記憶される味
火星の朝。
窓のない居住モジュールには、赤い太陽光ではなく、
天井のやわらかな照明が人工的な“朝”を知らせていた。
その日、クルーたちは散発的に起き出し、それぞれの作業に散っていった。
だが共通していたのは、全員が、何かを“噛みしめるような”静けさを纏っていたことだった。
文化の芽吹きを祝った日から、数日が経っていた。
そしてその間、誰もが気づいていた。
あの日の“火星ピザ”の味が、すでに彼らの記憶の中で“特別なもの”になっていることに。
ユウタ・タカミは植物プラントの奥で、第13世代ミズナの発芽を見守っていた。
端末には、すでにピザに使用された第11世代の成長記録と収穫データが保存されている。が、彼はそれを削除せず、逆に“保護ファイル”としてマークしていた。
「この一株から、火星の“文化的栽培”が始まった」
独り言のように呟くと、タブレットのメモ欄にこう書き足した。
使用:火星初の文化的料理“ピザ”の仕上げ葉として
特徴:調理後も苦味が生き残り、記憶に残る余韻を持った青味
彼はそれを「記憶価値:高」と分類した。
科学的なタグではない。だが、いまの彼にとって、それは最も大事なラベルだった。
同じ頃、ナタリアは発酵データの解析の合間に、小さな日記を開いた。
デジタルではなく、あえて紙で綴る小さな手帳。
そこに、あの日の食事について簡単なスケッチを添えていた。
□ 火星ピザ
・具材:火星小麦、クロレラ、トマト、ミズナ、エダマメ、ラディッシュ
・香り:焼きたての生地とトマトの酸味、クロレラの苦み、ミズナの青さ
・音:パリッというクラストの音と、静かな笑い声
・記憶タグ:分け合った食事、五人の輪
ナタリアはその最後に、こう書き添えた。
『文化は、香りと共に記憶される。
時間が経っても、きっと思い出すのは味ではなく空気。』
カルロス・ヒメネスは、その日の夜、ログファイルを整理していた。
プロジェクト「Cultural-001」のサブディレクトリに、新たな項目を追加する。
MFD001:火星ピザ(完成記録、試作ログ、試食映像、感想ログ)
Status:共有済・閲覧承認
Tag:初期文化記憶(食)
カルロスは、単なる管理者ではなかった。
この文化的プロジェクトを“生きた記録”として未来に引き継ぐために、
彼なりのやり方で“味を記録する”努力をしていた。
一方、ショーンは作業の合間に、ふと懐から小さな録音メモを取り出した。
あの夜、誰にも聞かれないように収録した音声。
5人の笑い声、ミズナを切る音、ピザを焼くオーブンの小さなうなり
――それを再生するだけで、すべてが蘇る。
彼は再生を止めると、静かに呟いた。
「記憶される味って、音まで残るもんなんだな」
エミリアは、調理モジュールの片隅で小さなパネルを開いた。
そこには、基地内用の掲示板システムがあり、
彼女はそこに簡易レシピカードをアップロードした。
火星ピザ(MFD001)簡易再現レシピ
・火星小麦フラットブレッド
・トマト+クロレラソース
・ラディッシュ(軽焼き)、エダマメ(ホール)
・ミズナ(生、仕上げ)
→ 焼成:210℃、12分
→ カット:5等分。分かち合うこと
レシピの最後に書かれたその一文を、エミリアは迷わず入力していた。
「分かち合うこと」
それこそが、この料理に込められた最も大きな“味”だった。
火星にはまだレストランも、台所も、家庭もない。
それでもこの一皿は、人々の間に“記憶される食卓”を生み出した。
誰と、どんなふうに食べたか――それを思い出すたびに、またひとつ文化が重なっていく。
そしてそれは、未来のクルーたちがこの記録を開いたとき、
また新たな“味”となって生まれ変わる。
味は消える。
けれど、“分かち合った味”は、消えない。
それが、火星における文化の証明だった。
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