高額バイトの監視対象(1話完結小説)
ぼくしっち
第1話完結
「なあ、めっちゃ割りのいいバイト、あるんだけど」
スマホのスピーカーから聞こえてきた友人の声は、やけに弾んでいた。 深夜のコンビニバイトで疲れ切った俺の体に、その言葉は悪魔の囁きのように染み渡る。
「内容によるだろ。また治験とかじゃねえだろうな」 「違う違う。今回はマジで楽なやつ。ある部屋で一晩過ごすだけ。それで五万」 「は? 一晩で五万?」
時給に換算したら六千円以上だ。あり得ない。絶対に何か裏がある。
「いわゆる、事故物件ってやつだろ」 「まあ、そうらしい。でも、何もしなくていいんだって。ただ、部屋に置いてあるビデオカメラで、一晩中自分を撮影し続けるのが条件らしいけど」 「撮影?」
ますます怪しい。だが、来月の家賃が少し足りないのも事実だった。五万は、あまりにも魅力的すぎる。
「……やるよ。そのバイト」
俺は、その選択を後悔することになる。
◇
指定された場所は、都心から電車で一時間ほど離れた、古びた木造アパートだった。街灯もまばらで、夜風が建物の隙間をヒューヒューと通り抜ける音が不気味に響く。
「うわ、マジかよ……」
軋む階段を上り、二階の一番奥にある「203」号室のドアの前に立つ。鍵はかかっておらず、ドアノブを回すとギィ、と嫌な音を立てて開いた。
部屋の中は、がらんとしていた。 六畳ほどのワンルーム。窓には遮光カーテンが引かれ、外の様子は窺えない。家具と呼べるものは何もなく、部屋の真ん中にポツンと、一台のビデオカメラが三脚に立てられているだけだった。 旧式の、少し大きなビデオカメラ。その黒いレンズが、まるで巨大な昆虫の複眼のように、こちらをじっと見ている気がした。
壁に貼られたマニュアルには、こう書かれていた。
『午後10時から午前6時まで、この部屋で過ごしてください』 『その間、必ずビデオカメラの録画ボタンを押し、ご自身が画角に収まるようにしてください』 『報酬は、明朝7時に指定口座へ振り込みます』
シンプルすぎる指示が、逆に不気味さを煽る。 俺は覚悟を決め、ビデオカメラの録画ボタンを押した。小さな赤いランプが灯り、ジー、という微かな作動音が聞こえ始める。 床に胡坐をかき、持ってきたスマホを取り出す。これで朝まで時間を潰せばいい。そう、自分に言い聞かせた。
最初の二時間は、何事もなかった。 スマホで動画を見たり、ゲームをしたり。友人にも「楽勝だわw」なんてLINEを送って、強がってみせた。 だが、深夜0時を回ったあたりから、部屋の空気が少しずつ変わっていくのを感じた。
――ギシッ。
背後で、床が軋む音がした。 誰もいない。俺一人しかいないはずの部屋で。
「……気のせいか。建物が古いだけだろ」
そう呟いてみたが、一度気になり始めるとダメだった。 さっきまで気にならなかったビデオカメラの作動音が、やけに大きく聞こえる。赤い録画ランプが、心臓の鼓動に合わせて点滅しているようだ。 あのレンズは、ずっと俺を捉えている。一瞬たりとも、視線を逸らさずに。
一時間が経ち、また奇妙なことが起きた。 部屋の隅にあるクローゼット。固く閉まっていたはずのその扉が、いつの間にか数センチだけ開いている。 暗い隙間の向こうから、誰かに覗かれているような錯覚に陥る。
「……おいおい、手の込んだ演出だな」
俺はわざと大きな声を出して、虚勢を張った。 そうだ、これはきっとそういう類のバイトなんだ。怖がらせて、挑戦者を途中リタイアさせる。そうすれば、報酬を払わなくて済む。そうに違いない。 俺は絶対に騙されない。朝までここに居座って、五万円をきっちり貰ってやる。
そう自分を奮い立たせ、俺はスマホの画面に集中しようとした。 しかし、指は冷たく、ゲームのキャラクターは何度も壁にぶつかった。心臓がドクドクと嫌な音を立てている。
