未来の食卓へ
火星基地の夜は静かだった。
照明がやや落とされ、モジュール内の空調音と、遠くで循環ポンプのリズムが聞こえるだけ。
だが、その静けさは不安や孤独ではなく、何かをやり遂げた者たちの“休息”に満ちていた。
ユウタ・タカミは植物プラントの片隅に座っていた。
目の前では、第14世代ミズナの発芽が始まっている。
小さな双葉が、わずかに赤みを帯びた火星の人工土壌に顔を出していた。
「……君たちの未来は、きっと“食卓”にあるんだよ」
そう言って彼は、手帳の最後のページに静かに記す。
第14系統:調理試験用。将来の継続的収穫と応用を想定。
想定使用例:天ぷら、味噌汁、発酵漬け、焼き和え
コメント:火星に根を張った、初めての“味の素材”
遠く、調理モジュールではエミリアが最後の片付けをしていた。
今日の夕食は簡易スープと再現型パンだったが、誰も不満は言わなかった。
むしろ、自然と話題になったのは“次の料理”についてだった。
「ピザの次は……味噌雑炊とか、どうかしら」
「トマトピューレとクロレラでソース風パスタもいけるかも」
「スイーツ系は……まだ先か。でも、サツマイモが取れれば……」
料理という“火”が灯った以上、それはもう絶やされることはない。
誰かが、思いつき、試し、失敗し、そしてまた誰かが手を加える。
それはもはや、単なる“生活”ではなかった。文化であり、営みだった。
カルロスはエネルギー配分の最終チェックを終えた後、
共有サーバーにひとつのファイルをアップロードしていた。
《MFD001 - 火星料理第一記録:次世代向け備忘録》
■ 再現条件:使用素材は現地収穫品のみ。冷凍・乾燥保存前の使用を推奨。
■ 手順:材料/配分/加熱/盛付/5等分推奨
■ 備考:「料理とは、食べるための行為であると同時に、分け合うための所作である」
ファイルの最後に、カルロスは静かに一文を添えた。
『――次にここへ来る人たちは、火星の味を食べることになる。』
それは、宣言であり、希望だった。
誰かが、必ずここに来る。
そして、ここで育ったミズナを食べ、焼かれたトマトを口にし、
クロレラの苦味と向き合うだろう。
そのとき、彼らは“火星に人間がいた”ことを知る。
ただ存在したのではない。暮らし、味わい、分け合い、記録したのだ――と。
その夜、5人のクルーは再び小さな円卓に集まっていた。
特別な食事はない。ただのスープと、わずかなパン、ハーブティー。
だがその中に、彼らは確かに“続いていく文化”の気配を感じ取っていた。
「ねえ、いつか火星にもレストランができると思う?」
エミリアが、ふとつぶやく。
「できるだろうな」
ショーンが答える。
「最初は、誰かの調理場かもしれない。
でも、“誰かのために作る料理”がある場所には、自然とそういう空気が生まれる」
「たぶん、“最初の料理”がピザだったって話も、店内に書かれるわね」
ナタリアが微笑む。
「“ここで生まれた、あの味”って」
「ミズナの葉を添えたピザ。ラディッシュとクロレラのソース。……悪くない看板だな」
ユウタが目を細める。
「その味、ちゃんと残せてるといいな」
カルロスが言った。
「俺たちが食べたあの味と、誰かが未来に食べるそれが、
まったく同じである必要はないけど……」
「“続いてる”って実感があれば、それでいいわよ」
エミリアが言い切った。
未来の食卓には、同じ素材があるかもしれない。
あるいは、まったく違う料理が並ぶかもしれない。
だが、その中に“はじまりの味”が宿っている限り、彼らの歩みは続いていく。
文化とは、そういうものだ。
誰かの手で始まり、誰かの舌で育ち、そしてまた、誰かの記憶で花を咲かせる。
そして火星という赤い星にも、
その最初の“ひとくち”が、確かに刻まれた。
静かな夜。窓のない火星基地の中で、
世界で一番小さな食卓が、未来へと続く灯火になっていた。
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