の模試判定はA判定と、私との差を見せつけられていた。彼女は私にヨッチャン先輩のいるT大学に挑戦しなさいとしきりに嗾けるが、もう私にそのチャレンジ精神は消え失せていた。私自身がそのような能力がないことは十分承知していた。

 おケイちゃんにホームで熱く抱きつかれ、キスをされてから私は新幹線に乗り込んだ。

 私が東京駅に着く直前に、ヨシからラインが届いた。

「迎えにいく。真由はバイトで来られない。」

 私は安堵のため息をついた。肩の緊張が緩んだのが自分でもよく分かった。

 バレットトレインが東京駅ホームに滑り込んだ。私は車窓からホームに彼を見つけた。「ヨシ!」と、心の中で叫び、愛おしさが体中を満たしていった。先に出口に並んでいる人々を押し倒し、蹴り倒して、自分が最初に飛び出して行きたい衝動に駆られていた。私はこの日、普通の服装と決めていた。なぜなら、東京組の面々に失礼のないようにしたかった。というのは真っ赤な嘘で、ヨシだけなら、彼を虜にする装いにするに違いなかったが。この日、私は何かを警戒し、ノースリーブの小花柄のミニワンピで、清楚感を演出し、自慢の美脚を強調するに留めた。

 私はキャリーケースを引く足を早めた。私の恋人ヨシ目掛けて飛びかかろうと助走をつけようとした矢先、ヨシと話をしている青年が目に入った。私は胸の内に熱い思いを一旦、仕舞い込んだ。

「久しぶり、ヨッチャン」と、私は普通を装った。

「久しぶり、真実ちゃん」と、ヨシもどこかよそよそしく私に声をかけた。

「あっ、そうそう。紹介しとくわ」と、ヨシは続けた。

「こちら内藤明(ないとう あきら)くん。同じ大学の友人。」

「内藤明です。よろしく。真由ちゃんに君のこと頼まれて。」

 真由は、予防線を張ってきたと、私は勘ぐった。

「立石真実です。よろしくお願いします。」

 妹といえども、姉真由は私をヨシに容易に近づけさせないようにしたのだろう。機転の利くと言えばあたりはいいが、狡賢いと言ってもいいのではないかと、私は姉の用心深さを警戒した。

 明さんが私のキャリーケースを持ってくれた。私たちはヨシの車に乗って、新宿のママの待っている「バー・ビークワイエット」へ向けて出発した。私と明さんはお店の近隣で降ろされ、ヨシは車を駐車場に置きに行った。

「真実ちゃんも、東京に来るんだね。」

「はい、私も、姉と同じG女学院大学に入りたくて。明さん、凄いですね。T大学だなんて。」

 ホームでも、歩いている時でも、自動車の中でも明さんの顔を見なかったことに気付いた。今、横に立っている明さんの目鼻立ちは日本人離れしていた。目の色がブラウンで、鼻が高い。

「明さんは、ハーフですか?」

「ああ、クオーターになるかな。祖父がアメリカ人で、その祖父に似ているって。」

 真由は私に日本人離れした男子をあてがえばと判断したのだろうと、即座に私は思った。私がマイクと付き合っていたことを思い出し、外国人、それもアメリカンを人選したのではないかと。

「真由ちゃんね、周三日以上もママを手伝っていて、とても忙しそうだよ。」

「そうですか?」

 過去、幼少期に記憶のあるお店へ通ずる道路に私は気付いた。そして、自然とママのお店への行き方を身体が覚えていてくれていた。ドアを開けると、開店前の準備をするマスターの姿が目に入った。

「やっと来たわね、真実ちゃん」と言って、真っ先に声をかけてくれたのはママの旦那である茂さん。通称、マスターであった。茂さんは、ガタイは一九〇センチとでかい。さらに、風貌は、あの英国の伝説ロックバンドのヴォーカルに似ていて、髭がトレードマーク。いつもおかま口調で気さくに誰とでも分け隔てなく接してくれる楽しい小父様であった。まさに、ママの相棒というのがふさわしい人物であると、私はこの二人が結婚したときから、子供ながら生意気にも思っていた。

「私の真実が来たのね」と、お店の奥のスタッフルームからママが飛び出してきた。以前のように私をふくよかな歌うたいの体形が包んでくれた。

 真由は奥のテーブルを黙々と拭いていた。

「真実、あなたも手伝いなさいよ」と、いきなり無体なことを姉は口にした。

「えっ? だって私は今、旬な受験生だよ。少しは労わってよ。」

「そうだったわね。着いて早々なのを忘れていた。あれ、ヨッチャンは?」

「もうすぐ着ます」と、明さんが私の代わりに答えた。

「明、妹のことよろしく」と真由は言うと、また開店支度のために手を動かし始めた。

 ヨッチャンが姿を現した。そして、店のカウンターの一番奥に腰掛けた。彼はママに声をかけた。

「ママ、いつもすみません。夕食をごちそうになって。」

「大丈夫よ。あんたは自家用車を持っている苦学生だものね。夕食代は、真由のバイト代からいつも引いているから。ウフフ、冗談だけど。」

 ママの話だと、必ず週三回は真由の面倒を見ているとのこと。これから私が向かうマンションは、お店から歩いて五分程度のところにあるけれど、ヨッチャンがその都度そこまで送っているとのことだった。私は真由から鍵を預かり、明さんに案内してもらって、現在は真由だけが使用している住居に足を踏み入れた。明さんは塾講師のアルバイトをしているとのことで、これからその受験予備校に向かわなくてはならなかった。彼は「今日の僕の役目はここまで」と言った。彼は帰り際に、「真実ちゃん、今度、デートしようね」と、笑って去って行った。

 私はマンションの部屋を点検し始めた。こんな探偵まがいのことをしてはいけないと思いつつ、私の身体は姉を疑っていた。最初に靴箱、次に洗面台へ移動した。もし、男物の品があれば、ヨシのものか吟味しなくてはならないと、しつこく猜疑心の強い女の本性が顔を覗かせていた。不安を抱いた感情は僅かであるが、溶けていき、真由を疑った自分に嫌気を感じた。私は内心、ホッとした。でも、まだ何か不信感をぬぐえない自分がいた。ダイニングの食器棚に目をやった。もし、お揃いのカップなり、夫婦茶碗なりがあるのではないかと探してみたが、そこにはブランド製の皿やティーカップのセットが所狭しと並んでいるだけだった。改めて、私は安心するとともに、非常に嫌な自分という嫉妬深く猜疑心の強いメス性がなお作動していることに気づいた。

 今度は、さらにやってはいけないことをやろうとしていた。実家で一緒に住んでいる時でもやったことのないことを、これから私はしようとしていた。それだけ私にはヨシとの関係があらゆるものよりも優先し、重大事で大切な宝物だった。来春、こちらに移ったら、真由に自由をさせない意気込みで姉の部屋のドアを開けた。明かりをつけた。真由の洋服ダンスを探った(してはいけないこと、と重々承知はしていたが、私のこの動作を止めるもうひとりの自制心を持った私は、すでにいなかった)。どこかにヨシの私物があるのではないかと。それらの物品がないことをやっと確認し終えた途端、純粋に安心する女が私の中にいた。真由の机の上には、母が撮影してくれた上京する直前のマユと私のツーショット写真が額にいれて置いてあった。姉さんは、私のことを思っていてくれているの?と、これも本人に尋ねてみたい衝動に駆られたが、次の瞬間に、またあの女が現れて、囁いた。この写真は真由が自分のヨッチャンへの思いを妹から隠すための、カモフラージュのツールなのではないか、と。今の私はこのような邪推しかできない人間になり下がったのだ。おケイちゃんが言った通り、私の女がそうさせているとしたら、私は当分、「良き人間」にはなれそうもないと思った。私の携帯が鳴った。真由からだった。

「真実ちゃん、あなたの好きな大谷高志先生がお店に来てらっしゃるわよ。」

「あの作家で、大学教授の大谷先生?!」と、私は半信半疑で返事をした。私は鍵を閉めて、お店に急いで戻った。

 私がマンションでの大捜索をしている間に、時間が思いのほか経っていた。ママのお店は午後五時から午前一時まで営業していた。お店のドアを開けると、白いブラウスに黒いベスト、黒いロングのタイトスカート(後ろにスリット)、それに黒いローヒールを履いた真由が「いらっしゃいませ」と、明るい営業口調で声をかけてきた。真由は私をヨシの隣に座らせると、仕事に戻る直前、「後で、先生に紹介するからね」と、真由は優しい言葉を私にかけた。

「ヨシ」と、姉に悟られないように小声で彼の横顔に口を近づけて声をかけた。

「真実」と言うと、彼の顔が私の唇に近づいた。私は期待してしまった。もちろん、彼の愛のキスを。でも、違った。

「今、明からラインが入ったけど、2日後の月曜日はスケジュールが入っていて来られないとさ。加えて、その日は真由の劇団のミーティングがあるというから、僕が真実と一緒にG女学院大学に付き添いで行くことになるよ。」

 当初、私が期待したヨシの行動は外れたが、彼の話は私にとってはグッドニュースに違いない。その直後、ママからお呼びの声がかかった。

「真実ちゃん、おお、私の娘よ」と聞いた瞬間に、私は悪い予感がした。

「ママのために手伝ってくれない? 今日、これから劇団関係の人が大勢来るから、真由ちゃんをヘルプしてくれない? そうそう、更衣室に制服あるから着替えてね。絶対に似合うはずよね、モデルだもの。それにサイズは私、よく知っているから、あなたにピッタリよ。あなたも、来春からこちらに来るでしょう。今後、お店が忙しいときには手伝ってもらいたくてさあ。もちろん、バイト代は弾むから、ね」と、ママは嬉しそうに私に話した。私が着替えて戻ってくると、劇団のご一行様が店になだれ込んできた。すぐに私は真由の隣に立って、同じように頭を下げ、「いらっしゃいませ」と営業モードに自身の身体のスイッチを入れた。

 ご一行様は、あの有名なB学座の方々。

「おや、真由ちゃんが増殖しているぞ!」と、どこかで見覚えのある中年の役者さんに声をかけられた。

「真由ちゃんのそっくりさんを雇ったの? ママ。」

「違うわよ。真由ちゃんの妹の真実ちゃん。私が東京のママだから、娘たちをここで修行させるの」と、ママは私をそのご一行様に紹介した。

「あっ、モデルの真実ちゃん?」と、若い女優さんが気付いてくれたみたいだった。 

さらに、若い事務方と思われる女性が思い出してくれたみたいに私の手を握ってくれた。

「あの、真実ちゃん。TJの専属モデルをしていたよね。」

「はい、そうです」と、私は私の存在が僅かではあるが認識されていることに感激した。

 しかしながら、この御一行様は真由との関係が深く、結局、真由は仕事を私に押し付ける形で、彼らの輪の中に入っていった。

「ヨシ、真由は人気者?」と私は、少々、腹立たしい思いを込めて彼に尋ねた。

「そうだね。あの人たちは演劇界の人たちだし、真由の全国高校演劇祭のこと覚えているし。ほら、あの白髪で黒縁の眼鏡をかけている人、知っているだろう。B学座の演出監督さんで、G女学院大学でも講師をやっていらっしゃる偉い人だよ。」

 ヨシの話が終わるか終わらないうちに、ママから盛り合わせの大皿を渡されて、私の慣れない手つきでのスタッフ業が始まった。「私、今日着いたばかりだけど。まだ、夕食食べてないんだけど」と、ぼそっと愚痴をこぼした。しかし、賑やかな店内に私の言葉を拾ってくれる人は誰一人いなかった。ヨシさえもすこしよそよそしかった。

 私の心の中で、立腹虫が暴れ出した。私って、受験生だよね。今日、東京に来たばっかりだよね。私って、二日後に実質的な入学試験、大学の先生方との面接試験があるよね。本当に、私のことを何だと思っているの?

 休みなく、ママから手渡されるグラス、氷、タンブラー一式を、また、追加のビールの瓶を、さらに、数えきれないおつまみの数々を奥まった席に陣取っている御一行様に届けていった。

「ママのシャンソンが聴きたい!」と、ある女優さんのリクエストの大きな声が店内に響いた。ママはカウンターから出てきて、中央にあるグランドピアノの前に座った。

「Be quiet, Every Body」と、ママが告げると、あれだけ賑やかだった店内の騒音はサッと引いていった。私は、やっと分かった。なぜ、このお店の名前が「Bar Be Quiet」であるかを。そうなのだ。ママが歌う時に「お静かに」(もしかすると、機嫌が悪いときには「お黙り」かも)と一言かけるからだ、と私はひとり合点がいった納得感に浸っていた。そして、ママのヨーロッパで修行した綺麗な透き通った歌声が店内に満たされていくのを、私自身の肌で感じていた。本物とは一瞬で、人々の肌を通して相手の心に伝えるものなのかと、私は自分の「本物」感を反省せざるをえない気になった。

 結局、その日は、私はあの大谷先生にご挨拶ができないまま、閉店の時間をむかえた。

大谷先生は、カウンター席のヨシの隣で、彼とにこやかに文学的議論を戦わせていたことを、後で、マスターから私は聞かされた。私が真由の代わりにお手伝いをしているところを「偉いね」と言って、中座されたそうだ。

 私はママにたんまりとお小遣いを頂いた。否、これはれっきとした私の労働に対する対価、すなわち、バイト代だと、私は考え直した。

「ヨッチャン、頼んだわよ。私の娘たちのことを」と、ママは言って私たちを店の前で店の看板灯を消しながら、見送ってくれた。

 私たちはマンションに辿り着いた。私から言わせれば、やっと長い一日が終わろうとしていたので、「辿り着いた」という表現が正しいと思った。もう、私は眠たくて、また、業界(この場合は、演劇)の方々の超個性の持ち主たちの熱気と情熱と毒気に当てられたこともあり、私の意識は虚ろ虚ろした状態にあった。来春から私の部屋であり居場所になるこのマンション。まだ、ベッドと空の洋服ダンス、それに鏡台しかない殺風景なねぐらで眠りについた。

 翌朝、なつかしいお味噌汁の香りに起こされた。真由と一緒にいる幸福感を久々に思い出した。

「真実ちゃん、ご飯よ」と、優しい姉の真由は寝ぼけ眼の私に声をかけた。

 

 二日後の朝、私の心は穏やかではなかった。それは、マイナス的なベクトルではなく、あまりにもプラス的なそれが強く、さらに気持ちの高ぶりがあまりにも肥大化していて、真由にも見透かされるのではないかと思うくらいの精神状態にあった。自分では抑えているつもりの心拍数は確実に上がり、乱れていた。

「今日は、絶対、ヨッチャンに迷惑かけちゃダメよ。絶対だからね」と、真由は玄関口から私が皿を洗っている最中に声をかけ、足早に外出していった。私のことを心配してくれないの?真由は、と思った。今日は、私の運命の面接試験日なのに。

「いっていらっしゃーい、真由」と言ったが、その言葉の裏には別の嬉しさが伴っていた。G女学院大学での事前面接にかかる重圧や緊張など、私にとってはスカートの表面に付いた塵を落とすくらい簡単な動作に思えた。私は部屋着としてサマーチュニック一枚で過ごしていた。まだ、ヨシがここに迎えに来るには早い時刻だと思いながら、今日、着るため田舎から持ってきたスリーブの胸にフリルをあしらったブラウスとフレアスカートを、来春から本格始動するはずの洋服ダンスから取り出そうとしていたところだった。マンション玄関のドアフォンが鳴った。私は何も期待せず、その画面を覗いた。ヨシの姿があった。えー、まだ何も用意してないようー。予期せぬ恋人の早すぎる訪問に乙女心は超ドギマギしていた。

「今、開けるね」と、私は言って、マンションの入り口のドアの開錠ボタンを押した。私は慌てていて何も手につかない。この四階までエレベーターですぐである。案の定、自分が鏡台の前で、少し化粧の真似事でもしようとしたときに、今度は部屋のチャイムが鳴った。私は髪だけに簡単にブラシを通すと、ドアを開けた。私とヨシの目があった。お互いに言葉を交わす必要はなかった。

 私は彼に飛びついた。彼はしっかりと受け止め、彼の長い腕が私の上半身に巻き付き抱きしめてくれた。「この匂い」と私の鼻腔が激しく騒いだ。彼の肌から発せられる、私にとっては懐かしい体臭が私の肺を媚薬を吸い込んだみたいに満たしていった。彼の身体は、朝の夏の日光を浴びたせいなのか、私の肌に外気の熱気を感じさせた。否、そうではなくて、この熱量こそが、彼が私に会えない時間の中で蓄積していた私に対する愛情としての熱量ではないかと、私は勝手に解釈した。

 お互いの唇が求め合った。玄関の間口に私たちは立ったままで、お互いの身体が密着し離れようとしなかった。彼の手が私のチュニックの中を弄った。私がまだ下着を付けていないことを思い出すより先に、彼の指がそれに気づくと、私の上半身は裸にされた。それだけでも私の身体は喜びを抑えることができないくらい彼への愛欲、欲情が膨張、暴走していた。

 「濡れているよ」と、ヨシに指摘される前に、私は自分のグミがご馳走を前によだれを垂らしていることはよく分かっていた。彼が指摘したように、ショーツのデリケートゾーン前面から中位にかけてのクロッチが自分でも想像できないくらいに、ぐっしょりと濡れてしまうことがしばしば起こることがあった。

ベッドで私たちはあの日のように、交わった。彼のモノは多量の白濁色の液体を私のお腹の上に放出した。彼の溜まっていた欲情の飛沫は私の乳房の下部曲面にも達していた。

「ごめん、真実」と言うヨシの瞳が、子供の悪戯を咎められるのではないかという幼い純粋な輝きを持っていると、私には感じ取れた。これが母性なの?

