第2篇『頬色の情熱と青』第1部

前編

第2篇『頬色の情熱と青』

好きは、鈍器にもなる。

ライト文芸 × 心理ラブミステリー──感情の誤読、青春の謎解き。


***


第1章 熱意の瞳


「おい、お前。」


静まり返った部室に、張りのある声が飛び込んできた。

椅子の背にもたれていた身体をゆっくりと回すと、扉の向こうに彼女が立っていた。胸元まで伸びた艶やかな黒髪。揃えられた前髪がきちんと額を覆い、わずかに大きい制服のブレザーが、彼女の幼さをより際立たせている。


「椿さんじゃないか。今日は天文部が休みなのに珍しいね。」


僕は机の上の教科書をぱたりと閉じながら答えた。


「珍しくもないだろう。……まぁなんだ。お前と話をしたかった。」


彼女はゆったりと部室の真ん中まで歩いてくる。革靴の音が静かな室内に響いて、空気が少しだけ引き締まる。


「僕は椿さんの暇つぶしの相手じゃないんだけどな。」


軽くからかうと、彼女の眉がわずかに動いた。怒りというより、拗ねたような表情だ。その顔を見ると、僕の心にふっと安心感が広がった。


椿は学年一の才女だ。成績優秀で口も達者だが、感情を隠すのは下手で、すぐに表情に出る。その不器用さに、つい目を奪われてしまうことがあった。


「大丈夫だ。今日は暇つぶしじゃない。お前に話したいことがある。」


彼女は机の縁に腰掛け、少しだけこちらを見下ろすような視線を投げかけた。


「うーん、僕には話すことがないんだけどなぁ。」


そう言いつつ、僕は鞄を少しずらして横に置き直す。長話になることを覚悟した。


「また、そんなことを言って。今回は重要な話だ。」


彼女がスカートの裾を指でつまんで整えながら背筋を伸ばす。その何気ない仕草が妙に印象的で、僕は思わず視線を逸らした。


「また、何か企んでる?」


「企んでるわけじゃない。お前、この部活の活気のなさ、嫌じゃないのか?」


「嫌じゃないってか、この活気のなさがいいんだよ。」


僕は椅子の背にもたれ直し、天井の蛍光灯をぼんやり見つめた。部室は今も僕ら以外誰もいない。聞こえる音といえば、窓の外で木の枝が風に揺れる音くらいだ。


「ふふふ、素直じゃないな。観望会にはいつも参加してるじゃないか。」


「まあ、せっかくだからね。」


口では適当に流しつつも、心の中では苦笑する。何も活動がない部活にいるのは嫌だが、将棋部や化学部のような賑やかなところも苦手だ。結局、この程よい静けさが僕にはちょうど良かった。


彼女は机の縁から滑り降りると、部室の前方にある教壇まで歩いた。振り返って両手を腰に当て、大きく息を吸い込む。


「そこでだ。部活活性化と部員勧誘のため、クリスマスに大きな観望会をやる。」


その姿はまるで、小さな演説を始めたようだった。


「はぁ?クリスマスにそんな地味なイベントやっても誰も来ないでしょ。」


「そんなことないぞ。クリスマスに星を眺めるイベントだぞ。ロマンチックじゃないか。」


自信満々な口調で、彼女の視線が天井の先へと向かう。その瞳には、まるで星空が映っているかのようだった。


「でかい望遠鏡で星をのぞくだけでしょ?」


無表情を装って答えたが、口にした直後に少し罪悪感を覚えた。屋上の観測ドームは学校案内の売りだが、実際には夜間の活動がほとんど許可されていない形だけの施設だ。


「そのでかい望遠鏡で星をじっくり観察して、二人で感想を言い合うんだ。しかも年に一度のことだぞ。こんな体験、他にない。私はすごく興奮するぞ。」


椿はそう言って教壇を軽やかに降り、長い髪を揺らしながら部室内を歩き回った。スカートをつまんで回る姿は、どこか夢見心地のように見えた。


……やっぱり、面倒なことになりそうだ。


「顧問が許さないんじゃない?」


牽制のつもりで聞いた。クリスマスの夜に学校でイベントを開催するのは現実的に難しいだろう。


しかし、椿は得意気な笑みを浮かべて即答した。


「それは、大丈夫だ。すでに打診して仮の許可は得てある。お前、知ってるか?あの顧問、娘が中学生で絶賛反抗期中だ。そこで中学生に見えるわたしが目を潤ませて頼んだら、いちころだった。まあ、単純に家に居場所がないのかも知れないが。」


