食文化とは何か

会議が終わったあとも、エミリア・カーターの心は妙にざわついていた。


「火星ピザ」

――その提案が出たとき、自分でも思いがけないほど胸が高鳴った。


けれど同時に、ふとした違和感が頭のどこかに残っていた。

それは技術的な問題でも、栄養のバランスでもなかった。

もっと根源的で、曖昧で、それでいて決して無視できない問い。


――これは本当に“文化”なのだろうか?


彼女は植物プラントの片隅に身を置き、ミズナを刻みながら、静かに思考を巡らせていた。

作業のために持ち出されたまな板とナイフ。ミズナの葉先から微かな青い香りが立ち上る。


「文化って、なんだろう」


声に出してみても、答えは出ない。ただ言葉が、空気に沈んでいくだけだった。


「料理って、“文化”だって言ったの、君だったよな」


背後から聞こえてきたのは、ショーン・ミラーの声だった。

いつのまにか現れた彼は、エミリアの隣に腰を下ろすと、ゆっくりと続けた。


「でもさ、“文化”ってのは、積み重ねでしょ。

 歴史があって、伝承があって。……火星には、まだそれがない」


エミリアは黙って頷いた。


「だから考えてた。もし、これから何百年も後に誰かが“火星食文化”を語るとして

 ――その始まりが、私たちのピザだったとして――それって、誇れるのかしら?」


「俺は、誇れると思うけどな」

ショーンはあっさりと言った。


「だって、ゼロから作るんだ。

 記憶に頼らず、誰の真似でもなく、“ここにある材料”と“ここにいる人間”で料理を作る。

 それって、すごくないか?」


「でも“記憶”は、料理に必要な要素でもあるわ」

エミリアはナイフを置いて言った。


「たとえば、あなたのマカロニチーズ。カルロスのチュロス。ナタリアのピクルス。

 ユウタの味噌汁。――どれも“地球の味”よ。私たちは、それを抱えたまま火星に来た」


「……でも、抱えたままじゃ前に進めないだろ?」


ショーンの声は穏やかだったが、その奥には強い芯があった。


「誰かが、最初の一歩を踏み出すしかない。

 “地球の記憶”を大事にしながらも、“火星の味”を作る。

 それが、文化になる。時間はかかるけどさ」


その言葉に、エミリアは少しだけ笑った。


「……たしかに。文化って、過去の繰り返しじゃなくて、

 選択の積み重ねなのかもしれないわね。

 何を食べるか、どう作るか、誰と分かち合うか」


「そして、どんな理由で作るか」

ショーンが補った。


「“生きるため”じゃなくて、“生きてることを確認するため”に料理をする。

 そういう気持ちで、火星ピザを作れたら――それは、もう文化だよ」


そのとき、遠くからユウタとカルロスの声が聞こえてきた。

エネルギー配分と加熱装置の最終チェックの打ち合わせをしているようだった。


エミリアは再びナイフを取ると、ミズナを細かく刻みながら言った。


「そうね。“火星の味”は、技術じゃなくて、私たちの選び方に宿るのかもしれない」


「その選び方を記録していくのが、最初の“文化人類学”かもな」


「火星の文化人類学……悪くない響きね」


刻まれたミズナの葉は、火星の空気の中でも鮮やかな緑を保っていた。

その苦味が、未来の記憶になる――そんな予感が、ふたりのあいだに生まれていた。


その夜、ナタリアは発酵槽の前で黙って祈るように泡の数を数え、

カルロスは手書きの数式で熱変換効率の検証をしていた。

ユウタはクロレラの濾過パターンを微調整しながら、

誰に頼まれたわけでもないのに“ピザ用ソースの粘度”を計算していた。


誰もが、自分のやり方で“文化”に向かっていた。


それはレシピではなく、

物語だった。

火星というまだ白紙の大地に、人間らしさの第一筆を刻むための――

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