「う、うん。うれしいの」と、私。少しいかがわしいAV女優のようにザーメンの雨に溺れたいと思ってしまうほどエロティックな私がいた。羞恥心の欠片も持ち合わせていない愛欲の雌がそこにいた。

 鏡台の上に並べた化粧品の一つに彼が手を伸ばした。私は自分の肌についた彼の残骸物をティッシュで拭き取っていた。突然、私はベッドの上で反転させられ、うつ伏せ状態になった。私が「何?」と言いかけたとき、彼の一本の指がぬるりと私のアナルへ挿入された。

「ダメ!」と、私は口では否定したが、私の腰骨は彼によって引き上げられて、私のお尻が山のように上へ突き出す格好となった。乳液らしき香りが漂った。私の使っている乳液が私のアナルに彼の指を導いていったようだ。初めて経験する不思議な感覚。自分の体の中に何者かが侵入してくる感覚。私は彼が何をしようとしているのか気が付いた。彼はこれから私を侵すのだと。さらに強い彼の力が私の腰骨を固めた。

「アー」と、私の口から無意識のうちに声が漏れた。私は反って腕でベッドを押した。上体を起き上がらせようとしたが、それ以上のことは不可能だった。私は俗にいうワンワンスタイルになり、強い力で押さえつけられたと感じたとき、私の中に彼の太い棒がグンと挿入された。私の喉から微かな「あ、あっ」という声にならない息が漏れた。私は逃げようと思ったわけではないが、自然と肛門に力を入れて彼の一物を絞り込んだみたい。

「う、うー」と、彼が呻いた。ゆるりと彼の棒は私の中から、退散して行った。その後に、彼の白く薄い液が私の襞のラインに沿って伝ってきた。シーツの上にぽたぽたとその雫が落ちて滲みていった。

「ごめん」と、またヨシが私にすまなさそうに謝った。今度は、自分の失敗を責められるのではないかと不安を帯びた瞳に変わっていた。

「今度、頑張ろう」と、私は口走ってしまった。一体何を頑張ろうというのか、それすらよく分からないが、私にはそれが彼を元気づけ、勇気づけ、傷付けない言葉であるという選択をしたのだ。そう、はっきり言って、この場合、何て男子に声をかけたらよいか私自身皆目見当がつかなかった。二人でシャワーを浴びて、エロスの匂いとその空気感を払拭しようと努力するが、私の身体が彼を求めることを止めなかった。欲情に溺れたメス性の感覚の本能に歯止めが利かない状態が継続していると言ってもよかった。

 ヨシにダイニングで待ってもらった。私は着替えるところ全てを見せるほどの勇気と大胆さを持ち合わせていなかった。乙女心の中の羞恥心はしっかりと持っていた。だって、まだ夫婦でもないし、そんなに関係性をマンネリ化させたくなかった(ずっと、一緒な環境に育ってきているが)。私は新しい、水玉模様のショーツに足を通しヒップまで引き上げ、カップ付きキャミを着ているとき、お尻からツーっと伝ってくる異物を感じた。私は慌ててショーツを下げた。その正体は、まだ私の中に居座っていた彼の汁だった。小さな声で「やっちゃった」と独り言の私。私は身体のどこかで彼の存在を愛おしく思った。私は別のボーダー柄のショーツを新しく出して、用心のためにヒップまでカバーするナプキンを付けてから足を通した。


 私はヨシと二人でG女学院大学の門をくぐった。校門を入ってすぐの階段途中で、すれ違う知らない女性に「あれっ? 真由ちゃん?」と呼び止められた。私はとっさに、「妹です」と明るく返答した。

 ヨシが私の父兄代理ということで、彼は父兄控室で待っていてくれた。私は面接試験会場である小さな教室へ入っていった。入るなり、ある女性教官が「きれい」と言葉を漏らした。私は自尊心をくすぐられたが、それを謙虚さに変えるべく丁寧に深くお辞儀した。

「お座りください」と、若い女性教官が促した。

「失礼致します」と、想定以上に緊張気味の私。

 私が椅子に腰かけ、きっとした眼で見回すと学校案内冊子の写真で拝見した大谷先生がインタビュアの中におられた(一昨日、実物と対面を済ませておけばよかった、と私は内心、後悔の気持ちと不安顔)。進行役の先生が口を開いた。

「あなたの健康・身体上の問題にかかわる件は、わが校の入学にとって何の支障も生じません。要は、あなたの決意と凛とした意志だと、私たちは考えております。お分かりですね。」

「はい、承知しております」と、私は正面の先生の目を見て答えた。

 その後は、通常の面接の定石通りの質問が投げかけられた。志望動機、高校生活で得たもの、部活動での実績等、そして女性としての将来像。

「ということは、大学生となられてから、学業に支障のない範囲内でモデル業を復活なさるのですか?」

「はい、オフィスの社長に言われました。高校生活は『三年間の休止』だと。さらに、『その間に、人間性と女性性を育みなさい』という訓示めいた宿題を頂きました。」

「その宿題は、出来たのですか?」

「はい、部分的にはできたと思います。しかしながら、人間性という点では……」と、私は少し間を取って、下を向いた。そのときだった。

「あなたは、恋をしていますね?」と、大谷先生の質問が私の耳をくすぐった。すぐさま、横から大谷先生の言葉を遮る声がかかった。

「大谷先生、それはセクハラ、パワハラに当たりますのでお控えください。」

「承知しております。あなたが訴えるのなら、私はそれに従います。でも、創作活動をしている人間にとって、その人の心情と表情はあなたを評価するときの対象となります。」

「先生、それも危うい発言ですので」と、さらに別の先生が止めに入った。

「私は、人間として、そして女性となったあなたに非常に興味があります。」

「先生、ご自身の興味と言われましても」と、さらにもう一人の教官も彼の質問を遮るために介入したが、大谷先生はそれを障害物とも思わず続けた。

「皆さんは、何を遠慮なさっているのですか? 本当は私よりも興味津々ではないですか? 違いますか? あなたのH高の校長先生は、あなたに愛をもって接していらっしゃる。そのことが推薦状の文面から滲み出ています。あなたは初めて素敵な環境で、皆に愛されて、美しくなってきたと思います。そして、女性らしさを増してきたと思います。プライベートで恐縮ですが、おととい、私はあなたを観察しておりました。作家の性ですかね。人間観察を生業としておりますから。お姉さんそっくりと言うと、あなたは拒絶されると思いますが、他者から見れば双子の姉妹に見えます。そのこと自体、お姉さまがあなたを愛し、あなたも少なからずお姉さまを気遣っていらっしゃる。そのお二人の姿をお店で拝見しました。真由さんが後で紹介をしてくれると言っていましたので、楽しみにしていたのですがね」と言って、大谷先生は大きな声で遠慮なく一度、声に出して笑った。

「ここだけの話にしてください。あなたとお姉さまが決定的に違う所があります。」大谷先生はそこまで言って、私の目をじっと覗かれた。

「お姉さまの瞳の輝きは、野心的な輝きで、それはあるときは透明となり、あるときはどす黒く輝くが、黒曜石のように眩しい。でも、あなたの瞳の輝きは、純粋に誰かを愛している優しいパールのような輝きを持っている。そう感じたから、あなたに『あなたは恋をしていますね?』と尋ねてしまいました。ですから、この質問こそが、全くの私の作家としての質問で、他の先生がおっしゃるように面接の場にふさわしくない、あってはいけないことだと、私自身も思っております。」

 私は、大きく頷いてから、「私は、ある男の人を愛しています」と、素直に、心の奥底から湧き出る泉のように返事をした。

「ありがとうございます。今度は、お店でのんびりとお話ししたいですね。こんな老いぼれでも良ければの話ですがね。先生方、申し訳ありませんでした」と、大谷先生はにこやかに私と軽く目を合わせてから、周囲の先生方を見回した。

 私は大谷先生のお人柄が好きになった半面、先生の人間観察の鋭さに驚いていた。真由の瞳をあのように分析した方は今までにいただろうか? 精神科医でもあのような指摘はできないのではなかろうか。大谷先生は純粋に心の中を探る手立てをどのように維持していらっしゃるのか? 私は大谷先生の鋭敏な能力に感じ入っていた。

「そうだ、高岡先生(進行役の女性教官)。もう一つ、作家としてお話ししていいですか?」

「先生、もうお時間ですけど」と、彼女は困惑した表情で話したが。

「H高の文芸部の文集『若葉』も拝読しました。お二方ほど、高校生としてはあまりにも色彩豊かで極めてエロティックな方々がいらっしゃった。とくにあの短編小説です。もしかすると私小説かもしれない。あれは純粋な心情を吐露した作品で好感が持てました。ペンネームでの掲載でしたが、あなた、ですね」と、大谷先生は確信をもって指摘した。私はコクリと頷くしかなかった。

「高岡先生、ごめんなさい。以上です。」

 私は深々と面接官の先生方に挨拶をして、教室を後にした。ヨシは父兄の待合室から姿を現して、私の方に近づいてきた。まだ、父兄控室には数人の親御さんと生徒の待機室にも四、五名の生徒が静かに順番を待つ姿があった。来春入学するであろう学校の校門で、さきに入校するとき案内をしてくれた守衛さんにお辞儀をして、私はヨシと二人きりで都会の雑多な人波に紛れ込んでいった。


 翌日は、真由、明さんも含めて、千葉にある大型アミューズメントパークへ出かけた。本来であれば、私は絶対に拒むところ。しかし、真由とヨッチャン、そして私と明さんというカップル分けが自然となされていて、お付き合いをしないと許してもらえない雰囲気が暗にあった。真由の考えるところでは、明さんの存在は私とヨシとの間に入る緩衝材・安全弁的な役回りであることは明らかだった。

「明、今日は、真実ちゃんのお守りをしてやって。」

「もちろんですよ。僕、これまでにこんな素敵な子と会ったことないんで。お姉さんも綺麗ですが。」

「おべっか言わなくてもいいわよ。明」と、真由は愛そうよく彼に返して言った。

「じゃあ、今度は、お昼にレストラン街の前で待ち合わせね」と、真由は一方的に言うと、ヨシの腕を引っ張って歩き出した。当のヨシは私に、私たちに対して手を振りながら、「またね」と言って、真由に引きずられて連れていかれた。取り残された明さんと私。。

「真実ちゃん、僕でいい?」と、優しく明さんは私に話しかけた。

「うん」と、そう返答するしかない私。

「ああ、よかった。僕、一目で真実ちゃんに釘付けになったんだ。あのホームでの出会いは僕にとって衝撃的、運命的だったよ。まだ二回しか会っていない男子にそう言われても君が困ることは分かっているけど。本当に、真実ちゃんさえ良ければ、いつでもどこでも付き合うよ」と、イケメンのくせに頬を少し赤くして少年のような面持ちで、声を高揚させながら、それでいて私の手を両の掌で包んで喋っていた。

「あ、ごめん。感情が高ぶると、とくに好きな人だと触れたくなる悪い癖が出ちゃう」と弁明しながら、明さんは私の手を解放した。私は、思った。明さんは顔立ちに似合わず、素直で純粋な表現のできる男子だと。私は彼の非礼を、首を横に振ることで許してあげた。私は明さんの左手を自分で握った。真由ではないが、私も明さんを引っ張って、真由たちとは反対方向に歩き出した。明さんは何をするにしても優しく、心配りをしてくれる人だった。レディーに対するナイトとして私を扱ってくれた(アミューズメント施設内では、私たち二人はモデル張りに目立っていたかもしれなかった)。

 待ち合わせのレストラン街の入り口へ、私たちは時間をオーバーして到着した。すでに真由とヨシはベンチに腰掛けていた。私はその二人の間に微妙な距離感があると感じていた。そう考えたくなるのは、私にとって必然ではあるけれども。

「遅いじゃない。結構待ったよ。どこでいちゃついていたのよ」と、探る真由。

 私たちは、まだ、手をつないだままだった。ヤバイ! ヨシ、これには……、と心の中でヨシに呼びかけようとしたが、ヨシは左斜め上の空に浮かぶ飛行機雲を眺めていた。私は、真由の問い掛けにすぐさま反応ができないでいたが。

「おかげさまで、真実ちゃんと楽しく過ごせました。真由ちゃんに感謝します。」

「それじゃあ、明と真実ちゃん、付き合ってみれば?」と、真由は半ばお道化ながら私たち二人をいじっているように、私には感じられた。どこかで、真由の言動を冷ややかな滑稽さを持って見ているもう一人の私がそこにいた。ヨシは私の方を見て、ウインクをした。それがどういう意味を持つかは私には理解できなかったが、現在の自分の役割を果たしている私に対する労いの象徴として、私は勝手に解釈をした。

 私は翌日、彼ら三人に見送られ、帰路についた。来春の再会を楽しみにしていると、明さんは直接私に告げた。私自身にとっては、自分にとっての困惑の種、さらに、明さんに対して曖昧な自分の態度を植え付けてしまったのではないかと、正直に反省していた。真由が仕掛けたそのトラップに私は餌として使われ、明さんがそのトラップにまんまと引っかかった小動物という構図だなと、私には苦々しく思えた。


 翌年の三月末、私はめでたく、真由との同居を始めるために上京した。とうとう実家は母の独り暮らしとなった。

 私が東京に着くと、その夜はママのお店で私の入学祝と称して、私の全く知らない多くの方々も交えて、しかし、その中にはあの大谷先生がいたのは確かだが、どんちゃん騒ぎが始まった。今回も、誰彼となく声をかけられ、私はまたしても姉真由に間違われることが多かった。絶対的に私たち姉妹を取り違えないのはママとマスター、そしてヨシぐらい。その日、真由はお店の制服を着ていた。私は、当日にママからプレゼントとして贈られた白地に胸から腰に掛けて大きなローズの花が刺繍されたサイドスリットのワンピースを着せられた(ちょっと、キャバ嬢みたい?)。ママはよく似合う、本当に色っぽくなったと言って非常に喜んでくれていた。

「あなたは派手な色やデザインも着こなせるよ。やっぱり、真理子譲りのモデル業が天職かもね」と、ご満悦のママ。

 ヨシは宴会が始まる前に静かに近寄ってきて、「真実、セクシー過ぎる。すぐに食べたいくらい」と、男の色気と甘い言葉をかけてきた。私は、「これからヨシと一緒だね」と、一言かけただけ。お互いにその場ではそのわずかな会話だけしかなかった。そこへ明さんも遅れてやって来た。

 その会(私はご立腹です。誰のための歓迎会だったのか?)がお開きになり、その夜遅くに私たちのマンションにヨシと明さんがやって来た。明さん、ヨシが「飲み直しだ」と宣言した。真由とヨシが近くのコンビニへ買い物に行くことになった。私と明さんが部屋に残されることになった。私は恥ずかしかった。というもの、ママに贈られた派手なワンピを会が終了してからカジュアルなティアードワンピに着替え、そのついでにママにクレンジングや洗顔用の品を借りて、すでに素顔に戻っていたからだ。もう後は寝るだけと私自身は決めていたのに。素顔そのものは家族とヨシに見られるのはいいが、その他の人に見られるのは非常に抵抗感があった。

「真実ちゃん、入学おめでとう。個人的に、お店で伝え損ねたから」と、明さんが優しい低音ボイスで語りかけてきた。

「ありがとうございます」と、はにかみ顔を見せないように俯く私。

「真実ちゃんさえ良ければ、僕と正式に付き合ってくれる?」と、明さんの、男子の真剣な表情が私を見詰めていた。私は、私の心の中に僅かのブレを感じた。「いけない!」と、心がそれを咎めて、ひどく叫んだ。

「ごめんなさい、明さん。私、好きな人がいるの」と、素直に白状した。私にとって、これが今の私にできる精一杯の相手に対する思いやりだと判断した結果だった。私は明さんの右頬に軽くキスをすると、ダイニングから自分の部屋に移った。「ごめんなさい」と、心の中の私が再び明さんに謝っていた。たぶん、明さんは私の身体のことについてはあの二人から知らされていないはず。

 私は部屋の中からヨシにラインした。

「ヨシ。明さんとは何もないよ。ヨシだけだよ。気まずくなったから部屋にいるの。」

すぐに、ヨシからの返信が届いた。「愛している」と。私は急に不安に駆られて、「ヨシ、真由とやってないよね???」と、送信した。すぐさまの返信。

「やってない。真実だけだよ」と。


 入学式も終わり、履修科目と単位登録計画に頭を悩ませている私が図書館にいた。館内を入って直ぐ脇に円形のテーブルを置いたラウンジがあり、次の時間までのつなぎのつもりでその一角に私は腰を下ろしていた。静かな空間で、じっくりと今後の学生生活をどのように有意義なものにするか思案していた。すると、図書館の玄関ホール内にヒールの音を響かせて近づいてくる女がいた。私はそちらに視線をもっていかなかった。私は思っていた。ヒールというものは女性の自負のシンボルである。それも強烈にカツカツといわせる女は、自己顕示欲が強く、我が儘な女が多いという偏見を持っていた。ろくな女じゃない。自分がこの世で一番綺麗、かわいい、もてると思っている女。自己陶酔の世界で生きている女。それがヒール女への私の心の回答であった。大学生活、とくに構内では地味にいくと私は決めていた。今日、トップスはカーキーのVネックニットに白いスキニーパンツ、履物はブルーのスニーカーであり、私自身は完全にみんなのカレッジ・ファッションに溶け込んでいると思っていた。

 赤いヒールが私のテーブルの前で止まった。私はイヤイヤ頭を擡げた。その自己顕示欲が強く、綺麗で、かわいい、自分がこの世で一番もてると勘違いをしている女の顔を拝んでやるために、嫌みっぽく凝視してやろうと、私は顔を上げていった。女はその通りの女だった。ピンクのツーピースを颯爽と纏っていた。

「真実、M&M、復活よ!」

 それはニューヨーク帰りの麻耶だった。

「マ、ヤー!」と、私は、図書館の静寂な大気を思いっきりひとりで破った。

「なぜ、麻耶、ここにいるの?」

「私、帰国子女枠でG女学院大学国際コミュニケーション学部の、れっきとした新入生だよ。」

「何でそんな重大なことを知らせなかったんだようー。」

「私、真由ネエにちゃんと真っ先に連絡したよ。」

 そこへ真由が、カチンコの音とともに登場したようだった。

「あなたたちね、私よりも百倍、目立つからね。放っておいたの。あなたたちは磁石のN極とS極のようなものだからね。」

 そのときの真由は、私たちを優しい長女のまなざしで観音様のように慈悲深く眺めていたように思う。

 私たち、つまり麻耶と真実の業界復帰は、TJを卒業してT(ティーンズ:TJのお姉さん的ファッション雑誌)の夏号―M&M復活企画―からスタートした。私たちは箱根への撮影に出かけて行った。私たちは撮影の宿でお互いのボディを見比べた。私は麻耶のボディは熟したと心底感じ入った。一方、麻耶は私のボディをじっと見て、とくに胸を見て、「少しは育ったなあ」と感慨深く言うと、それに触りたくて手を出してきた。外は夕刻から雨模様だったが、二人で一日の撮影の疲れをとるために露天風呂に浸かった。雨粒がポタポタ降ってきて、湯面に輪を作りながら溶け合っていった。私たちはその空間に身を委ね、ずっと私は麻耶とその光景を眺めていた。