椿は内ポケットから使用許可書を取り出し、ひらひらと誇らしげに見せた。


「ホント、どんなやり方してるんですか。」


僕は思わず苦笑をこぼす。顧問も顧問だが、彼女の交渉術にも舌を巻く。


「ふふふ、これも、わたしの魅力がなせる技だ。」


彼女の顔に微かな優しさが滲んだのを、僕はこっそりと目を伏せてやり過ごした。


……とはいえ、この企画はたぶん成功しないだろう。少なくとも現状のままでは。僕の頭には、うつむく彼女の姿がちらりと浮かんだ。


それでも、もし僕がやるなら――。


「それよりも、学校の近くにある港で恋愛にまつわる星座の話をして、その後近くの山手の神社で星を見る方がロマンチックだと思うけどな。」


脳裏には、明治時代から残るレトロな街並みとイルミネーションの煌めく港が浮かんでいた。


椿が僕を見て、小さく口角を上げる。


「だめだな。港は人が多すぎるし、神社も明るすぎる。顧問の手前、高校のアピールも必要だ。……まぁ、恋愛の星座は悪くないかもな。」


否定されたが、不思議と嫌な気分はなかった。彼女が少しだけ僕の意見を取り入れてくれた気がしたからだ。


椿は満足げに言った。


「よし、準備をしよう。まずチラシ作成だ。担当はお前な。」


僕は思わず目を見開いた。


「えっ、僕もやるの?」


「当然だろう。お前は副部長だし、改善案まで出したんだから。」


彼女の瞳には決意が宿っていた。


結局、僕はいつも通り椿のペースに巻き込まれていた。


「そ、それにな。どうせお前はクリスマス暇だろ?」


椿が唐突に付け加える。


「寂しく過ごすくらいなら、みんなで何かやったほうが楽しいと思わないか?」


当然と言わんばかりの表情で僕を見つめる。確かに、今年のクリスマスは暇だった。いや、去年もそうだった。胸の奥に、鈍い痛みがじんわりと広がった。


「……いやまぁ、暇だけどさ。」


言葉が微かに震えながら口をついた。その微妙な間を、椿はしっかりと感じ取ったようだ。


「よし決まりだな! わたしはもう一度、顧問と話をしてくる。また明日、部室で会おう。」


そう言うと、彼女は今日一番の明るい笑顔を浮かべて、くるりと踵を返した。制服のスカートが軽く揺れて、足音だけが静かに余韻を残した。


クリスマスまであと一ヶ月。イベントの準備期間としては短すぎる。けれど、不思議なことに椿の計画は着実に進んでいた。……いつも通り、結局僕は彼女のペースに飲み込まれているようだった。


窓の外を眺めると、校庭の木々が夕暮れの風にざわめいている。数枚の落ち葉が、グラウンドを滑るように横切っていった。


帰り道、レトロ通りを歩きながら、この一年の天文部での出来事をぼんやり思い返していた。


椿とは入部のタイミングが同じだった。入学直後の見学の時点から、彼女は先輩の説明に真剣に質問を投げかけ、その姿勢に先輩たちが戸惑うほどだった。


聞くところによると、彼女はもっと上位の高校にも行けたらしい。それでもこの高校を選んだのは、天文部があったからだ。ところが実際には、部活はほぼ幽霊部だった。彼女がどれほど失望したか、今なら少し理解できる気がする。


