調整と妥協
火星基地の中枢モジュール、エネルギー管理室。
そこには4面の大型ディスプレイが配置され、
酸素生成量、水使用量、熱量配分、栄養資源の循環効率といったすべての“生存指標”が、
分単位で更新され続けていた。
カルロス・ヒメネスは、その中央に立ち、静かにデータを睨んでいた。
彼の手元には、ユウタがまとめた「火星ピザ試作案」の1次計画書が置かれている。
原材料リスト、調理工程、熱源使用時間
――どれも、科学者たちの努力が凝縮された内容だった。
「……悪くない。でも、甘い」
彼はそう呟くと、データの中から「オーブン加熱予測値」のセルを指で強調表示した。
ヒーター出力32分、最大温度220℃。
予測エネルギー消費は、基地全体の1時間あたりの熱量の14%。
たった1枚のピザに、それだけを費やすのか?
「夢と現実のすり合わせが必要だな……」
そこへユウタとエミリアが入室してきた。ナタリアとショーンも数分遅れて合流した。
誰もが、今日のこの場を“本当の火星料理計画”が審判される瞬間だと理解していた。
「試作案を見た。完成度は高い。だが、懸念もある」
カルロスは、淡々と語り始めた。
「ピザ一枚あたりの加熱時間が長い。焼成温度の制御も難しい。
ソースに使うクロレラは脱水工程で追加の電力を必要とする。
……つまり、“味と文化の追求”と、“生活維持としての現実”が競合している」
ショーンが反論した。
「でも、最初の一皿だ。象徴としての意味は大きい。
すべてを効率で割り切っていたら、食事は永遠に“栄養補給”でしかなくなる」
「象徴は評価する。だが、その象徴が命の維持を圧迫しては本末転倒だ」
その言葉に、しばし沈黙が流れた。
やがてナタリアが手を挙げた。
「なら、調整しましょう。
クロレラの処理工程を短縮して、ペーストから粉末に切り替える。
脱水をやめて、低温乾燥で済ませる。味は少し変わるけど、色味と栄養は残せるはず」
「焼成時間も短縮できるかもしれない」
ユウタが続けた。
「生地をさらに薄くすれば、加熱は15分以内で済む。
フラットブレッドの“クラスト”を硬めにすれば、具材の水分に耐えられるはずだ」
「ラディッシュのスライスを減らして、エダマメはペーストじゃなくてホール状で散らす」
エミリアが提案した。
「見た目のインパクトは減るけど、調理工程は簡略化できるし、噛みごたえも出る」
カルロスは黙ってそれらの案をメモに取りながら、最終的に言った。
「……それなら、妥協点は見える。条件付きで承認しよう」
「条件?」
エミリアが首をかしげた。
「初回の“火星ピザ”は、基地内のシステムリソースを一時的に優先配分する。
だが、2回目以降は、“標準調理手順”としての枠組みを作らねばならない。
再現性、持続性、訓練性を備える必要がある。
つまり、それが“文化”として続くためには、“型”にならなければならない」
「……なるほど」
エミリアは納得したように微笑んだ。
「一皿の奇跡を、習慣に変える――それが文化の成立条件、ってわけね」
その場にいた全員が、自然と頷いた。
「じゃあ、やるか」
ショーンが声を上げた。
「初の焼成テストは、明日の昼でいいか?」
「問題ない。気圧と酸素濃度の調整は私がやる」
ナタリアが応じた。
「ミズナの収穫も午前中に済ませておく」
ユウタが手帳を閉じた。
カルロスは全員を見回し、ゆっくりと頷いた。
「火星で“初めての料理”を作る――そのこと自体は、私も賛成だ。
だが忘れるな。これは祝祭であり、実験でもある。そして、未来の礎だ」
妥協。それは敗北ではなかった。
それは、現実の重みと夢の光を繋ぐ、橋だった。
そしてその橋の上に、確かに――
“火星の食文化”の第一歩が、築かれ始めていた。
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