 それからは、私は中学校のときと同様に、モデル業を麻耶と共に過ごす日々が多くなった。大学生活でも、単位登録を計算するなど時間の無駄と言い放つ麻耶に代わって、私が計画した時間割で、多くの科目で同じ講義を取る羽目になった。

 

私は、ママのふくよかで柔らかい胸の中で号泣していた。

私は真由という姉を失った。ママは真由という姪を亡くした。ママは私にとって母のすぐ下の妹(次女)の真衣子、東京在住の叔母である。私は昨年の春、関東近隣の田舎街から大学進学で上京してきた。そのときから姉で一歳上である真由と同居を始めて二年目、今年の夏も終わろうとした頃、真由と幼馴染のヨッチャン(良夫)が、あおり運転に端を発した多重事故に巻き込まれて、彼の車の助手席に同乗していた姉だけがこの世を去った。


 その出来事のあった日、私は学校の後期日程に合わせて、姉カップルより先に東京のマンションに戻って寛いでいた。夏はいつもオーバーサイズのTシャツを羽織り、ハーフショーツで室内では過ごしていた。もうすぐ真由とヨッチャンが彼の車でこの部屋に戻ってくるはずだった。携帯の着信音が鳴った。居間のテーブルで彼らの帰りが待ちきれず、先に缶ビールのプルを開けて口を付けようとしたところだった。

「真実ちゃん、真里子だけど……。」

「お母さん、どうしたの?」

 母の声が、しばらく受話器から聞こえてこなかった。私はスマホに耳を密着させた。

「今、警察から電話があったの。真実の家から横浜は近いでしょ。」

「お母さん、何かあったの?」

 母は次のように私に出来事を告げた。

「ヨッチャンの車、事故に巻き込まれたみたい……。二人とも横浜のC病院に運ばれたって……。真衣子にも電話するね」と、母は言うと一方的に電話を切った。

 さっき、真由からのラインで「もうすぐ横浜に入るね。小田原で蒲鉾とわさび漬けを買ったから、三人で後期スタートを祝おう!」と受け取ったばかりだった。どれだけ時間が経過したのか分からなかったが、次に私が受け取った電話はママからであった。

「真実ちゃん、これからアンタを拾って、病院に行くよ。」

「はい……」と答えて、私はスキニージーンズに足を通すと、小さなバックを抱えて、サンダルを突っ掛けると転ぶように階段を下りて行った。通常階のエレベーターを待ってはいられなかった。私は気持ちばかりが身体よりも前のめりになっていた。マンションの玄関を出ると、すぐにマスターの赤い外車が滑り込んできた。

 ママは、窓から首を出すと「早くお乗り!」と、勢い一声を発して私の次の行動を促した。私は倒れ込むように後部座席へ自らの身を投げた。エンジン音を轟かせて、素早く車は走り出した。頭上の空は暗い雲に覆われ始めていた。いつ雨が降り出してもおかしくない空模様になった。

「バイ、バイ。」

小さいが、はっきりと私の耳に聞こえてきた。私は自分の耳を疑った。

「真実、バイバイ。」

今度は、自分の名を呼ぶ声がして、その後「バイバイ」が心許なく消えていった。私は下唇を強く噛んだ。それは自分の嗚咽を最大限押さえたかったからだ。私の瞳からは熱い涙が溢れてきた。私は確信した。真由がこの世からいなくなったことを。どこにあるかわからない天国に召されたのだ、ということを。後部座席のシートの上に、ぽたぽたと涙粒が幾度となく落ちていった。

「どうしたの? 真実。」

心配で、真剣なママの呼びかけにも私は答えることはもはやできなかった。真由の姿が涙のスクリーンに最初はっきりと映り、次第に陽炎のように揺れながら消えていった。その光景を鮮明に私は映像として直視した。今度は、押さえられず声を挙げた。

「あー、あー、あ、あ、あーん……。」

「真実、大丈夫? 正気?」ママは、気丈に声をかけて伸ばした手で私の肩を強く揺らした。

 病院の受付でマスターがICUの病室を聞き出し、三人は転げるようにその扉の前までたどり着いた。この事故関係者と思われる人々がそれぞれの偶発的悲劇を飲み込めずに固まっている様がその場の空気を覆っていた。ママは、医師と思われる白衣の人物を呼び止め、真由の居所を尋ねているようだ。私は立っていられない状態で肩をマスターに抱きかかえられるようにして立ち尽くしていた。まだ、多くの救急患者たちが運ばれて来るようだった。

「こっち、こっち!」とママが手を振りながら大きなジェスチャーをして叫んだ。その声のほうへ私を抱えたマスターが歩み始めた。病室の方々で懸命に蘇生術を続ける医師と看護師たちの姿が否応なく私の揺れる瞳のヴィジョンに飛び込んできた。

「真由!」というママの大きな呼びかけで、私は少し正気を取り戻し、自分の足で姉が横たわっていると思われるベッドへ近づいて行った。真由と思われる人物に蘇生術が懸命に施されていたが、突然、医師の手がそのときピタリと止まった。私は姉を認識し、その目前の事態を否定したかった。私は真由の血の付いた右手を握りしめ、号泣し始めた。止めどない悲しみは私の心の堤をはるかに越える津波となって押し寄せてきた。もう誰の声も私の耳には届かなかった。私が次に自分の居場所を認めたとき、薄暗くなった待合室の長椅子の上だった。私の涙は涸れたわけではなく、頬を止めどなく伝わり、その涙を拭う優しい掌の存在を知った。傍らには母が座っていた。私は母の胸に頭をもたれていた。私の頭を包み込むように母は優しく抱き寄せる力を強めた。「いつの間に、お母さんは来たのだろう?」とそこだけ私の頭の冷たくなった芯が考えた。「私より産みの親であるお母さんの方がもっと辛く悲しいにちがいない」と静かに思った。「真実」とつぶやくような母の愛情深い声を耳にした。私は自分の喉の奥から言葉が出てこなかった。また、大粒の涙を母の胸の中で流し始めた。


 棺桶の中の真由は綺麗なお化粧を施されていた。幸いにして彼女の顔は目立った傷もなく、いつもの真由の美しさが息をしなくなったことを除けば、姉らしいプライドの高い彼女の少々お澄ましをしたときの表情に私には見えた。

 突然の出来事とはいえ、真由のお通夜に多くの友人たちが訪れた。その大勢の訪問者の気配を私は肌で感じ取っていた。時折、母が真由の棺のそばから離れない私に声をかけてきた。

「真実、おケイちゃんが来たわよ。」

真実はゆっくりと振り返った。彼女は高校のときの同級生で、私の親友といってもいい女子なのだ。

「真実。真由ちゃん綺麗よ。」

「うん……。」

 おケイちゃんの声が私の鼓膜に届くや否や、私はおケイちゃんに強く抱きついた。おケイちゃんの豊かな暖かい身体の温もりが、食べ物をろくに口にしていない私を優しく包んでくれた。おケイちゃんは私の様子を察して、それ以上の言葉を続けなかった。おケイちゃんは姉である真由のことを話題にしたその頃の私を覚えていた。おケイちゃんはこの姉妹の間にある深い紐帯がとてつもなく頑強・強固なもの、他の姉妹関係とは異質であることをよく知っていた。私はもっと、もっと悲しみの深海へ……。さらに海溝の底部に沈み込んでいきたかった。しかし、訪れてくる真由の友人や真実を知っている人たちは必ずといっていいほど優しく、そして強く私をハグしてくれた。彼らの身体の中に真由のハグを見つけたからだった。私の涙は涸れることはないが、次第に透明な涙となって心の中に伝い、少しずつではあるが悲しみの深部に浸透していった。

 翌日、告別式場の控室に、私は黒いワンピースを着て、真珠のネックレスも身に付けて入っていった。耳朶の大粒の真珠のイヤリングは真由が買ってくれたものだ。この真珠は姉が三重県に劇団員として参加した初めての出演料で購入したものだった。そのとき真由は、「人生何が起こるかわからないよ。いつか真実が使う日のためにあげる」と、告げた。貰った時、真実はどういう意味か分かる訳もなかった。

「このようなときのために使うの?」

姉の死顔を見ているうちにそう感じ、小さく呟いた。真由に自分の気持ちを表すにはそれが一番伝わるのではないかと考えたからだ。「似合っているよ」と、真由の声がしたように思われた。振り向くと、そこには真由の高校生時代の姿があった。その声の主は、叔母真由美の娘、つまり真実の従妹の真奈であった。真奈は今年、姉真由が通っていた地元のS女子高へ入学していた。真実にとっては見慣れた制服。チェックの青と緑のミニスカート、ブラウンのブレザー、白いブラウスの胸には赤いリボンがさり気なく付いている。真由と私は、高校は別々になったが、私自身も真由から譲ってもらい、友人の家に行くときに着て行ったくらいお気に入りの制服であった。

「真奈ちゃん、来てくれてありがとう。高校のときの真由を思い出しちゃった。」

「ごめんなさい。制服で来たらいけなかった?」

「ううん。今の真奈ちゃんの髪型、高校に入ったばかりのときの真由と同じ。」

 真奈は肩まで伸びた髪を後ろで一つに結わえていた。私の顔がくしゃくしゃになっていったように思う。私は急にその場にしゃがみ込んだ。顔を両腕の中に入れた。その次の瞬間に、私は自分の上に何かが覆いかぶさってきた重みを感じた。

「真実ちゃん、私、真由ネエの代わりに守ってあげる。」

 頭の上から、真奈の言葉が続いてきた。

「真由ネエはいつも言っていたの。『真実ちゃんをちゃんと見ていてね』って。自分が真実ちゃんから離れるときは必ず、年下の私にきつく言ったんだよ。私は、何か変だなって、いつも思いながら、『了解』って、真由ネエに返事していたもの。変だよね、よく考えてみれば。真実は私より年上なのにね。でもね、私、思ったの。真実のこと真由ネエはすごく好きで、大好きで、愛していて……。」

真奈の言葉がそこで消えていき、真奈のすすり泣く声が私の耳に届いてきた。二人は屈みこんだまま、お互いの背中に腕を伸ばして抱き合い、同じように涙をこぼしていた。

「真奈ちゃん、ありがとう。ありがとう。ありがとう。」

ただそれだけ真実は繰り返すと、また、声を上げて大粒の涙を溢していた。真実にとっては血の通った姉であり、真奈にとっても一時期一緒に暮らしていた仲で、自分達の中の一番のお姉さんが真由であった。真奈も本当の姉のように真由を慕っていたから、二人の悲しみはもしかすると同じくらいの深さを持っているのかもしれなかった。 

 しばらくすると、多くの親族が控室に集まってきた。式の前、私はお化粧を直すため、化粧室の鏡に自分の姿を映したその時だった。自分の顔を映したはずなのに、そこには真由の笑顔が映っていた。鏡の中の真由は唇を静かに動かした。

「真実、大丈夫だよ。」

その一言を呟いて、私の顔が鏡に映し出された。私は「真由!」と叫んだが、もう、真由の顔はそこには無かった。

 控室に戻って扉を開けた時、真実の母がある男性と話をしている情景が目に入ってきた。母がこちらをチラッと見たのが分かった。それから自分の大きなバッグにポーチをしまおうと私が歩み出したとき、母が男性の肩越しに、おいでおいでをするように手を動かした。私は母の許にゆっくりした動作だが、小走りで駆け出していた。すでに私にはその男性が自分の父親である孝夫であることは、男性の白髪混じりの短髪の後ろ姿で認めていた。

「パパ、来てくれたんだ。」

「当たり前じぁないか。可愛い娘に会いに来ない親はいない。」

「真由も喜んでいるよ。」

「うん……。」

パパの声は少し小さくなった。その弱気を隠すようにパパは私に声をかけた。

「真実、一段と奇麗になったね。今の大学生活はどう?」

「とっても素敵。だって、真由と一緒に暮らしていたから。でも……。」

この先の言葉は声帯を動かそうにも、もう喉から声が出なかった。

「いいよ。真実。」

パパはそっと片手を私の背中に回し、私の頬にキスをした。母はパパの反対側から腕を私に絡めてきて、三人は一つになって告別式の会場へゆっくりと歩み出した。

 母の実家の宗派に従って、告別式は執り行われていった。読経とともに真実の眼にはまた涙が浮かび、ゆらゆらと浮かぶ情景だけが過ぎ行く時間の中を過ぎていった。自分の焼香の順番が終わって振り返ると、参列者の姿が多いのに驚くとともに、その中にT大学で良夫の友人である明の姿も私は見つけた。良夫は入院にいるのでここに来ることはできなかった。まだ、麻耶が来ていない、と私は心の片隅で寂しく呟く自分に気付いた。真由の棺は霊柩車に乗せられ、家族はマイクロバスに便乗し、細い田舎町の間を縫って火葬場へ向かった。母もパパも沈黙した中で、私は真由の好きだった歌を声に出るか出ない程度の息を吐きながら口ずさみ始めた。山下達郎の「希望という名の光」だ。そのアーティストは母がよく聞いていたシティーポップの有名なミュージシャンだ。母はそれを聴くと辛い時もすぐに元気になれるとよく言っていたので、たぶん、真由もその影響を受けて、しばしば自分の部屋で彼のアルバム曲を流したしていたのを私はよく覚えている。真由と共同生活をこれまでしてきた証として、唯一、姉に感化されたものであったと思っている。

「……命を削りながら、歩き続けるあなたは自由という名の風、……運命に負けないで、たった一度だけの人生を……」

真実につられるように母も小声で口ずさみ出した。パパは黙ったままそれを聞いていた。パパはブルーのハンカチをズボンのポッケから出して、目頭を押さえていた。

 母とパパはどうして離婚したのかを私は真剣に考えたことがなかった。今もお互いに好き同士であることに変わりはない。私は母にその疑問をぶつけたことはなかった。でも、真由に尋ねたことはあった。離婚自体は姉妹が幼少の頃であるから、もう約一七年が経とうとしていた。真由は「大人の男女の事情だよ」としか答えてくれない。真実自身はパパと一年に一度クリスマスから新年を数日間か過ごすものと、物心ついたときから思っていたので、一般家庭でいつも父親が家庭にいることの方が、最初は不思議に思っていた。パパは、現在、アメリカの通信社のロンドン支局副部長をしていた。日本にいることが稀だった。

 火葬場の玄関アプローチにその車は静かに滑り込んだ。真由の眠る棺もゆっくりと車の後部から降ろされ、指定された焼却炉への順番を待った。家族は火葬場の控室へ無言で向かった。そのとき、麻耶の声がした。

「真実、マミー。間に合ったかな?」

 私の家族の後方から抑えたトーンで名前を呼ぶ声がした。麻耶はタクシーを慌てて降りて、廊下を移動する私たちの姿を見かけたようだった。

「マヤァー」と、私はその場の空気に相応しくないくらいの大きな声を出した。その場にいる多くの家族・親族の様々な事情を抱えているすべての顔という顔が二人の動きに注がれた。二人は、欧米人のように軽くいつものように口づけを交わすと、ハグをした。多くの人々の視線はまだ、彼女たちへ注がれたままだった。それもそのばずで、麻耶は世間では有名人なのだ。真実は麻耶とは中学校時代からの付き合いだ。中学一年の最初に、麻耶が真実に声をかけたのが二人の関係の始まりで、麻耶はキッズモデル(少女向けファッション雑誌TJ:テーンズジュニア)をしていた(真実も麻耶に誘われてモデルをすることに後になったのだが)。途中高校三年間は、麻耶はアメリカのニューヨークで過ごした後、二年前に帰国し、国内でのモデル・芸能活動を再開していた。その影響で、真実も麻耶とともにモデル業を復活することになった。

「真由に会えるよね?」

会えなかったら殺してやるというくらいの凄味を持った黒い瞳を彼女は私に突き刺した。

「最後のお別れに間に合ってよかった。真由も喜ぶよ。」

私と麻耶は真理子に促されて、控室のドアを開けて、その場のソファーに腰掛けた。麻耶の眼が潤んでいるのは私に分かったし、麻耶も私の瞳から一滴の涙か頬に流れ、次の雫が落ちるのを見ていたみたい。二人は黙ったまま、火葬場の順番を告げるアナウンスまで何も言葉を発しなかった。ただ、お互いに両手を強く握ったままじっとその時を待っていた。麻耶は珍しく生意気な言動を私にぶつけることはなかった。麻耶は相当に弱っている、と私は感じ取っていた。もしかすると私以上に麻耶の悲しみも深いかもしれないと、私は珍しく他者を思いやっている?

