後編

第3章「悲しみの眉」


「これが、小惑星探査計画の概要だ。それで、小型探査機を近くの工業大学で実験するとかなんとか聞いたぞ。あそこも航空宇宙をやってるからな。なにか、一緒にできないだろうか?おい、聞いているか?」


黒板には椿が描いた小惑星探査のイメージ図と計画の流れがチョークで丁寧に書かれていた。椿は教壇の前で熱心に身振りを交えながら話を続けている。いつも通り自信に満ちているものの、どこか熱がこもっていて、頬にはうっすらと赤みが差していた。


僕は椅子に座り、肘をついたままその様子を眺めていた。


「ん? ああ、ぼちぼち聞いてるよ。小惑星って簡単に行けそうだけど、案外大変なんだね。なかなかドラマがある感じ? うまくいくのかな。」


僕の声はいつもの調子だった。興味がないふりをしながらも、実際は彼女の話を聞いていた。


「お前は、いつも聞いてないふりをして、意外とちゃんと話を聞いてるな。本当は、天文に少しは興味があるんじゃないか?」


椿は少し微笑んで言った。からかうような口調だったが、どこか嬉しそうにも見えた。


彼女の情熱は変わらず真っ直ぐだ。だが今では、その情熱に耳を傾けるのは僕ひとりだけだった。


「そうかな? まあ、話の内容によっては、ちょっと面白いと思ってるよ。全部は理解できてないけど。」


正直、小惑星の話は意外と面白かった。難しい内容だが、椿の熱っぽい語り口には不思議な説得力があって、聞いているうちに少し引き込まれてしまう。


「お前が天文部の活動に毎回参加しているのは、それが理由なのか?」


椿の声が少し低くなった。僕の表情を探るように、じっと見つめてくる。


夕日が教室の隅から差し込み、黒板の図をぼんやりと照らしていた。


「ん〜、まあ暇だからね。」


曖昧に言葉を濁した。確かに暇ではあったが、それだけが理由ではない。


「お前、いつも『暇だ』って言ってるが、それは本当なのか? 中学の頃から付き合ってる彼女がいると聞いたが。」


椿の視線が少し鋭くなる。


沈黙が降りる。僕は目を逸らし、手元のペンを無意味に回した。椿の鋭さにはいつも敵わない。


「……いや、詮索してしまった。悪かった。」


椿は目を伏せて口をつぐんだ。先ほどまでとは打って変わって、彼女の声には力がなかった。


「椿さんが謝ることないよ。」


小さく笑いながら答えた。彼女に謝られると、逆にこちらが申し訳ない気分になる。


気づけば僕は、椿の前で素直な言葉を初めて口にしていた。


「そうだね。春頃は彼女とよく出かけてた。高校が違って話も新鮮だったけど、そのうち噛み合わなくなった。向こうも忙しくなったみたいだし、最近はあまり会ってない。……まあ、それで暇ってわけ。」


明るく振る舞ったつもりだったが、胸の内にはざらついた感情が残った。


ふと椿を見ると、彼女の眉が静かに下がっていた。不揃いな眉に悲しみが宿っている。


「お前はすごいな。そんな辛い思いを抱えてても、いつも冷静にしていられるなんて。わたしには到底真似できない。そんなことも知らずに、部活に付き合わせて悪かった。……天文部、嫌なら辞めてもいいんだぞ。」


椿の声は微かに震えていた。いつもは強気な彼女が自分を責めている。その姿を見るのが少し辛かった。


僕はその気まずさをごまかすように、軽く笑いながら答えた。


「別に嫌ってわけじゃないよ。彼女とも天文部の話はしてたし、椿さんの……変なキャラとか、面白くて、ネタにしてたし。」


「お前、私をそういうふうに見てたのか?」


「はは。椿さん、ちょっと変わってるでしょ? 自分でもそう思ってるんじゃない? でも僕は、そういうところ好きだよ。僕は普通の人間だから、そんなふうに振る舞える強さはないし。」


