試作開始
「焼き、開始します」
ショーン・ミラーの短い宣言が、火星基地の調理モジュールに緊張を走らせた。
全員が自然と息を飲む。
ただの料理の試作
――されど、これは“人類が火星で初めて作る文化的食事”の、記念すべき第一歩だった。
ユウタが慎重にオーブンプレートへ生地を滑り込ませる。
生地は火星産小麦の交配種“MS-21”から作られた低グルテン粉。
成形には地球よりも粘度と弾力を要したが、
発酵不要の薄焼きフラットブレッドとしてなら成立する。
その上に広がるのは、トマトピューレとクロレラの特製ソース。
赤と緑が層をなすように混ざり合い、まるで地球と火星が同居するような彩りだった。
刻んだラディッシュとエダマメが、具として散らされる。
前者は火入れで甘味が増すことが実証済み、後者は軽く潰してからトッピングに加えられた。
食感の差がアクセントになるよう計算されていた。
「温度、210度まで上昇。内部気圧安定。加熱開始」
ショーンの報告にカルロスが小さく頷く。
「あと12分。その間にミズナの仕上げ準備を」
エミリアはミズナの葉を1束手に取り、鋏で細く切り揃え始めた。
収穫したてのミズナは火星の閉鎖環境で育ったとは思えないほど鮮やかで、
触れるとわずかに湿り気を帯びた生命感を指先に残した。
「これが仕上げの香りと苦味を担うのね」
ナタリアが言う。
「ええ。焼き終わった直後に散らす。
加熱しないことで香りが生きるし、栄養損失も少ない。
……生の青味が、“この星でも植物が育つ”って証になる気がするの」
誰も反論しなかった。
彼らは今、単に栄養を組み合わせて1枚のピザを作っているわけではなかった。
素材の成長過程、発酵の時間、加熱工程、嗜好の記憶、そして限られた資源の制約。
すべてを包み込みながら、“火星での最初の一皿”を形にしようとしていた。
残り7分。
オーブン内で生地が徐々に膨らみ始め、
クロレラソースが端のほうからやや濃い緑に焼けていく。
トマトの甘酸っぱい香りと、加熱されたラディッシュの仄かな甘みが混ざり始め、
基地内の空気がいつもと違う色を帯びる。
「匂いが……違う」
カルロスがふと呟いた。
それは冷静な監視者としての彼ではなく、1人の“食べる者”としての感覚だった。
「これが、“火星の匂い”になっていくのかもしれないわね」
ナタリアが微笑む。
「科学と感情の境目って、きっとこういう時に曖昧になるのよ」
残り3分。
ミズナの切り揃えが終わり、エミリアが冷却プレートの上に皿を並べて待機する。
ユウタは火加減の最終確認のため、端末の温度計を覗き込みながら、わずかに息を吐いた。
「想像以上だ……匂いだけで、こんなに“食べたくなる”なんて」
「料理って、科学の中にある魔法だよな」
ショーンが言った。
「うまいこと言うじゃない」
「たまにはな」
そして、タイマーが鳴った。
ショーンが火を止め、厚手のグローブでピザを取り出す。
オーブンプレートの上には、やや焦げ目のついた黄金色の生地、
その上に赤と緑と白の色味が絶妙に絡んだ、見たことのない
――でも、どこか“記憶の延長線上”にあるような一皿が存在していた。
「まだ、名前は“仮”だけど」
ユウタが呟く。
「ううん。これは、もう“火星ピザ”でいいのよ」
エミリアは即座に答えた。
そして最後に、彼女が刻んだミズナを手に取り、
焼きたてのピザの中央から円を描くように散らした。
緑の葉が、ほのかに立ちのぼる蒸気の中で揺れた。
赤い星の上に、命の色が舞う。
それは、ひとつの完成だった。
が、それは同時に、
“ここからすべてが始まる”という合図でもあった。
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