「立石様、二番会場へお越しください」と、場内専用のアナウンスがあった。

 立石家と麻耶は最後の真由へのお別れをするために重い腰を控室のソファーから離した。近いはずの、真由が待っている部屋まで、廊下はそう長くないはずなのに私にはいやに遠く感じられた。

「それでは、最後のお別れをしてください。」火葬場の制服を着た職員は機械的に真実たちを急き立て、次の業務へと促した。

 母真理子が優しく「真由……、」と声をかけた。パパが「マユ」と続いた。私は黙ったまま、お棺の覗き窓から見える真由の顔をしばらく見詰めた。私は言葉をかけることが出来なかった。その後、麻耶が真由を見たと思った瞬間に、彼女は号泣して棺を抱え込むようにして、倒れる自分の身体を棺が支える格好になった。

「真由ネエ……。真由。行っちゃ駄目だよ。駄目だよ……。あーーん……。」

 麻耶の言葉はその後、何を言わんとしたか私には皆目見当もつかなかった。私は摩耶を棺から離そうと彼女の肩を掴んだが、彼女の身体は離れなかった。それを見かねたのかパパが麻耶を抱きかかえるように真由の眠る棺から剥すようにした。職員はあくまで事務的に次の工程へ事を運ぼうとしていた。棺は火葬窯の中へ音もなくスライドして入っていった。彼は次の言葉を放った。

「それでは、このボタンを代表の方、押してください。」

 母は、職員に一礼すると、お釜の点火ボタンに手をかけた。私は思った。これで真由の体はこの世の中から消えていくのだと。その感覚は今まで想像したことのない乾き切ったサバンナの風が、自分の心の荒野をすっと過ぎていく感覚だった。同じ風に身体を押されたのか、麻耶が私に凭れかかってきた。

「真実、真由ネエが行っちゃうよ。天国へ行っちゃうよ。」

「うん。」

私は強く確信した返事を麻耶に返した。私自身はこのとき泣かなかった。泣く涙が、もしかするともう枯渇しているのかもしれない、と少し考えたが違っていることにすぐに気づいた。麻耶が泣いている、何とか麻耶を支えなくては、という気持ちが自分自身を少し強くしていた。麻耶はまだ、悲しみを自分の中で昇華していないのだと、私は感じていた。

 人間の身体が灰になるまで時間がかかることを私はこのとき初めて知った。次の場内でのアナウンスは、「立石さま、二番会場へお越しください」というやはり素っ気ない乾いた声の主のものだった。そのように私には聞こえた。ひとりの最愛の姉が死んで、今、あなたたちに燃やされて骨と灰になってしまったのに……、と少しばかり憤りの感情を抱きながら、麻耶の肩を抱いて最後の儀式―骨を拾う作業―へ向かっていった。真由は透明になった、と思いたかった。骨など所詮、肉体を支えている骨格に過ぎないのだから。真由はそれでも私たちに寄り添っていてくれる、真由はこの私たちの物理的世界で、この人間の見る可視的世界で見えないだけだ。ある特殊な眼鏡をかければ、いつでも真由を見つけることができるのだと。そんなことばかりを考えていた。私は真由のお骨を見た。私は母とパパを見た。麻耶が覚悟を決めた眼を私に向けてから、現実の瞬間を見た。小さな骨壺に仕舞われていく真由の灰白色の断片の数々。


 私は立石家の玄関扉を開けて、白い円筒形の壺に納まってしまった真由を家へ連れて帰った。麻耶はそのまま私たちから離れなかった。

「麻耶ちゃん、お母さんに連絡した?」と真実の母が尋ねた。

「はい」と、麻耶は言うと、母に深々と頭を下げた。

「そうね。あなたも日頃忙しいから、今夜は真実とゆっくり過ごしなさい。」

「ありがとうございます」と麻耶は言うと、実家の真実の部屋のある二階へと二人は重い足を運びながら上がっていった。 

 二人はフォーマルからカジュアルに着替えたが、お互いの心はそう簡単に深層海から浮上できるものではなかった。

「ねえ、真実。あんたとフォーマルワンピのデザインとアクセサリーがもろ被っていたんだけど。」

「えっ?」と、思いがけない問いに戸惑う私。

「そんなことはどうでもいいか。ごめん。」と言って、麻耶は私に笑ってみせた。やっと、麻耶の強気を前面に出そうとする彼女が僅かだけれど戻ってきた。否、麻耶はただ単に強がって見せているような気が私にはしていた。

「真由、隣の部屋にいるよね」と麻耶が私に声をかけたとき、隣の部屋からガタガタ、ガタと大きな物音がした。二人は驚いて、麻耶が赤で、私が藍色のAラインワンピ(麻耶は着替えを持ってこなかったので、自分のものを彼女に貸した)を翻して、部屋を飛び出した。真由の部屋の押し入れから雪崩出てきた彼女の高校時代の舞台衣装や小道具の数々が、母に覆い被さっていた。

「お母さん、何やっているの?」

「真由のために、真由が頑張った品物を納骨まで、彼女の脇に置いといてあげたくてね」と母はにこやかに口にした。母はずっとパパと別れてから、いや違う、と私は思い返した。私が物心ついたときには、もうパパは日常的には家にいなかった。だから、私が母と父の離婚を正式に知ったのは遥か後になってからだった。母は、もしかするとずっと独りだったかもしれない。お母さんにとって真由はとっても頼りになる愛娘であったはずだ。私なんかのような末っ子の出来損ないとは違う、それだけの存在感があったのが真由だったのだ、と真実は十分すぎるほど、痛いほど分かっていた。

「お母さん、私、手伝おうか?」

「いいよ。ゆっくりやるよ。麻耶ちゃんとお話しが一杯あるでしょう」と言うと、真理子はにこやかな表情を彼女たちに向けた。

「そうそう、真子に素敵な供花をいただいたから、お礼を直接言っておかなくては失礼にあたるわね。思い出してよかった。」

「マコ?」

私は聞き返そうとしたが、葬儀のときの母の凛とした顔からは想像もできない寂しそうな疲れた様子が窺われた。マコって、聞いたことのある名前。

 麻耶と私は部屋に戻り、並んでベッドに腰掛けた。麻耶が唇を寄せてきた。私もそれを迎え入れた。二人は唇を合わせると同時に涙を流していた。二人はティッシュボックスからティッシュペーパーを何枚か取り出すと、お互いの泣き虫ほっぺを拭った。

「私、真実に黙っていたことがある」と、麻耶が唐突に切り出した。

「何?」

「何って、そんなに見詰めないでよ。真由に見詰められているみたで、怖い。」

「摩耶、真由に見詰められたことあるんだ?」と、私はちょっと驚いた。

「これ、見る?」

「見るって?」

 麻耶が差し出したのは、一枚にまとめられた来月からの一か月の仕事スケジュールだった。

「これ、あなたのスケジュール?」

「違うの。あなたの仕事のスケジュール。」

「えっ」と、私は状況が全く飲み込めずに、その紙片と麻耶の顔を交互に見た。

「これは、真由に渡すはずだったあなたの仕事のスケジュール表。」

「私、あなたからこんなの貰ったことないよね。」

「上げたことないよ。でも真由には上げていたの。」

「どうして、私の仕事のスケジュールが私ではなくて、真由のところへいくの?」

 全く私は状況が飲み込めずにいたが、麻耶がそれを説明し始めた。

 麻耶は気まぐれに私(彼女と同じ事務所の専属モデルだが)を誘い、私は自分ができる範囲内で麻耶の仕事のお手伝いをしていたように思っていた。また、麻耶から(本来は、オフィスから)の仕事依頼自体、規則性があまりないように私は実感していたからだ。しかし、全ての仕事は予め決められたものであったという(冷静に考えれば、仕事とは予定ありきのはず)。真由が私の予定を把握し、彼女たちの仕事の日程を全て仕切っていたのである。麻耶は自分がアメリカから帰国したとき、すぐに真由と会った。なぜなら、麻耶が自分たちと同じG女学院大学に入学し、必然的に私と会うことは分かっていたからだ。中学のときのある出来事の経緯から、真由は麻耶を信頼し、私のために、これまで通りそばにいてくれと麻耶に懇願したらしい。さらに、真由はあなたたちの関係は昔から知っているから心配はしない旨も。でも、将来の私がとても心配だと彼女はいつも漏らしていた、らしい。

「麻耶、私そんなに頼りない?」

私は眉をひそめて、麻耶の顔を覗き込むように尋ねた。

「ううん。もう心配いらないと思う。真実は私がいなかった高校時代にすごく強く、素敵になったと思う。だから、今の真実がいると思うし、あなたが私を支えてくれている、と思う。もしかすると、もう、私がいなくても、私があなたに寄り添わなくても、きっと真実は自分で自分の道を切り開くと思う。」

麻耶は、泣いていた。しゃべりながら鼻をクンクン鳴らしながら泣いていた。なぜ、麻耶は泣いているの、と私は聞こうとした。

「真実、泣いていい? あなたの胸で泣いていい?」

「うん、いいよ」と私は言うと、麻耶の方に向き直して、マリア様の像のように両手を開いて見せた。たぶん、私はこんなふうに人を抱き入れたことはないと、これまでの経験を振り返っていた。自分はいつも弱い存在であった。庇護される存在であった。誰かからは疎まれる存在であった。もしかすると存在自体が抹消されなければならないような姿であったと。一方で、真由がいかにこれまで私のことを心配し、守ってきたかが痛いほど分かったような気がした。私なら、絶対にできないこと。真由のどこか完璧主義で、意志を貫く強靭さが彼女をここまで引っ張ってきたんだ。私なら絶対に不可能なこと。私は、真由を見ていたのに、真由の真似をしていたのに、いつか真由みたいな女になりたいと思っていたのに。真由の自分への配慮がこんなにまで細やかで、疎ましく思われたのはこれが初めてではないかと、私は麻耶の手入れのいき届いた、さらりとして光沢のある黒髪を幾度も撫でながら思った。

「真実、真由はあなたをとっても愛していたよ。」

「うん、良く分かっている。でも……、」真実は言い淀んだ。今は少し複雑な気分でいた。突然、真由のためにもう金輪際泣いてやるものか、と私はふっと思った。

 翌日、麻耶は「スケジュールは気にしないで」と、行った後、「あー、これで私ももしかして自由の身になったてわけ、かな」と付け加えた。麻耶はにっこり微笑んで、「また、東京で会おう。少しお休みして一緒に仕事と勉強しようね」と、私のお気に入りのピンク色のVネックカットソーと紺色のタイトレーススカートを彼女は拝借して去っていった。


 私は真由の初七日までは、母と一緒に過ごそうと決めていた。

「お母さん……、寂しいね。」

「何言っているの。真由はいつもそばにいるから、寂しくなんてないわよ。私は、あなたのことがとても心配。だって、いつも真由はあなたのこと気にしていたもの。東京に帰って独りでやっていける?」

「うん、大丈夫。たぶん……、」と私は言った後で、東京のマンションの部屋を思い浮かべた。二DKの間取りで、それぞれに部屋を持っている。いつも私より早く起きて真由は朝食を用意していた。「今日は、目玉焼き失敗しちゃった。だから、スクランブルエッグ」と言ってみたり、「今日は、和食の気分よね。」と言って、朝からすき焼き風の鍋を作ってみたりと、いつも真由は実験的な食事を私の前に並べていた。その朝のダイニングの温かい時の流れと姉の愛の香りが途絶えてしまったのかと想像すると、私は突然、深い谷底に突き落とされていく恐怖を想像した。

「お母さん、私……、無理かも……。」

 母はテーブルの向かいに座っている私の両手を自分の両の掌で包んだ。

「うん、分かるよ。痛いほど分かるよ」と母は言いながら、今度は強く私の両手を自分の両手の中に収めた。私の頬には、再び、大粒の涙の雫が伝い始めた。

「私」と言った後は、言葉が喉から先には出てこなかった。私は思っていた。私は、お母さんといつもちゃんと会話をした記憶がない。いつも私と母の間に真由が立っていて、お互いの言葉の足りないところを姉が補っていたのではないかと。真由がいて、私は初めて母と意思疎通ができていたのではないかと。私は自分の思いを母に伝えたかった。でも、私自身の感情は高ぶっていて、歪んだテーブルの上の自分の涙の行方を追うだけで、言葉が口から出てこなかった。

「真実、お母さんはあなたが大好き」と母は言うと、いつの間にか私の後ろに回って、背後から羽毛の柔らかさを持って抱きしめていた。

「本当に、子供の頃から忙しくて二人をほったらかしにしていたね。悪い母親だね。躾に厳しくて怖い母親だったね。でも、お母さんは二人には素敵な女性になってもらいたかっただけなの。」

私は自分の頭皮に母の熱い涙が伝っているのを感じた。お母さんもとても辛いのだと、肌で母の悲しみを感じ取っていた。

 その日の夕食時に、私は母に今後のことを尋ねた。

「お母さん、これからどうするの?」

「どうするの?って。これからも変わらないよ。」

「変わらないって?」

「そう、だってあなたたち二人が上京してから、私はこの家で一人暮らしをしていたのだから。それにグランパから引き継いだ仕事はいつもの通りやっていかなくちゃ。グランマのこともあるしね。寂しくなったら東京の仕事の折に顔を見に行くわ。」

「そうだよね。」

「そういうこと。」

 母は真由と私がまだ幼少の頃、急死したグランパの不動産業を継ぐために宅建の資格を得て、急遽、立石不動産の取締役となった。会社はこの家から車で二十分のところにあり、その五階建ての自社ビルディングにオフィスがあった。グランマはその建物の最上階に居を構えていた。ほぼ毎日、母が祖母の様子を見に行っていた。私はグランマがとても優しくて、大好きだった。でも、今回の真由の葬儀には体調を崩して参列できなかった。

「明日にでも、グランマのところに遊びに行ってもいい?」

「もちろん」と、母は即答した。母の嬉しそうな微笑みが私の心に染み入ってきた。


 その次の日は残暑のぶり返した一日だった。朝から強い日差しが差し込む玄関で母が出社するのを見送ってから、私は二階の自室でやることもなく、ぼうーっとしていた。母と一緒に朝食を終えた後、もう一度、小々重い気だるい体をベッドに横たえた。どれくらいの時間が経ったかわからなかったが、真由の声で目を覚ました。

「真実、お客さんだよ。私、今、出られないの」と、はっきりと真由だと分かる声だった。私は反射的に「はい」と返事をして、キャミの上に近くに転がっていたコットンのロゴTシャツを被って玄関に急いだ。階下への階段をトントンと下った。玄関のドアを開けると、そこには良夫のお母さんが立っていた。彼女の顔は看病疲れか、ひどく頬がこけた様に見えた。

「あっ、真由ちゃん……」と言って、良夫のお母さんは絶句した。彼女は真実の着ているTシャツを凝視していた。そのTシャツには、次のようなロゴがプリントされていた。「ジャンヌ・ダルク(次案怠子)女子高を救う」と。Tシャツの胸元を見て、私はハッとした。これは、真由が高校二年の文化祭の芝居で上演した真由本人のオリジナル脚本であり、彼女自身が主役を務めて、最終的に全国高校演劇祭で優秀賞を獲得したときのスタッフ記念のTシャツであった。

「真実ちゃん、御免なさい。真由ちゃんが亡くなって……。」

「小母さま、ヨッチャンのせいじゃないんだから。」

「でも、ちゃんとハンドルを握っていれば、こんなことにはならなかったはずよ。」

「小母さま、それは違う。」

「御免なさい。あなたのお母様にはお電話をしておいたけど、もう出かけられた?」

「はい、母はさっき会社の方に向かいました。」

「お線香を上げさせてちょうだい。」

そう言うと、良夫のお母さんは靴をゆっくりとした動作で脱ぎ、居間にある仏壇に歩み寄った。小母さまの眼はすまなさそうに潤んでいた。線香の香りが再び辺りを包んだ。さっきも母が上げたらしくその残り香に重なっていった。

「真実ちゃんは、やっぱりお姉さんによく似ているわ。姉妹だものね。あなたも聞いていたわよね。あの二人は大学を卒業したら一緒になるって言ってたこと。」

「ええ、聞いていました。」

私は自分の表情を相手に見せないように俯いた。

「御免なさい。今、言うような話題ではないわね。じゃあ……」と小母さまは少し横を向いて心を落ち着かせるようにして一拍置いた。

「あのう、ヨッチャンは大丈夫ですか?」と、私は今の今まで、彼のことを考える余裕がなかった自分を責めた。真由の彼氏、私の兄貴と言ってもいい存在。自分のことをやはりいつも見守ってくれていた本当は私の、「彼氏」。

「ええ、意識は取り戻したけど、体は骨折箇所が多くて……。でも大丈夫。」

 小母さまは言葉を続けようとしたが。

「でも……」と小母さまは言葉に詰まってから、次のように続けた。

「真実ちゃん、実は良夫は事故前後の記憶が無くなっているみたい。お医者さんは一時的なものだというけど、少し、その状態が続きそうなの。もう少し容態が良くなったら、こちらの病院に転院させたいと思っているところなの。それでお願いがあるの。真実ちゃん。」

 真実は心の中で、「えっ、ヨシが記憶喪失?」と呟き、小母さまの次の言葉を待った。

「真実ちゃん、横浜の病院にいる間に、一度、見舞ってやってくれない?」

「もちろんです。ずっとヨッチャンのことを心配していましたから。それに、ヨッチャンとお話しすると私も元気になれそうです。」

私は先ほど言った通り、真由の死でヨッチャンどころではなかった。私にとって彼は大事な人、最愛の人ではあったが。

「良夫が、真由ちゃんは大丈夫かと訊くの。私、何も言えなくて。その直前まで自分と一緒にいたことは分かっているみたい。」

小母さまは、再び話を始めた。

良夫はあるとき姉真由と大喧嘩をして自損事故を起こした。その直前に、ある公園で真由は腹を立てて良夫を独り残して電車で帰宅した。その後、良夫はハンドル操作を誤ってガードレールのない場所から崖下へ転落した。どうも、そのときの時間に良夫が戻っているみたいだ、と。私はっきり覚えていた。真由が突然、膨れ面でマンションのドアを開け、私に、「ヨッチャンと別れる。真実にあげる」という捨て台詞めいた言葉を吐くと、自分の部屋に閉じこもり、わんわん泣き出したことがあった。その数分後に、小母さまから電話が入り、真由は化粧の崩れた顔のままで、涙を拭いながら出かけたときのギャザースカートの裾を翻して、屋外へすごい勢いで駆けていった日があった。真由はその日、帰ってこなかった。ラインが一通、「ヨッチャン、生きていた。かすり傷程度。」その後に、「絶対あげない!」と送られてきた。私が真由に電話をすると、彼女は病院にいると言った。小母さまと一緒だと言っていた。ヨッチャンがその事故を起こしたのは約九か月前のこと。

「真実ちゃん、お願いね」と、小母さまは言うと、良夫の入院している横浜へこれから向かう予定だと告げた。


 私は東京の自宅マンションのドアを開けた。部屋には暗く澱んだ空気が籠っていた。あの日、事故当時の淀んだ空気が充満しているみたいだった。時間が止まってしまった空間を解き放つべく、居間と寝室の窓を開け、風を通し入れた。少し涼しくなった都会の空気が四階のその箱に流れ込んできた。テーブルには私が飲みかけた、といより口を付けただけで封が空いたままの状態のビール缶が放置されていた。

 真実はその缶を掴んで中身をすべて流しに捨てながら、再び、大きな哀しみに襲われた。

「真由、そこにいるんでしょう。」

私は何気に後ろを振り返って、彼女の部屋の扉に向けて大きな声で、姉の名前を呼んた。真由の部屋からは何の応答もなかった。私は缶を空にしてそれをテーブルに置くと、真由の部屋の扉を勢いよく開けた。

「真由、お姉ちゃん!」と大声を出した。誰も答えてくれない黙ったままの部屋は私を得体のしれない恐怖に叩き落した。それは虚無というぽっかり空いた大きな空洞の入り口かもしれない。私は声を失い、自宅マンションから突発的に飛び出した。その頃、ぽつぽつと雨粒が降り出したと思っていた空からは、雷鳴が轟き、雨粒は次第に大きくなり、ダーっと音を立て始めた。ゲリラ豪雨。私の泣き声は雨が掻き消し、七分袖の襟首の丸い白いTシャツを水玉はやすやすとすり抜けていった。足はライトブラウンのロングフレアスカートが雨に濡れて太腿に、ふくらはぎに纏わりついてきた。それでも私は力の限り走り続けた。ある店の前で歩みを止めた。「バー・ビークワイエット」の扉を弱弱しく押し開けた。