言い終えてから、少しだけ後悔した。彼女がどう受け取ったか、全く予想がつかなかった。


しかし椿は何も返さず、ただ頬をわずかに紅潮させて顔を逸らした。


僕はその様子を見て、小さく安堵した。


あの頃から僕と椿の距離は少しずつ近づいていった。その後も椿は積極的に話しかけてくれて、僕も少しずつ天文学に興味を持つようになった。彼女の情熱は、何も感じず生きていた当時の僕にとって新鮮で刺激的だったのかもしれない。


椿と過ごした日々を思い返しながら、あの日の彼女の問いかけの意味を、今さらながら理解できたような気がした。



***


第4章「星に願いを」


翌日、天文部の週一回の定例会が開かれた。僕は当然、椿が現れるものだと思っていた。昨日のやり取りの続きを、心のどこかで期待していたのだ。


けれど、彼女は姿を見せなかった。


椿が部活を休むなんて、一体いつ以来だろう。彼女自身が情熱を注いでいた観望会、その準備の日に限って欠席するなど、予想すらしていなかった。


僕は無意識に、手元のペンを強く握りしめていた。


「先輩、今日の定例会で観望会の話をする予定でしたが……椿先輩がいないので、どうしましょうか?」

後輩の瑠璃が、眼鏡の奥の不安げな瞳をこちらに向けてくる。几帳面で真面目な彼女がこんなふうに揺れているのを見るのは、初めてだった。椿がいないという現実を改めて告げられ、胸の奥がぎゅっと痛んだ。


——僕は、何かを壊してしまったのだろうか。


椿が築いてきたものまで、失ってしまうような気がしてならなかった。


「予定通り進めよう。椿が立てた企画だから。」


自分に言い聞かせるように資料に目を落とす。彼女がいない今だからこそ、誰よりも率先して動かなければならない。


瑠璃は黙って頷き、しばらく資料を見つめていた。


「……先輩は、ずるいですね」 瑠璃は、机の上の資料を一枚めくりながら、そうつぶやいた。



──準備にはふたつの課題があった。


ひとつは僕が提案した「恋愛にまつわる星座の話」と、それに連動するプラネタリウム機材の投影準備。


もうひとつはビラに使用するキャッチフレーズの決定だった。


プラネタリウム機材については後輩の一人が、「椿先輩が手配済みです」と教えてくれた。その言葉を聞いた瞬間、彼女がちゃんと動いていたことを知り、胸がじんとした。


台本は天文に詳しい後輩が手早く草案を仕上げてくれた。アナウンス文で悩んだが、放送部の友人に無理を言って協力を得ることができた。


問題はチラシのキャッチコピーだった。


「……これで、どうでしょうか?」


後輩たちと議論を重ね、迷った末に決まったフレーズは──


『星に願いを。星空からの贈り物、お届けします。』


どこか照れくさい言葉で、椿なら「甘すぎるな」と軽く笑いそうだったが、今の僕たちにできる精一杯だった。


デザインを担当した後輩が美術部の友人にすぐ連絡を取り、印刷前に椿にも確認してもらうことにした。


たった二時間の作業なのに、僕たちはぐったりと疲れてしまった。


椿はいつも、こんな手間を独りで背負ってきたのか。そう思うと、自然と窓の外に目が向いてしまった。


冬の空はすでに夕暮れの色に染まりかけていて、葉を落とした木々が静かに影を伸ばしていた。


その翌日も、僕は椿に会えることを期待して部室に向かった。


しかし、彼女は現れなかった。


さらにその次の日も、僕を迎えたのは静かで空っぽの部室だけだった。


カーテン越しに差し込む冬の光が、ただ静かに床を照らしていた。



***


第5章「頬色の情熱」


月曜日の午後、予定されていた補習が急に休講になった。早く帰れると知っても、すぐに家へ向かう気になれなかった。ふと気づくと、足は自然とレトロ通りへと向いていた。冷たい冬の風が街角をすり抜け、コートの裾をそっと揺らした。


通りに差し掛かった時、ふいに見慣れた横顔が視界に入った。


椿だった。


彼女は小さな雑貨店のガラス扉を押し開け、出てきたところだった。


——どうしてここに?


