記録と共有
火星時間で午後18時34分、
火星基地内の共有サーバーにひとつのファイルがアップロードされた。
ファイル名はこうだった。
【MFD001】Martian Flatbread – 火星初の料理記録
記録者:ショーン・ミラー
監修:エミリア・カーター、ユウタ・タカミ
その中身は、単なる調理手順ではなかった。
生地の配合比率、焼成温度の変遷、クロレラ粉末の乾燥段階、
エダマメとラディッシュのスライス厚み、ミズナの散らし方、
さらには“分けるときのピザカッターの角度”まで。
すべてが細やかに記述されていた。
「ここまで残す必要ある?」
エミリアが少し笑いながらモニター越しに言った。
「ある」
ショーンは真面目な顔で答える。
「これは、“レシピ”じゃない。“足跡”なんだ」
NASAのアーカイブへの送信手続きも進んでいた。
映像データ、音声ログ、カロリーと栄養の統計、
ミッション番号との紐付け、そして記録映像の冒頭に添えられる短いキャプション。
“火星で人類が初めて文化的に調理し、共有した料理。その記録は、未来への橋である。”
「それっぽく書いてみたけど……詩的すぎるかしら?」
エミリアが少し気恥ずかしそうに言うと、
「詩的でいい。これは食事じゃなくて、物語だから」
ショーンが言った。
一方で、ナタリアは別のチャンネルで、発酵記録を更新していた。
味噌のpH変化グラフとクロレラの乳酸菌反応、微生物群の活動記録、
香気成分の変化ログ。それらをまとめたファイルに、こう名前をつけた。
【FERM-002】初期火星発酵過程と料理応用の可能性
「これで、次のチームは私の苦労を半分にできるわね」
ナタリアは自分自身に向けて呟いた。
火星で“味”を生み出すことは、時間の対話だった。
今日の料理は、昨日までの失敗と、明日への仮説によって支えられている。
だからこそ記録は“共有”されなければならない。
「残すんじゃない。渡すのよ。未来の誰かに」
彼女はそう信じていた。
ユウタもまた、植物プラントの端末に向かって手を動かしていた。
火星産ミズナ“キセキ・セブン”の第12収穫期データ、
葉面積と蒸散量、収穫可能日と収量の関係、調理適性の分類。
そして、メモ欄にはこう書かれていた。
火星ピザにおける“記憶と青味”の役割は、ミズナでしか表現できなかった。
植物がこの星に根を張る意味は、光合成だけじゃない。
――ユウタ・タカミ
彼は送信ボタンを押すと、小さく深呼吸をついた。
「誰かが、いつか、もっと美味しい料理を作ってくれる。
そのとき、このミズナが使われたら嬉しいな」
そして、それぞれの記録が一つのフォルダに集まりはじめた。
NASAによって提供された火星基地アーカイブシステム「Origo」には、
カテゴリ「Cultural-001:食文化」のフォルダが新設され、
そこに次々とファイルが格納されていく。
まるで、火星という真っ赤な図書館の最初の“蔵書”が、そこに並び始めるかのように。
その夜、クルー全員が久しぶりに集まり、モジュール中央の円卓で再び“火星ピザ”を囲んだ。
「記録を残すって、すごいわよね」
エミリアがしみじみとつぶやいた。
「残したものは、いつか誰かが拾う。だから“文化”になるんだ」
ナタリアが答えた。
「料理を食べた瞬間より、記録を見返すときのほうが、味が深く感じることってある」
ユウタが続けた。
「思い出補正か?」
ショーンが笑いながら言った。
「それも含めて、“味”なんだよ」
カルロスが最後にそう言ったとき、皆の間にあった静かな温もりが、
どこか満ち足りたものに変わっていた。
火星に、料理が生まれた。
そして、それは記録され、共有された。
誰かの手によって、未来へと繋がる“火星のレシピ”が、静かに書き始められた夜だった。
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