「まだ、開店時間じゃないわよ」と、下を向きカウンターを布巾で拭いていたマスターの声がした後、カウンターの上にママの顔がちょこんと現れた。その彼女が私に気付いた。びしょ濡れの体で私はカウンター席に移動してきたママの胸に飛び込んだ。まだ、外の雨脚は強いままだった。ママは冷たくなった私を力の限り抱きしめた。しばらく私の精神が落ち着くのを待って、ママは声をかけた。

「真理子から、あなたがこっちに帰ってくるって連絡あったよ。真理子が心配していたよ。」

 ママの体温が私の冷えた身体にジワリと伝わってきた。

「真実、シャワーを浴びて、着替えなさい。」

 ママは、私の身体を抱えるように、自室への階段を昇って行った。私の意識は少しだけ現実空間に戻ってきた。ママの体温が自分のものよりとても暖かいこと。私がママのお店用ドレスを今まさを台無しにしたこと。ママの今夜の営業用の素敵なレース仕立てのブルードレスを。

「ママ、ごめんなさい。」

「いいよ。あんたが知っている通り、私はドレスを売れるほど持っているから心配しないで。そうそう、真実……。」

「何?」

「あんた、この償いと言っては何だけど、今日の貸し切りパーティーのお給仕をして頂戴な。バイト代は、いつものようにはずむよ。」

 ママは、私のこと心配していることが痛いほど分かる声掛けだった。ママは自分のことを独りきりに放っておくと、何かしでかすかのではないかと心配していることを。

「はい、ママ。お手伝いします」と、私は素直な気持ちでその依頼に応えようとした。

 シャワーを浴びて、用意してあったバスローブを素肌に羽織ると応接室に向かった。いつもママはお気に入りで大きなゆったりした皮革のシングルソファーに腰を下ろしていた。やはり、ママはいつもの場所にいた。そのことに私は安堵した。ママはずっとそこにいたようで、熱いコーヒーがテーブルに置いてあった。彼女の脇のロングソファ―の上に、私のためのインナー付きのレースキャミソールブラとショーツのセットアップが置いてあった。ママはにっこり笑って、「あなたがいつ来てもいいように用意してあるから。気分を変えるためにこのピンク着なさい。それと、いつものユニフォームに着替えて降りてらっしゃい。今日は、S竹映画さんの撮影打ち上げだから賑やかになるわよ」と言って、階下のお店にママは先に降りていった。ユニフォームとは、ママのお店の女性スタッフの制服である。白いブラウスと黒いベスト、後ろにスリットがはいいた黒のペンシルタイトスカート、黒のストッキングに黒いローヒールである。階下に降りると、すぐに声をかけられた。

「真実ちゃん、ちょっとは元気になった?」と、マスターも心配げに声をかけてきた。

「うん、もう大丈夫。」

「よかった。じゃあ、今夜はしっかり手伝ってよ」と、オネエ系のマスターの声も弾んでいるように私には聞こえてきた。

 私の耳に、ピアノの調律音が聞こえてきた。ママのピアノだ。ママは今でもシャンソンを歌っている。かつてイタリアに音楽留学してオペラの勉強をしていたと、私は母に聞いたことがあった。そして、東京に来てからは何度もママの歌声を聴いていた。

「ママ、今、歌って」と私は彼女におねだりをしたが。

「後でね」と柔らかく断られ、少々言い訳みたいな言葉を続けた。

「ちょっと、最近、声の調子を整えるのに時間がかかるのよね。許して。」

「そうなの。分かってあげて、真実ちゃん」とマスターが申し訳なさそうに微笑んだ。

マスターはママのことをとっても愛していた。それは、真実には彼らの情熱の赤いオーラが見えるから間違いないと、子どもの頃から思っていた。マスターの命の恩人がママだということも彼が話してくれた。ヨーロッパをマスターは放浪しながらバーテンダー修行をしていた。あるとき、アジア人だ、マイノリティだということで酷い差別を受けて、もう死のうかとセーヌ川の河面を眺めていたと、マスターは語った。欄干から自分の体を浮かせたとき、肩をある女性が強く掴んだという。それがママだった。そのとき、ママが「私と一緒にいたら?」と声をかけたそうだ。マスターは女性を愛したことがなかったと言っていた。だから、その後、二人のヘンテコな生活が始まって、本当の恋に落ちたんだって。久しぶりに彼らの馴初めを思い出して、私は何だか気持ちが少しだけ温かくなってきた。

「真実、ハーイ」とマスターがカウンターの上にショットグラスを滑らせてきた。

「今日は、何?」と真実は尋ねたが、マスターは飲めというジェスチャーしかしなかった。真実は一気に飲んだ。「ワァー、ウォッカだ」とマミは叫んだが、後の祭りであった。私のお腹の内底がぐっと熱くなってきた。これはマスターからのもっと元気になれという励まし?

しばらくして、S竹映画関係者の御一行がドドッと店内に勢いよく雪崩れ込むように大勢入ってきた。

「ママ、元気にしていた?」という軽いノリの業界の方々。

「マスター、会いたかったよぉー」と声をかける気のいい女優さん。

そして、「真由ちゃん、こないだ送ってくれた本読んだよ」と私に声をかけた有名な脚本家の内藤さん。

私は、「あのう、私……」と言っている間にも多くの関係者が店内に自分の落ち着けるテリトリーを確保しようとして勝手に座席を占拠し、混雑したお祭りの境内状態になっていった。私は思った。私はどうも真由に間違われている。なので、飲み物やオードブル盛り合わせなどを運んでいると、「真由ちゃん、ありがとう」とか、「あれ? 髪、少し切った?」などなどと軽く声をかける見知らぬ面々がいた。「私のことを知っている人はいるはずなのに」と少々ご機嫌は斜めになっている私自身がいた。忙しさにかまけて真由の死をほんの少しだけ何処かに追いやっていたことは確かだった。私はふっと想像していた。真由はもうすぐお店にやってくる。「ごめんね、ママ。バイト入り遅くなっちゃって。今、稽古上がりなの」と言いながら、ドアを開けて入ってくると。私は止まり木に座って次のママとマスターの指示を待っていると、誰かが背中から声をかけてきた。

「真実さんですよね。」

「はい。」

それは、以前何度か仕事でお世話になったことのあるスタイリストの絵美さん。

「真実さん。お姉さんのことお悔やみ申し上げます」と、絵美さんは丁寧に真実に語りかけてきた。真実は、心のどこかで「本当のこと」と呟いた。

「絵美さん、ありがとうございます。真由は本当に素敵な人たちに囲まれていたのですね。」

「そうね。素敵かどうかは別として、いつも皆から愛されていたことは確かね。」

「私の存在感って、薄いですね。」真実は自嘲気味に小声で彼女に返してみた。

「そんなことはないわ。真由さんがいて、あなたがいると比較対象がはっきりしているから分かるのだけれど。今の皆さんは、やっと大仕事が終わった解放感だけで騒いでいるから。それも一致団結しての大騒ぎ。」絵美は、私の手を握った。

「そうそう。この間ね。麻耶さんと仕事で一緒だったのよ。あなたのことすごく心配していた。心配している様子を見せずに、心配していた。」

「いつもの麻耶ですね」と私は言って、少し麻耶に腹を立てた。私が今日、東京へ帰ってきたのは分かっているはず、と思ったからだ。

「真由ちゃん。ここへおいで」と有名監督の黒岩さんが、私の方を向いて手を振っていた。私は「はーい」と、姉真由の元気よく大きな声を真似した。そして、動作も姉の活発さに似せてて足を運んでみた。

「いやーあ、今回の作品が終わったから、今度、打ち合わせしよう。あれ、何と言ったかな?」と黒岩が隣の内藤に尋ねた。

「ああ、『ジャンヌ・ダルク(次案怠子)日本を救う』でしょ。」

「そうだよ。あれ私も読んだ。実に軽妙でおもしろい。それでいて時局的批判精神に溢れている。もう、内藤ちゃんがベタ褒めだよ。」

「真由ちゃん、今度いつ暇?」と黒岩が私に尋ねてきた。

「ありがとうございます」と私は返事して、自分がこのまま真由の代役を務めていいものか戸惑っていた。そのとき、ママが助け舟を出してくれた。「今日は、皆さんの打ち上げのお相手でてんてこ舞いしてんだから、無理難題を吹っかけていじっちゃ駄目よ」と割って入ってきた。

「真由はあなた方も知っている通り、時間が空いた時はあのカウンターの隅で新しい本の構想を練り、パソコンと向き合っているよね。あなたたちがいつも大騒ぎするから気が散るし、それに今日は彼氏がいないんだから、ご機嫌も斜めよねーぇ。」

 ママは私の顔を見て、自分の顎を少し突き出した。あっちへ行ってらっしゃい、という合図をママはくれたのだ。ぺこりとその場でお辞儀をして、その席から離れた。

また、絵美さんの隣を私は落ち着き場所とした。

「今日は、みんなダメダメよ。さっき、真実さんに言った通り。みんな自分の世界に入って話をするんだもの。でも、仕方ないか。この業界じゃ」と、絵美は私に声をかけて、マスターの作った桃色したカクテルのグラスの端に紅を付けた。

「ねえ、マスター。真実さんの飲めるもの何かある?」

「絵美ちゃん、何、言っているの。もう真実ちゃんは大人なのよ。」

「え、そうだっけ?」

「そうよ。はい、あなたの好きなストーンフェンス」と、彼は私の前にセットした。

「じゃ、私のこれは?」と、絵美はマスターに自分の前にあるグラスを指差して尋ねた。

「woo woo」とマスターは意味深に言うと、「あなたにピッタリよ」と付け加えた。私は先程の寂しく寡黙に閉じた心がほほ笑んだように思えた。マスターは絵美にカクテルの説明をし始めた。

「ウーウーって、女の喘ぎ声から来ているって説があるわよ。絵美ちゃん、頑張ってパートナー見つけなさい。あなたの未来に乾杯ってとこかしら。」

「そういう風に私は見えているわけ?」と珍しく絵美がマスターに絡んでいた。私は時折、マスターにカクテルの講義を受けていた。とても奥が深いのと、様々な意味と歴史を持ったカクテルの命名の仕方と開発者の創造性が好きになったからだ。

「あのう、真実さんですよね」と、自分と同じくらいとおぼしき娘に声をかけられた。

「はい、私です」と、さっきから姉と間違えられていたので、ここは少し自己主張するように強く返事をした。

「モデルの真実さんですよね」と若い娘は念押しをした。すると、絵美さんがそこへ割って入ってきた。

「ああ、真実さん。この娘、小百合ちゃんっていうの。あの先生の下で修行中よ。たぶん、真実さんと同い年かな?」と、絵美さんが教えてくれた。その後また、絵美さんはマスターに売られた喧嘩に応戦するために姿勢を翻した。

「すみません、自己紹介が遅れました。私、室井小百合です。今年、北海道から出てきて、メイクの安西先生の下で、頑張っています。」

「そうなんだ。私の方が一つ上だね。でも、気を使わないで。いつも仕事では、小百合ちゃんも、あ、ごめんなさい。『ちゃん』付けでいい?」

「もちろんです。」

「小百合ちゃん、頑張っているんだね。安西先生、私もよく知っているけど。先生は私に気づいてくれないみたい。今日は真由に間違われてばかり。」

「真実さんと、真由さんはとても似ていますもの。ただ、少しの髪の長さとセットの具合が違うだけって、感じ。でも、私、真実さんって、すぐに分かりました。だって、身長がお姉さんより少し高いし、今は見えませんが、そのしらっとした美脚を私は良く知っていますよ。本来なら、そんなスカートじゃなく、絶対、デニムのショートパンツやミニワンピで可愛く決めて颯爽とした真実さんの生足を拝みたいです」と、小百合はひとしきり誉め言葉を私に投げてきた。

「小百合ちゃん、そんなに褒めても何も出ないよ。」

「そうそう、私、TJのときから真実さんと麻耶さんのこと好きだったんですよ。だって、TJ専属モデルのツインタワーだったでしょう。どんな服着ても二人ともヤバかったもの。それが、中三のときでしたよね。真実さんが進学のため、麻耶さんがアメリカ留学だといって、二人の姿が紙面から忽然と消えちゃったから、もう悲しくて、寂しくて毎日泣いていましたよ。それが、お二人が去年春から復活して『ワォー!』、って感じです。今度、大きな企画があるって、聞いていますから楽しみです。」

「はぁ? 私、まだ何も聞いてないし……」と私は不意を突かれたように声を出した。何か企んでいる、と私は麻耶と事務所のことを怪しんだ。

 小百合と私が話をしている間に、カウンターは女性陣が陣取り、マスターの腕はカクテル作りにフル回転していた。彼の饒舌な、ウィットの富んだ話題も同じくフル回転。

「真由ちゃん、今度、飲もうって約束したじゃない」と、知った顔が、といってもスクリーンでしか見たことない女優さんが話しかけてきた。

「優子さん、こちらはモデルの真実さんですよ。真由さんの妹さん」と、また絵美さんが口を挟み、解説を加えてくた。

「えっ、そうなの??」とトレンディ女優の土屋優子が私に尋ねた。

「真実です。土屋さんは姉のお友達ですか?」と私は胸を左手で押さえて尋ねた。

「まあ、そうかな。真由ちゃんって、本から演技から厳しいのよ。私のネームバリューなんて、関係なし。忖度なし。とってもいい私の専属のお抱えの評論家でもあるしね。」

 その言葉を聞いて、嬉しかった。本当に真由はここで必要とされ、真由自身が正真正銘の真由であった場所だと思うと、私は涙が頬を伝った。そして、あることに思い至った。もしかすると、私がいたせいで真由はいろいろと自分の思うことが制約されてできなかったのかなと。真由は私から解放されて、自分の道をこの東京という欲望と夢が渦巻く世界で見つけ出し、自由に闊達に都会の空気を目一杯吸い込みながら泳ぎまくっていたのかな、と。

 そのときだった。ピアノの高音がピンとなった。ママの仕業だった。もう、時計は誰も気が付かないうちに十二時を過ぎていた。時間は光のように去っていたのだ。

「みんな、よく聞いて。そろそろお開きの時間よ。その前に、ひとつ悲しいお知らせをしなくてはいけないの。私たちのヒロインであった、才能豊かな真由が神に召されたの」とママがここまで言ったとき、店内は騒然とした。

「よく聞いて、真由は交通事故で亡くなったの。今ここにいるのは真由の妹のモデルの真実ちゃん。みんなも何度か顔を合わせているよね。でも、この業界のみんなには真由ちゃんの方がインパクト強過ぎるかな。これから、みんなに愛された真由ちゃんに歌を捧げるわ」と、ママは静かではあるが口調を強くして言った。シャンソンの「別れの詩」だった。

「私に今できるのは、さよならを言うことだけ」

ママの声が空間を支配した。否、真由を知っている多くの人々の心を支配した。どこからともなくすすり泣く声もあちらこちらから聞こえてきた。私は流れる涙を拭わず、唇をきつく結んでママの歌声に耳を傾けるだけだった。

「さあ、真実。おうちに帰ろう」とママの声がした。真実はカウンターに伏していた。酔いが相当回ったみたいだった。


翌朝、母の声で、私は目覚めた。

「おはよう、真実」

「あれ? お母さん、いつ来たの?」

「昨晩よ。着いたらドアのカギは開いているし、窓も開けっ放しだし、雨が吹き込んでいて、水浸し。片づけが大変だったわよ」と、母はテーブルに目玉焼きとレタスサラダ、それにトーストを置きながら微笑んだ。

「昨日は楽しかった? 映画関係者のパーティーだって、真衣子から聞いたわよ。」

「そうか。ママが連絡したのね。」

「そういうことね。」

「何か変。お母さんがここに居るなんて」と、私は素直に言葉に出した。これまでなら、真由が私をひっぱたく勢いで起していたからだ。真由は隣の部屋から出てこない。いや、もうこの世にいないのだと、自分に何度も言い聞かせた。

「心配したよ、真実。真衣子が、真実がずぶ濡れで店にやって来たというから。真由ロス、姉ロスシンドロームだね。」

「そんなことないよ……」と私は言葉を繋げようとした。否定できなかった。

「今度、暇を見つけてもう一度来るね。真由のお部屋を片付けるから。」

「そんなことしないで。まだ、真由は隣にいるの!」と、私は叫んでしまった。お母さんは「わかったわ」と言うと、私に朝食を早く食べるように促した。

「そうだ。大事なこと忘れていた。パパがね、気分転換にロンドンに来たらって言っていた。もうすぐ学校始まるよね。ちょっとタイミング悪いよね。パパの言うこと聞かなくていいよ」と、母は少し距離を置いた冷たそうな声で告げた。

「ねえ、私、お母さんに聞いたことなかったこと、聞いていい?」

「何よ、それ」と、母は訝しそうに尋ね返した。

「お母さんは、なぜパパと別れたの?」

「そうね。それはもう少し落ち着いてからにしようか。」

「聴いちゃダメ?」

「そうね。それだったらパパに聞いてみるのはどう?」と母は自分の回答を避けた。

「ふーん」と、私は返してから、今はその時期ではないと自分に言い聞かせた。私は母と朝食を共にした。東京で母とこうして朝を過ごしたことは初めてだった。母はやはり私のことを非常に心配しているのだ。

「私、この後、新宿で仕事があるからもう行くけど、独りになったとき、昨日のようなことないよね?」

「大丈夫とはいえないけど、少し、忍耐してみる。駄目なら、ママの店にまた駆け込むよ」と言って、私は強張った笑顔を母に返した。私もその精神の不安定さを身体のどこかに感じていた。そのことがそうさせたのかは、本人は自覚していなかったが、私は良夫の見舞いに行かなくてはと思い出した。私は、麻耶以外、友人連中には誰にも最近連絡していなかったことを思い出した。


 私はその日の午後に、良夫が入院している横浜のC病院へ向かった。電車の車窓には横浜のみなとみらい地区のビルディング郡が飛び込んできた。

 私は母を見送った後、良夫の母親にすぐに電話を掛けた。

「小母さま、真実です。ヨッチャンの具合はどうですか?」

「ええ、お陰様でずいぶん元気になったわ。でも、自由に動けないけどね。そうそう、先日、言っていた通り、明後日には田舎の病院に転院させる手続きを取ったの。今日、真実ちゃんから電話があってちょうど良かったわ。」