椿の通学路はまったくの反対方向だ。この通りで彼女の姿を見るのは初めてだった。


僕は思わず軽く駆け寄り、彼女の名前を呼んだ。


「椿さん。」


彼女の足がぴたりと止まった。遠くから、港の汽笛が静かに響いてきた。


「前に言ったよね。僕が情熱を持っていることが分かったら、教えるって。」


椿は振り返るまで少し間を置いた。そして、ゆっくりとこちらを見つめ返した。


「そ、そう…だったな。お前は約束を守る側の人間だったようだ。」


少し意地を含んだ口調。でもその瞳の奥には、微かに揺れる何かがあった。


「ははは、厳しいね。もちろん守りますよ。守れる約束ならね。」


椿の表情が、何かを思い出したようにふと変わった。


「そうか……そうだな。あの時のお前は、必死に約束を守ろうとしていた。……わかった。それで、お前の“情熱”はなんなんだ?」


約束……?


彼女の瞳を見て、ようやく理解した。椿が「約束」と言った瞬間、一年前の"あの日"が胸に蘇った。


でも……彼女が「約束」とだけ言って、迷いなくあの出来事を思い浮かべていたことに、僕は驚いていた。


僕自身ですら、その言葉でそのことを思い出すこともなかったのに。


ああ、彼女は、ずっと気にしていたのか。僕があの日をどう過ごすのかを。


今、この時期に彼女が観望会を企画した本当の意味を、僕は初めて理解した気がした。あの日の続きを——僕がまだ向き合えずにいる何かを、椿は取り戻させようとしていたのだ。


納得が胸の中で静かに広がるのを感じながら、僕は彼女に向き直った。


「……あの日、『情熱がない』って言われてから、考えたんだ。なんでそんなこと言ったんだろうって。君はいつも偉そうなことを言うけど、実は誰にでも優しいこと、僕は知ってる。」


街灯がひとつ、ふたつと灯り始め、石畳を温かく照らしていく。


「去年のクリスマスイブ、僕は叶わぬ約束を守って公園でひとり待ってた。……そんな僕を、君が迎えに来てくれた。星を見に来た、なんて下手な言い訳をして。」


そのときの椿の歩き方も、言い方も、はっきりと覚えている。


「それ以来……僕は君と話すのが、楽しみになってた。君をからかいながら話すのが、楽しくて仕方なかった。」


椿はしばらく黙っていた。そして、視線を静かにこちらへ向けた。


「それで、何が言いたいんだ?」


問い返す声が、少しだけ震えていた。


「君は、きっと僕の気持ちに気づいていたんだと思う。だから、あの日、君が僕に『情熱がない』って言ったのは──」


「僕が君に対して持っている情熱に、気づいて欲しい。もっと、目を向けて欲しいって……そういう意味だったんだろう?」


街灯が連なって灯りを放ち、椿の表情を柔らかく浮かび上がらせていった。


「……そ、そうだ。お前の表情から、お前の好意には気づいてた。」


椿の声は微かに震え、その頬には淡く朱色が差していた。


「……椿さんのことだから、もっと確信があるのかと思ってたよ。」


「わたしも……お前と話すと、いつも胸が熱くなる。偉そうに振る舞ってる私の話を、ちゃんと聞いてくれるのは……お前だけだ。」


椿は静かにそう言うと、ゆっくりと視線を落とした。


その顔には、先ほどまでの強気な表情とは違う、弱々しい陰りが滲んでいた。


日が暮れて、通りの灯りが一層輝きを増していくなか──


椿の姿が、まるで光と影の狭間に溶けていくように見えた。


「それなのに、お前に『情熱がない』なんて…、なんて酷い言葉を……。


私は……、私は人の感情も理解できない、本当に最低な女なんだ。お前に好かれる価値なんて、ない。」


椿の言葉は、責めるようでいて、自分自身を切り刻むようだった。肩がかすかに震えていた。まるで、自らを嫌わせることで、傷つくことから身を守ろうとしているようだった。


彼女は、怖いのだ。嫌われることに。否定されることに。そして、何より、自分の弱さを認めることに。


僕はそれを、ずっと前から感じ取っていた。強く振る舞いながら、どこかで不安げに他人の顔色をうかがっていた彼女の姿を、何度も見てきた。


「そんなことないよ。君のおかげで、僕は自分の気持ちに気づけたんだ。」


僕が言うと、椿は首を振った。


「違う……私は勝手に、お前が私に好意があるって思い込んで、プレッシャーをかけた。お前はそれに負けて、あんなこと言っただけだ。気づいたとか、そんなの嘘だ。確信なんてなかったんだ。私はバカだ……いつもそうだ……素直になればよかったのに、自分を守るために偉そうにして……」


