第60話 【最終話】聖教国マケドニア潜入

【聖教国潜入編】偽りの神の都


 聖教国マケドニア。


 ヴェルトが告げた地名――東の森の旧修道院跡。その名を聞いた瞬間、アリスターは彼の声がわずかに沈んだのを感じ取った。仮面越しであっても、言葉に宿った微かな感情の揺らぎは隠せないものだった。


 「そこに、抜け道がある。聖教国の外郭の中に繋がっている、昔使われていた修道女たちの脱出用通路だ」


 静かに告げられたその声には、かつて失ったものへの悔恨と怒りが、深く滲んでいた。


 「それって、いつ頃の話なの?」


 問いかけたのはエリーゼだった。彼女の声にはわずかに緊張が混じっている。


 「少なくとも二百年前のことだ。記録からは消されている。……神殿の闇に気づいた者たちが、密かに外の世界へと逃れるために使った道だ」


 その言葉に、一同は黙り込んだ。


 ヴェルトはさらに続ける。


 「聖教国の領土は狭いが、全域が特殊な結界に覆われている。正面からの入国は、教団に認められた信者に限られ、審査も極めて厳しい。正門突破は現実的ではない」


 「だから、裏道を使うのね」


 エリーゼの言葉に、ヴェルトは頷いた。


 「そうだ。東の森にある旧修道院の地下通路を使い、聖教国の外郭へ侵入する。通路は荒れていて危険だが、敵の目を避けるには最適だ。中へ入ってしまえば、内部での行動は比較的自由だ。信者の装いを整えていれば、不審に思われることも少ない」


 東の森――人里離れたその地は、深い霧と深い森に囲まれた危険地帯。しかし、同時に敵の監視が届かない理想的な潜入経路でもあった。


 「まずは入国。次に神殿に侵入する。神殿に侵入するには、教会の墓場の裏手にある井戸に入れ、その底から地下水路へと進むんだ」


 ヴェルトが地面に広げた羊皮紙の地図には、風化した墓場の構造、朽ちた井戸、そして迷路のような地下水路が克明に描かれていた。


 「墓場の裏にある井戸を下りて、地下水路を進め。三つ目の分岐路を左に。右は……行き止まりだ。間違えるな」


 アリスターは黙ったまま地図を見つめ、目に映る線と点を、刻み込むように記憶していった。


 「ふふん、任せてよ。ボクの魔法と頭脳があれば、こんな迷路なんて怖くないさ」


 口調は軽いが、その瞳には冷静な光が宿っていた。


 隣ではダリルが、震える手で地図を慎重に写し取っていた。インクがにじみ、筆先が数度迷う。


 「……聖女クラリスの……名誉のために。……拙者、命を懸ける覚悟はできています」


 そのかすれた声に、誰もが目を伏せた。静かに、だが確かに空気が変わっていく。


 「オレもだ」


 マスキュラーが短く言った。それだけだったが、十分だった。


 そして、エリーゼが一歩前に出る。


 「行こう。わたしたちの力で、真実を取り戻すのよ」


 その言葉に、全員が頷いた。


 霧が立ち込める北の断崖。そこに待つのは、崩れかけた遺跡と、今なお蠢く闇の記憶。


 けれどスプレーマムは進む。信じるものを胸に、失われた真実を取り戻すために――。


 その夜、彼らは焚き火を囲み、静かな時間を過ごしていた。多くを語らず、それぞれが思いを胸に秘めていた。ふと、ダリルが口を開いた。


 「……ガーラン殿が、あれほどの痛みを抱えていたとは。拙者、気づきませんでした」


 アリスターが顔をしかめる。


 「誰のこと? その“ガーラン”って」


 「……ああ、いえ。ただの、夢で見た名前です。気にしないでください」


 無理に笑ったダリルの横顔には、それでもどこか揺れる決意の色が浮かんでいた。


 エリーゼは黙ったまま、焚き火の揺れる炎を見つめていた。その瞳の奥には、別れを惜しむような、あるいは何かを抱きしめるような、複雑な光が宿っていた。


 そして、アリスターはそっと空を見上げる。


 「ボクたちは……戻ってこられるよね」


 誰に向けた言葉でもないそのつぶやきに、返事をする者はいなかった。


 夜は、静かに、深く、更けていった。



◆《黄昏の遺跡 ― 真実へと至る道》◆


 夜が明ける頃、霧は森を深く包んでいた。


 冷たい空気に、湿った土と苔の匂いが混じる。空には薄い朝焼けが浮かび、鳥たちのさえずりがどこか遠くで響いている。スプレーマムの一行は、東の森の深部――忘れられた旧修道院跡の前に立っていた。