「私も、小母さまに連絡がとれて良かったです。それで、ヨッチャンの記憶の方はどうですか?」

「うーん、それはこの間伝えた通りで、九か月前の記憶の状態から動いてない感じ。」

「ということは?」

「とっても真由ちゃんのことを心配しているの。『僕が真由ちゃんを怒らせたのがいけなかった』と言って、その後、黙りこくるの。私、真由ちゃんが亡くなった、なんてとても言えない」と言うと、小母さまの声の籠る様子とすすり泣きが聞こえてきた。私は小母さまに声をかけることをほんの少し躊躇した。

「来てね。真実ちゃん」と、ポツリと言うと小母さまの音声は携帯から消えた。

 私は一人残された東京のマンションのダイニングで、黙り込んだ。私に何ができるか、ということを考えないといけない。頭の中に一つのアイディアが浮かんだ。それは真由になり切ることだった。もし、私が真由の服装をして、真由の仕草や口調を真似ると通常の人であれば私たち姉妹の違いは区別できなくなる。私にはそれだけの自信はあった。私は真由の部屋に入り、姉のタンスを開けた。最近の姉は、学校と劇団と自宅と、そしてママのお店の四か所を主に移動していた。日常ではアンクルパンツで過ごすことが多くなっていた。上は淡いブラウスやカットソーで、その上にデニムのジャケットを羽織ることがよくあった。真実は思ったことがあった。自分がキッズモデルをしている時は、あれこれ多くの口出しを私にし、真由自身もお洒落に気を使っていたが、真由が高校で演劇に出会ってから、真由は派手な服装は控えるようになった。あるとき、私は真由に尋ねたことがあった。それは私が中学三年のときだった。「最近、真由は私とお買い物に行ってくれなくなったね。寂しい」と不満を漏らすと、真由は「うん、お洒落に興味をなくしたのではなく、劇中でヘンテコな格好をすることが多くなったから、日常は控えめでいこうかと思ってね。だって、日常とのギャップを楽しめるでしょう」と応えた。

 私は、真由の紺のデニムのスキニーパンツを出し、白いⅤネックのニットとやはり紺のジャケットを鏡の横のハンガー掛けに置いた。そして、真由の鏡台に座って、化粧を始めた。私は真由から化粧の手解き、仕方をほぼすべて仕込まれていたので、間違いなく二人は同じような印象を受ける顔に仕上がる。元々の土台=顔の造作が同じであるからなおさらだ。私が口紅を塗って、鏡の自分を見た時だった。真由が私を見ていた。鏡の中から真由が私の顔をきつく見詰めていた。

「真実、止めて」と、鏡の中の真由が言った。

「真実、ヨッチャンはすぐ分かるよ。私たちが高校のとき、真実が私のS女の制服を着て私に成りすまそうとしたとき、バレたよね。止めなよ」と真由は続けた。そうだ、あの時、私が中三のとき、私自身は完璧に真由になり切ったつもりでいた。あの夕方、学校帰りに二人は会う約束をしていた。良夫が公園のベンチに座っていた。そこへ真由に成りすました私が登場した。良夫が「よっ、真由」と手を上げた。それに答えて、真由になったつもりでいた私は「ヨッチャン、待った?」と軽く応えて、二人の挨拶はキスへと向かった(真由が私に良夫とキスをするのを許したのだ)。二人が唇を合わせたとき、良夫が小声で私の右耳のそばで囁いた。「真実ちゃん、キスありがとう」と。なぜ、バレてしまったのかは、良夫はそのとき種明かしをしてくれなかった。

 鏡の中の真由に私は素直に従うことにした。「うん、止める」と。私は化粧の後、髪を真由的にカーリーボブ調に仕上げようと考えていた矢先であった。これで、私は真由になれると思っていたが。

「卑怯だよね。私……」と言ったときには、もう、鏡の中の真由は答えてくれなかった。涙が瞳に溜まっていた。ティッシュペーパーで涙を吸い取ると、私は真由の洋服をタンスに戻し、俯き加減に真由の部屋から静かに出て、自分の部屋のドアを開けた。そして、私は意を決し、強く自分に言い聞かせた。

「ヨシは渡さない!」と。

 私は、自分の服装で横浜の病院へ向かう決心をした。自分らしく、正直になれる服装で良夫に会おうと思った。白いスリーブブラウスと赤い花柄のロングプリーツスカート、足元は白いサンダルを履いて戸外へ一歩踏み出し。そして、ドアの鍵を閉めた。

 横浜駅からみなとみらい線で数駅先の病院に入ると、すぐに良夫の小母さまと出会えた。

「小母さま。」

「真実ちゃん、そのお洋服、素敵。あなただって、すぐ分かるわよ。みんながモデルだって分かっているわよ」とにこやかに語りかけてきた。

「真実ちゃん、良夫は真由ちゃんに『謝りたい』って言っているんだけど、九か月前の自損事故のときの経緯を知っている?」

 私は、即座に答えた。

「いえ、私は知りません。でも、私がヨッチャンに聞いてみます。」

「ありがとう、真実ちゃん。私、明後日の転院の用意があるから、その手続きと簡単な買い物に出かけるね。しばらく、良夫をお願いね。」

「分かりました」と私は返事をして、良夫のいる病室へ心を強くして向かった。その間に、九か月前のあの事故の日から二日前の出来事を私は思い起こしていた。


 事故の起きる日は、朝から真由と良夫は前々から約束していたドライブで軽井沢へ行く予定でいた。誰もが言う「デート」で間違いはなかった。私もそれをすでに知っていた。私はマンションのアプローチで、良夫の車に乗り込んだ真由に手を振って見送った。ただし、その二日前の夜に、真由はゼミの集まり(?)から帰ってきた私に、「恋する乙女の匂いがする」と絡んできた。今、私は確信していた。あの日、T大学近くのショットバーに行ったこと。私と良夫が会ったことを真由は分かっていたのだと。

 私は幼稚園時代から良夫のことが好きだった。でも、ずっと真由が良夫を独占していた。姉の真由とヨッチャンの二人は同年だから。そして仲良しだから。私は、真由の妹だから。だから、良夫は真由の彼氏だということを、私の幼馴染の誰もが、さらに同学年の仲間たちは知っていた。そういうものだとどこかで私自身も思っていた。でも、私は良夫のことがたまらなく好きだった。私も中学校を卒業すると、真由のいるS女子高に行くはずだった。すでにその高校と親子・姉妹推薦の話ができており、推薦入学許可がすぐにでも下りるはずだったが、私はその直前に地元の伝統進学校へ行く決意をした。なぜなら、良夫がその県立H高校に行ったからだ。私の反抗期だと言って、立石家では大騒ぎとなった。事の成り行きとして、麻耶と週末に東京へ出向いてのTJ雑誌のモデル稼業も中断することとなった。それだけ、私にとって、良夫は特別な男子であった。姉妹で一人の男を取る構図がすでにそこにはあった。

 その日、私は真由に嘘をついた。初年度ゼミの初コンパがK駅であるので、帰りが遅くなると真由に嘘をついた。一方、姉真由はその日は劇団の用事があって、遅く帰るといっていた。私は、実は良夫のその日の講義が終わる時間を見計らって、T大学構内へ入り、良夫の姿を認めて、偶然を装う計画を始めから立てていた。何が私をそうさせたかは自身がよく知っていた。私はパープルのプリーツドレスを着て、ストラップ付の黒パンプスを履いておめかししていた。

「ヨシ」と、私は彼に気さくに声をかけた。

「あれ? 真実。何で、ここにいるの?」

「うん、ゼミの先生の助手で来たの。それで、さっき先生と別れたところなの」と、私は言うと、にこりと偽りではないことを証明して見せようと屈託なく笑ってみせた。

「ふーん。今日、真由は劇団だろう。じゃ、これから何か一緒に食べる?」

「うん」と、私は嬉しさを隠せなくなった。良夫の腕に親しく絡みついた私。

「あのとき、ヨシは私のことを『愛している』って言ってくれた。覚えている?」

「覚えているよ」と良夫は即答した。良夫は自分に『愛している』と言ってくれたという事実。この日の夕食はT大学内の有名な食堂でフレンチを食してから、マスターのお勧めのショットバーの見学に行く、という私の計画通りのコースへ二人は進んだ。少々古ぼけたビルの地下にそのお目当てのバーは小さな灯りをともしていた。

「ここね。」

「さすがマスターはいい店を知っているね。僕には教えてくれなかったよ。」

「まあ、それはそれとして。『シングルモルトを感じて来い』っていうマスターからの宿題なの。」

「じゃあ、感じようかな」と言うと、良夫はスコッチウイスキー協会の会員である店主にいろいろと質問し始めた。十二年物のマッカラン、アイルオブスカイ、オーヘントッシャン、アルドベックなどなど。お客さんが少ないせいか、店主が丁寧に彼の話に付き合ってくれて、二人ともシングルで三杯以上は口にした。すでに時計は十時を回っていた。K駅から新宿に二人で帰ってきた。マンション近くの公園を通り抜けると帰宅の近道となる。二人は公園の林を通り抜けようと寄り添って歩いていた。突然、良夫が真実の前に回り込んだ。真実は自分の進路を塞がれた。良夫は高校時代バレーボール部で、一八三センチ。真実は一六九センチ。無言で良夫の顔が上から彼女の顔に被さってきた。真実は自分の顎を少し上にあげた。二人の唇が静かに重なった。その後、良夫が力強く抱きしめて、耳元で囁いた。

「真実、愛している。離さない」と、良夫は言うと、しばらく二人の影は離れることはなかった。


「おかえり、真実」と、真由が言うのを聴いて、私は少し俯いて「ただいま」と素っ気なく言葉を返した。当然のことながら姉に何も気づかれてはならない、と心の中で反芻していた。

「真実、今日のゼミの集まりどうだった?」

「うん、勉強になったよ。」

「どんなことやったの?」

「どんなことって? 今日は顔合わせだもの。自己紹介とか、ね。」

「ふーん、それだけ?」と真由は言うと、パンプスを脱いで、上体を起こした私のドレスの胸元を鼻で嗅いできた。

「『恋する乙女の匂い』がするかな。」

「えっ?」と、私は唐突な物言いになった。早く逃げなくちゃ、と私はとっさに思った。女の鼻がよく利くのは世間の常識。女の鼻は繊細で敏感である。あらゆるものを嗅ぎ取る。

「着替えてくるね」と言って、足早に自分の部屋に入ってドレスファスナーを下ろした。足元に落ちたドレスをハンガーにかけた時だった。ドアが急に開いて、真由が遠慮なくずけずけと入ってきたと思うと、そのドレスを再び嗅いで、若干の嫌味を込めて言った。

「『恋する乙女の匂い』がする。」

 真由の念押しの言葉が私の胸に刺さった。

 私は気が付いた。もしかすると、ウイスキーのアルコール臭だけではなく、良夫のコロンの匂いが自分の着ていたドレスに移っているのかもしれないと。彼の残り香。真由の眉がピクリと動き、彼女の表情が険しくなったと私は一瞬で感じ取った。もしかすると、高校のときのように彼女のとっても痛いビンタが顔に飛んでくると思って、少し姿勢を屈めようとしたときに、予想外にも真由は優しい声でこう言った。

「今日はお風呂入れたから、あなたから入りなさい。お酒の匂いを抜いてね。」

 私は思った。真由は絶対的に良夫のコロンの匂いを認識したと。なぜなら、真由ほど良夫のことを知っている女は他にいないからだ。あまりにも付き合いが長いから。高校のときは、帰り道を二人で楽しそうにしゃべっているところを目撃された。そのときは、真実が家に帰るなり、応接室に手を引っ張って連れていかれ、罵声を浴びせられた。真由の右手が頬に勢いよく飛んできた。私はその勢いでソファーの長椅子に弾かれた。

「真実! あんたは泥棒猫? 人のものを取るんじゃないわよ!」と、真由に烈火のごとく怒鳴られ、罵声を浴びせられた。もう真由の罵声が先だったか、姉の右手が先に飛んできたか定かではない。

 今日はもっとこっ酷く真由に殴打されることを覚悟した矢先に、真由は優しく?私をお風呂に促した。私は次にお風呂上りを覚悟したが、その日はそれ以上、真由は私の行動を厳しく追求しなかった。逆にそれが私の中に怪しげな恐怖心を煽り立てた。


 病室の個室のスライドドアを開けた。

「ヨシ。元気になった?」

「この様だよ、真実。恥ずかしいこと極まりないよ。真由と喧嘩して別れて、独りでがけ下に転がるとはね。真由のご機嫌はどう?」

「真由は、もう絶対ヨッチャンに会わないって」と、私は良夫に即座に告げた。

「当たり前だよな」と、良夫は悟ったように呟いた。そして、彼は言葉を続けた。

「本当のことを真由に話したんだ。だって、あの日の僕たちがショットバーに行ったことや公園での出来事を彼女は目撃していたそうだよ。」

「そうなんだ」と、私はやっと、その日の真由の言動の意味がよく呑み込めた。ただ、真由が高校のときのように自分を叱責しなかったことの方が酷く恐ろしく感じていた。

「真実。真由に僕たちがいつ関係をもったかも、伝えたよ」と、良夫は私の黒い瞳の奥を見詰めて言った。私は少し恥じらいを感じて、頬を赤らめた。

   

この多重事故が起こる約十一か月前の出来事。三人、つまり私と真由と良夫で、彼の車に便乗しで帰郷する予定の前日のことであると、すぐに真実は記憶のジュエリーボックスから小さく輝いている欠片を取り出した。

 東京に来て、女子大生活も半期を終えた頃。そう、三人は浴衣姿でD川の花火大会に行った後に、大学は夏休みに入った。真由は劇団の夏の地方巡業に付き添って関西(大阪と兵庫、さらに京都)と東海(三重と名古屋)を旅巡業していた。その間、真実はよく良夫と恋人よろしく食事や近場の公園や行楽地に出かけていた。その日、私がネットで見つけた評判のいいおいしい餃子屋さんに行き、その後、K駅の近くのスタバでアイスラテを私たちは注文をした。

 外が急に暗くなったかと思うと、すぐに大粒の雨がアスファルトを叩き付けるように降ってきた。まるで熱帯地方のスコールのようだった。しばらくすると止むだろうと二人で楽観的に捉えていたが、雨脚はいっこうに収まる気配がなかった。店内は多くの人が雨宿りを兼ねて騒々しかった。

「雨、止まないね」と、ガラス越しに外を見ながら私は良夫に声をかけた。

「そうだね。真実ちゃん」

「どうしよう?」

「どうしよう、って?」

「だって、明日帰るから、準備しなくちゃ」と、私はこの後の支度を答えた。

「そうだね」と良夫は言うと、困った顔を覗かせながら、こう言った。

「じゃあ、僕の所でまずは雨止みを待つ? ここはすごい人だもの。みんな行き場がないよね。」

「いいよ。私、ヨシのマンションに行く。だって、まだ私だけ、行ったことないよ。」

「あれ? そうだっけ?」

「そう」と、私は返答してから、このことが真由に知れたら大変なことになると、ほんの少しだけ思案した。でも、言葉を発した後、私たちはその次の動作に移っていた。

「行くぞ!」、「ウン!」と声をかけ合いながら、店を飛び出した。途中から二人ともずぶ濡れになった。良夫は私を自分の懐に抱え込むようにしていた。私の素肌に白と黒のボーダー柄のオーバーサイズのTシャツが濡れてにくっ付いていた。デニムのショートパンツも水を吸って、その水滴が私の白い肌の上を絶え間なく足元のスニーカーまで伝っていた。良夫のロゴTシャツももうこれ以上水分を吸えないくらいの飽和状態で、ベージュのチノパンも十分に水を含んで色濃くなっていた。

「凄いな、このゲリラ豪雨。やっぱり、温暖化の影響だよね。」

「私もそう思う。」

良夫の住んでいるマンションの一階の共用扉を一緒に開けながら、そして雨水をフロアにぼたぼた滴らしながら、良夫は部屋のドアを開けた。私たちはお互いの濡れ鼠状態をまじまじ観察しながら目を見合わせて、大きな声を出して笑い合った。

「スゲーよ。このまま部屋には行けないな。お風呂場に直行しよう」と良夫は提案すると、私の手首を握って半ば強引に連れて行った。洗面所の棚にあった柔軟剤を使っていないガサガサのバスタオルを私に差し出した。良夫も自分用にもう一枚無造作に掴んだ。

「先に、真実がシャワーを浴びなよ。」

「ありがとう。」

 良夫は、頭をふきながらバスルームから出ていった。私は肌に纏わりついた上着の裾を持って、両手を交差させて剥すように脱いだ。その間も、服の布地からは水滴がぽたぽたと足ふきカーペットの上に落ちていた。次にショートパンツをお尻から足元へ下ろした。私がシームレスブラを外した時だった。突然、良夫が無言で入ってきて、私の脇の下から腕を私の胸に伸ばしてきた。良夫の掌が私の大きくない胸のふくらみを覆った。私は抵抗できないまま、立ち尽くした。つんと尖った乳首が良夫の掌に押されて、私は身体が熱くなるのを感じていた。もう少しで声が出そうになった。少し彩を帯びた声が……。

「ヨシ……、感じるよ。」

「いいよ。もっと感じて」と彼は私の後ろ頭に言うと、私の体を反転させて唇を強引に奪った。私も強く彼の唇に押し当てた。良夫の舌先が私の舌先と始めは遠慮がちに触れた。彼が私の舌全体を頬張った。私は心の中で、「ダメ、ダメ」と遠慮がちに呟いてみた。しかし、私のメス性がそんな声に耳を貸すはずはなかった。

「真実、僕が洗ってあげる」と言うと、良夫は私のビキニショーツに手を掛けて素早く下ろそうとした。たっぷりと水分を含んだショーツは私のヒップに張り付いていた。真美は自分でそれを足元まで運んだ。私は生まれたままの姿になった。彼はそれを待ちかねていたかのようにシャワーのコックを捻った。二人の体に温水が注がれた。良夫はボデーソープボトルのノズルから白い液体を手に取って伸ばし、すぐさま泡立てた。

「あっち向いて」という良夫に促され、背中をみせた私。すると、良夫の掌が背中を上下に優しく動き始めた。その後、脱衣所で良夫が先ほどしたように、彼の掌は私の両乳房の側面に姿を現した。始めは二つの乳房全体を覆い隠して抱えるように。次に彼の指が意図したようにプルンと乳首に微かに触れた。