それでも椿は諦めなかった。活動を不定期から週一に変え、自らイベントを企画し、部員を巻き込もうとした。


……しかし僕を含め、ゆるさを求めて入部した同級生たちは、その熱量についていけず、徐々に部室から足が遠のいていった。


彼女は、自分の情熱が誰にも伝わらないことに、ずっと悩んでいたに違いない。


家に着いた頃には、すっかり夜の帳が降りていた。


靴を脱いで部屋に入り、ブレザーを椅子の背に掛ける。今日の椿との会話を反芻するたびに、小さな後悔が胸に積み重なっていく。


とりあえず、チラシについて考えよう。そう思ってパソコンを起動したものの、美術センスのない僕の頭はすぐに限界を迎えた。


ふと、後輩が美術部に知り合いがいると言っていたのを思い出す。


僕はスマホを手に取り、その後輩にメッセージを送った。


***


第2章 揺れない前髪


翌日、いつものように部室でぼんやりとしていると、椿が姿を見せた。


「今日は部活がないのに珍しいね」と軽くからかうと、「お前は頭脳明晰な鳥のようだな」と彼女は妙な例えを返してきた。


椿は教壇の前に立ち、片手に資料を持っている。いつもの自信に満ちた振る舞いだが、その表情にはどこか浮ついた気配が漂っていた。


「こちらは、ちゃんと顧問の承諾を得てきた。まぁ、事前の根回しもあって楽勝だな。それでお前の方はどうだ?」


「デザインは翔馬が美術部の知り合いに頼んでる。あいつ、大人しそうに見えて顔が広いから。文言はまだ考え中だけど、その辺のチラシと似たような感じでいけるでしょ。まず大事なのはデザインだからね。」


正直、いい加減な答えだったが、僕は何事もなかったかのように適当に流した。


「流石だな。行動が早い。文言は明日の部活で皆の意見を聞くのがいいだろう。現時点ではその程度がちょうどいいな。お前はなかなかできる男だ。」


予想外に褒められて、妙に気恥ずかしかった。


「よし、目処はついた。いつもありがとうな。」


「お、おう。」


さらりと伝えられた感謝の言葉に、僕はつい視線を逸らした。普段偉そうな椿だが、こういう節目ではきちんと礼を言う。ずるいと思いつつ、内心では少し嬉しかった。


すると突然、彼女の口調が微妙に変わった。


「そ、それでだな。お前に、ちょっと質問がある。」


声にわずかな震えが混じっている。握っている資料の端がかすかに揺れているのが見えた。


「何か用?」と僕は軽く返したが、その一言で椿の表情がほんの少し固まった。


「お、お前はどういう人間だ? どんなことに興味がある。」


唐突な質問だった。椿の瞳はまっすぐに僕を捉え、問いというより何かを確認しているかのようだった。


戸惑いながらも、僕はすぐに答えた。


「急に聞かれても困るなぁ。僕は椿さんみたいに優秀じゃなくて、普通の人間だよ。興味はこれって決めてるわけじゃなくて、いろいろ。椿さんはホントにすごいよねぇ。頭もいいし、天文部でも情熱的で。学年一の才女って噂もあるし。」


言葉を選んだつもりだったが、その奥にはわずかな劣等感が潜んでいたかもしれない。


椿の反応は、予想外だった。


「お、お前の興味はそんなものか! 本当につまらない男だな。お前には情熱ってものがないんだ。」


突然の強い言葉に、僕は一瞬言葉を失った。


「そんなことないよ。僕なりに情熱を持って生きるつもりだって。……どうしたの、急に?」


「本当にそうか? そうだといいな。だが、わたしにはお前の情熱が伝わってこない。」


椿の声は強く響きながらも、どこか寂しげだった。何か期待していたことが裏切られたような、そんな響きがあった。


「えっ、そうかな? どうすれば伝わると思う?」戸惑いつつ問い返す。


「どうすればいいかだって?!」


椿の声が高く跳ね、抑えきれない感情が溢れ出した。


「そんなこと自分で考えるべきだ。お前が情熱を持っているとわかったら、わたしに教えるんだな。それで……これから話を続けられるかどうか決める。」


椿の頬が薄く赤く染まる。それは怒りなのか羞恥なのか、あるいは別の何かなのか、僕にはわからなかった。


「……は、はい。わかりましたよ。情熱を持っていることがわかったら、ちゃんと伝えますよ。」


素直に返したが、椿の言った「話を続けられるかどうか」という言葉が妙に胸に引っかかっていた。


「ふん。それじゃあ今日はこれで切り上げる。また今度、時間があるときにでも話をしよう。」


椿は振り向き、いつも通り揺れない前髪を揺らしながら部室を出ていった。閉じかけたドアの隙間から、外の木々が冬の風にざわめくのが見えた。


その夜、布団に横になりながら僕は天井をじっと見つめていた。


椿があそこまで感情を抑えきれずに声を上げるのは初めてだった。あの言葉にはただの怒り以上のものがある気がした。


彼女があんな質問をした理由は何だろう? 一体何を期待していたのだろう? どうしてあんなに苛立っていたのだろう?


明確な答えは出なかったが、ふと椿との思い出が浮かんだ。


僕たちが少しずつ親しくなり始めた頃のことだ。


たしか、去年の今頃だった気がする。


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