発酵と時間
ナタリア・グリエンコは、火星で最も“気まぐれな生命”を相手にしていた。
それは、微生物だった。
人間でもなく、植物でもなく、そして“管理できる”機械でもない。
ほんの数ミクロンの単細胞たちが、火星での新しい文化を築く
――その希望を託されたのが、彼女の仕事だった。
微生物は、気温、湿度、酸素濃度、pH、時間……あらゆる要素に影響される。
そして火星には、地球のどれとも違う「空気」がある。
温室でも発酵槽でも、それは完全に制御できるわけではない。
ナタリアは今、発酵実験室の中央で、両腕を組みながら培養槽のガラス越しに沈黙していた。
「進まないわね……」
味噌の表層には微かな泡が浮かび始めていた。
だがその泡は、地球の温室で見慣れた“呼吸”とは違う。
膨らみ方が遅く、酵母の活動も鈍い。香りもまだ尖っていない。
「火星の時間は、地球より少し長い。発酵にも同じように、長い時間が必要なのかしら」
彼女はぼそりと呟いた。
発酵。
それは“腐敗”と“食文化”の間にある、わずかな領域の奇跡だった。
素材をただ保存するのではない。分解し、再構築し、旨味や香りに変える行為。
ナタリアはそれを「微生物による料理」と定義していた。
だからこそ、火星の地で発酵食品が成立するかどうかは、
自分の存在意義そのものに関わっていた。
扉が静かに開き、ユウタが顔を出した。
「ナタリア、クロレラの脱水装置、再調整しておいたよ。過加熱だったみたいで」
「ああ、助かるわ」
彼女は頷いたが、視線は味噌の表面から離れなかった。
ユウタが彼女の隣に立ち、黙って槽を覗き込む。
しばしの沈黙が流れた。
「……動いてる?」
「動いてはいる。でも遅い。
水分活性も低すぎるし、乳酸菌が馴染んでくれない。酵母は生きてるけど、微弱」
「成分調整?」
「今朝pHを調整した。
でも、それでも鈍いの。おそらく重力変化が代謝系に影響してる。
微生物って案外デリケートなのよ」
「君がこんなに“気を遣う”相手、初めて見るよ」
ナタリアは少しだけ笑った。
「地球の厨房では、料理人は“火加減”を見る。
でもここでは、“時間”を見るのよ。どこまで待てるかが勝負」
ユウタは頷いた。
「……その味噌、いつから仕込んだ?」
「3か月前。地球出発の直前。宇宙船内でも培養を続けてた。今、ようやく“育ってきた”段階」
「じゃあもうすぐ?」
「ええ。でも、料理に使えるほどの旨味が出るには、
あと2週間は欲しい。今使えば“食べられる”けど、“文化”には届かない」
ユウタはその言葉に、何かを思い出したように小さく頷いた。
「君が言った、“文化は時間をかけて作られる”って話、覚えてる。
……きっと、こういうことなんだろうな」
「そう」
ナタリアは味噌の匂いを嗅ぎながら、静かに続けた。
「発酵って、結果がすぐに見えない。
時間の中に微生物が棲んでて、その時間を“信じる”しかないの。
……料理の中でも、もっとも“祈りに近い行為”だと思ってる」
ユウタは隣で、ふと口元を緩めた。
「発酵する味噌と、人類がここに“根を下ろす”感覚って、似てるかもしれないな。
急には変われないけど、確かに育っていく」
そこへ、エミリアがやってきた。彼女はタブレットを片手に、味噌の状態を覗き込む。
「この香り、悪くないじゃない。十分、料理の“核”になりそうよ?」
「まだ粗い。若いわ」
ナタリアは首を振った。
「“深さ”が足りないの。たとえば、煮込みに使うと香りが抜けて終わる。
炒め物にすれば味が立ちすぎる。だから、あと少しだけ寝かせたい」
エミリアは肩をすくめた。
「時間を味方にするって、ロマンチックよね。
でも……火星の時間は、私たちにはあまり優しくない」
「それでも、待つ価値がある」
ナタリアは迷いなく言い切った。
「この味噌が熟したとき、それは火星で最初に“育った味”になる。
そうなれば、どんな一皿でも、もう“文化”になる」
沈黙が訪れた。
誰も何も言わなかったが、その場にいた3人の中には、同じ思いが芽生えていた。
ただ栄養を摂るだけの生活は、終わりにしなければならない。
火星に文化を根づかせるには、「時間を信じる料理」が必要なのだ。
ナタリアは再び培養槽に目を向けた。
泡が一つ、また一つ、ゆっくりと浮かび上がる。
それは、遠い地球の時間とは違う、火星の時間の呼吸。
やがてその呼吸が、一つの“味”になる日を、彼女は静かに待っていた。
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