「あっ……」と、私の口から思わず漏れた。良夫の身体の前面がすでに私の肌に触れていた。両足の間、股間に何か硬いものが入ってきた。その硬い棒状のものは、ますます上向きになって密着してきた。私の大事なところ、Ⅰラインに貼り付いた。私は無意識で、少しお自分の尻で良夫の体を押し返すようにすると、良夫は体を少し離した。「ごめん」と彼は謝ると、また泡立てた掌を私の胸からおへそへ、おへそからⅤラインへ滑らせていった。良夫の両手は私の太腿の内側に入り、少し歩幅を取るように私に促しながら膝からふくらはぎを通過し、足先まで到達した。良夫の指がその来た道を返っていく。私の呼吸は自分でも意識できるくらい早く荒くなってきた。内腿からⅠラインを触り、ヒップの頂点に到達した指はスムーズに肛門の入り口へ流れていった。良夫の人差し指が私のその入り口に抵抗もなく挿入されていった。

「アッ」と私の口元が無自覚のまま揺れて開いた。良夫は私の背中を押すと、彼女は両方の手をバスタブの端に置く姿勢になった。良夫は両手で私の腰骨を掴み、ヒップを固定すると、彼の下半身は私を前方へ押し出すような動作をとった。

「あー、アー」と私の言葉にならない喘ぎ声がバスルームに大きく木霊し始めた。良夫の硬い棒状の先の丸みが私の入り口を難なく押し広げていった。私のアヌスはそれに抵抗する術をさして持たなかった。ボディーソープの泡がマミの肛門括約筋の皮膚と良夫の肉棒の間の摩擦をなくし、潤滑油の役目を果たした。やすやすと良夫は私の中へ侵入していった。良夫は自分の足の付け根が私のお尻の頂きに当たるまで、自分のものを深く真実に押し込んでいった。

「あっ、あ、あー」とさらに私は喘いだ。喘ぐとともに、私の腰は良夫のものをさらに自分の奥に引き入むように反っていった。私は自分の体中がぐるぐると熱くなるのを感じた。私は自分の野放図に振舞っていく心身を制御できないことを感じ始めた。良夫の下半身が私のヒップを押しつぶすように何度も何度も後方から襲ってきた。良夫の硬く太く長いものはより強く前後し、ピストン運動を繰返していた。私の奥に刺さるたびに、どこかで息苦しさを感じつつ、一方で、雄に侵される雌の感覚を自分のものとしていく自分のメス性に喜び、快感を貪る卑しい自分に酔いしれていった。私は、自分がどうなっているかなど、全く考える余地のない状況から、本能が支配する空白へ突入した。

「あっ、あっ、あ、あー」

 何度かの得体のしれない感覚と感触の波が私を浮遊させるように襲てきった。私の腰を固く拘束していた良夫の両手がほどけ、私の拘束状態は解けた。私は自分の開いた両足の間から良夫が発したであろう白濁色の液体がどろりと落ちていくのを目撃した。その瞬間、微かではあるがヨシの子供が欲しいと心から思った。その後のことは、私はあまり記憶していなかった。良夫が優しく丁寧に体を、髪を洗ってくれたこと。その後、バスタオルで自分の身体を優しく包んでくれたこと。ソファーに座っている自分の髪を丁寧にドライヤーで乾かしてくれたこと。すべてが後で考えると映画やドラマのコマ送りの映像のようになっていた。私が正気を取り戻したのは、翌朝、タオルケットにくるまれた自分が良夫の寝息を立てている清々しそうな顔をすぐそばに見た時だった。

 私は良夫が目覚めないようにするりとベッドから身を起こすと、良夫の整理ダンスを開け、彼のTシャツとハーフパンツを拝借した。Tシャツは私にとってはオーバーサイズであるがともかく着ることが出来る。しかし、男物のパンツのウエストが大きくて、折り返して腰から下がるのを止めた。その後、自分の昨日の服と下着を探しにバスルームに入ると、私たちの下着類は青いプラスチック製のバケツの中でいやらしくまだ昨日の雨水を含んで親密に交錯していた。昨日の良夫と私のように。

 昨日の眠りにつく直前、良夫が言っていたことを私は思い出した。私の携帯にもラインが届いていた。それは真由からのものだった。「明日午後二時に東京駅に着くから、そこから皆で帰ろう。真実、私の荷物もパックしておいてね」と。それを見て、私はちょっと助かったと思った。予定では真由は午前には東京駅に着くといっていたが、それが午後になったことで、私は時間的余裕ができ、心の平静を取り戻せるのではないかと考えた。しばらくすると、良夫が起きてきた。良夫と私は静かに抱き合い、深く長いキスを交わした。

「帰省の用意をしに、ヨシ、車で送ってくれる? 着替えがないから、あなたの服を勝手に借りたの。ごめんなさい」と私恋人同士のようには甘えた口調で謝った。その後、私たちは彼女との待ち合わせ時間に間に合うように身支度を整えた。

 東京駅八重洲口で真由と私は落ち合った。

「お帰り、真由。」

「ただいま、真実。いい子にしていた? 良夫は?」

「車で、真由のこと待っているよ。」

「そう」と言って、少し寂しげな表情をした後で、真由は私に三重のお土産だといって、大粒の真珠のイヤリングのケースを差し出し、渡してくれた。

「真実も大人だから、これぐらいものを持ってなさい。」

 私たち三人は、良夫の車で自分たちの故郷であるF市へと向かった。もちろん、良夫が運転をして、その隣の助手席には真由、そして後部座席に私が一人で座った。私たちは車中で仲良く歌を口ずさんでいた。真由のリクエストで山下達郎の最近発売された楽曲が流れていた。


 私は良夫の言葉対して、自分の偽らざる透明な声で返した。

「ありがとう、ヨシ。私もうれしい。愛している」と言うと、まだ、床から起き上がれない良夫の唇に自分の唇を上から軽く重ねた。私は思っていた。私は真由に対して悪いことはしていない。これまで真由のために流してきた涙は偽りではないことは確かだが、自分は真由から離れて、正直に素直に女性として、独りで立っていくという決意めいたものへと自分の心が変わったことを心底感じていた。もう、真由の実体はこの世にはないのであると、私は麻耶との仕事が終わったら、きっちりと良夫に伝えようと思った。それは良夫の記憶が戻ろうが戻らないままであろうが関係ないと、真実は強く思った。

 そして、私は、数日後に仕事でイギリスへ立つことを良夫に伝えた。


機中で、私は麻耶の手の甲に自分の掌を乗せていた。その温もりは半端ない安心感を私にくれた。でも、寝付けなかった。私はウトウトとした微睡みを繰返していた。なぜなら、海外への旅行は初めてのことだったからだ。

「冗談じゃないよね、絵美さん。こんな仕事があるなんて聞いてないよ」と言う麻耶の声が微かに耳に入ってきた。

「そうね、私も驚いているの。これじゃあ、私の国内の仕事の調整がつかないって社長に文句言うわ」と、答える絵美の声も聞こえたような気がしたが、私は国内でのあまりにも多くの出来事に見舞われて心身が翻弄され、疲れていたのか、その後の確かな記憶はない。

ヒースロー空港で入国の手続きとEU諸国入国のための本人証明写真を撮影された後、私はパパの待っている到着ロビーへ麻耶と一緒に向かった。今回の仕事で一緒にロンドンに同行したのは、スタイリストの絵美とメイクの安西先生、さらに助手の小百合、加えてファッション雑誌の専属カメラマンの後藤さんも同じ飛行機の乗客であった。

 私にとっては初めての異国の地が英国となった。ロビーに多くの国々の旅行客が行き交っていた。麻耶は私と手をつなぎ、まるで仲の良い姉妹のように歩いていた。私たちの服装はスニーカー、デニムのハイウエストスキニーパンツ、Tシャツの上に色違いのパーカー(私はタータンチェック、麻耶はモスピンク)だった。

「ハーイ、そこの彼女たち撮っていいかな」と、大柄な白人男性がカメラ越しに声をかけてきた。私たちは職業柄というか、体を止めてポーズを自然ととった。二ではニコッと微笑んだ。

「ハーイ、真実&麻耶。久しぶり、でもないか。」

「あっ、パパ」と、父親の予期せぬ出現に驚いた。

「とうとうやって来たね、真実。ウエルカム トウ ロンドン。」

「うん、仕事のオマケって感じだけど」と、パパと私が会話をしている間に、その隣ではさっきのカメラマン男性と麻耶が楽しそうに話をしていた。

「そうそう、こいつがグレッグ」と言って、パパはその男性を私たちに紹介した。

「グレッグです。よろしく」と、流暢な日本語でその男は答えた。そして、次のように彼は続けた。

「今回は、タカオの娘、真実がロンドンコレクションでデビューする現場取材です。私たちはZテレビの単なるサポートですが。」

「えっ?」と、私は不思議の国へ瞬時に飛んで行った。私の頭の中は事情がまったく掴めず、お花畑と化していた。

「そういうこと、だったの」と、麻耶がその言葉を受けた。さらに、絵美が続けた。

「なるほどね。じゃあ、真実に付き合わないとね。」

「どういうこと?」と、全く状況の呑み込めない私がきょとんとした眼で尋ねた。

 安西先生だけがこの予定を知っていたようで、次のように言った。

「あんたたち、何も知らなかったわけじゃないでしょう。私は、L(ロンドン)コレのために来たんだから。それがないとアンタたちに付き合わないわよ。だから、M&Rの依頼を受けたんだから」と少々ご機嫌斜めぎみに言うと、皆をトラップにはめた猟師のように今度は勝ち誇ってカラカラと笑っていた。

「私も、知っていました」と、小百合が茶目っ気たっぷりに言い添えた。

 英国での当初の予定は次のようであった。ロンドン着、翌日からファッション雑誌ティーンズ「女子旅、外国篇―ロンドン二人旅―」の取材・撮影。その後、Zテレビの「モデル二人旅―スコットランド編―」で、真実が摩耶とともにコンビ再結成記念にテレビ出演をするという予定だった。それに加えて、二人にはLコレ出演が追加的に加わったわけだ。私たちの所属しているオフィスM&Rが衣装ブランドであるミルク、さらにコールとコラボして、今回の二人の出演が急遽決まったということだった。機内での麻耶と絵美の会話はそのことだったのかと、私はやっと腑に落ちた。私自身は、まだ麻耶のように海外のファッションショーに出演したことはなかった。麻耶は高校時代からニューヨークを拠点として多くのコレクション(パリコレも含めて)に出演していたことを私は知っていたが、自分がそのような華やかな舞台に立てるとは思ってもみなかった。私は国内で活動できるだけでも幸せだと感じていたから。

「さて、今日はこれから皆さんをレストランにご招待します」と、グレッグが皆に声をかけると、彼は通信社のマイクロバスに皆を促した。連れていかれたのは今日の宿泊施設に近いイタリアンレストランだった。麻耶が親しくなったグレッグに突っ込みを入れた。

「ロンドンで、なぜイタリアン?」

「イタリアン、最高ですね。スコットランドでも大人気。また、かつて多くのイタリア人がスコットランドに移住してきて、スコットランドの食も改善されたね。」

「まあ、いいじゃないか」とパパが、そこを収めに笑いながら入ってきた。

「イタリアンだから、おめかしをしなくてもいいから。気楽に夕食を楽しもう、皆さん。」

「ハーイ」と、その場の一同は単純明快に同意した。


 レストランでの夕食後、麻耶と私はレスタースクエアーにあるパパのマンションに向かった。このときはグレッグが赤いボンネットにホワイトの二本線が特徴的なミニクーパーを走らせてくれた。年代を感じる重厚な建造物が並ぶ街並みを車は軽快に縫っていった。その中心部の建物の前に止まり、グレッグを除く三人は車を降り、玄関のドアを開けるとガードマンらしき人物にパパは軽く手を上げた。エレベーターを五階まで上がり、グレーのカーペットが敷かれた広めの廊下を進んでいった行き止まりに豪華なヴィクトリア朝のドアがあった。

「ここだよ。」

「すごーい」としか、私には表現できなかった。パパがこんな超豪華な生活をしているなんて今まで知るはずもなかった。どこからか先に到着していたグレッグがシルバーのキーを取り出した。ドアがゆっくりと内側に開いた。

「ウエルカム、アワーホーム。」

「ふーん、そうなんだ」とは、納得した麻耶の声。

「さあ、入って。おいしいミルクティーをいれるからさ」と、グレッグが燥いで言った。

 パパは私に微笑みかけた。

「グレッグと一緒に住んでいるんだ。このマンションは会社の管理になっていて、社宅みたいなものだよ。」

「グレッグは、パパの仕事のパートナーだよね?」

「そうだよ。パートナーだよ。」

パパはニコッとして私たちを応接間に通した。いつ着替えたのかグレッグがジャージ姿で現れた。部屋の中の調度品は、歴史性を感じさせる重厚な雰囲気を漂わせていた。どう見てもグレッグのジャージ姿はその環境に不釣り合いだと私は思わざるをえなかった。

「これが一番ね。とてもリラックスできるね。タカオも着替えてくれば、いいね」と、グレッグはパパに助言した。

「そうか。パパはここをグレッグとシェアしているんだよね」と合点がいったというように私は言って、大きな薔薇の刺繍を施したソファーに腰を下ろした。自分が異国に来たその実感を持ったのは、それだけではなかった。建物の空気感もさることながら、部屋中、否、街中に漂う臭いが全く日本とは異なることを嗅ぎ取っていた。臭いとは、国々によって異なることは麻耶から聞いたことがある。私はイギリスに降りた瞬間に、トイレにある香水ロールペーパーのバラ科の匂いをばら撒いたような空間に身を置いたような気がした。この部屋もそれに似た何かフローラル系の香水を噴霧したような空気感だった。

 私はパパとともにソファーで相対した。麻耶はグレッグがお茶を入れるのを手伝うといって、ダイニングに姿を消した。

「パパとこんなふうに会ったことないよね。」

「そうだね。いつも、年末の慌ただしい中で、皆と食事して、すぐにこっちにとんぼ返りしていたからね。」

「そうそう。だから、私、その期間にパパとお話しできると思って翌日起きたら、いつもパパの姿がなかったもの。」

「ごめんね、真実。」

 パパは、本当にすまなさそうに頭をぺこりと下げた。その仕草を目にすると、私はパパのことが好きだと思った。パパはお母さんに対して何かいつも引け目を持っているように感じていた。パパが悪いことをして、お母さんがそれを咎めるような眼をしていたからだった。なぜ、そう感じていたか、まだよく分らなかった。でも、素直なパパが目の前にいると思うとうれしくてしょうがなかった。

「パパ。私、パパが好き。」

「ありがとう。真実」と言うと、パパは手を伸ばして、私の手を握った。パパの掌は大きくて暖かいと、即座に思った。

 ダイニングからは、麻耶とグレッグの大きな笑い声が響いてきた。彼らの会話の所々で、「You love him」、「You Love her」あるいは、「I love him」、「I love her」などとよく聞き取れるフレーズも私の耳に届いてきていた。大きな彼らの話し声と共に。

「さあ、召し上がれ」と言って、麻耶はグレッグが持っているトレイから真実とパパの前にウエッジウッド製のカップをそれぞれ置いた。

「ねえ、真実。このミルクティーおいしいよ」と、茶目っ気のある微笑みと共に麻耶は私に声をかけた。グレッグはそれにウインクを付け加えた。私は一口、黄土色の液体を口に含むと「美味しい」と素直に答えた。

「そりゃ、そうよ。ここは、紅茶の国ですもの」と、知ったかぶり?の麻耶。

「このお茶葉は最高級です」と、グレッグ。

「仲良いね」と、私が立って給仕している二人に言うと、彼らは「イエーイ!」と叫んで、ハイタッチをし、再び応接室から何処かに消えていった。遠くで、グレッグの「お部屋を紹介します」という声と、しばらくすると「アメージング」という麻耶の大袈裟な驚きの声が奥の部屋の方から伝わってきた。

「パパ、ここには真由も来たの?」

「ああ、高校の短期留学があったろう? そのとき真由が来てくれたよ。」

「真由、パパに会ったといっていたけど、そのときの土産話を私にほとんどしてくれなかったよ。」

「そうかい?」

「『パパ元気だった』、というだけ。あと、『パパは幸せに暮らしていたよ』、と真由は言っていたの。」

「そう」とパパは素っ気なく答えて、私をにこやかに見詰めるだけだった。パパは、本当は私のことをどう思っているのだろう、と頭の片隅で考えていた。

「真実、本当にきれいになったね。大学に入り、中学生の時のように麻耶ちゃんと業界に復帰したら、また益々、輝き出したね。」

「そうかな。私は自分のことそんなには変わらないと思うけど。」

「そんなことないさ。そして、真由が亡くなったときから、真実は意識が変わったんじゃあないか? 大人になったというか。」

「それはあるかもしれない」と、私は自分の顎を幾度か引いてからパパに尋ねた。

「パパは、真由から何か私ことで言われたことある? 実は麻耶はどうも真由から私のことを監視しなさい的な感じで、命令されていたみたい。」

「それは考え過ぎじゃないか。」

「本当だよ。麻耶が白状したもの」と口にしたとき、麻耶が大きな声を出して応接室にグレッグとともに帰ってきた。

「小父様、このお家は凄い! 一体何部屋あると思う? 真実、日本じゃ考えられないよ。それにここのバルコニーからティムズ川に浮かんでいる帆船がライトアップされていて、とってもロマンチックだよ。恋人とこんな所に住めたら最高よ。ねっ、グレッグ。」

「そうだね、最高だよ」とグレッグは言うと、少々照れて頭を掻く仕草をした。

「そうだ、真実も見てきなさい」と、パパが私に促した。

「真実、行こう。この家、絶対、迷子になるから。私が一緒に行ってあげる」と、麻耶が私に手を伸ばした。「じゃ、パパ見てくるね」と私は言うと、応接室から二人で駆け出した。いくつかの部屋の扉を過ぎたあたりに立派なバルコニーがあった。私は自分の目の前の帆船がすぐにでも船出するように思えて仕方がなかった。自分の心を映像にするとこうかもしれないと思った。「私は旅立つ日を待っていたのかもしれない」と私は自分の中で呟いた。そのような決意的情景に自分の身を置いている私に麻耶は囁いた。

「真実、好きだよ」と。私は麻耶のいつものセリフと思い聞き流そうとすると、麻耶は私の頬を両手で自分の方に引き寄せた。これもいつものことと、思っていた。

「真実、好きだよ」ともう一度麻耶は言うと、オレンジリップを寄せてきた。私のベリーと密に繋がり、口内ではお互いのミルクティー味の舌が重なり合い、ドロリと混じり合った。私はこれも想定内と考えていたら、次に麻耶の唇は私の鼻先を塞いだ。少し息が詰まってきて、私は麻耶の上半身を優しく押し返そうとした。麻耶は私に強く腕を回した。

