文化の芽吹き
その晩、火星基地の空気には、微かに香ばしい余韻が残っていた。
調理モジュールの壁際では、食事を終えた5人のクルーたちが円形のテーブルを囲み、
それぞれ温かい飲み物を手にしていた。
植物プラントで採れたハーブティー、クロレラの発酵抽出液を加えたスープ、
乾燥トマトの塩湯。どれも地球の味とは違うが、
どれも確かに“火星でしか飲めない”ものだった。
静けさの中で、誰からともなく話し出したのは、エミリアだった。
「ねえ、思ったの。
今夜のピザって、あれだけ工程をこだわって、素材を組み合わせて、記録までして
……でも、最後は皆で“分け合って”食べた。そういう料理って、もう“文化”じゃない?」
その言葉に、ユウタが小さく頷いた。
「生きるための食事と、生き方を語る料理は、違う。
今の俺たちの食卓には、もう後者がある。
言葉にならなくても、誰かと一緒に“美味しい”を共有した瞬間に、それは文化になるんだ」
「同意だな」
ショーンが肩をすくめて笑う。
「だって、あのピザの味を俺、すでに2回語ったし。しかも全く同じ言葉で説明できなかった」
「……それは記憶が曖昧なだけかも」
ナタリアが少しからかうように言いながらも、どこか嬉しそうだった。
「でも、本当にそう。文化って、きっと“反復できない経験”が積もってできるもの。
味も、食べたときの空気も、言葉も、全部含めて、
その場にしかない記憶が層になっていく」
カルロスが最後に口を開いた。
「今夜、俺たちは1枚の料理を作り、それを等しく分けた。
誰か1人の料理じゃない。全員で組み立てて、整えて、味わった。
――それこそが、文化の最小単位だ」
全員が静かに頷いた。
ふと、プラントモジュールの方から、わずかな風が吹いたような気がした。
空調の循環音のせいかもしれない。だがエミリアは、その空気に“芽吹き”を感じた。
ただの機械音ではない。
この閉鎖された空間の中で、何かが確かに“根付こう”としている。
そしてそれは、人間が持ち込んだ物理的な資源ではなく、
もっと抽象的で、しかし力強いもの――文化そのものだった。
「このピザに、名前をつけるとしたら?」
ショーンがふいに問いかける。
「もう“火星ピザ”でいいじゃない」
エミリアが笑う。
「もっと詩的にするなら……“最初の輪”なんてどう?」
ユウタが提案する。
「輪か。いいな」
カルロスが頷く。
「循環の象徴でもある。水も空気も、そして人間の営みも、ここではすべてが“円”を描く」
「記憶もね」
ナタリアが加える。
「この味を、次のクルーが再現したとき
――彼らもまた、ここで何かを感じるはず。私たちが感じた“何か”を」
それは、文化の“種”が発芽した瞬間だった。
料理は消える。
食べればなくなるし、同じものは二度とできない。
だが、誰かと分かち合った一皿は、記憶の中でずっと生き続ける。
その“記憶の集合”こそが、文化だ。
そして今日、火星の地で、その最初の芽が静かに芽吹いた。
「さあ、レシピ第2号の準備を始めましょうか」
エミリアが冗談まじりに言うと、皆が声を上げて笑った。
“火星の味”は、一夜にして文化になったわけではない。
だが今、この小さな食卓から、その文化は確かに育ち始めた。
料理があり、記録があり、分かち合いがある。
そして何より、“語る誰か”がいる。
それだけで、人類はどんな遠い星の上でも、“暮らし”を始めることができるのだ。
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