午前三時。睡魔が限界に達し、俺は壁に寄りかかったまま、うとうとしてしまったらしい。 ハッと目を覚ましたのは、強烈な悪寒のせいだった。 何だ……? 視線を部屋の中に巡らせる。何も変わったことはない。 いや、違う。
――部屋の隅。クローゼットの前に、誰かいる。
黒い、人型の染みのようなものが、そこに立っていた。 顔も、手足の区別もつかない。ただ、それが「こちらを見ている」ことだけは、直感で分かった。
「ひっ……!」
声にならない悲鳴が喉から漏れる。 瞬きをすると、それは消えていた。 幻覚? 寝ぼけていたのか? いや、違う。確かにいた。あの場所に。
恐怖が頂点に達し、俺は目の前のビデオカメラに救いを求めた。 そうだ、こいつが全部録画しているはずだ。今のが幻覚だったのか、それとも……。 震える足で立ち上がり、ビデオカメラに近づく。そして、小さなファインダーを覗き込んだ。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
ファインダーの中には、確かに俺の姿が映っていた。 床に座り込み、恐怖に顔を引きつらせて、部屋の隅を凝視している俺が。 ……おかしい。 俺は今、立ってファインダーを覗いているはずだ。 なのに、映像の中の俺は、座ったまま動かない。
パニックに陥り、ファインダーから目を離す。 現実の俺は、ちゃんとカメラの前に立っている。 もう一度、恐る恐るファインダーを覗く。
映像の中の俺は、相変わらず座り込んだまま、部屋の隅を見つめている。 そして、その視線の先――さっきまで何もなかったはずのクローゼットの前に、あの黒い人影がはっきりと映り込んでいた。
映像の中の俺は、それに気づいている。絶望的な表情で、後ずさろうとしている。 だが、現実の俺は、ただファインダーを覗いているだけ。 映像と現実が、ズレている。
「うわあああああああっ!」
俺は叫び声を上げ、部屋から逃げ出そうとドアノブに手をかけた。 しかし、ドアはびくともしない。まるで溶接されたかのように、固く閉ざされている。
「開けろ! 開けてくれ!」
ドアを何度も叩き、蹴りつけるが、無駄だった。 絶望の中、ふと背後の気配に気づき、振り返る。
ビデオカメラが、ゆっくりとこちらを向いていた。 機械的な動きではない。まるで、生き物が首を動かすように、滑らかに。 黒いレンズが、俺を正確に捉える。
その時。 ビデオカメラの本体側面から、小さな紙片が「ペラッ」と吐き出された。 プリンターでもないのに。あり得ない。
俺は吸い寄せられるようにその紙を拾い上げた。 そこには、震えるような手書きの文字で、こう書かれていた。
『次のバイト、紹介します』
――ああ、そうか。 このバイトは、部屋で一晩過ごすことじゃなかったんだ。 この部屋で恐怖を体験し、記録され、次の挑戦者を「紹介する側」になるための儀式だったんだ。 あの友人からかかってきた電話。あれも、こうやって……。 部屋の隅にいたあいつは、俺の前のバイトだったのかもしれない。
夜が明け、午前六時になった途端、あれほど固かったドアがあっさりと開いた。 俺は、ふらふらとアパートを後にした。 翌朝、俺の口座には、約束通り五万円が振り込まれていた。
それから数日後。 日常に戻ろうと必死にもがいていた俺のスマホが、知らない番号からの着信を告げた。 恐る恐る、通話ボタンを押す。
「――なあ、めっちゃ割りのいいバイト、あるんだけど」
聞こえてきたのは、知らない男の声だった。 だが、その声には聞き覚えがあった。 あの部屋で聞いた、床がきしむ音によく似た、不気味な響き。 俺は、電話を切ることができなかった。 ただ、受話器を握りしめることしか。
高額バイトの監視対象(1話完結小説) ぼくしっち @duplantier
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