「真実が大好き」と、麻耶が息を吹きかけるように私の耳元でまた囁いた。私の身体が小さく熱くなってきた。何を意味するか分からずに条件反射的に、「ありがとう」と私は答えた。しばらく私たちは抱き合って、お互いの身体を弄っていた。その後、帆船の方に二人して向き直った。

「パパとグレッグ、幸せそうだよね」と、麻耶は一言いうとそれ以上は言葉を続けなかった。麻耶の手と私の手は恋人結びのままだった。


 翌日から、ハードな日程が始まった。この日はロンドンにしては珍しく一日穏やかに晴れていた。

少し眠い目を擦りながら、午前中は雑誌撮影のロンドン巡り。セント・ジェームズ公園、ロンドンブリッやエリザベスタワーがある国会議事堂などへも足を運んだ。麻耶の上着は深い藍色のブラウスで、白いギャザースカートにベージュのローヒール。私のトップスは白色のスリーブのジャージカットソーで、ボトムスはブラックのスリットセンタースラックスに白スニーカー。二人の耳には大きめの色違いのリング状の色違いのイヤリングが最初の撮影では揺れていた。

 午後三時からがM&Rのロンドン支店オフィスで、コレクションへ向けての打ち合わせが始まった。麻耶はこちらのファッション界でも顔が売れていた。一方、私は別室ですぐに簡単な面接を受けることになった。デザイン・メーカー関係やマネキン五社の担当者が私のウォーキングとポージングを確認した。カメラが私の一挙手一投足を捉えようと構えていた。真実自身、いつも何気なく何も考えずにやっていた動作が、いつもより硬く感じていた。こんなにも緊張する場面は私は今までに経験したことがなかった。いやに時間の経過が遅く感じると、初めて実感した。それだけ自分がガチで緊張しているのだと、私は心底自覚した。そういう自分がいることを人生で初めて意識した。

「オーケー、マミ」の声がかけられると、その場にいたスタイリストの絵美さんや安西先生と小百合が、加えて、室内の関係者が私に温かい拍手を送った。

「マミは若いときのマリコによく似ているね」と、パーティションの裏でドレスを着せてくれた中年の婦人が声をかけてきた。先ほどは、私の緊張を見てとったのか、その婦人は着付けがすんだ後、私の肩に軽く手を置いて、「Go ahead, Mami」と呪文のように私の額に彼女の唇が触れるくらいの距離で呟いてくれた。私はとにかく言葉を返さなくてはいけないと思った。「ありがとうございます。私のお母さんのことを知っているのですか?」

「よく知っていますよ」と、その婦人はそう言うと優しく私の手を両手で握ってくれた。そのとき、事務室で地元担当者と会場等の打ち合わせをしていた麻耶は透明なドアを開けるなり、その婦人に思いっ切り力強く抱擁された。

「マヤ、ご無沙汰ですね。」

「そうでもないわ、メアリー小母さま。」

「そうかしら? まあどうでもいいわ」と言うと、その夫人は大きな口を開けて豪快に笑った。私はその夫人の笑顔に凄味があるように感じ取った。

「マミ、こちらメアリー。こちらマミです」と、麻耶は真実と婦人の間に立って相互に振り返りつつ紹介の仲立ちをした。

「真実、真理子小母さまから聞いたことある?」

「何を?」

「メアリー小母さまのこと」と言って、真実の反応がないのを知ると、「仕方ないわね」と言って、麻耶は後の言葉を続けた。

「メアリーは若かりし頃、真理子小母さまと私のママとタッグを組んで欧州コレクションを席巻していたのよ。一時代を三人で築いたのよね、小母さま。」

「それは大袈裟ね。もう昔の話ね」と、メアリーが口を挟んだ。そこへ孝夫がグレッグとともに入ってきた。

「おや、My Sweet Devil.タカオ」とメアリーが言うと、孝夫はすぐにメアリーに歩み寄り、彼女の頬にシャロ―キスをした。

「メアリー、止めてくれる。僕に向かってMy Sweet Devilって言うのは。」

「どうして、あなたにはぴったりの名よ。何人の女を泣かしてきているの?」

「オーイ、メアリー。娘たちの前だぞ。」

「どうして、怒るのかしら?」とメアリーはお道化てみせて、お腹の辺りに手を当ててもう我慢できないという風に笑っていた。一息笑うと、メアリーは、あなたたちもいらっしゃいというジェスチャーをして、私と麻耶を孝夫の左右に立たせ、カメラマンを呼んだ。そして、パチリ。その後スタッフたちを呼んで、集合写真をパチリ。その場の雰囲気をメアリーはクィーンのように仕切り、場を和ませ盛り立てた。絵美はメアリーの存在に気付くと、恐る恐ると言っていいほど恐縮して彼女に近づいて来た。

「あのう、メアリー先生ですよね。私、昔から先生のデザインが好みで、あなたを目指してスタイリストになりました」と彼女は恥ずかしそうに言うと、握手のために手を差し伸べようとした。すると、メアリーは両手を広げ、絵美の上半身を抱き寄せた。

「あなたが絵美ね。日本のファッション雑誌であなたの名前は知っているわ。いいセンスしているわよ。でも、もう少し自分の本性を曝け出してもいいわ。いいモデルを抱えているのだから、控えめでありつつ、もっと大胆に悪戯して楽しまなくちゃ。私の所へ修行しに来る?」と、メアリーは微笑みながら絵美にアドバイスとオファーを出した。絵美がガチガチに固まっていたのは誰から見ても明らかだった。

「メアリー小母さまは、何者?」と、私は改めて麻耶に尋ねようとすると、孝夫があらまし次のように説明してくれた。かつて真理子と麻耶の母親がヨーロッパファッション界で駆け出しの頃、メアリーブランドもスタートしたところだった。しかし、メアリーブランドに手を貸してくれる有力なスポンサーが見つからず、困っているところに自分(孝夫)が登場し、日本のCMメーカーとメアリー、さらには近隣で新人モデルであった二人をコーディネートしたのが我々の出会いであることを、孝夫は語り、四人でよくパブに繰り出したと。父は懐かしい青春時代に思いを馳せているようだった。

「ふーん、そうだったの」と、パパたちの昔ばなしを聞いた私。

「やっと全貌が掴めたわ」と、腑に落ちたような麻耶。

 メアリーは、先ほどの三人の画像を真実と麻耶に見せながら、「あなたたち、親子だから口元はよく似ているね」と、さらりと言い放った。「あ、そういえば、私たち、みんな似ていそう」と、私もメアリーに同意したが、麻耶は、「そうかなあ」と疑問符を頭につけて首を傾けていた。少し離れたところで、孝夫は私のウォーキング等のテスト風景のビデオを眺めて確認しているようだった。その後、パパは地元の顔見知りに何かを指示し、次の取材現場へ向かったみたい。

 メアリーは麻耶と私に、雑誌・テレビ局番組取材とM&Rの主催するコラボショー、Lコレが終わったら、自分のショーに出演するように提案した。麻耶はすぐに日本のオフィスに連絡を取った。もちろん、こんなおいしい話に乗らないわけがない。二つ返事で、オフィスからはOKが出た。彼女たちの英国滞在は長丁場になってきた。


 Zテレビ局の「モデル二人旅―スコットランド編―」の収録のため、スコットランドに真実&麻耶御一行様は移動した。彼らはエジンバラやグラスゴウ、さらにはインバネスを経て、収録のメインとなるスカイ島へ向かった。スカイ島にはスコットランドのすべての地形と風景が凝縮されているといわれている。高校生のとき、真由が短期留学をした際にアイル・オブ・スカイ(スカイ島)という素敵な島があることを写真と共に私は説明を聞いたことがあった。あのとき、真由はダンベイガンでフェアリーに会った、と一言漏らしたのを覚えていた。そのときは冗談だと思っていたが、ここまで来る道のりの地形・気象や風土、さらには人懐こいケルトの人々と時間を共有するにつれて、真由の言っていたこともありうるのではと思うようになっていた。モデル二人旅でのMCは当然のことながら麻耶であり、私は天然系と言うキャラの振り分けがあった。しかしながら、それは自然なスチュエーションであった。

「明日は、このドレスを着るのよ」と、絵美が持ってきたのは、ヴィクトリア朝とアールヌーボーを思わせるレースが幾重にも重なった淡いピンクのドレスと黒のコルセットブラウス、バッスルスカート等ありと、まるで独りでも何役もこなしたら当時のパーティーが再現できるのではないかと思わせるドレスの数々であった。宿泊先のホテルも歴史的に古く、麻耶と過ごす部屋には十九世紀に描かれた黒蝶の写実的なスケッチ画がベッドの上部の壁面に飾られていた。

「この蝶、生きているみたい」と、麻耶がその額縁を見るなり怖がっていた。

「ねえ、麻耶。私、収録が終わったら自転車でユーイッグという所へ行ってみたい。」

「どうして?」

「だって、真由に見せてもらったの。ユーイッグの峠から見下ろした緑色の山々と鏡のように水をたたえている円形の池を」と言うと、私は空想の中で見えないはずの霧に覆われた窓の外を見詰めていた。到着した日は、終日、天候が不安定で、湿気を帯びた空気が辺りを覆っていた。

 その夜、麻耶はすぐに静かな寝息を立てていたが、私はなぜか寝付けなかった。私の目線の上に黒蝶が舞っていた。まさか、と真実は自分の目を疑った。漆黒に包まれていて識別できな闇の中で、薄ぼんやりと蝶の舞う姿を認めた。実際、黒い蝶は音を立てずに宙を舞っていた。真実はそれを怖いとは思わなかった。蝶は窓辺で、突然人型に変身した。

その情景を真実はベッドから上体を起こした格好で、目に留めていた。

「マミね、あなた」と、そのティンカーベルが確信がありそうに語りかけた。

「私です」、と自分でも驚くほど速く返事をした真実。まったく怖くなかった。

「知っているわ。マユから聞いていたから。」

「本当に?」

私は、自分が錯乱し、異世界に迷い込んでいるのではないかと少し不安になった。

「マユは、今、私たちの仲間に入ったのよ。」

「何ですって?」

「何って。彼女がそう望んでいたから。でも、ひとつ心配事があるって、以前から言っていたわ。」

「以前から?」

「そう。あなたたちがここに来る前からね。そういえば、ちょっと前にマユはあなたがいるそのベッドにいたわ。」

「このベッド

「私たちと波長の合う人間は稀有だけど、ごくたまに、あなたたちのような人間が来るのよね。ずーっと前にも、そのずっと前にも何人かいたのを覚えているわ。」

「それで、真由の心配事って?」

「あなたよ」と、ティンカーベルは強い口調で決めつけるように言葉を発した。

 再び、

「あなたよ。『中途半端な妹が気がかりでしかたがない。あなたの世界に生まれれば、きっと真実は苦労も悩みもしなかったかも』と、マユが漏らしていた。でも、実際、会ってみるとそうでもないみたいね。ちゃんとしている。」

「もしかすると、私のこと侮っていません?」

「そんなことないよ。事実を述べているだけよ」と言うと、ティンカーベルは羽を振るわせたかと思うと、真実の肩に腰掛けた。全く重みを感じないが、肩辺りが青白く光っていた。私自身からはその姿は見えなかった。

「マミ、マユが言っていたよ。『Go ahead』と」その言葉を発するなり、青白い光が肩口から消えたように思われた。どれくらい時間が経過したのかは見当が付かなかったが、私は麻耶に揺り動かされて我に返った。すでにかなり外は明るかった。正しく言うと、夏の緯度の高いエリアでは夜の時間は極めて短いのだ。時計を見るとまだ午前三時だった。

「何?」

「見たの、見たの、見たの。それにね、話したの!」と、何度も興奮気味に麻耶が捲し立てた。

「何を?」

「フェアリー、ティンカーベル!」

「馬鹿じゃない?」

「馬鹿じゃない。本物!」

 私は、麻耶の言うことが本当であると分かっていた。自分も見たのだから。さらに、自分はティンカーベルと会話をしたのだから。ティンカーベルは「あなたたち」と言っていた。ということは、私以外にも麻耶も波長が合うということ。だったら、不思議ではないと思った。

「それで、ティンカーベルはなんて言っていたの?」

「私に?」

「そう、あなたに。何て話したの?」

「『マミを宜しく』、って」

 私は、麻耶の背後にフェアリーの気配を感じ取っていた。

 

 収録は無事に終わった。が、ダンベイガン城での収録時、裾の長いドレスを階段の途中につま先で踏んでしまい、大きく前方に転びそうになった時、誰かが支えてくれたのを私は感じた。きっと、それはあの私を頼りなく思っている姉のよう態度の大きいティンカーベルではなかったかな、と思うしか他はなかった。


 私は麻耶に、さらには御一行様に宣言した通り、麻耶、小百合を巻き込んでユーイッグへ通じる山道にレンタルしたマウンテンバイクを走らせていた。スカイ島の天候は、というよりスコットランド自体の天候は刻々と変わる。麓の雑貨屋さんで買ったブルーのポンチョをラッシュパーカーの上に羽織った。デニムのショートパンツからレギンス足を出して、スニーカーを履く足に力を込めて登って行った。すでに、麻耶と小百合との距離は離れていた。当然、私が遅れていたのだ。私は濃い霧に独り囲まれた状態の中にいた。「Go ahead」と彼女の耳に誰かが囁いた。苦しくなるたびに、同じ囁きが聞こえてきた。遠くで、麻耶が叫んでいた。

「早く、早くおいで」と。また、私の耳に「Go ahead」と、今度ははっきりと聞こえてきた。真由の声だった。自分の息遣いが荒く、苦しくなるのを体感していた。霧が途切れてきた。峠にいる麻耶の同じブルーのポンチョ姿が視野に入った。そのブルーのポンチョが早く、早くと手招きをしていた。小百合も彼女の脇で幾度となくジャンプを繰り返していた。二人の許に着いた瞬間だった。下界を覆っていた濃霧がフウーと拡散し、目の前にあの円形をした鏡のような水面が緑の山々の中に姿を現した。本当に、あった!と、私は心で叫んでいだ。

「凄い! こんな景色初めて」と、麻耶。興奮しすぎて言葉が出ない小百合。

「うん!」と、眼を見開いた私。

 大粒の雨が急に三人を襲ってきた。三人はマウンテンバイクを投げ倒して、両手をつないで雨の中で、顔面を天空に向けて、「ワーイ、ワーイ」を繰返していた。昔、真由も含めて三人で子供服の撮影をした光景を私は鮮明に、突発的に想い出した。その日の撮影は屋外で、晴天で蒸し暑く、三人は少々体力的にへばっていた。突然、スコールのような雨が降り出すと、三人はスタッフの言うことを聴かず、砂浜を手をつないだまま、やはり「ワーイ、ワーイ」と叫んで駆けずり回っていた。そうだった。そんなに昔から私は麻耶を知っていたのだ、と自分の過去の映像に驚いていた。


 ロンドンに帰り、メアリーのショーに出演した。多くの人々がN劇場を埋めていた。何着かのメマリーの描いた服でランウェイを闊歩した。フィナーレで、思いもよらないことが待っていた。打ち合わせのときから、彼女がデザインしたレースの白いウェディングドレスを麻耶と私が着用することは決まっていたのだが。背中を大胆に見せたウェディングドレスを私が、美脚を強調するようにフロントをカットしたウエディングを麻耶が着ることになった。私たちがステージ上で、フィナーレの定石通り、最後にデザイナーを呼び出し、メアリーを中心に挨拶をした。メアリーは自社ブランドの白い縦襟のブラウスにローズレッドのスーツ姿で登場した。すると、メアリーは舞台の左右の袖に向かって、誰かに向かって手招きをした。

「お母さん?」

私は白い手袋をした手を口元に当てた。本物のお母さん?

 母はパステルピンクのスーツをビシッと決めで、もう一方からは、M&R社長(麻耶の母)がスカイブルーの同じスーツ姿で颯爽と現れ、真実と麻耶のそれぞれの手を取った。会場は割れんばかりの拍手の渦に包まれた。壇上の五人のレディーはつないだ両手を高々と揚げ、そして、深々と頭を下げた。顔を上げると、メアリーが大きな声で叫んだ。

「Our daughters!」

「Happy Birthday, Mami」と、メアリーは、今度は真実の耳元に小声で囁いた。私はまったく自分の誕生日であることなど忘れていた。真由の死後、すべての自分の人生の時間軸と空間軸が大型台風の渦の中でシャッフルされたかのようだと、感じていたから。

 私の瞳は濡れていた。舞台のスポットライトがあまりにも眩しく映った。劇場の衣裳部屋には、もう一着の純白の袖のフリルが気品を感じさせるウェディングドレスが置いてあった。それは、真由が着るはずのものだった。


 私は、真由の部屋を整理しようとしている。真由には感謝の言葉しかない。一つのことを除いては。

 三日後、母が部屋の片づけにやって来る。その後、私の異母姉妹の姉麻耶がここの住人となる。これから私たちの新しい共同生活がスタートする。ヨシの記憶はまだ元に戻らないまま、現在に至っている。ヨシに真由の死を伝えることは私の重大な役目。そのことがヨシと私の新しい愛のスタートだと思っている。私はヨシと結婚する。二十歳の私は、自らの性と身体を決めることができる(すでに法改正があり、十八歳から性別変更は宣言できるようになっている)。でも、愛する男の子供を設けることは私には、到底不可能なこと。私のささやかで厭らしく狡猾な次案は、麻耶に代理出産してもらうこと。

 真由が劇中で演じたジャンヌ・ダルク(次案怠子)は声高に言っていたはず。「やりもしないプランだけ立てる、何てナンセンス! あー、怠い。次案を考える前にすることがあるでしょう」と。また、彼女が語っていた人生についての言葉、「パーンとスターターがピストルを鳴らすと、競技者は一斉に走り出す。そのとき他人のことなど考える余裕はない」って。私は死ぬまで、「良き人間」になれない気がする。

           

 あの異国のフェアリーが私の耳元で、聞こえないはずの羽音を響かせたような気がした。わずかな大気の振動の影から懐かしい穏やかで優しい声が聞こえてきた。

「Go ahead. After my death, I am loving you, Mami.」

                                   

                  (了)

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妖精は囁くー真実(マミ)の青春・恋愛模様ー 稲子 東(トウゴ ハル) @tougo-haru

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