scene.3

「高校二年生のときのマラソン大会は何位でしたか?」

「なんて?」


 急カーブで投げられた質問に反応できず、間抜けな声が出た。


「先生ですよ」

「そんなの覚えて――いや、待てよ。うちの高校マラソン大会あったかな? ……あ、あった。ありました。えっと、そうだ一位ですよ。当時は自慢してたのにすっかり忘れていた」

「弟さんは?」

「知りませんよ。自分の順位も覚えていなかったのに。それがなんですか?」

「いや、かけっこが速い上にマラソンも得意だなんて、万能じゃないですか。ズルいですよ」

「野球部って結構、徒競走も持久走も得意じゃないですか?」

「一概にそうとは言えませんよ」

「一体、なんの話ですか」

「いえ、私も野球をやっていたのでつい」


 榊さんが野球をやっていたとは初耳だ。


「先生たちご兄弟はたしか、仲は良かったんですよね」

「そうです。性格は正反対だけど仲は良かった。冴えない弟だけど、作文が得意でした。作文コンクールでは入賞の常連でした。文才があるんだと思いました。それで、将来は小説家になりたいと」

「そう思うようになった」

「みたいです」

「先程から少し気になるのですが」

「何でしょう?」

「朝比先生ご自身についての話より、弟さんについての話の方がかなり具体的ですね」


 少し甘いコーヒーを喉に押し流すように、ゆっくりと飲み込んだ。


「弟が死んだのは、おれのせいなんです。おれのせいで事故に遭って、弟は死んだ。だから、代わりに小説家になろうと思った。せめて弟の夢を叶えてあげたかった」


 もしも、生き返らせることができたなら。事故に遭う前の時間に戻りやり直すことができたら。命を救うことができればどんなに良かっただろう。


 フィクションでは都合よくタイムリープが存在するが、現実では時間を巻き戻すことも遡ることもできない。悔やんでも悔やみきれない。


「そういう想いからあの物語は生まれたんです。もしも、やり直すことができたら。架空の世界でも、別の時間軸でも、異世界でも。とにかく何でもいいから、自分の知らないどこかの世界で、生きていてほしかった」

「そうですね」

「でもね、榊さんはよくご存じのとおり、おれにはもともと小説家の才能があるわけではないんです。必死で努力して、勉強して、やっとここまできたんです。文章も平凡。構成もキャラ作りもかなり苦労しました。斬新なアイディアを生むこともできない。いつも榊さんの掌の上で踊らされて」

「なんのことですか」

「いえ、なんでも。とにかく、新作と言われても何のインスピレーションも湧きません。所詮、自分はここまでの人間です」


 しばらくの間、静寂が続いた。


 何かを思案するように榊さんは一点を見つめている。その瞳孔には今、おれの姿は映っていないようだ。

 耐え切れず、先に沈黙を破った。


「わかっていただけましたね。もう作家を続ける意味がない」

「先生の言い分はわかりました」

「言い分? 十分な引退理由でしょう」

「ところで先生」

「今度はなんですか?」

「弟さんがもしも生きていたら、次回作は何を書いていたと思いますか?」


 返す言葉に詰まった。雄弁な編集者は続ける。


「弟さんがもしも生きていたら、今頃、どんな物語を書いたんでしょうかね」

「わかりませんよ。おれには思いつかないような、なんか、すごい話を書いたんじゃないですか」

「読んでみたかったですね。天才小説家の原稿」


 すみませんね。生き残ったのがおれで。そう言いかけたがやめた。

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