新たな課題
ミズナの天ぷらは、予想以上の成功を収めた。
高温・短時間の加熱により、火星産の葉物が初めて“香ばしさ”を手に入れた瞬間だった。
味の多様性、調理法の可能性、人間の感情――それらが揚げたてのひと口に凝縮されていた。
だが、歓喜の余韻もつかの間。
現実は、再び静かに、そして確実に彼らの前に立ちはだかっていた。
「……火星味噌、発酵止まってるわ」
ナタリアの声は、プラント奥の培養室にいたエミリアとユウタに届いた。
ふたりが急いで駆けつけると、彼女はモニターの前で眉をひそめ、
何度も温度とpHの変動を確認していた。
「乳酸菌の活性が不自然に下がってる。
昨日までは安定してたのに、今日から突然、代謝曲線が落ちた」
「……温度環境に異常は?」
ユウタが尋ねる。
「機械的にはない。
むしろ問題は、基質。原料のエダマメ粉末に異常が出てる可能性がある」
「酸化?」
「もしくは、培養槽内の微量成分の変化。
ここには地球にある“偶然”が足りないのよ。菌たちは生きてる。
でも、どこか不自然に静かになってる」
ナタリアは、まるで幼い命を心配するようなまなざしで、培養槽の表面を見つめていた。
エミリアは静かに言った。
「……“待てば熟す”ってわけにはいかないのね」
「火星には、時間が味方してくれるとは限らないわ」
同じ頃、カルロスはエネルギー管理室で一人、再び配分表とにらめっこをしていた。
天ぷらの成功の代償として、調理モジュールの電力使用は想定よりも9%増加。
ヒーターのバッファー容量は翌週分を前借りしていた。
「調理のたびに“文化的意味”を優先すれば、生活インフラが先に破綻する」
彼はぼそりと呟いた。
エネルギーは、命そのものだ。
空気の再生、水の循環、暖房、照明、すべてが電力に依存している。
その中で“料理”がどこまで許容されるか――カルロスにとっては、常にギリギリの綱渡りだった。
「初回は特例だった。
だが次回以降、常に加熱や油を使うなら、調理スケジュールは制限する必要がある」
彼はモニターに、新たな項目を追加する。
【文化的調理行為:許容エネルギー枠上限=総消費の4%以内】
「……これで反発が出なければいいが」
そして――最大の問題が、クロレラだった。
ショーンは培養槽を前に、補助ポンプの調整をしていたが、その顔は明らかに曇っていた。
「供給が……間に合ってない」
発育が速いと評価されていた“スペースクロレラα”は、
逆に培養速度が過剰になりすぎ、栄養過多による沈殿と気泡障害を引き起こしていた。
冷凍保存すればいいという理屈も、設備容量の限界が壁になる。
「使い切れない栄養は、ただの“負債”だな……」
ショーンはタブレットに苦々しい記録を残しながら、ふと口を噤んだ。
「最初は“万能の食材”って言われたのに。今じゃ、扱いきれない緑の怪物だ」
エミリアがやってきて、静かに言った。
「でも、それを料理に変えるのが人間の役目でしょう?
“過剰”を“美味しさ”に変えられるなら、それはもう立派な素材よ」
「うまくいけば、な」
ショーンはため息をつきながら笑った。
「うまくいかなかったら?」
「そしたら、また違う方法を試すのよ。
調理方法は、一通り試すべきだって、私が言ったでしょ?」
彼女の目には、決して折れない光があった。
火星での生活は、日々“成功”と“失敗”のはざまで揺れていた。
料理とは、本来もっと気軽で、もっと無邪気で、もっと“嗜み”であるはずだった。
けれど火星では、それが一つ一つ“実験”であり、“挑戦”であり、そして“負担”でもあった。
だからこそ、彼らは今日の課題を記録に刻んでいく。
沈黙した味噌も、増えすぎたクロレラも、奪い合う電力も、
すべてが未来の「火星の台所」の礎になるのだと信じて。
そして誰かが、言った。
「課題がある限り、文化は止まらないわよ」
それは、たしかに“希望”の声だった。
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