言葉が次第にかすれていく。冬の空気が深く沈む中、ガス燈の光だけが通りの輪郭を保っていた。


彼女は、ずっと自分を許せないでいる。たぶん今も——。


このままだと、彼女は自分自身をどんどん嫌いになっていく。僕が、早く言わないと。


彼女が彼女自身を嫌いになってしまう前に。


「椿さん、僕は君のこと——」


「だ、だめだ。最後は私が言う。素直になれない私なんて、もう要らない!」


僕の言葉をさえぎり、彼女は声を震わせながら言い切った。


「私は、知ってる。私は、その辺の男には惹かれないんだ。お前には、私が本気で惚れるくらいの価値がある──

でもな! 私にはお前と付き合うだけの価値も資格もない。素直になれないせいでお前まで傷付けて……

結局、私は可愛げなんてひとつもない。偉そうなだけの女なんだ! お前だって、こんな面倒くさいバカな女と付き合いたいと思わないだろ?!」


言葉が途切れると、しんとした空気が辺りを包んだ。張り詰めていた緊張が、一気にほどけていく。


「……ん?」


僕は肩の力を抜き、少し笑いながら言った。


「つまり、それって……、一緒にいたいってこと?」


「ち、違う……!」


「でも、そんな言い方されたら、『そんなことないよ』って返すしかないよ。情熱については言わされたかもしれないけど、一緒にいて楽しいっていう僕の気持ちは本物だよ?そう、言ったでしょ?」


彼女は答えないまま、目をそらしていた。ガス燈が連なって灯っていく。通りが、少しずつ温かくなっていくようだった。


「椿さん、こんな時、普通なら素直に『付き合って欲しい』とか、に『他に好きになってくれる人がいるかもしれない』とか、そんなこと言うんだよ。」


「そ、そんなこと。」


僕は小さくため息をついた。


嫌われたくなくて褒めたり、振られたくなくて質問したり、他の誰かに取られたくなくて黙っていたり——。


それで『素直になります』って、どこまで素直じゃないんだか。


「あぁ、もう。わかったよ。気持ちはよくわかった。付き合いますよ、椿さん。」


笑いながら、僕はでも真っ直ぐに、そう告げた。


たぶん椿は、自分の素直じゃないところも含めて、ずっと誰かに受け入れてほしかったんだ。


「なっ!?わたしは真剣に悩んだんだぞ。こんなんだから『情熱がない』とか言われるんだ。バカ。」


頬を赤らめながら、彼女は不満げに呟いた。


「ごめんごめん。椿さんのそんな素直じゃないところ、本当に可愛いんだ。」


その瞬間、遠くで鐘の音が響き始めた。


静まり返っていた街に、一斉にイルミネーションが灯り出す。


柔らかな光が街を包み、椿の表情を優しく浮かび上がらせる。


彼女は目を大きく見開いた。まるで、自分の性格を初めて認められたように。


「……僕も知ってる。プライドがバカ高いところとか、そのくせ優しくて純粋なところとか——ずっと見てきたんだから。」


……その言葉を口にして、ようやく僕は気づいた。


──本当は、ずっと前から彼女のことを見ていたんだ。


気持ちを隠していたのは僕のほうだった。


彼女の優しさに甘えて、何も言えずにいたのは、僕のほうだった。


「だから僕は、全部……全部受け入れますよ。そんな君のことが、好きでたまらないんだから。」


静かに、けれど確かな想いを込めて告げた。


椿は恥ずかしげに顔を伏せ、ちらりと僕を見上げた。木々の合間からこぼれるイルミネーションの光が、彼女の横顔を儚く照らし出す。


その静寂の中、椿は顔を伏せたまま、ゆっくりと僕に歩み寄った。


「椿さ——」


名を呼ぼうとした瞬間、彼女はそっと手を伸ばし、悔しそうにキスをした。


桟橋から駅へと続く通りのイルミネーションが、椿の頬を伝う涙を静かに照らすのが、見えた気がした。

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