 崩れかけた尖塔、蔦に覆われた石壁、そして半ば沈んだ礼拝堂。その静けさは、まるで時が止まってしまったかのようだった。


 「ここか……」


 アリスターが、呟いた。


 その声に応えるように、ヴェルトが前に出る。仮面の奥から見える視線が、ゆっくりと廃墟をなぞるように動いた。


 「礼拝堂の奥、かつて聖職者が“沈黙の祈り”を捧げた祭壇の裏だ。そこに隠された扉がある。重いが、開けられるはずだ」


 彼の言葉通り、祈祷台の裏には苔に覆われた石の扉が存在していた。エリーゼとマスキュラーが力を合わせて押すと、長い年月で鈍った金属の軋みとともに、石の扉がゆっくりと開いた。


 そこには、冷気の満ちた闇の通路が、まるで奈落へと続くように口を開けていた。


 「準備はいい?」


 エリーゼが皆を見回す。全員が頷いた。


 「なら……行こう。真実へと通じる道を、わたしたちの足で切り拓くのよ」


 彼らは一歩、また一歩と、地下通路へと足を踏み入れた。


 狭く、湿った通路には、かつて修道女たちが歩いた気配がかすかに残っているようだった。壁に刻まれた祈りの言葉、落ち葉と共に朽ちた白いヴェール、そして所々に置かれた、今にも消えそうな聖印の灯り。


 「まるで……時間の迷宮ね」


 エリーゼの言葉に、アリスターも小さく頷く。


 「でも、進むしかない。ここを抜けなきゃ、神殿に届かない」


 通路を進みながら、彼らは徐々に地下水路へと接続する古い構造に辿り着いた。湿気とカビの匂いが濃くなる。水音が耳に触れる。


 「三つ目の分岐路を、左――だったよね」


 アリスターが確認するように地図を見つめる。隣で、ダリルが慎重に頷いた。


 「右は行き止まり。……たぶん、ワナがある」


 左の道へと進むと、足元の水かさが増していった。胸元まで水に浸かるような場所もあり、進行は難航したが、それでも誰一人として文句を言わなかった。


 「見えてきた……あれが、聖教国の外郭内部」


 ヴェルトの指差す先に、地下水路の終端――朽ちた鉄格子が現れた。マスキュラーが工具を取り出し、音を立てずに錠を壊す。


 鉄格子の向こうには、広大な石の回廊が続いていた。


 そこは、かつて使われていた地下の聖堂跡。今では誰にも知られぬまま、闇に閉ざされていた空間。


 だが、確かに――神殿へと繋がる道だった。


 「やっと……中に入れたわね」


 エリーゼの安堵の声。しかし、油断はできない。聖教国の内部は、目に見えぬ監視と結界に覆われている。


 「ここからは、信者として振る舞うのよ。衣装を着て、祈りの言葉を口にするの。いいわね?」


 エリーゼが小さな袋を取り出し、中から聖教国の修道服を配り始めた。アリスターやダリルもそれに着替える。彼らの目は、これまでとは違っていた。迷いはなかった。むしろ、冷静な決意に満ちていた。


 地下聖堂を抜け、ようやく外郭の町へと出たスプレーマムの面々は、目立たぬように祈りを捧げながら、神殿のある中央区へと歩を進めていく。


 すれ違う信者たち、巡回する神官。緊張はあったが、誰も彼らを疑う様子はなかった。


 「順調だわ……このまま井戸に向かう」


 エリーゼが小声で囁く。アリスターが頷く。


 だが――その時。


 「そこの者、少しいいか?」


 背後から、男の声がした。振り返ると、神官服を纏った壮年の男が、静かに彼らを見つめていた。


 「その衣……見慣れないな。どこの教区だ?」


 空気が張り詰めた。


 アリスターが、一歩前に出る。額にうっすら汗を浮かべながら、穏やかに口を開いた。


 「……北方巡礼教区より。道中、盗賊に襲われ、証明書を……失いました」


 しばしの沈黙。男は彼を見つめたまま、微かに眉をひそめた――が、やがて、ふっと笑った。


 「……そうか。それは、災難だったな。祈りが君たちに届かんことを」


 男はそう言って、去っていった。


 緊張が一気に緩み、全員が息をついた。


 「……ふぅ、心臓止まるかと思ったよ……」


 アリスターが額をぬぐいながら笑った。その笑みに、皆も自然と微笑みを返した。


 そのまま彼らは井戸へと到達し、地下水路へと再び身を投じる――神殿、そして“真実”の核心へ。


 その行く先には、まだ数多の困難と闇が待ち受けているだろう。けれど、彼らはもう迷わない。


 たとえ深淵の中に立たされようと、仲間がいれば越えられると信じていた。


 ――そして。


 いつか、その旅が終わるとき。彼らの語る物語は、きっと誰かの希望になるだろう。


 静かに、地下の水音が響く。


 旅の終わりは、まだ遠い。


 だが、確かに。


 わたしたちの旅は――まだまだ続く。


     【完】

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異母姉に婚約者を奪われ、婚約破棄されたエリーゼは、王子殿下に国外追放されて捨てられた先は、なんと魔獣がいる森。そこから大逆転するしかない?怒りの復讐劇が今、始まる! 山田 バルス @nanapapa

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