味覚の記憶
火星の夜は、静かだった。
窓はない。外界は気圧差によって遮断され、赤い大地の風も砂嵐も、ここまでは届かない。
だが、それでも夜は確かに“夜”として訪れる。
照明が落とされ、音の少ない空間に、
5人の探査クルーたちはそれぞれの“過去”と向き合い始めていた。
その夜、食堂モジュールの片隅で、エミリア・カーターは一杯の熱湯に顔を近づけていた。
カップの中には乾燥ミントとクロレラの微粉末が浮かび、うっすらと緑がかっている。
香りは爽やかだが、味は薄い――だがそれでよかった。
味を求めて飲むものではなく、“思い出に沈むため”の飲み物だった。
彼女の脳裏に浮かんでいたのは、ロンドン郊外にある小さな実家のキッチンだった。
母が作るスープは、決して華やかではなかった。
ニンジンとポロネギ、塩と少しのクリーム。
味は優しいが、記憶の中ではいつも温かく、心をほぐす“何か”を持っていた。
「火星で、あの味を再現できる日は来るかしら」
彼女は独り言を呟き、スプーンをくるくると回した。
液面に浮かぶ緑が、母の白い陶器のスープ皿を連想させる。
そこには、今はもう戻れない“時間”が宿っていた。
一方、ユウタ・タカミは植物プラントのベンチに座り、
乾燥させたミズナの葉を小袋から摘んでいた。さくりとした食感。
香りはわずかに青く、舌に残るのは、ほんのりとした苦味だった。
「……これだよな」
彼は呟いた。
彼の記憶にある味は、北海道の祖母の味噌汁だった。
薪で炊かれた白米、たっぷりのワカメと豆腐、
そして仕上げに刻まれたミズナが加えられていた。
味噌の香りとともに、葉の苦味がふわりと口に広がる。
それは、食べ物でありながら“安心”でもあった。
「その味噌を今、ナタリアが育ててるんだな……火星で」
それが奇妙でもあり、尊いことのようにも思えた。
地球から2億km離れたこの地で、人はなお“味覚の記憶”に支えられている。
空気も重力も違うのに、記憶の味だけは身体に染みついたまま。
ナタリアもまた、研究室で独り、古いレシピファイルを開いていた。
そこには、ウクライナの実家で祖母が使っていたピクルス漬けの配合が残っていた。
塩分濃度、漬け時間、香草の種類
――そのすべてが火星では再現できない。
けれど、彼女はどうしてもこのレシピを諦めることができなかった。
「重力が違えば、乳酸菌の分布も違う。
香りは飛びやすく、温度は逃げやすい。それでも……味は生まれる」
彼女は小さな密閉瓶の蓋を開けた。中にはまだ若い漬物が眠っていた。
香りは弱く、食感もまだ浅い。でも、ほんのりと“かつて知っていた味”が漂ってきた。
「これを食べるのは、もう少し先ね」
彼女は微笑んで、瓶の蓋をそっと閉じた。
カルロス・ヒメネスは、倉庫ユニットで記録管理をしていた。
だが、作業の合間にふと、古いスペイン製のパッケージを見つけて手を止めた。
それは、彼が地球を発つ直前に母が持たせてくれた「チュロスの素」だった。
「エネルギー効率が悪い。調理油の再利用も難しい」
彼は自分に言い聞かせるように理性で切り捨てた。だが、同時に思った。
――あの揚げたての匂い。砂糖とシナモンの香り。
それだけで、“自分は人間だ”と感じられる瞬間が、確かにあった。
火星の生活は、あらゆる面で効率化されている。
水の循環、空気の管理、資源の配分、行動計画。すべてが合理的で、緻密に設計されている。
だが、「味覚の記憶」だけは、計算では測れなかった。
それは非合理で、個人的で、そして圧倒的に“人間的”なものだった。
その夜、居住棟にひとつ、静かな会話が交わされた。
ショーンが、ふとこんなことを言った。
「俺はね、母親のマカロニチーズが忘れられないんだ。
箱から出した即席のやつだよ。粉チーズとバターを混ぜて、トロッとさせてさ」
「それって、本当に“家庭の味”なの?」
エミリアが少し笑って返した。
「いや、たぶん“味覚の誤解”かもしれない。
でも、あれを食べると、なぜか世界が少しだけマシに見えたんだ」
誰も言葉を返さなかった。だが皆、その気持ちは理解できた。
火星で“料理”をする意味。
それは、生き延びるための栄養摂取ではない。
記憶を、文化を、人間であることを、この異星の地で繋ぎ止めるための、唯一の行為だった。
味は過去と未来を繋ぐ。
だからこそ、彼らは火星で“新しい味”を作ろうとしていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます